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2006年1月

2006年1月31日 (火)

正論!麻生太郎外相の靖國発言

 3時就寝。7時起床、4月にインドに行くため、インド関連の書籍を注文したり、インターネットで調べているうちに打ち合わせの時間になってしまった。

 10時から事務所にて、パソコンの持ち込み修理の依頼を受ける。OSの再インストールとメモリの増強である。合うメモリが手元にないので、一回PCを預かることにする。

DSC00581 11時、冷蔵庫にあったうずらの卵や温泉たまご、おろし大根など、小粒納豆に残りものをぶっこんで「ごちゃまぜ納豆ご飯」にしてブランチ。どれがどの味が分からないような状況になってしまったが、楽しい食感の納豆めしである。

 ライブドア、BSE、耐震偽装、防衛施設庁問題と、自民党への批判がTVをはじめとするマスコミで続いているが、政界の『ゴルゴ13』、麻生太郎外務大臣の発言も問題であると騒ぎはじめた。
 1月28日、名古屋市での公明党議員の会合で、靖國神社参拝について

 「英霊は天皇陛下のために萬歳と言ったのであり、首相萬歳と言った人はゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」
「参拝できなくなったのは、公人、私人の話だ。解決の答えはいくつか出てくる」
「靖國問題が終わったら、日中間の問題がすべて解決するわけではない。隣の国なのだから、ある程度緊張感を持ってやっていく以外に方法はない」

と述べたことが問題だという。まったくの正論であると思う。これに対し、早速、韓国、中国は反応し、民団新聞では以下のような記事がある。


「天皇を靖國へ」麻生外相発言 歴史認識を欠く暴言
韓国外通部と与党が批判
 【ソウル】麻生太郎外相が1月28日、「天皇陛下が靖國神社を参拝するのが最も望ましい」とした発言が波紋を呼んでいる。
 韓国政府は30日、外交通商部報道官の論評を発表し、「過去の侵略戦争の歴史を正当化し、美化しようとするもので、極めて遺憾に思う」と批判、隣国との関係を度外視した発言を直ちに撤回するよう求めた。
 また、ヨルリンウリ党の田炳憲スポークスマンも28日、「日本閣僚がこうした暴言を繰り返すなら、歴史認識や罪の意識すらない国家であると烙印を押されるであろう」と批判。
 一方、韓国マスコミは朝鮮日報が「日本外相がまた妄言」と批判。MBCラジオも「こんな人物が外相をしている日本が心配だ」と指摘するなど、一斉に反発した。


 天皇陛下は1975年まで、普通に靖國神社へ参拝されていた。
 その参拝が中止された理由としては、よくA級戦犯が合祀されたから、陛下のご意思で参拝中止されたと言われる。しかし、これはまったくの誤解である。
 同年1975年に三木首相が初めて8月15日に靖國参拝した際、「政教分離の原則に反する」という意見に屈してしまうかたちで、三木首相が「私的参拝」と言い切ってしまったのが原因なのである。
 天皇陛下にとっては、皇居を出てもすべての活動が「公務」。陛下の「私的参拝」はあり得ないため、それ以降立場の難しくなった天皇陛下の参拝がなくなったのが真相である。
 昨年は、天皇陛下による玉砕したサイパン島の慰霊があったが、同様に「日本を守りたい」と言って亡くなられた英霊に対し、天皇陛下が参拝されるのは国としての本来の慰霊だと思う。
 どこの国でも当たり前として行っている戦没者への慰霊を外交カードとして使う中国と韓国は失礼極まりない。
 麻生太郎外務大臣には頑張っていただきたい。
 はやくもインターネット上では、支持する?者から『ウルトラマンタロウ』を題材に、マンガ好きの麻生大臣をパロディにした、『ウルトラマンガタロウ』というフラッシュも作られている。
*口がひん曲がって、というのは応援なのか侮辱なのか微妙・・・

DSC00584 19時から長岡での飲み会の予定であったが、今日で完全に風邪を治したいので、キャンセルさせてもらい、大根おろしと鮭のアラ、酒粕で作った柏崎の郷土料理「しょっから」で夕食。

_1DSC00590 納豆家さんの「納豆アイス」でシメ。冷凍状態となった小粒納豆がナッツのような風味になり、納豆好き嫌いに関わらず楽しめるアイスである。

 23時過ぎ、電話が何回もかかってきたので、仕方なく車で長岡に移動し、3次会から参加。
 

2006年1月30日 (月)

ラブメール?代筆と特攻隊員遺書

 3時就寝。7時起床。『防衛ホーム』『セキュリタリアン』『日本の風』など自衛隊関係の資料を読む。特に『日本の風』は参考になり、珍しく読み返してしまった。

DSC00560 9時過ぎ、ネギとほうれん草の味噌汁に干し納豆を入れたお握り。お握りの海苔は、米山町でとれた海苔。磯の香りがかなり強く、米の風味に勝ってしまうので、古米でも十分美味しいお握りになるような気がする。

 10時から、就職のため会社の面接を受けるという人から、緊張しないよう面接のトレーニングを頼まれていたので、事務所で2時間みっちり面接のシミュレーション。自分の持ち味を短時間に相手に伝えるのはなかなか難しいが、言葉使いだけでも正しくしてもらいたい。自分の身内にも「さん」をいつけるのがなかなか抜けないようだった。「はい、うちのお母さんも働いています」と言ってしまい、「はい、母も働いております」とスムーズには言えないようであった。

kk  12時、昼食として、黒豆を使った某社の試作品の「黒豆納豆」。豆の不揃いと蒸煮具合にやや難ありであった。

 15時から来客。特に用事があるのではないが、柏崎市の今後はどうなるのか聞かせてほしいとのことだったので、あくまで私見として、原子力発電所が廃炉になった場合の柏崎市の財政などを話す。

F1000001  17時から某イベントについての打ち合わせ。近くに喫茶店が無いので、柏崎ショッピングモール「フォンジェ」の地下に行き、「月味家」(電話:0257-20-0025)にて「ブレンドコーヒー 150円」と「たこ焼き 350円」 。景気が良かった時代に始めた某イベントで、毎年大きくなってきたが、この不況により協賛金も集まらず、関係者が赤字で仕事を請け負い毎年なんとか実行している。そのため、実行委員長のなり手も容易には見つからない。

DSC00565 20時、母と妹が手作りハンバーグを作ったというので、それをもらい夕食にする。なかなか美味しいデミグラスソースだ、と思っていたら、母から「孝欧の冷蔵庫のソースもらったよ」とのこと。うっ、うっ、大切にとっておいた某ホテルの調理人になった友人からもらったソースであった。

 IT教室を運営する友人から、資料としてちょっと堅い感じの愛あるメールを参考に書いてもらえないかと頼まれた。気軽な感じのメールの例の対極として、電子メールの授業のサンプルにするらしい。それなりのものを書いて送信したが、ついでに感動というか胸打たれる恋人への文章も紹介した。

 大東亜戦争時、本土防衛、愛するものを守りたいと、男たちが次々と飛び立っていった時代。特攻を志願した海軍パイロットの宅島徳光少尉、当時24歳が、恋人に向けて宛てて書いていた、1944年6月13日の日記である。
 宅島少尉は、慶応義塾大学法学部から、第十三期海軍飛行科予備学生として三重海軍航空隊に入隊。彼には、学生時代の下宿先の娘さんで、八重子さんという恋人がいた。パイロットとしての訓練中である1944年6月、彼女の方から結婚の申し込みを受けたものの、彼は『特攻を志願している以上、生還の保証がない、彼女を哀しませるだけ』と断った。しかし、彼は厳しい訓練の合間にも、彼女への切ない想いを大学ノートに日記として綴っていたのである。


 はっきり言う。俺はお前を愛してる。
5 しかし、俺の心の中には今ではお前よりも大切なものを蔵するようになった。
 それは、お前のように優しい乙女の住む国のことである。
2

 俺は昨日、静かな黄昏の畑の中で まだ顔もよく見えない遠くから俺達に頭をさげてくれた子供達のいじらしさに強く胸を打たれたのである。3
 もしそれがお前に対する愛よりも 遥かに強いものというなら、お前は怒るであろうか。
ほんとうにあのようなかわいい子供達のためなら生命も決してほしくない。
1 自我の強い俺のような男には信仰というのがもてない。
 だからこのような感動を行為の源泉として、もちつづけていかねばいけないことをおまえは解ってくれるだろう。
 俺は心にあるこの宝を持って俺は死にたい。
 俺は確信する。
 俺達にとって死はうかがいもなく、確実に身近な事実である。


 宅島少尉は、その後、九六式陸上攻撃機の機長として、昭和20年4月9日、基地を発進。金華山沖で戦死した。

2006年1月29日 (日)

『こどもの時間』上映会、東山県議総会

 1時過ぎに帰宅。風呂に入ったり、雑誌を読み、3時就寝。

DSC00548 8時起床、昨日、熱く【愛国心】を語ったからか、二日酔いである。牛乳、イカの塩辛、大粒納豆の納豆ご飯、蛤の味噌汁たっぷりの朝食。味噌汁が胃にしみるので、だいぶ胃が疲れているのだろう。

_1 10時から産業文化会館にて、『こどもの時間』上映会に参加。のびのびと活動する子供が映し出され、未認可ながらもこの自由奔放な保育園に興味をもつとともに、それを支える保護者の皆さんの協力体制に驚いた。映画終了後には、いなほ保育園・北原和子園長さんの講演もあり、

 「教育の理論家ではないので、一つ一つを理論で説明することはできないが、実践者として、それなりの経験をもって、保育園の運営をしている。」
 「これだけ長い時間やって確実に言えることは、双子であれ、三つ子であれ、これまで同じ性格、行動をした子供は一人もいない」

という言葉が印象的だった。

1 13時30分から、柏崎市民プラザにて、自民党の東山英機県議の後援会新年総会。会場は、550名で満杯。泉田知事も来賓としていらっしゃり、

「新潟県は毎年約1万人減ってきている。しかもそのうち8000人が3月に集中している。つまり就職や進学の魅力がないのが現状。」
「ある旅行会社が行った『住んでみたい県ランキング』で新潟県はなんと42位。日本で一番綺麗な川は四国の四万十川と言われているが、実はわが県の
荒川。新潟県はアピールがうまくない」

など、知事選挙の前に2時間ほど話し込んだときよりも、さすが説得力ある話っぷりであった。
2 自民党・近藤基彦衆議院議員もいらっしゃっり農業政策をはじめ、新潟県の現状と中央のみが恩恵を受けている景気回復というお話をされていた。

