自衛隊生徒募集、そして満州
1時ごろ飲み会より帰宅。これで年内の飲み会はやっと終わり。風呂に入り、2時頃就寝。
7時起床。妹がもらってきた鰺の身をタタキにし、残った骨や頭を使って味噌汁を作る。タタキには、軽く塩をふり、刻みネギと生姜をたっぷりと混ぜ、しばらく寝かせる。味噌汁は、新鮮な鰺の旨味を活かすためにも、薬味は入れずに米麹の白味噌のみ。
小粒の納豆に多めの再仕込み醤油を入れ、軽く撹拌してご飯の上に投下。その上に鰺のタタキをのせ、「鰺タタキ納豆丼」の完成である。ガツガツとかっ込んで食べる。卵黄か鶉の卵をのせればさらに良かったのではないかと思う。
一昨日の新聞を各紙読み比べていたら、大変興味深い?以下のような記事があった。
平成17年12月29日『新潟日報』
自衛官募集案内を配布
糸魚川の中学校 国通知に反する恐れ
糸魚川市の糸魚川中(森悦二校長)が11月ごろ、3年生男子全員に自衛隊生徒(自衛官)の募集案内を配布していたことが28日、分かった。新規学卒者の就職活動に関する国の通知は「新規中卒者対象の文書募集は行わない」と定めており、これに反する恐れがあるため、市教育委員会は全中学校を対象に調査を始めた。
自衛隊生徒制度は給与をもらいながら、通信制高校の卒業資格を得る仕組み。本年度の1次試験は1月14日。
糸魚川中や防衛庁高田募集事務所などによると、同事務所は10月から11月にかけ、在籍生徒人数分の募集案内を用意し、上越地域3市の各中学校を回った。糸魚川中は進路指導担当者を通して学級単位で一律に案内文書を配布していた。
文科省、厚労省は毎年4月、経済団体や都道府県などに採用選考期日などを通知。この中で、社会経験が浅い中学生がパンフレット類だけで就職しないよう求めている。防衛庁も中学生募集について「保護者、進路指導担当者を通じて行う場合に限る」と下部機関に通達。同事務所によると学校側に生徒へのパンフ配布は依頼しておらず、「(文書の)扱いは担当の先生に任せた」という。
文科省児童生徒課は「希望者だけに配るなどの配慮が必要だ」と強調。県義務教育課も「一律配布は通知の趣旨に反する恐れがある」と指摘。森校長は「通知、通達が出ていること自体知らなかった。今後は通知に沿った対応をしたい」と話している。
自衛隊生徒募集パンフレットは進路指導の先生を通して配布しており、配布の際、先生による説明があったか否かで、「文書による募集の禁止」であったのかの判断が変わってくると思われる。説明もなしに、いきなり進路指導の先生も配ることはしないであろう。
自衛隊生徒募集パンフレットは、「陸自 何名、空自 何名、海自 何名」といった数字の羅列や実施要領などの条件がメインであり、そのパンフレットだけで募集する気まんまん?の構成にはなっていない。「文書による募集の禁止」は、その文書のなかに「国防のため、貴方も自衛官に!」などと勧誘の文言があり、それだけで入学・就職の意志を決定させるような構成、文章であり、さらに説明もなしに配られ、それだけで学生が意志を決定するような場合を指す。それゆえ、進路指導の先生も、いきなりパンフレットのみを配ることはしていないであろうと容易に予想できる。
そもそも、自衛隊生徒に関する募集については、職業安定法の適用範囲外である。
調べてみると、他の自治体でも同様に、教育関係者や共産党、社民党の地方議員によって、定期的に問題化させられている。
では、柏崎市ではどうかといえば、実は昨年、共産党議員から柏崎市教育委員会に対して、自衛隊生徒のパンフレットが配られている事に対し、クレームがあったそうである。適切に配布しているとの柏崎市からの回答で一件落着したが、柏崎市もこのような動きがあることを認識して、今後の海上自衛隊誘致の活動をしていきたい。
昼食もとらず、年賀状や礼状などを書いたりしているうちに、夕方になったので「お歳とり」のご馳走の準備。新鮮な鰺を半生で焼いた焼き魚を中心に、豚ロースで作ったチャーシューを作成。
大根膾、黒豆をはじめ、車麩の煮付けや山菜の油炒めなどの郷土料理は、母が担当。家族も祖母と母との3人なので、量は少ないが、黒豆などは量を作らないと美味しくないが仕方ない。
準備をしながらの母の一言、「アンタが結婚しないから・・。なんで息子と台所仕事してるのかねぇ」。年末にきて、痛い言葉である。
料理が揃ったところで、弟も呼び、ビールを飲みながらのお歳とり。
今年、海の向こうでは、ネルソン提督で有名なあのトラファルガー海戦200周年、我が国では東郷平八郎
