名越二荒之助(ふたらのすけ)先生
話が盛り上がり、生ビール、生ハムメロン、枝豆で軽く飲み飲み。1時頃別れ、車のなかで仮眠。愛車プリウスで寝るのも慣れた。
6時過ぎに自宅に戻り、郵便物の関係を処理。
8時過ぎに、あさりの味噌汁(今日は信州米麹の味噌)、ご飯、旭松食品のマヨネーズ納豆(マヨネーズとタレがデスペンパックになっており便利になった)、2個目玉焼きで朝食。
甥っ子が遊びに来たので、甥っ子と一緒に食べるが、甥っ子を膝の上に乗せて食べても、世話に慌ただしく、食べた気がしない。
「おじちゃん」とはまだ言えないので、「あ~ちゃん」であるが、「あ~ちゃん、ウマウマ」と言われたら、スプーンの上に食べ物をのせる。口に運ぶのは自分でやらせるが、当然こぼれるので世話が大変。
食後、各種事務手続きをしつつ、電話での相談やパソコン関係の発注が相次ぎ、あわてて合併特別決算委員会に出席。案の定、合併時に関わる事務手続きの不手際に関して激しい質疑がある。この不手際のなかには、「優しさ」がかえって裏返ったものもあり、例えば某第3セクターへの行政の減資(出資の放棄)が5000万円ほどあった。その際の赤字は600万円程度。通常、減資をする行為はその会社の信用度を落とすことになるので、株主総会などでは激しく議論されるところ。そもそも、1億円規模の会社における600万円の赤字で減資はありえない。行政として、第3セクターを助ける「優しさ」の意味での減資であったかも知れないが、まずは「株主平等の原則」を破っている。今までは、行政の出資が75%、株主総会でも絶対多数であり、減資に必要な特別決議もできる。しかし、行政の出資だけを減資したことによって、相対的に他の株主の価値が上がるのである。行政が75%から50%に出資比率が落ちた変わり、いままで10%の株主が20%以上の株主になった。また、この行為を第3セクターゆえ議会で承認しているが、第3セクターの社長を当時の現職町長がやっており、経営者としての立場で株主総会で決議、その後、議会においては首長として議案を提出と健全ではない。その他にも土地の買収にかかわる登記の問題などがあり紛糾。
昼食は、市役所近くの「チャイナハウス 日囍」(電話:0257-24-7219)でタンタンメン 600円。テーブルの上にあったラー油をたっぷり注ぎ、コク辛にして食べた。夕方、某ホテルのレストランで打ち合わせ。ヒレカツ定食、生ビール3杯。ご馳走になってしまった。21時に帰宅し、一度、仮眠をしてから仕事をすることにする。
今日、名越二荒之助先生(著作多し。公式サイトはこちら)から激励の葉書を頂戴した。
最後には
「小生既に八十二歳。
あとの日本をよろしくお願いします」
とあった。縁起でもない。
名越先生は大正12年、岡山県生まれ。山口高商を卒業し、ソ連に抑留され、復員後、高校教諭・教頭を歴任。元高千穂商科大学教授である。
バングラデシュやパラオ(アンガウル州は公用語が日本語)などの親日国の国旗を並べるパフォーマンスでも有名。大東亜戦争時、そして戦後における本当の朝鮮半島、台湾などとの交流を伝え、またソ連抑留の厳しい実体験を知る方として貴重である。
田形先生同様、ご高齢であり、是非、早めに講演会を企画したい。来週の皇室典範問題の集会でお会いするので、その際にでもお話したい。激励の葉書の御礼がてら、長生きをしてほしいとの意味もこめて、納豆を送った。なにせ、名前が「二荒之助」である。伝票を書く手にも力がこもる。日露戦争に行き、奉天の会戦にも参加した名越先生のお父上は、子宝に恵まれなかったため、日光の二荒山(ふたらさん)神社にお参りしたそうである。二荒山には、男体山と女峰山、そして真ん中に、子宝を授かる太郎山があり、願を掛けたことから、名越先生のお名前は「二荒之助(ふたらのすけ)」。
妹の友達には「りんご」ちゃんと「りんどう」君がおり、植物系の名前もいいな、と思っていたが、「二荒之助」にはまいった。「隼」や「大和」「武蔵」も捨てがたい。田形先生の意志を継ぐ意味で「飛燕」か。はたまた「月光」。ここまでいくとシャレ・・・・とは言うのの、お嫁さんがいないのが現実だ。
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