3 東山英機県議からは、フリーターや離職の話があった。新潟県内でフリーターは約4万人。また就職しても3年以内に離職する若者は、平成16年、新潟県内で高卒48.8%、大卒32.1%の時代である。まさに人材と職場のミスマッチが早急な課題といえる。
 また、東山県議からは正式に、次回の統一地方選挙における7期目挑戦の発表があった。柏崎選挙区は定員2名で、現在は自民党の東山英機県議(60)と西川勉県議(78)が現職。社民党も次回は独自候補を立てるとしている。
 次回の統一地方選挙で決まる市議、県議は、プルサーマルもさることながら、原子力発電所立地自治体としての意見をキッチリ県や国に伝える人を選ぶ必要がある。原子力反対を叫ぶ人を市民の皆さんが選択するなら仕方がないが、原子力発電所との共生を選択した以上は、互いに緊張感をもちつつ、どう共存していくのかが重要であろう。
 今後の候補者の動きに注目したい。

DSC00559 後援会総会のあとは、懇親会。お約束の飲み飲みである。町内会、各団体の方と意見交換であったが、亡父や母をよく知る人からは、

「アンタ、はや結婚しなせーて。
お母さんの気ぃ楽にさせてやんなせーて。」

と耳に痛いお話を頂き、酔いが覚める。

 17時過ぎ、自宅に戻り、頭を使わない、文書のファイリングや整理を行う。

2006年1月28日 (土)

第5回柏崎の教育を語る会

 久々に2時間ほど風呂に入ってしまい、1時近くにあがったものの、そのままソファで寝てしまった。

 7時起床。喉がまだ痛い。治りかけだったのにソファで寝てしまったのが原因であろう。午前中、依頼されていたパソコンの修理やアップグレードを2つこなす。中古パソコンや3年ほど前のパソコンもいえども、CPUを変えたり、メモリ、ハードディスクの増強をすれば、まだまだ数年は、インターネットや通常の文書作成には支障ないであろう。今後も、新しいパソコンを買うのではなく、アップグレードの依頼が増えるように思う。

DSC00554 12時過ぎ、祖母や母の分を含めて、ネギたっぷりの納豆チャーハンを作る。業務用のコンロではないため、熱量が足りない分、カンカンにフライパンを熱してから、一気に勝負である。ネギは2回にわけ、最初の油の香りづけと、最後に使った。祖母もおかわりをしたので、一応成功である。このチャーハンでブランチ。

DSC00543 14時から、柏崎市立教育センターにて、「第5回柏崎の教育を語る会」。主催は、柏崎市立教育センター。共同主催は柏崎青年会議所である。
 昨年までは基調講演があったが、今回からは実際に行動に移れる提言をするために、話し合いの時間を多くとった日程。グループに分かれてのディスカッションで、テーマは「子どもたちの安全をどう守るか」。
DSC00544 Eグループとなり、司会者、発表者、記録者の割り振りをすることになったものの、なかなか志願者がでないので、司会者を志願。次のような手順でディスカッションを進めた。

 1.ポストイットなどの付箋紙に自分の思うことを書く。
 2.各学校の先生から安全への取り組みを発表してもらい、
   それぞれについて議論。
 3.自分がすでに付箋紙に書いたもののなかで、
  2の議論にでなかったものを各自発表してもらう。

発表までの時間が1時間程度しかないため、短時間で行うブリーフィングの手法を取り入れた。
 それぞれの学校の取り組みもさることながら、各地区の方の事例もあり、青年会議所のメンバーとして参加したが、市議会議員の立場で参加しても大変貴重な時間となった。他の議員の方にも案内はでているはずだが、私以外一人も議員がおらず、その点では残念であった。
DSC00545 発表のために、目玉となるアイデアを提出しようということで、防犯ビデオ作成を提案した。
 現在、色々な教育機関やNPOの作った防犯のための教育ビデオがあるが、大抵、犯人役は黒ずくめの服装にサングラス、マスクと、いかにもアヤシー格好である。実際は地味な格好をした美少女フィギュアをこよなく愛するオタク青年でも犯人となることもある。地味な青年やおばさんなどが犯人となる色々なパターンを演じ、親にも子供にもイメージがわく、防犯教育ビデオ作成の提案である。
 さらに地域の人の顔も分からないので、子供も誰を信じていいか分からないという意見もあった。防犯教育ビデオには、できればその地域の人に出演してもらうのである。現在、育成会さんでも各地で防犯の寸劇をされているものの、どうしても時間の制約がでる。ライブの寸劇の方が良いのは当然であるが、子供が好きなビデオ上映会の前にちょっと流すとか、親の教育として町内会、班長会などの話し合いの前にちょっと見る、という使い方ができると思う。
DSC00546 全体の発表会では、各班から面白い意見が提出された。なかでも、高校生や中学生にも小学生を守るという意識を芽生えさせる意見にはまったく同感であった。
 質疑応答や感想を述べる時間になったが、誰も発言しなかったので、議論を膨らませるため、あえて賛否が問われるよう、

 「ビデオを作成に際し、変態役を志願している青年会議所の三井田です。防犯グッズの蛍光色のベストや帽子について、つけてもらえるのが一番良いのですが、格好悪いという意味でなかなか常につけて防犯にまわってもらうのは難しいのではないかという考えもあります。他の自治体の例で、防犯グッズの格好いいデザインを地元の学生にお願いし、多くの若者を防犯活動に良い意味で巻き込んでいるところがあります。またその防犯グッズに値段をつけて売ることによって、色々な価値をつけている例もありますが、どんなものでしょうか。皆様のご意見を頂ければ幸いです。」

と述べたものの、青年会議所のメンバー3名、教員の方からの青年会議所へのお願い1件の発言で終わってしまった。もっと活発な意見が望まれるところである。
DSC00547 全体会ののちは、オードブルをつつきながら、ビール飲み飲みの交流会。教育次長や教育長も参加されていたので、またも「ジェンダー・フリー」や「歴史教育」について熱く語り、若干、引かれる。

 19時から某団体の新年会に出席。政治とは関わりのない団体であるが、映画『男たちの大和/YAMATO』の話から【愛国心とは】という青臭いけど面白い議論になって白熱。2次会、3次会と進んだ。

2006年1月27日 (金)

駅南ジャスコ問題、杉村タイゾー議員

F1000001  3時就寝。7時起床、これまで風邪がひどかったので、長風呂できなかったが、今日は調子がいいので長風呂。碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』を読破した。大東亜戦争時、日本で唯一の液冷エンジンを持ち、時速600kmの高速と流線的な美しさをもつ旧大日本帝国陸軍戦闘機「飛燕」。田形先生の愛機でもあり、また技術的にも当時の技術者がいかに苦労したのかが分かり一気に読んでしまった。9時、大粒納豆、麩と若布の味噌汁に、目玉焼きで朝食。目玉焼きの味付けには、「納豆パウダー入りガーリック食塩」。

DSC00525 10時から市役所第一委員会室にて行われた、文教経済委員会の懇談会に委員外ではあるが出席。議題は、駅南側土地利用計画である。12月議会に請願として提出されていたもので、鏡ヶ沖中学校に隣接する農振農用地域に大型店の「ジャスコ」が進出する内容。議論全体としては、12月議会で話し合った際の蒸し返しのようで、特に内容的な進展はなく、「まちづくり三法」の見直しも鑑みて、委員会としては「審議未了」の廃案でまとまった。
 農振農用地域の指定を安易にはずしてしまうと、これまで解除ができずに柏崎に進出できなかった企業や国営土地改良の関係でルールが乱れることもあり、なかなか難しい問題であった。
 いまの世の流れは、「まちづくり三法」の見直しにもあるように、無作為な郊外への大型店舗の進出ではなく、駅や商店街を中心にしたコンパクトシティ構想であり、市長も12月議会でそう答弁している。ただ、柏崎の場合には、コンパクトシティにしようにも、駅周辺の空洞化という問題がある。まずは、交通手段をもたない老人や学生、そして旅行者にも便利なよう駅周辺を整備し、続いて高速道路や国道から海岸へのアクセスを簡素化していく、といったステップが必要であろう。

DSC00522 13時、近所の肉屋さんと長時間話込んでしまったので、ついでに「鶏モモのロースト焼き 290円」を購入。大粒納豆とともに、昼食にする。足の骨のところにアルミホイルが巻いてある「鶏モモのロースト焼き」は、誕生日か何か記念日にしか食べさせてもらえなかったような気がする。豊かになったなぁと思うとともに、食事に野菜が足りないことを反省。

 15時30分、新潟市にK嬢の車に同乗させてもらい移動。
 17時からホテル新潟にて、自民党新潟支部の青年局大会。今年度の活動方針、予算、決算、役員選任をしたのち、記念講演?として、自民党本部青年局次長・杉村太蔵衆議院議員による「26歳から見た国会議員という仕事」の講演。本人いわく、生まれて初めての講演というスタイルだそうで、「新潟の人の笑顔は骨太の笑顔ですよねぇ~」から始まり、数分の自己紹介ののち、質問タイムとなった。
 そこで、

 「国益のために、日夜頑張っておられ、
  26歳というお若い杉村先生にお聞きしますが、
  新潟にきたということで、
  拉致問題についてはどうお考えですか。」

と質問をした。多分、会場にいた自民党青年局の方のなかでも多くの人が聞きたい内容であるように思ったからである。回答は、

7 「難しい、難しすぎます、僕には。
 本当そうなんですよ。
 どう考えても早く返せと。そうですよね。
 普通、僕のまったく素人考えですけど・・・
 本当はこれを周りの人にも聞きたい
ですけど、高鳥先生にも。 じゃあ、外務省や警察は100人ぐらい、北朝鮮に行ってもらって、とにかく探しだして、無理やりでもひっぱってきて返ってきてもらう、交渉よりも何よりも、交渉も大事だけど、交渉してラチがあかないならとか言っても、捜索して探して、手をひっぱって連れて帰ってくると。
 そしたら、今度、国際的にどうこう問題が起きちゃう。色々と相手が何か言ってくる。
 外交ってホント、難しいですね。センセぇ~。
 で、僕にできないことは山ほどあります。
 今おしゃったような外交の事は、まったく分かりません。
 拉致の問題のことなんて、明確な、皆さんが納得するような答えはまったく僕はもっていません。
 一日でも早く帰ってきてほしいな、と願うばかりです。
 ただ、26歳で国会議員になって、何にも知らない、何にも分からない、だから、できることもあるんじゃないかと。
 杉村太蔵にはできなことは山ほどあるけど、杉村太蔵にだってできること、杉村太蔵にしかできないことも山ほどあるんじゃないかと、そういう風にいつも自分でも思ってます。
 だから、今のような話は高鳥先生にも聞いて勉強します。」

