バターン死の行進
3時過ぎに就寝。7時に起床。メールの返事をひたすら書く。8時過ぎに甥っ子が来たので、一緒に朝食。一緒に納豆手巻き寿司を作ったが、案の定、グチャグチャに。甥っ子は納豆を手でイジって、その糸を食べるのが好きなようである。他の家の子供はどうなのだろうか。今日は祖母の食事や世話をする番なので、甥っ子をあやしながら、祖母の話し相手になる。祖母は、近隣で短時間の散歩であれば一人で大丈夫だが、体調によっては一人で置いておけないうえ、時間が経って緊張がほぐれてくる(他人とは最初緊張しているので普通に見える)といわゆる痴呆の症状がでる。最近は、洗濯機やテレビの使い方が分からなくなった。優しい言葉をかけようにも、耳が遠いうえ、補聴器をイヤがるので、どうしても大きな声になってしまい優しい言葉にはならない。
PCの修理が1件あり、市内に作業をしたのち、昼に自宅に戻る。昼食は、十日町の知人から頂いた乾麺のうどんを作る。少し多めの塩で乾麺を茹で、つゆは魚醤を少々と卵を入れて加熱。もちろん、最後には小粒納豆を入れ、「溶き卵納豆つゆ」である。祖母もツルツルと食べ、甥っ子も服をつゆだらけにしながら手で食べている。甥っ子に前掛けをするのを忘れてしまい、洗濯が大変になってしまった。
18時30分から倫理法人会の役員会。同級生でもある「割烹 乃佐和」(0257-22-4177)の弁当を食べながら、今後のセミナー企画や倫理法人会の会員拡大について話合う。ごま豆腐を焼き、だしつゆをかけ、生姜を効かせもの、う巻きが美味である。
21時過ぎ、自宅に戻り、資料整理などの単純作業を行う。単純作業ゆえ、映画『フィリピン陥落-バターン半島1942-』を見ながら作業。
バターン半島といえば、大東亜戦争時のバターン攻略作戦が思い浮かぶ。日本陸軍の第14軍(司令官:本間雅晴中将)がフィリピンに進攻し、1942年1月2日にはマニラを占領。ちなみに、本間雅晴中将は、新潟県佐渡市出身である。
第一次バターン攻略は不調に終わり、第二次バターン攻略戦にて4月9日占領に成功。当時、極東米軍総司令官であったマッカーサーはフィリピンから逃げ出し、有名な
「I shall return」
の言葉を残す。この戦闘における捕虜は米軍だけで1万人以上、フィリピン兵を含めると7万5000~8万人という日本軍の2倍以上の数にのぼり、おまけに一般人数万人も一緒にいたため、自分の軍自体の食料もままならず、マラリヤ蚊の生息地であるバターン半島にいつまでも捕虜をそのままに置いておけないと判断した日本軍は徒歩にて、捕虜を輸送することになる。これが飢えと病気で1200名の米兵と16000名のフィリピン人が行方不明もしくは死亡した【バターン死の行進】である。
また、バターン半島を占領したものの、この時点ではコレヒドール島はまだ陥落していない。捕虜がとらわれていたバターン半島のマリベレスは、当時のコレヒドール要塞から約4kmで、砲弾の届く範囲。当時のジャーナリストの手記にも、今日は捕虜がいるので、コレヒドールからの砲撃がないとの記述がある。通常の戦争では、捕虜は最後尾におくため、最前線のマリベレスに捕虜を置いておくことはできないとの日本軍の判断もあったであろう。(コレヒドール島の陥落は5月7日)
【バターン死の行進】は、60km程度の道程を7日から10日かけて歩いたと言われるので、一日あたり長くても約10km。もちろんのことながら、すべてを正当化はしないがこの数値から本当に日本軍がやった極悪非道な捕虜虐待としての【バターン死の行進】であったのかは疑問に残る。日本軍兵士が善意で食料を分け与えたものの、「木の根を食わされた」との捕虜が虐待として証言したものは、実は牛蒡(ゴボウ)であったという笑えない話もある。
本間雅晴中将は、戦後の昭和21年2月、マニラ軍事法廷で【バターン死の行進】の責任者として死刑判決を受け、昭和21年4月3日、第二次バターン攻略戦の5周年記念日にマニラで銃殺刑となった。
マニラの裁判において、富士夫人が法廷で以下のように証言し、
「私は東京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘が一人おります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり会い、結婚することを、心から願っております。本間雅晴とはそのような人でございます。
本間は、小さなことでも逃げ口上を言う男ではございません。彼は心の広い人で、細かいことにこだわりません。また彼は平和的な雰囲気を創り出し、その中で過ごすことを好みます。彼の行為はすべて、このような姿勢に基づいているのです。たとえば、外で嫌なことがあっても、彼はけして家に持ち込んだことはありません。常に微笑を浮かべて帰宅しました。本間はそのような性格の人です。・・・・以下略」
通訳されると同時に、米軍検察官、フィリピン人からも感動の涙があったそうである。当時の新聞にも
昭和21年1月12日『朝日新聞』
「主人の命乞いに行くのだというような気持ちは、毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、真実の本問を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などはいまから念頭にありません」
「私の責任の重大さは十分認識しています。衆人環視の法廷に立って少しでも気怯れがして言うべきことも言えなかったりしてはなりません。日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に中し訳ないことだと思います。日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」
とあり、凜とした日本女性の凄さ、そして美しさだと思う。
映画自体は、アカデミー女優でもあるスーザン・サランドンの熱演を歴史的判断を抜きに楽しんだが、後味はあまり良くない。
バターン半島、是非、機会があれば現地を訪れてみたい。
ちなみに、アニメンタリー『決断』では第11話「バターン・コレヒドール攻略」に描かれている。
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