汪兆銘と中国共産党、死者の扱い
7時起床。自宅にいない間にたまった郵便物やFAXの処理。皇室典範に関するものやジェンダー運動への疑問に関するものがあり、今後の政治への反映の仕方を考える。10時過ぎ、おにぎり選手権対策のため、おにぎりギリギリ。具は、乾燥納豆に加え、刻んだ高菜に鰹節。もちろん、鰹節は靖國神社の「撤下神饌」である。乾燥納豆に醤油で湿り気を与え、刻み高菜を絞って投入。最後に鰹節を入れ、かき混ぜて、しばし沈黙のとき。熱いおにぎりのなかで旨味がさらに熟成されるのである。甥っ子が泊まっているので、甥っ子用にも約1.5cm各の塩にぎりも作る。家族の分を含め、11個を作ったので、これを自分のブランチにする。資料整理やブログ、手紙など、今日は事務所にこもって、ひたすら作業。
文藝春秋社から「2006年カレンダー」が届いていたが、表紙に「平松礼二」の文字。年間14万人入る計画で、柏崎市でも9000万円近い負担が生じる「県立美術館」構想を思い起こした。芸術家の作品は死んでから評価が定まるので、税金で存命中の作家の作品を保存する美術館はいかがなものか、と発言したときには、「人の命も何とも思わないのか」とある市民の方に言われた。まったくの誤解であるが、「死」という言葉に過敏に反応されたようである。
「死」といえば、日本ではたとえ罪人でも刑を受け、死者となった場合には、生前の思想がどうであってにせよ、キチンと弔われる。靖國神社にケチをつけている中国はどうであろうかといえば、死者にムチ打つ文化である。1943年、東京で開かれた大東亜会議に、南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席した政治家・汪兆銘(おうちょうめい、1883年~1944年)は、共産党こそ真の敵と考え、日本と和平を結び、南京政府を樹立した。ザックリとした分類は
蒋介石ー米英による支援。重慶に政府
毛沢東-ソ連による支援。
汪兆銘-日本との共存共栄を模索
となる。日米開戦においても、汪兆銘はこう述べている。
「この戦争は間違いです。
日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。
真の敵はアメリカではありません。
しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。
同生共死ということです。」
「日中戦うべからず」との孫文の遺訓を抱き、いちはやく日本との和平をし、戦争を終結させようと交渉にあたっていたが、現在の中国共産党政権下では民族の敵とされている。ちなみに日本の法政大学に通っていた。亡くなったのは、日本の名古屋病院。病死であったため、汪兆銘の遺体はアルコール漬けにし、飛行機で南京に搬送され、梅花山に埋葬。夫人(陳璧君)たっての願いで、墓荒らし防止のため、五トンの鉄鋼粉をまぜたコンクリートを流し込み分厚いシェルを作ったが、蒋介石率いる国民党政府は、汪兆銘一門50数名を銃殺刑、汪兆銘の墓を爆破した。その爆破されたときの破片を埋葬した汪兆銘のお墓が、実は東京都の杉並区にある。それはさておき、もともと汪兆銘の墓があった場所には、周囲を柵で囲まれ手を後ろにして縛られ跪いて座る汪兆銘像があり、さらには浙江省に汪兆銘夫妻の「裸体」石像がある。跪く像だけならまたしも、現在の中国共産党員は、夫婦揃っての裸体石像につばを吐きかけたり、小便をかけたりし、「漢奸」(裏切り者)として、いまでも罵りを続けている。死者への文化の違いといってしまえばそれまでだが、まがりなりにも汪兆銘は孫文直系の弟子であり偉人である人を、死後この扱いである。そんな国に靖國神社をとやかく言う資格はないと思う。
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