とのことであった。是非、国を売ることなく、芯のしっかりした議員なるよう、「これから勉強します」の勉強の方向性を間違わないことを願う。ちなみに、小さい政府は収入、支出とも小さい効率的な政府と主張されていたが、組織の大小と、その組織が扱う収支の大小は別問題だとツッコミを入れたいところであった。

32 続いて、高鳥修一衆議院議員の挨拶があり、現在もっとも大切なのは、

 「女系天皇を容認し、我が国の誇るべき伝統を破壊する皇室典範の改悪を止めること

と明言。思わず、

「そうだーーぁ!」

と叫びたかったが、喉が痛くて声を上げられず。是非、自民党内の意見として、今国会での皇室典範改正を阻止していただきたいと思う。

DSC00534 総会終了後は、懇親会。色々な料理がならび、色々な方と意見交換。新潟5区で衆議院に立候補した米山隆一氏を一緒に応援したA嬢も途中参加。新潟県内の企業経営者をはじめ、DSC00535上越市議会の渡辺隆議員など新潟県内他の自治体の方との情報交換が大変参考になった。注ぎつ、注がれつつなので、料理をチェックする間もなく、またほとんど食べることもなく、もったいないことをした。高鳥修一衆議院議員とは、皇室典範改悪や人権擁護法案などについても同じ意見なので、盛り上がってしまった。塚田一郎氏も元TVアナウンサーの奥さんと登場。意志表明をされた。
 そして、大人気で写真にひっぱりダコの杉村太蔵衆議院議員の空き時間を見つけては、近寄り、

 「皇室典範を変え、女系になると
     日本の国体変わってしまいますよ」
 「人権擁護法案の怖さはご理解されてますか」

と、洗脳するかのように話しかけた。

DSC00538 終了後、新潟まで運転してくれたK嬢の食事がまだだったので、帰りがてら「万人家 紫竹山店」(新潟県新潟市紫竹山3-10-6 電話 025-247-5078)に寄る。ぬるいビールの注ぎ合いが続いたので、つい冷たいものが飲みたくなり生ビールを注文。飲んでばかりであまり食べていなかったが、ビールで腹がそれなりに膨らんでいるので、DSC00539ここの名物である丼の縁が見えないほどの「チャーシューめん」ではなく、「つけめん 680円」と「ぎょうざ 350円」を注文。このお店で餃子を注文するのは初めてであったが、中心がDSC00540冷たく皮の外側が焦げ焦げの状態であまり感心できるものではなかった。
 つけめんは、辛みのあるつゆと麺の相性がちょっとそぐわない感じであった。DSC00542つゆだけ飲んでみると美味しいものであるが、何が原因なのであろうか。麺にコシが足りないこともあるのであろうか。にんにくを自分ですりつぶす器具がおいてあるので、にんにく2片をつぶしてつゆに入れた。量も少なめなので、文句を言うくせに、あっと言う間に食べ終わり、高速にて柏崎に向かう。

 22時30分、自宅到着。酔い覚ましと思い、ぬるめの風呂に入り、『財界にいがた』など雑誌数冊を読む。

2006年1月26日 (木)

大和を護れ!「冬月」「雪風」

 3時就寝。8時起床、だいぶ体が楽になってきた。しばらく、ここまでひどい風邪を引いていなかったので、風邪のひきかた、治り方?を忘れていたようだ。

 9時過ぎ、来客。11時過ぎ、来られた方と打ち合わせがてら、某店に移動し、一緒にブランチ。お刺身定食(1100円)を食べる・・・携帯もデジカメも忘れ、写真撮れず。

DSC00520 18時30分から、柏崎商工会議所にて、倫理法人会の普及拡大委員会。神奈川県倫理法人会事務長で、株式会社タスク・フォース社長の岩谷武博氏を講師にお迎えして、2月7日に行うイブニング・セミナーなどについて、打ち合わせる。会食しながらの打ち合わせなので、全員でほっかほっか亭の「和風みぞれ鍋仕立て まぐろかつ弁当 490円」と「ハムポテトサラダ 140円」。

【2月7日セミナーのご案内】はこちら

 21時過ぎ、帰宅。ここ数日、寝込んでいた間に溜まってしまった郵便物やメールの処理。

 1月23日、第48回ブルーリボン賞が発表され、興収30億円を超える大ヒット中の映画『男たちの大和/YAMATO』の佐藤純弥監督(73)が監督賞を初受賞したという。
 ますます多くの人が『男たちの大和/YAMATO』を見るであろう。映画版にもなく、『月刊シナリオ』に掲載された元の脚本にも無かったが、「戦艦 大和」とともに出撃した艦も忘れることはできない。
DSC00516 映画にもなった、奇跡の艦「駆逐艦 雪風」もその一隻である。既に手元に1/700スケールの「戦艦 大和」があるので、「是非、比較してみたい」と思い、同じ1/700スケールの「駆逐艦 雪風」を作ってみた。
 並べてみるとその大きさの違いがよく分かる。まさに「戦艦 大和」の大きさは超弩級であり、美しい。
_1 そして、その「戦艦 大和」を懸命に護ろうとした「駆逐艦 雪風」も愛おしく感じてきた。ま、まずい、メカフェチであろうか。

 実際の沖縄特攻、菊水一号作戦ではどうであったか。
 この写真は、被弾し速力が落ちた「戦艦 大和」を前部高角砲を発射して護ろうとする「駆逐艦 冬月」<手前>である。

Fuyu

 「戦艦 大和」は、船体が20度以上傾斜すると、撃った後の反動を吸収できないこともあり、副砲、主砲ともに撃てない。この戦闘では、最終手段とも言える機械室への注水も行い、船体の傾斜復元を試みたが、被弾状況が激しく、傾斜は復元できなかった。*米軍機が撮影したもの。

2006年1月25日 (水)

シドニー海軍葬と日本の母

 メールや頼まれていた原稿を書き、3時就寝。6時から経営者モーニングセミナーであったが、体調不良のため、今回は欠席させてもらう。

DSC00509DSC00508 8時、起床。いまだ風邪は良くならず、今日の打ち合わせもキャンセル。ご飯。卵を落とした白菜の味噌汁、納豆で朝食。今日は、いつもの再仕込み醤油ではなく、「伊勢うどん」のつゆで味付けてみたが、悪くない。

DSC00511 午前中は『Will』などの月刊各誌を読みながらベットでおとなしく寝る。元日本共産党の兵本達吉氏の共産党内部事情の記事が面白い。12時過ぎ、母が祖母や妹、甥っ子の昼食として、卵とハムのサンドイッチを作っていたので、残った食パンの耳をもらう。DSC00515普通なら、油で揚げて砂糖をかけて一品にすると思うが、今回は違う。オリーブオイルに浸してから、オーブントースターでカリカリに焼き、塩をかけてスティックパンにして食べる。これで、半熟の卵の黄身をすくって食べると、パンの耳の再利用とは思えない美味さになる。

 昨日のライフセービング選手の壮行会では、選手に話掛けて、風邪をうつしてはいけないので、他の人と話していたが、メルボルンやオーストラリアに行った事がないことから、シドニーやキャンベラの話になった。幼稚園のときの担任で、国際感覚鋭いS先生からキャンベラの戦争博物館のお話を聞いた。戦争博物館がメインストリートにあるという。
 なぜ、私がシドニーに行ってみたいかというと、「シドニー海軍葬と日本の母」の話や映画化されたビデオを購入したいからである。

 大東亜戦争の緒戦。昭和17年5月31日夜、日本軍は真珠湾に続いて、オーストラリアのシドニー湾に停泊中のアメリカ海軍「重巡洋艦 シカゴ」を攻撃すべく、松尾敬宇大尉、都竹正雄二等兵曹他、4名にて特殊潜航艇三隻で潜入。魚雷で攻撃しようとしたが、砲撃を浴びるなどして二隻が沈没、一隻が不明となった。

*特殊潜航艇:
 軍港攻撃のため開発した小型潜水艦。搭乗員は2人。魚雷は2発搭載。母艦から出撃し、停泊中の敵艦を魚雷攻撃した後、外洋で待つ母艦に戻る。

 二隻のうちの一隻は、砲撃を受けたことにより、魚雷が発射不能となり、「重巡洋艦 シカゴ」に体当たりを試みたが失敗。万策尽きた松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は、責任を感じ特殊潜航艇のなかで短銃にて自決したのである。
 松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は出陣にあたって、次の歌を詠んでいる。

松尾大尉:
散りぎはの心安さよ山桜 水漬く屍と捧げ来し身は

都竹兵曹:(母にむけて)
一億の人に一億の母あれど 我が母に優る母あらめやも

 不明となった一隻は魚雷を発射したものの「重巡洋艦 シカゴ」に命中せず、オーストラリア海軍基地があるガーデンアイランドの岸壁を直撃。爆発により係留中の兵員保養船「クッタバル」が沈没し、オーストラリア海軍の兵士が21名死亡した。
 この攻撃終了後、オーストラリア海軍は、湾内で沈没した二隻を引き揚げ、日本海軍軍人の遺体を収容。そして、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は

「オーストラリアとして日本の政策に反対するが、祖国のために勇敢に戦い、死んだ人間は別である。世界の人々によって誉め讃えられなければならない。」

と海軍軍人が戦死したときの最高栄誉礼を行うことを発表したのである。
_3  昭和17年6月9日、グルード少将のほか海軍士官、スイス総領事が参列するなか、4人の日本海軍軍人(松尾敬宇大尉、他)のため、日章旗に覆われた4つの棺に、二列に整列したオーストラリア海軍の儀杖隊が「敬礼」、弔砲、そして葬送ラッパ(ザ・ラストポスト)を行うという、最高の海軍葬が執り行われた。
 オーストラリア海軍の軍人も21名亡くなっているなか、敵国となった日本の軍人の葬儀を何故行うのか!との批判もでたが、グールド少尉はこう言ったという。

 「これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このように鉄の棺桶に乗って、死地に赴くには、最高度の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか」

 火葬されたのち、遺骨は引き揚げ船「鎌倉丸」で日本の遺族の元に送り届けられた。遺骨を受け取った、松尾敬宇大尉のご両親は涙をこらえ、気丈にこう詠んだ。

 父:
 
菊地なる神の訓をひたぶるに よくぞ果せし益良雄の道
 *菊池>郷里・肥後の菊池神社の意

 母:
 君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ

 海軍葬の模様は、ラジオを通じてオーストラリア全土に放送され、感動をよんだという。放送内容に日本語直訳を付け足されたものが、靖國神社の遊就館に保管されている。

 しかし、話はこれで終わらない。
 昭和43年、松尾敬宇大尉のご母堂・まつ枝さん、当時なんと御年83歳がオーストラリアを訪問したのである。
 まつ枝さんは訪問の理由をこう語った。