「勝って兜の緒を締めよ」
に代表される日露戦争勝利100周年であり、大東亜戦争終結60周年であった。
日露戦争がどのような意味があったのか、そして大東亜戦争は何だったのかを考える良い機会であった。戦争について考える、と言うと「それ見ろ、右翼だ」「戦争をしたがっている」との批判をよく受けるが、なるべく戦争が無いよう、平和を願うのは当然であるからこそ、「戦争」という言葉だけで思考停止することなく、考えることが重要なのである。
どうして開戦せざるを得なかったのか、各戦場における戦術、戦略、リーダーの決断は正しかったのか、これほどの材料はないであろう。大東亜戦争における日本の大敗北を研究することが、散華された英霊に対する慰霊にもなると思う。
このブログでも極力、大東亜戦争の小話を書くようにしてきた。今年いっぱいで終わろうと思っていたが、勉強・研究すればするほど、学校では習わないが、重要な事柄が分かってきた。引き続き、来年も書きたいと思う。
また、大東亜戦争中、もしくは後に独立したアジアの国、大国でいえばインドなど諸国との関係も勉強していきたい。
今年の5月には満州柏崎村の跡地が発見された。日本の近現代史は「満州にはじまり、満州に終わる」ともいわれる。来年5月には慰霊の旅に行くので、こちらも引き続き勉強していきたい。
陸軍の軍人として、大東亜戦争を戦った亡き祖父は、大酒を飲んで酔っぱらうと
「『しっかりせよぉ~』と抱き起こしぃ~」
と拳を振りながら、よく歌っていた。当時は、
「また、お爺ちゃんが戦争の歌、歌ってるぅ~」
ぐらいにしか思っていなかった。いまであれば、「しっかりするのは酔っぱらったお爺ちゃんだろ」とツッコむところである。
いま改めてこの歌を調べてみると実は満州を題材にした歌だったのである。
詳細を聞きたくとも祖父は既にいない。来年もまだご存命の戦争経験者に色々なことを直接お聞きしたいと思う。
*写真は満州で売られていた「栗納豆」。糸引き納豆ではなく、甘納豆の一種。
『戦友』 明治38年(1905年)
作詞:真下飛泉/作曲:三善和気
ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
思えば悲し昨日まで 真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか
ああ戦いの最中に 隣に居った此の友の
俄かにハタと倒れしを 我は思わず駆け寄って
軍律きびしき中なれど 是が見捨てて置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起こし
仮繃帯(かりほうたい)も弾丸の中
折りから起こる突貫に 友はようやく顔あげて
「御国のためだ関(かま)わずに 遅れてくれな」
と目に涙
あとは心に残れども 残しちゃならぬ
此の身体(からだ)
「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか
戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では
どうぞ生きて居て呉れよ ものなと言えと願うたに
空しく冷えた魂は 故郷(くに)へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いて居るのも情けなや
思えば去年船出して 御国が見えずなった時
玄界灘で手を握り 名を名乗ったが始めにて
それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合うて 身の上ばなし繰り返し
肩を抱いては口癖に どうせ命は無いものよ
死んだら骨(こつ)を頼むぞと 言いかわしたる二人仲
思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて
赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは
隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
友の最後をこまごまと 親御へ送るこの手紙
筆の運びは拙いが 行燈(あんど)のかげで親達の
読まるる心思いやり 思わずおとす一雫(ひとしずく)
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