樺太、9人の乙女
3時就寝。7時起床、今日は昨日より、さらに寒い感じがするので八丁味噌、白麦味噌の自家製合わせ味噌で三つ葉と麩の味噌汁を作った。納豆は、京都府亀岡市、ユーアンドミーさん(0771-24-8915)の「すず姫」。北海道上川郡剣淵町のすずひめ大豆を使った納豆である。
午前中は、事務所のリフォームと書類作成など多々あったが、電気の瞬停が数多くあり、デスクトップPCでの作業はままならず。愛用のThinKPad X31に環境を移して作業続行。
11時から打ち合わせ。長引き、先方の奥様の手料理で昼食。スパゲティ・ボンゴレとガーリックトーストで満腹であった。
午後は挨拶まわりや会社関係で市内。風がとにかく凄く、何回も愛車のドアが風にもっていかれそうになる。18時から納豆学会の今後の企画などについて、某社と打ち合わせ。
21時に帰宅。「越後もち豚」を新潟地酒を造るときの酒粕と越後味噌で漬け込んだという「越後もち豚 味噌粕漬け?(仮称)」を試作品としてもらっていたので、早速、焼いてみた。 ほどよい発酵臭がアクセントになり、肉厚の豚肉からにじみ出る肉汁が肉と同様、厚みある味わいになっている。是非、納豆味噌で漬け込んでほしいとリクエストをつけて、感想をメールで送った。
先の12月議会での「支那事変」と同様に訂正の野次(議会活性化の点では感謝)があがったのが「樺太」。「サハリン」と言い直せというのである。しかし、「樺太」を発見したのは、我が柏崎市米山町(鉢崎)の松田伝十郎。尊敬の念とともに、自分自身の政治信条から、「樺太」は譲れない。特に議事録がとられる場においては、次の世代に伝えるためにも「樺太」の語は残したい。
大東亜戦争時の昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太、千島列島、さらに北方四島に侵攻。8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したにも関わらず、ソ連は樺太の国境線を越えて南下を続けた。そして8月20日、樺太南端の真岡市に上陸。そこで起こった悲劇が「9人の乙女」である。
当時、南樺太には、40万人以上の日本人が住んでおり、電話局も開局していた。そこにソ連の突然の侵攻である。日本軍は武装解除の最中であった。
ソ連の砲撃がはじまり、侵攻してくるなか、
「私たちが伝え、電話局を死守しなければ・・・」
と真岡電話局に勤務していた9人の乙女は引き揚げの指示を断り、一時間半に渡って、真岡市街の状況を電話と無線(電話が混線したとき用の無線)にて稚内電話局に報告し続けた。そして電話線がソ連軍により切断され、最後の電話は以下のようなものであったという。
「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍が、我が真岡電話局に侵入いたしました。
これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。
足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。
内地の皆さん、
さようなら、さようなら・・・・・」
最後の無線は、責任者であった可香谷シゲ氏から発信された。
「ワレニンムヲオエリ。
サヨウナラ。サヨウナラ。
サヨウナ・・・ラ」
そして、9人の乙女は青酸カリを飲んで自決したのである。9人の乙女は
可香谷シゲ(23):責任者
高石ミキ(24)、伊藤千枝(22)、志賀晴代(22)
吉田八重子(21)、高城淑子(19)、沢田キミ(18)
松崎みどり(17)、渡辺照(17)
すべて独身。現在、靖國神社に奉られており、神社内の遊就館に写真も安置されている。
稚内市には、戦後に「乙女の碑」が建立され、昭和43年にこの地を訪れられた昭和天皇と香淳皇后は9人の乙女の冥福を祈られ、次のお歌を残された。
樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる
からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる
この悲劇は昭和49年(1974年)に『氷雪の門』として映画化されたが、当時のソ連政府による圧力により、劇場公開が中止された。
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