 「戦時中にもかかわらず、
 
海軍葬の礼をもって弔ってくれたオーストラリアの人に、
 お礼が言いたい

_3  83歳、長時間のフライトで体の節々も痛かったであろう。まつ枝さんはオーストラリアに着き、丁寧な言葉でオーストラリアの人々に経緯と謝意を伝え、戦死した6人の名を叫びながら、シドニー湾内に郷里・熊本から持参した押し花をまいた。

 そして、次のような歌を詠んだ。

 みんなみ(南)の海の勇士に捧げやばと
        はるばる持ちこしふるさとの花

 花を追う色紙波間にみえかくれ いつか6つの霊に届かむ

 荒波の底をくぐりし勇士らを今ぞたたえめ心ゆくまで

_4  オーストラリアの現地新聞は、一面に
「勇者の母来る!」
と掲載し、歌を英訳。オーストラリア全土を感動させた。
 
この感動の物語は、昭和61年にオーストラリア国内でトニー・ウィラー氏の監督によって、映画が作られた。私はこの映画のビデオを入手したいのである

 現在、シドニー湾攻撃に使われた特殊潜航艇は、乗組員の遺品とともにオーストラリアの首都キャンベラの戦争記念館に展示されている。
 また、熊本県菊池市の菊池神社には、松尾敬宇中佐の像がある。

*写真類は名越先生の資料より転載

2006年1月24日 (火)

レスキュー2006世界大会壮行会

F1000002 6時起床。いまだ喉も痛く、熱も下がらない・・・。久しぶりの本格的な風邪である。
 8時、なるべく薬を飲まないようにしているので、朝食はネギたっぷりの納豆ごはんに韮、ネギの味噌汁で風邪の悪化対策。

DSC00494_tDSC00496_t 昨日から溜まったメールの処理で午前中は終わる。12時、マルちゃんの塩ラーメンを作り、これにもドサッと刻みネギを入れ、納豆ふりかけをたっぷりとかける。

DSC00497_t 14時過ぎ、これまで大切に飼っていたピンポン・パールの「ぎょぴちゃん」が死んでしまったので、甥っ子を連れて、大型スーパーに行く。甥っ子がソフトクリームをねだるので、DSC00499_t甥っ子にはモンブラン・ソフトクリーム、自分ではネギたこ焼きを食べる。
 新しく買ったピンポン・パールは、前の「ぎょぴちゃん」より明るい赤色で腹の膨らみ具合もいい。自宅に戻ってから水槽に入れ、他の7匹の赤い金魚、1匹の黒い出目金とともに元気に泳いでいるのを甥っ子としばらく観察。

DSC00501_t 18時30分からホテル・シーポートにて、柏崎ライフセービングチーム所属選手の壮行会。レスキュー2006世界選手権における日本ナショナルチームのメンバーとして、DSC00504_tDSC00503_t池谷薫氏、青木将展氏が選ばれたのである。
 また、インタークラブ世界大会に柏崎チームを結成して出場することにもなった。
DSC00505_tDSC00502_t 昨年は、見事!!青木克浩氏が、アジア選手権で金メダル3つを持ってきている。

DSC00506_tDSC00507_t まさに柏崎は、彼らライフセーバーの活躍で「海の安全」が守られており、かつ世界に「海の柏崎」を発信しているのである。
 体調が悪く、酒も飲めず、注いでまわる事もできなかったが、彼らにはとにかく頑張ってほしい。

 『機動戦士ガンダム』シャア・アズナブル風に

_3 「勝利の栄光を君に!」

2006年1月23日 (月)

元脚本版『男たちの大和/YAMATO』、ホリエモン逮捕

DSC00485 7時起床。いまだ熱下がらず、喉も痛いままである。本来であれば、今日は「日本再生の会」(西村議員の真意を聞くこともしたかったが・・)やチャンネル桜での打ち合わせがあったのだが、DSC00484キャンセル。外も大雪なので、良かったと言えば、良かったとも言える。
 昨夜、妹が飲み会でお土産にもらってきた地の鯛の塩焼きがあったので、鯛飯にする。11時、鯛飯、イカと大根の煮物、かき混ぜた挽き割り納豆を豆腐の味噌汁に入れて、ブランチ。さすが荒波にもまれた鯛で、ご飯もほんのりピンク色になり、身は引き締まって味わい深い。

 またも大雪は凄く、上田尻では線路で立ち往生した車に快速電車が突っ込んだという。死傷者がでなかっただけでも幸いである。

F1000003 20時過ぎ、さすがに食事を作る体力がないので、母から鶏のササミのカツ、サラダを作ってもらい、納豆ご飯で夕食。食べてながら『世界まる見え特捜部』を見ているとニュース速報。_5 「ライブドア 堀江氏逮捕」であった。企業倫理の無い企業の行き詰まりをみるようである。粉飾もさることながら、時価総額を基準にして、本当の意味での企業価値を高める努力がなかったという一言に尽きると思う。通知票の点数を高くすることはするが、本当にその点数をとるだけの実力(儲けのシステム)が追いついてこなかったとも言える。

 今日は、先日買った『月刊シナリオ』2006年1月号に掲載された、野上達雄氏による本当の『男たちの大和/YAMATO』の脚本を読んでみた。野上氏が脚本から降りた理由についての詳細は省くが、思想的な立場は別として、当時のことを当時のままに描きたい、という思いからすれば野上氏の方が正論のように思う。野上氏はこう書いている。

 「60年たった今、なすべき鎮魂は『大和』に憧れ、その乗組員であることに誇りを持ち、『出て来い、ニミッツ、マッカーサー!』と無意味に、『大和』ともども海底に沈んでいった若者(子供)たちをそのまま描くことだ。それが人間のみならず、『戦艦大和』そのものの鎮魂にもなるのだ」

 その死が無意味かどうか、また戦争がどうであるのかの思想的なものは別として、当時のことを描くのであれば、『出て来い、ニミッツ、マッカーサー!』の方が自然であろう。先日、チャンネル桜に出演された元「戦艦 大和」乗組員で艦橋にいた方も、

 「『自分たちが死んで、負けて日本が目覚める』
  なんて思うはずもない。
  ほとんどの兵は一人でも多くアメ公を倒し、
  本土に来ないよう、死を恐れずに戦ったんだ」

とおっしゃっていた。
 野上版の脚本では、他の艦では当たり前だった釣り床ではなくベット、そして冷房やエレベータが配備という、「戦艦 大和」が日本の工業技術の集大成であることも描かれている。もちろん、世界最大の46センチ主砲にしても、アッパーブリッジの防空指揮所からの指示からカットが入り、46センチ主砲、一番、二番、三番、それぞれを一斉に発射。その轟音に若い兵が驚き、不沈艦「戦艦 大和」の表現もしている。
 また、出撃前に『君が代』を全員で歌うシーンは、是非、映画に入れてほしかったところである。

 野上版脚本でも映画でも、「戦艦 大和」最後の出撃に際して、一緒に行動した艦に触れていないのが残念に感じる。当時、「戦艦 大和」以外に日本帝国海軍に残っている艦は、「軽巡洋艦 矢矧」他、駆逐艦8隻(「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」)だけ。その最後の戦力を使っての海上特攻作戦への想いは、伊藤整一中将の訓示に表れている。

聯合艦隊指令長官訓示
_3「帝國海軍部隊は、
 陸軍と協力、
 空・海・陸の全力を挙げて、
 沖縄島周辺の敵艦隊に対する
 総攻撃を決行せんとす。
 皇国の興廃は、まさに此の一挙にあり。
 ここに海上特攻隊を編成し、
 壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
 帝國海軍力をこの一戦に結集し、
 光輝ある帝國海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、
 その栄光を後世に伝へんとするに外ならず。
 各隊はその特攻隊たると否とを問はず、
 いよいよ殊死奮戦、敵艦隊を殲滅し、
 もって皇国無窮の礎を確立すべし。」

yamato 人命尊重の立場からアメリカの強大な武力に屈するか、それとも祖国の命運の前に身を鴻毛の軽きに比して殊死奮戦し、後世に伝えんとするか、の選択であった。
 本当に平和を願うのであれば、現在の「歴史を知った」視点からではなく、できる限りその当時の視点で描く方が良いのではないか、と思うのは私だけであろうか。

 伊藤整一中将は、「戦艦 大和」と運命を共にした。
 そして一人息子、伊藤叡中尉は、父の戦死の報を聞いた後、4月28日特攻機に搭乗し、沖縄に出撃し未帰還となった。

2006年1月22日 (日)

五族協和・満州と『紫禁城の黄昏』

 7時起床・・・するも喉が痛く、久々の39度の熱である。本来であれば、午前中に1件の打ち合わせをしてから東京に向かうところであったが、すべて中止。甥っ子が「おじちゃーん、あしょんでぇ~」と来たが、遊んであげる体力もないので、お菓子をあげてごまかす。

DSC00458 食欲もないので、好物の納豆ご飯、豆味噌を使った蜆の味噌汁、半熟の味付け卵という三食同じメニュー。食後は、ビタミンC(アスコルビン酸)のパウダーを多めに飲む。

 ひたすら寝ることにしたものの、昨日聞いた満州の話が気になって仕方がないので、溥儀の家庭教師であり、当時の支那学者であったイギリス人の書いた『紫禁城の黄昏』をベットで再読することにした。

 この『紫禁城の黄昏』は、実は以前に岩波文庫からも出版されている。ただ、そのときは序文から38行削除され、また第一章から第十章、第十六章が削除されている。著者の主観的な色合いが強いとの理由からであるが、原著はイギリスの左翼出版社ヴィクター・ゴランツ社(社長のゴランツは、「レフト・ブック・クラブ」主宰者)から出版されており、別段、問題があったわけではない。もちろん、満州の中枢部にいたジョンストンの主観は当時の歴史の一部であり、重要である。これは、内容が世間にそのまま流れることを気にした、日本の左翼陣営の勝手な削除。もちろん、今回の再読はハードカバーの完訳版。
 『紫禁城の黄昏』は、満州が日本の侵略で作った国ではなく、満州人の夢たる国を「清」を建国した場所に戻って、日本の力を借りて作ったということが刻々と書かれている。実際に、満州国では大臣は、満州人か清朝の家来で構成されていた。しかも、溥儀はこの本に序文を寄せている。

*満州は当時、実質的にロシアに占領されており、日露戦争で日本が勝ち、そして皇帝も望んで日本の協力で満州国ができたと書かれている。

mansyuu もちろん満州国の国旗に含められた「五族協和」、日本の大和民族 、漢民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古民族が協和する国家でもあった。
 この本のなかでは、満州事変を調査したリットン調査団の報告についても、ジョンストンは批判しており、その尤もたるところは、清朝の皇帝である溥儀を、「The Emperor of China」と支那の皇帝として認識しているところが基本的な問題と一刀両断している。
 ここまで明確に、しかもイギリス人が書いた本である。戦後、東京裁判においても、この『紫禁城の黄昏』は証拠として梅津美治郎の弁護人であったベンブルース・ブレイクニー少佐から提出されたが、著者のジョンストン(1938年没)が死んでいるため、証拠にならない、という訳の分からない理由で却下されている。
 「日本の近現代史は、満州に始まり、満州に終わる」と言われるが、日本の近現代史を語るうえで、『紫禁城の黄昏』は欠かせない文献であると思う。

2006年1月21日 (土)

号砲!「戦艦 大和」46センチ主砲

 7時起床。朝食もとらず、ブログやメールを書く。9時から打ち合わせ2件。

DSC00445 12時過ぎ、祖母も分も含めて、食パンに挽き割り納豆とトマトケチャップを混ぜたものを塗り、とろけるチーズをのっけてオーブントースターで4分。「挽き割り納豆トースト」を2枚、牛乳のブランチ。祖母は、「南京豆が入ってるんだねぇ~・・・・」のという、意味不明な感想であった。

 13時過ぎに来客。アイスなどを食べるが体が熱っぽく、風邪の初期症状のような感じである。市内で行われる講演会もいく予定ではあったが、不調のため見合わせる。

DSC00448_t 18時30分より、「割烹おくい」(電話:0257-24-6486)にて、自分の町内である東学校町の新年会に出席する。
 色々な料理がでたが、なかでも一昨日あがったという鮟鱇をつかったあん肝は舌にねっとりと絡みつくような味わいで、酒がすすむ。

DSC00452_t いつもは同世代、もしくは10歳違いぐらいの範囲の青年会メンバーとの飲み会なので、自分より30歳、40歳上の世代の町内の方の話を聞くのは貴重な時間である。
 色々と面白い話を聞けたが、今年5月には旧・満州柏崎村に行くこともあり、旧・満州・奉天で生まれた御年92歳のUさんのお話は非常に興味深かった。
DSC00455_t 世間一般では満州国は、支那人や朝鮮人を日本人がこき使い、差別し、ただの日本の傀儡国家であったと、扶桑社以外の教科書では教えられている。実際に、庶民の生活はどうであったかと言えば、民族別の差別も特段なく、食事も一緒に饅頭(マントウ)や日本式のご飯を食べたり、遊んだりしていたという。関東軍の一部兵士の横暴な振る舞いなどはあったものの、それよりは匪賊からの防衛の方が大変だったという。詳細は今後、本ブログに書いていきたい。

 2次会として、「大哲寿司」(電話:0257-23-9696)で刺身や握りをつまみ、23時過ぎに自宅に戻る。
 あまりの喉の痛さ、熱っぽさにそのままベットに入る。

 映画「男たちの大和/YAMATO」の観客動員が、1月8日で興収25億円、動員数200万人を突破したそうだ。この映画のなかでも、「戦艦 大和」が沈没するシーンは描かれているが、艦長である有賀幸作大佐が責任をとるかたちで「戦艦 大和」と一緒に海に沈むところも、是非描いてほしかったところである。

_2  敵空母6、戦艦6、その他約30隻、更に航空機延べ約400機の集中波状攻撃を受けながら、激闘2時間半。満身創痍となった「戦艦 大和」は、三千余名とともに、昭和20年4月7日14時23分、沈没した。
*写真は米軍機が撮影した爆発前最後の写真。左側に船体が傾き、普段は海面から8m以上はある舷側が、海面スレスレになっている。

 海軍兵学校76期の半本茂氏が持っていたという「戦艦 大和」が主砲9門を撃つテープを名越二荒之助先生より頂戴した。テープの収録者を含め、すべて不明とされている。(半本氏はご存じでも、神秘性をもたせるためにも、あえて不明とのこと)
 名越二荒之助先生が鳥取のある講演会でこのテープを流したとき、70歳くらいの老婆が泣き崩れ、

 「私の兄は『戦艦 大和』で戦死しました。
 今、兄の本当の叫びを
      聞くことができました・・・・・・。」

と洩らしたそうである。
 また、福井県で先生が行った講演では、前列に座っていた老齢の男性がテープを聴きながら、顔を泣きはらしており、先生がどうされたのか問うたところ、

 「私は『戦艦 大和』で出撃する直前、
 『お前は未熟だ。
 大きくなって國のために尽くせ!』
 と言われて降ろされました。
 その後、何らなすことなく、
 歳をとってしまって、
 申し訳なさで一杯です」

とお答えになったとのこと。
 実際に、まだ若かった海軍兵学校74期卒業生67名、各艦での重病患者、呉での補充した要員のうち若い者計30名余を、「生き残って、お國のために尽くせ」と伊藤中将以下の独自の判断で、出撃前に退艦させている。
 感動の「戦艦 大和」主砲発射!!」を以下に掲載する。

「戦艦大和主砲・国の鎮め」(mp3形式)

2006年1月20日 (金)

原子力発電所建設と「戦艦 大和」建造

DSC00431_t 6時起床。先週自宅にいなかった分の郵便物やFAXの処理。10時過ぎ、蜆の味噌汁を中心にブランチ。味噌汁2杯目には、小粒納豆をそのまま投入して、納豆汁にする。

 13時から打ち合わせ。電話とインターネットを使っての会議である。話し合いながらテキスト文書を打つので、議事録を改めて書く必要がなく、仕事が楽。キーボードを速く打てて当たり前の世代が、そろそろ社会にでてくる。今後、一般の会社でも、パソコンでテキストを打ちながらの会議は増えるであろう。

DSC00433_t 18時過ぎから、柏崎ベルナールで諏訪町2丁目の新年会。東部体育協会としての運動会や成年会の対抗ボウリング大会など付き合いの多い町内である。この町内は商店街として色々なイベントを仕掛けたり、知恵者の多い町内でもある。DSC00436_t亡父の友人だった方もおり、柏崎でのオーケストラ創設に関わった方や、石油産業の発祥に関係した方もいらっしゃり、まだ文章として残されていない戦後の柏崎の様子を聞くこともできた。
 また、現在の柏崎市政に対するご意見も多く、特に次の世代はどうするのか、ということが多かった。
DSC00432_tDSC00434_t 自分の息子や孫は、ドンドン旅にでている(柏崎以外に定住するの意)し、安定的に生活するためにはそれが普通だと思ってきた。DSC00441_tDSC00443_tしかし、自分がこのまま年をとり、若手が帰ってこなかったら、自分の老後はもとより、家はどうなるのか、墓は誰が守ってくれるのか、という意見が大半であった。特に中央地区は高齢化が進んでいる。
DSC00435_tDSC00442_t 3年前、選挙出馬の際にも、小学校、中学校の同級生に声をかけようと電話をしたものの、 「はぁ~、うちのは旅にでましたてぇ~」とのお返事も多く、実際に柏崎に定住している同級生は少なかった。
DSC00438_tDSC00437_t 首都圏や政令指定都市などを除き、どこの自治体でも共通の問題であろうと思うが、対策としてはとにかく「働く場」を用意するところから始まるであろう。
 福祉政策ももちろん重要だが、その原資となる収入を増やすためにも、柏崎市の営業マンたる市長にはドンドン市外にでてもらって、企業誘致のために動いて頂きたい。暴論と言われるかも知れないが、市役所内部のことは、業務の代替となる助役、収入役がいる。外部に対しての柏崎市の顔は市長のみであり、変えがきかない。十分な戦略、戦術をもって、営業活動をお願いしたいところである。

 21時過ぎ、TSUTATAで『真夜中の弥次さん、喜多さん』などをのDVDを借りて、自宅に戻る。
 早速、見始めたところ、いつの間にか眠ってしまった・・・。

 一昨日の原子力サミットでは、原子力に対して慎重派であり、日本原子力研究所にも勤務されていた中央大学教授の舘野淳氏から

 「そもそもそんなに原子力発電所はいらないのに、作ってきたという経緯があり、メーカーを食べさせるための発注と思う。」

という発言があった。しかし、原子力発電の技術、安全性をより高めるためには、発電所を継続して作るべき、というのが技術者の見解である。
 いま世界では原子力発電に再び、追い風が吹いている。
 ヨーロッパでは、昨年の2月EPR(European Pressurized Reactor:フランスが中心になって開発した新型のPWR)がフィンランドに建設が決定。アメリカも14年ぶりに、新規の原子力発電所の建設をしている。
 しかし、アメリカでは30年ほど原子力発電が停滞気味であったため、人材不足や建設のノウハウや技術が残っていないことが問題視されている。
 では、日本の場合はどうか。
 少子化や人口の減少、産業構造の変化でエネルギーの需要はあまり伸びないので、ここ数年は新規の原子力発電所を建設する必要がない。しかし、2020年から2030年にかけては、1970年代くらいから建設した原子力発電所が寿命を迎えるのである。しかも、新しい原子炉は高出力であるため、代わりとなる原子力発電所の台数も必然的に少なくなる。
 そうなると、ここまで過去30年で50基を建設したが、今後の30年は作っても数10基。建設のための技術やノウハウをもった人が定年などを迎えることもさることながら、建設の経験数が極端に少なくなるのである。
 中国をはじめとする海外での日本メーカーによる原子力発電所建設が話題になるのは、こういった意味を含んでいる。
 技術やノウハウを「盗まれないための技術」もこの機会に学ぶべきであろう。

 ちなみに、15年間、現場技術が途絶えていたはずなのに、日本はもの凄いものを造ったことがある。
_1 尾道市向島町の日立造船向島西工場に造られた、映画「男たちの大和/YAMATO」のロケセット入場者が1月15日で50万人を突破したというが、その凄いものとは「戦艦 大和」のことである。
 最後の戦艦建造から15年、戦艦建造の未経験者を主体とする技術者が「戦艦 大和」を造ったのである。15年間その仕事がなかったとすれば、主力たる経験者は定年もしくは転職などをしており、現場は代替わりをしている。そんななか、世界最大の戦艦をたった5年で造ったのである。しかも、建造自体も国家の秘匿事項。
 詳細については、今後、本ブログにちょこちょこ書いていこうと思うが、工程管理の手法、トヨタ自動車の「カイゼン」で一躍有名になった「カンバン方式」、「ブロック工法」、部品の共通化、15メートル測距儀のノウハウを引き継いでの「ニコンカメラ」など、戦後の「ものづくり大国・日本」にも繋がったのである。

 しかし、15年間というブランクは、新しい設計思想の艦に古い装備を載せることにもなり、「戦艦 大和」は構造的な欠陥を抱えることになる。
 原子力発電所の建設に、それは許されない。次世代エネルギーの登場まで、現実的なエネルギーの選択(原子力の利用)をする以上、建設は定期的に必要なのである。

2006年1月19日 (木)

第5回全国原子力発電所立地議会サミット 2日目

DSC00412  3時過ぎに就寝。ちょっと遅く7時30分過ぎに起床。朝食は、昨日と同様にホテル4Fの「ザ・テラス」でのビュッフェ。白米おかゆにザーサイ、梅干し、青ネギ、最後にカップ小粒納豆を投入。DSC00413サラダには昨日と同様、ガーリックチップ、オニオンチップをたっぷりと入れ、パルメザン・チーズとオリーブ・オイル。目玉焼きは、大きめな玉葱のなかに入れて焼かれたものだった。なかなかのアイデアと感心する。

 8時30分、会場の神戸国際会議場にバスで移動。会場で某自治体の議会事務局の方に昨日のチャンネル桜の撮影の事を皮切りに話しかけられる。
 サミット冊子に載せたコメントについて、「色々な自治体の議員のコメントが載っているが、『大東亜戦争』などと書いてあって印象に残ったし、言いたいことが分かった」とのご意見をもらった。大東亜戦争とエネルギーについて書いたので、ありがたい反応である。

「大東亜戦争終結から60年。いま改めて、その意味合いを考えますに我が国が抱えるエネルギーの問題がございます。それ故、原子力発電の担った責任は大きく、また国民全体が再認識する必要があると思っております。」

 9時30分から2日目スタート。各分科会からの報告、それに対する質疑、分科会にオブザーバーとして出席した国の担当者からのコメント、意見交換、サミット宣言の朗読・採択と続く。


第5回全国原子力発電所立地議会サミット宣言

__dsc00415はじめに
 国策に基づき、原子力発電所を立地し、あるいは、関連施設を有している全国の自治体では、国のエネルギー政策に一定の理解を示しつつも、安全と安心、地域振興、使用済み核燃料の処理・処分、防災対策、高経年化対策等の諸問題を抱え、激しい議論が展開されている。
 この度の「第5回全国原子力発電所立地議会サミット」においては、その関係自治体の議会議員及び関係者が集い、原子力発電の課題やそれぞれの地域で抱える固有の問題にうちて、真剣に議論し、意見交換を行った。
 原子力発電は、電力エネルギーの基幹として大きな役割を担っているが、既に10年が経過した「もんじゅ事故」以後も、ジェー・シー・オーの臨界事故、MOX燃料検査データ捏造、東京電力(株)の自主点検記録の虚偽報告、関西電力(株)美浜原子力発電所3号機タービン建屋での蒸気噴出事故などといった大きな事故や不正が明らかになり、国民の原子力発電に対する信頼を得るには程遠いものがある。
 また、昨年からの原子力発電を取り巻く動きとしては、浜岡原子力発電所5号機及び東通原子力発電所1号機が営業運転を開始する一方、8月に発生した宮城県沖地震では原子力発電所の耐震設計審査指針の見直しについて、原子力安全委員会が検討を進めていること、そして、プルサーマルの玄海原子力発電所での実施の国の承認(9月7日)、六ヶ所再処理工場で回収されるプルトニウムの利用計画の各電力会社の公表(1月11日)などあるが、原子力を取り巻く環境は依然として厳しい。
 難問が山積している中、我々議会人は、原子力発電に対する考えの相違はあるものの、地域住民の代表として、住民の福祉の向上と安全・安心の確立のために、今サミットで激論を展開した。国においては、真摯に受けとめていただきたい。

第一分科会
 世界のエネルギー需要は、経済成長に伴って急速に増加したが、地球環境問題は深刻な課題となっている、昨年2月16日、京都議定書が発効し、二酸化炭素排出の抑制は、現代を生きる我々が真剣に取り組むべき課題である、国は、基幹電源として原子力発電の推進を揚げている。現実問題として原子力発電は、温暖化対策に有効であるという認識を持つべきである。
 原子力発電が、将来にわたってエネルギー確保の基幹となるためには、国がしっかりイニシアチブを取って、国策として、安全の確保、地域振興、エネルギー教育に努めるとともに、電力会社に対し、原子力発電に対する信頼回復を努めるよう促すべきであるが、子供たちの教育の中に原子力教育が実現されていないという現実がある。
 原子力政策は、立地地域の将来に大きな影響を与えるものであり、その決定に当たっては、国民的議論の仕組み、国会での審議のあり方など、政策決定プロセスに国民の声が反映されるよう改めるべきである。そして原発のトラブルをはじめとする情報公開及び、報道のあり方について異論を唱える意見も述べられた。

第二分科会
 原子力発電の誘致で、立地自治体が求めるものは、安全・安心が前提という信頼に基づく原子力発電との共生であり、電源財源をバネにした地域振興である。しかし、一定の年数を経過すると発電所を誘致した効果は徐々に失われる。固定資産税とりわけ償却資産の耐用年数15年の問題や電源立地促進交付金の終了などである。
 また、電源地域産業育成事業が地元の要望にこたえ切れていないこと、メンテナンスへの地元企業の参入が進んでいないこと、核燃料税が道、県への配分であることから市町村へ直接配分すべきであるとの意見が多く述べられた。

第三分科会
 昨年10月14日に閣議決定された原子力政策大綱では、核燃料サイクル政策に基づくプルサーマル計画や中間貯蔵施設の着実な推進を行うこととしている。
 しかし、立地地域では、これらに対する理解が進んでいるとは言えない状況にあり、国が前面に出て、立地地域における安全・安心の確立と核燃料サイクル政策に対する理解が十分に得られるよう対応を求めるところである。
 また、新年度から創設される核燃料サイクル交付金については、その交付対象として、道、県のみならず、立地市町村を含めるべきであり、トップランナー方式による交付については、国策に理解を示し推進している自治体も多数あり、見直しをすべきであるとの意見が述べられた。

第四分科会
 強く語られたのは、原子力発電所を推進する資源エネルギー庁と規制機関である原子力安全・保安院は同じ経済産業省に属していることのあり方、そして高経年化炉に対する不安である。平成18年度末に30年を超える発電所は、日本原子力発電(株)敦賀発電所1号機の37年をはじめ、実に12炉を数える。地域住民が安心できる高経年化対策の確立が強く求められるところである。
 また、原子力防災訓練や実効性の問題、相次ぐ地震の発生に伴う耐震指針見直しの問題、原子力災害、テロ行為や武力攻撃に対する不安解消のための国の対策強化を求めるとともに、検査体制の更なる厳格化・国の責任の明確化などの意見が述べられた。

サミット宣言
 
本サミットは、原子力政策に賛成、反対の立場を超えて、議員同士が真剣に議論するところに意義を見出している。原子力政策の推進に当たっては、国が全責任で政策を展開するべきであるという主張は、これまでのサミットから繰り返されているところである。
 原子力政策大綱では、2030年以降も国内で発電する電力の30~40%を原子力で担うことを目指すとしているが、国はその責任を認識し原子力政策の理解を深めるべく国民への働きかけを積極的に行い原子力発電と日々対峙している立地地域の労苦が報われる社会を熱望するものである。
 以上、宣言する。


_1 来賓祝辞では、経済産業省政務官の自民党・片山さつき衆議院議員から、明日から開催される国会でも議論される「電源特別会計と石油特別会計の統合」のお話をはじめ、自民党・加納時夫参議院議員、民主党・小林正夫参議院議員、公明党・池坊保子衆議院議員、日本共産党・塩川てつや衆議院議員からの祝辞。
 池坊議員が、東海村で起きたJCO臨界事故を「JOC臨界事故」と発言するやいなや

 「JOCー?!JCOだっつーの」

*JOC:日本オリンピック委員会

との激しい野次と笑い。さすが野次に慣れた地方議員の集まりである。タイミングを心得ている。兵庫県 井戸知事代理の挨拶もあり、最後に、次期開催担当であるAブロック代表の福島県双葉町町議会議長で閉会。

F1000002  サミット終了後、カメラクルーと後片付けをして、会場を後にする。ポートライナー「市民広場前」駅から乗車。またも、一番前の車両にいき、子供のようにはしゃぎながら「三ノ宮」駅に向かう。神戸空港も2月16日に開港するそうだが、運営はやっていけるのであろうか。どう考えてもペイする可能性はない。人事ながら、ポートライナーから見える爽快な風景のなかで考えた。

DSC00421 三ノ宮から大阪に移動。コインロッカーに荷物を置き、駅周辺の百貨店、スーパーをまわり、納豆を買いまくる。30種類ほどの新製品、新ラベルになった納豆をゲット。
 ふと昼食を食べていないこと気がついたので、15時過ぎに美味いと聞いていた梅田の「めん処 なにわ家」(北区曽根崎2-7-5 電話:06-6364-5866)に行く。DSC00424「かすうどん 430円」に100円追加し、大盛りで注文。茹でおきでないうどんが特色のようで、立ち食い系のお店にしては、でてくるまでは多少時間がかかる。「かすうどん」到着。「かす」はホルモンやテッチャンの切れっ端を焼いたものだそうで、DSC00426焼いた香ばしさに、噛み締めると広がる煮た肉汁の味わいもあってなかなか良い。麺もコシがあり、濃厚な自家製だしとの絡みが丁度である。汁まで飲み干して、体があたたまったところで店をでる。

 大阪駅(15:42)からサンダーバード29号に乗り、金沢(18:27)に移動。金沢では乗り換え時間も少ないこともあり、駅周辺を活動できず素直に乗り換え。金沢(18:56)から柏崎(21:17)まで北越9号に乗り、自宅到着。

DSC00428 妹の嫁ぎ先のお義父さんが作ったという厚い海苔があった。正真正銘、米山町(鉢崎)の海の恵みである。軽く火で炙って塩をふり、それをツマミにビールを飲む。海苔をつまみに飲むのはオヤジ臭いな、と思いながらも十二分に楽しむ。23時過ぎに就寝。

2006年1月18日 (水)

第5回全国原子力発電所立地議会サミット 1日目

 3時過ぎに就寝。『わが闘争』の読破できず。6時起床、ブログを書く。

DSC00358 8時近くに朝食。ホテル4Fの「ザ・テラス」でのビュッフェ。昨日納豆を4パック以上食べたので、洋食を選択。サラダにはガーリックチップをたっぷり。ベーグルなどのパン類。ベーコンはカリカリに焼いたものではないが、これはこれでマスタードをたっぷりつけて食べる。デザートとして、ザッハ・トルテが置いてあり、朝からそんな食う人間がいるのか?と思いつつ、好奇心からか、味見がてらカプチーノとともに食べてしまった。

DSC00362_t 9時過ぎ、ポートライナーを乗り継ぎ、会場である「神戸国際会議場」へ。ポートライナーが通る景色が好きなので、あえて一番前の車両に行き、景色を楽しむ。やっていることは子供と一緒である。自分に子供がいたとしたら、一緒に楽しむであろう。

_1 会場でトイレに行ってみると、「くさい、きたない、カッコ悪い」という迷惑煙草をやめましょう的なシールが貼ってあった。自分自身は煙草は吸わないが、そこまで嫌わなくてもという感じもある。地方自治体にとっての煙草による税収は捨てがたいものがある。柏崎市でも約5億円あり、原子力財源にも匹敵する。

 チャンネル桜のカメラクルーと待ち合わせたのち、打ち合わせ。今回のサミットを「柏崎アワー」もしくはエネルギー問題を取り扱う番組で放送するためである。

DSC00364_t 昼食を食べることができず、13時、サミット副実行委員長である敦賀市議会議長による開会宣言でサミットがスタート。全国原子力立地市町村議会議長会会長である柏崎の霜田議長、実行委員長である静岡県御前崎市の柳沢議長、首長側からの来賓である全国原子力発電所所在市町村協議会会長の河瀬敦賀市長の挨拶。
 続いて、2名の講師による基調講演。原子力サミットは原子力への賛成、反対、両方の議員が集まるため、賛成派の講師、反対派の講師が選ばれる。

DSC00367_t 最初の基調講演は原子力賛成派である、東京工業大学教授の鳥井弘之氏による「原子力発電の今後」。


・これまで日経新聞におり、教授として原子力畑の大学に戻った際に大変驚いた。
 専門家として、木はよく見るが森をあまり見ていない。
 森を見る専門家が必要ではないかと思った。
・カイバブ高原のクロオジカの例:
 20世紀初頭、アメリカのアリゾナ州カイバブ高原において、ハンティングに向いている4000頭のクロオジカを増やそうと人為的に天敵を退治し、20年間で約10万頭まで増えたものの、その後、減少してしまった。
 これは、クロオジカを維持できるカイバブ高原の太陽のエネルギーフローは1万頭分はなく、それまでストックしてあったエネルギーを使ったため、ストックがなくなるとともに減ったことに起因する。現代はこのように過去が蓄積したストックのエネルギーを使っており、クロオジカと一緒ではないか。
・地球の大気を考える。
 原始地球の大気は現在の金星と同様にCO2濃度は98%。
 35億年前 光合成する微生物が誕生。太陽エネルギーを化学エネルギーに変換することがはじまり、酸素濃度が上昇、CO2濃度が減少。
 3.5億年前、現在の大気に近くなった。
 これは35億年かけて太陽の恵みを蓄積し、太陽エネルギーを化学エネルギーとして、地中に石油や石炭のなどの化石エネルギーに変換した。
・地球の気候システム
 なぜ地球の平気気温は一定か。
 それは、太陽からのエネルギー=宇宙に放出するエネルギー
 CO2が増えることは、宇宙に放出するエネルギーが減り、地球の温暖化が進む。
 大気中に水蒸気がなければ、地球の温度は数十度低い。
 わずかなCO2でどうして地球の温度は変わるのかについては、詳細なメカニズムが分かっていない。
 しかし、1950年以降、CO2濃度は31%上昇し、メタン濃度も150%上昇している。CO2の予防原則を考える必要がある。
・CO2とは、
 光合成の逆反応であり、化石燃料を燃焼すると発生する。
 生理作用として、体内のCO2濃度が一定値以下だと倦怠感、不快感、強力な血管拡張作用、血圧低下作用をもつ。
 吸気の酸素は21%、CO2は0.036%
 呼気の酸素は17%、CO2は4%
 酸素濃度が十分でも、CO2濃度が高いと人間は呼吸ができない。
 CO2が4%で人間は「あえぎ状態」になり、25%で簡単に死に至る。
 排出量が今の勢いで増加すると80年後には3%になる説もでている
・エネルギー源を考える
 1kwhあたりのCO2発生量は、
 石炭火力 975g、石油火力 742g、LNG火力 608g 太陽光 53g、原子力 22g
 温暖化防止の点では、原子力を選択する以外にない。
*太陽光は太陽電池を作る際にCO2が発生。
・CO2の固定は可能か?
 海水中固定・・・安定性?コスト?
 地球掘削後固定・・・一部で開始、量的整合性
・効率の悪い途上国は省エネの効率が悪い
・資源の量から
 石油はあと41年、 天然ガスはあと61年、石炭はあと204年、ウランはあと61年
 *資源寿命は、確認可採埋蔵量/年生産量
・<自然エネルギー>
 太陽からのエネルギー量は膨大。時間的にも無限の可能性。
 但し、単位面積、単位時間当たりは希薄
 <原子力資源>
 プルトニウムを使えば、70倍ウランを有効利用可能
 トリウムの資源量はウランより大。・安定性の観点から
 石油価格の高騰。単なる一時的な需給のアンバランスか。埋蔵量の半分説(半分を掘ると急速に落ちる)なら石油価格は高止まり
・石炭や天然ガスの価格は
 これまでの経験では石油価格と連動。石油価格が不安定になれば石炭やガスの価格も
・自然エネルギーの不安定要因
 短期的には・・・施設の稼働率に影響
 長期的には・・・世界的な大火山爆発があると日本まで天候不順
        例)1991年のピナツボ火山
         天候不順は2~3年続く場合も
        例)サンタマリア火山での飢饉など
・原子力の不安定要因
 米国の核不拡散政策が変化したら
・廃棄物の視点から
 化石燃料は気体廃棄物を垂れ流し。
 原子力は、極めて有害な高レベル放射性廃棄物
 量的には、ガラス固化体にして、金の消費量とほぼ同じ
 量が小さければ管理が容易
 自然エネルギー
 太陽電池や風車の廃棄物問題はなし。

・その他の視点から
<安全性>
 特に安全性が問われる原子力。
 慎重さが求められるが工学の本質は、リスクと利便性。
<コスト>
 石油価格の高騰で原子力は相当有利に。
 風力はコスト競争力はあるが、太陽電池は高い。
<必要面積>
 自然エネルギーは大床面積必要
 黒部流域全体で30万kW
 100万kW発電所を同じ電気料を風力で行う場合は琵琶湖のなみ
<技術的可能性>
 完成と考えれる火力。可能性があるとすれば、熱・電気変換の新技術
 完成にはほど遠い太陽電池。太陽光の15%程度しか変換できない。
 ほぼ完成状態にある軽水炉。但し、経年変化は不確実性残す(経験時間不足)。原子力全体ではまだまだ可能性あり。
・政治的観点から
<国の存立基盤としてのエネルギー>
 ある程度は国産エネルギーという状態が理想。
 原子力をのぞくと日本の輸入依存96%。原子力、特に核燃料サイクルは準国産エネルギー
<中東依存の石油>
  中国との石油確保競争を懸念
<パイプラインによるシベリア天然ガスの利用>
  パイプラインの元栓を政治的な理由で閉められる可能性あり。例はバルト3国、ウクライナ。
<核拡散問題が米国外交の基本>
  核燃料サイクルにつきまとう核拡散の心配。唯一の非核兵器国で再処理が容認された日本。もし日本がこの政治的地位を捨てた場合には?となる。
・科学技術の発展を生物進化に例える。
 生物の進化は突然変位と環境による選択。
 発明、発見、アイデアは突然変異に相当。
 社会の価値観(文化)が自然環境に相当。
 特に技術は何を実現するか価値観を内包する
 現在の技術は技術に内在する必然の姿ではない。
 単に価値観を反映した姿。社会が別の価値観を持てば、全く別の姿になる。軽水炉も同様。
・科学技術と社会は共進化する。
 科学技術成果による社会の変化(科学的知識、科学技術者の警告)、同様に社会からの影響で科学技術(価値観、倫理、情報公開)も変化する。
・研究者集団の規範と社会の規範
 プロの科学技術者集団がでてくるのは1840年頃。
 科学技術者は集団の独立性が高くなると、集団の規範が自己完結的に発展し、しだいに社会の規範と乖離する。社会や市民とはどうでもいい。多少の奇行が許されることになる。
・科学技術は、社会のどの部分と一緒に変化してきたか。
 まずは、神の存在を説くためにキリスト教と一緒に進化。次は、政治や軍事。第2次世界大戦後は、産業とともに発展。
・原子力は何処と共進化してきたか
 初期は原爆であり、軍事。レナード。
 全米の物理学者が参加。人体実験
 アイゼンハワー以降は、電力会社。
 生物は特殊な環境に適応しすぎると、環境変化で絶滅する。
 原子力は特殊な社会と共進化した。送電網があり、集中発電できる
 投資は60年で回収すればよい。利益は制度で守られている
 日本の基盤を背負うという自意識。官僚以上の官僚体質。
・これからの原子力を考える視点
 <長期的視点>
  すでにフローで暮らせる人口数を遙かに超えた人類
  安定的に養える人口まで軟着陸するか、
  少なくとも過渡期は原子力以外の方策はなし
  特殊化した原子力技術に新たな自由度を
  一般産業や地域社会との新たな共進化が必要
  日本だけを視野に入れた原子力政策からの脱皮
  世界で通用する原子力技術開発が先進国の責務では
  新しい核反応制御技術はないのか。
  大学の研究すべきテーマはもはや存在しないのか。
 <短期的視点>
  日本として原子力技術の絶滅をどう防ぐか
  原子力開発機構がどう役割を果たしていくのか
  高レベル廃棄物の処分地は決まるのか。


DSC00369_t 続いて、原子力に反対もしくは慎重であるという中央大学教授の舘野淳氏「による「原子力発電の今後」。


・日本原子力研究所に勤務していたが、手放しでの原子力賛成ではない。
 完全な反対派ではないが、自称・原子力批判派。
・諸機関における原油価格の見通し(米国エネ省資料など)を見てみると、高止まり。
・発電電力単価
 原子力:5.9円/kWh(??、高レベルの処理費など)
 天然ガス火力:6.4円/kWh
 石炭火力:6.5円/kWh
 石油火力:10.2円/kWh
 水力:13.6円/kWh
 太陽光発電:66円/kWh
 家庭用電灯単価:23.3円/kWh
・原子力の近未来
 エネルギー需要は石油がのび続けるものの、21世紀初頭は原子力を利用するであろう。
 ただし、原子力技術には未解決問題がある。
  1.巨大事故の発生(要因:応力腐食割れ他)
  2.核燃料サイクル技術
  3.軍事利用との関連
  4.地震と原発
 さらには、コンセンサス問題、信頼問題(事故隠し)、開発・維持システム(規制行政が機能しているのか否か)、資源論(高速増殖炉技術は?)がある。
・自然界におけるエネルギーのフロー
 太陽→地球(気象、海象、生物の利用)→ 宇宙への放散
 このフローを利用している限り、環境破壊はない。
 ストック(化石燃料)を大量に利用しているので、環境影響、資源枯渇などの問題が生じる。
・世界のエネルギー消費の推移
 原典:国連エネルギー統計:BP統計等による表
 行き詰まるわけではないが、現代の生活は維持できない。
 現代文明は危うい所に立っている。
・発電電力量の推移:電気事業連合会
 我が国の原発の発電容量の変遷。そもそもそんなに原子力発電所はいらないのに、作ってきたという経緯があり、メーカーを食べさせるための発注と思う。
・2001年の日本の再生可能エネルギー導入量は1.7%程度
 例)アメリカ3.5%、ドイツ 2.1%、オランダ 1.4%
・原子力発電所は高い蒸気を使えないが故に高い熱効率にできない。
 プルサーマルよりは熱効率を先に上げるべきではないか。
 軽水炉はまだまだ未熟の技術である。
・日本原子力研究所に勤務していた1980年代、当時の科学技術庁、メーカーからの圧力があり安全論争を押さえ込まれた。そのときから、軽水炉の安全性には疑問をもっていた。
・軽水炉の事故1971年から1991年を見てみると
 材料の劣化69%(うち、蒸気発生器細管破損22%、燃料破損20%、配管等応力腐食割れ 11.6%)、人為ミス9%、製作ミス8%、その他13%。
 ・・材料による事故が多くあることが、技術自体が未熟である証拠である。
・1970年代から、「米国で実績があるので安全」といって建設した初期原発を早く、廃炉にすべき。
・損傷隠しも多いが、その多くは応力腐食割れ。いまだに応力腐食割れに悩まされる軽水炉は、いまだ死に至る病におかされたままと言える。
・軽水炉の寿命はもっとよく検討すべきである。
 パーツを所々変えているので、延命できるという論理はわかるが、原子炉が設計される段階での交換、メンテナンスではない。ゆえに初期の原発は早く廃炉にすべき。
 初期投資が大きく、運転して、資金を回収したい気持ちはわかるが、本当の安全性の維持にはコストがかかることを認識すべき。
・原子力発電のメリット
 炭素循環系とは別のエネルギー発生方式
 高速増殖炉が実用化すれば資源量は50倍に増える。
 エネルギー源の多様化(化石燃料に対するバーゲニング・パワー)
・原子力発電所の問題点
 巨大事故の可能性(確率:10の-4乗~ー5乗炉/年:中小事故から拡大)があること。
 高レベル放射性廃棄物の処分方法が確立していないこと。
 プルトニウム、高濃縮ウランの核兵器への転用の
危険性があること。NPT体制の崩壊の危機。
・新(再生可能)エネルギーについて
 自然のエネルギーフローを利用しているため、
「持続可能」
広く浅く分布しているため、収集が難しい
 コストは従来電力の2~3倍(技術的改良必要)
 場所・時間による変動が大きい(配電系統へ接続できない。接続した場合には
電力の質が低下する)
 政策的推進が必要
 日本は1%未満だが、デンマークは10%ほど風力で担っている。
 日本:RPS(Renewable Portfolio Standard)法施行
・JCOの事故の意味
 町の中に「裸の」原子炉が出現
 作業者が『臨界』を知らなかった。教育、技術の空洞化
 安全審査があてにならない
 国の報告書「絶対安全からリスク認識に」
 原子力防災体制の欠陥
 科学的信念に忠実な科学者の養成が必要
・日本の核燃料サイクル
 使用済み核燃料の全量再処理
 生成したプルトニウムを使い切ってしまう(余剰プルトニウムを保持すれば核武装の疑惑を招く)
 高速増殖炉燃料、新型転換炉燃料、MOX燃料
 いずれの原則も現実には破綻している。
・ユッカマウンテンと高レベル廃棄物。
 地下水の挙動は専門者でもまったく分かっていない。
 技術的にもコンセンサスの意味でも高レベル廃棄物は問題。
・「安全を守ります」というばかりのリップサービスでは、原子力発電に未来はない。


DSC00401_t 基調講演に続いては、以下のような各分科会に分かれての議論である。

第一分科会
1.原子力教育と原子力利用
2.地球温暖化対策
3.エネルギー需給の見通し
4.原子力広報と情報公開
5.自然エネルギーと電源の多様化

第二分科会
1.原子力発電所立地による経済波及効果及び地域振興策
2.核燃料税の市町村配分と法定外普通税の創設
3.メンテナンスへの地元企業の参入
4.立地自治体における原発関連財源(償却資産を含む)の改善・確保
5.原子力関連企業の進出と雇用の確保

第三分科会
1.原子力政策大綱における核燃料サイクル政策の意義と国民理解
2.核燃料サイクル政策における国と地方の役割
3.プルサーマル及び中間貯蔵施設の必要性と安全性

第四分科会
1.防災対策(オフサイトセンター、緊急時の医療、防災訓練)
2.テロ対策を含む危機管理対策
3.高経年対策と廃炉対策
4.国の原子力規制のあり方
5.活断層と耐震設計

 原子力発電所は自衛隊が防衛すべきという主張をするため、第4分科会を選択。文科省、保安院からも国の役人がオブザーバー参加しての議論であるが、案の定、地方議員同士の議論ではなく、国への陳情大会の様相を呈してしまった。
 テロ対策まで議論することなく、昨年行った柏崎刈羽での国主導の訓練が悪い、自衛隊のヘリが訓練時に飛ばなかったなどをオブザーバー参加の役人に回答を求めて終了。本来のこのサミットの意義は、賛成、反対を超えて地方議員同士が議論することであるのだが、席のレイアウトなどを考えても国に回答を求めるような流れになってしまったのは、反省点であると思う。

DSC00402_t 18時45分から場所を新神戸オリエンタルホテルに変え、交流パーティがスタート。470名超の立食パーティで豪華な料理が並ぶ。刺身のコーナーには大きな鯛もあった。大勢なので身を食べることはできないだろうから、この頭をもらって、砂糖を聞かせた甘醤油味で兜煮にしたいところである。たぶん、その大きな目玉周辺は美味であろう。

 交流パーティでは、レポーターとして来てもらった神戸市在住、S嬢と一緒に、原子力立地市町村議会議会会長、顧問、実行委員長をはじめ、原子力への賛成派、反対派、両方のインタビューを公平に撮影。考えは違うが、快くインタビューを受けてくれた、原子力反対派の皆さんには感謝である。
 撮影が終わって一安心したときには、すでにパーティは「締め」であった。結局、何も食べられないまま、会場を後にすることになり、それでもとワインを数杯とオードブル2品ほどつまむ。自分の都合とはいえ、これで参加費は同じ・・・・。

DSC00403_t カメラクルーと分かれ、地元民であるS嬢オススメのラーメン屋に行くことにした。ホテルからS嬢とタクシーで移動し、三宮駅近くの「ラーメンたろう 三宮本店」へ。餃子2人前、ビール、S嬢は野菜ラーメン、私はオススメという「ネギぼっかけラーメン 1000円」である。DSC00404_tまずはサービス品のキムチでビール。甘めのキムチで、ビールよりはご飯のおかずといった感じである。ゆっくりと甘みを噛みしめ、ビールをウグウグ飲む。かなり腹が減り、喉も渇いているので、ひたすら美味しく感じる。餃子到着。片面はパリっと焼け、香ばしい。DSC00409_t風邪気味なので、テーブルに備え付けのおろしニンニクをたれにたっぷり入れる。明日は臭いことであろう。早速、ビールの合間に隠れてするゲップがニンニク臭たっぷり。本来の餃子にはニンニクは入らないが、ニンニクや椎茸、キャベツもしくは白菜、生姜がたっぷりと入って、肉汁があふれでるような熱い餃子が好みである。
DSC00405_tDSC00408_t 「ネギぼっかけラーメン」到着。「ぼっかけ」とは、牛筋、コンニャク等を煮込んだもので、神戸の名物。このラーメンにもたっぷりの青ネギとともに、ゴロゴロした牛筋が入っている。DSC00406_t麺は、縮れのないストレート麺。青ネギの爽やかさ、牛筋とチューシューの重厚さが楽しめた。スープと一緒に青ネギを吸い込み、シャクシャクとネギを噛みしめ、口中に含んだスープの味が変わる様は何ともいえない美味さである。

 すっかり満腹になり、その後の仕事があるS嬢と分かれ、21時過ぎにタクシーで新神戸オリエンタルホテルに戻る。
 部屋にこもって、今日の議事メモやメールをひたすら書く。

2006年1月17日 (火)

阪神・淡路大震災から11年、ヒトラーとチャンドラ・ボース

 JR三宮駅近くの漫画喫茶で、パソコンを持ち込み、仕事をしたり、仮眠をとる。

 今日はあの阪神・淡路大震災から11年が経過、12年目を迎える。阪神・淡路大震災のメモリアル行事が色々とあるようだが、新潟県中越地震で被災した長岡大手高校の生徒2名もここ神戸に来て、メモリアル行事に参加するという。
 神戸にくるといつも思うが、都市としての機能や規模が違うものの、復興のスピードにはただただ驚くばかりである。

 9時から某団体の政治研究会に参加。明らかに、イデオロギー的にはまったくの反対側に位置する団体ではあるが、勉強になればと「自営業の人間」として参加した次第である。柏崎に即適用できるような政策はなかったが、十分参考になる意見や手法を知ることができた。ただし、自治体の収入を気にすることなし、という条件がつく。

DSC00353_t  14時近く、ちょっと早いが宿泊先である新神戸オリエンタルホテルにチェックイン。シングルでの2泊の予約に対し、ラッキーなことにツインの部屋が用意されており、広く気分爽快。「オリエンタルホテル」という名称から、

デンデンデンデ デンデデンデンデン
デンデンデンデ デンデデンデンデン
デンッデンッ デンッ!

 オリエンタルホテルです、宜しくお願いします。
(リズムをとりはじめて)

「あっちゃんいつものやったげて!」
「おう、聞きたいか俺の武勇伝?」
「そのすごい武勇伝をゆったげて!」
「俺の伝説ベストテン!」
「レッツゴー!」

と独りで妄想。
 夕方まで部屋にこもって、メールでの依頼された仕事など。
 TVをつけて仕事をしていると、

「もっと、もぉぉぉとぉ~たけもっとぉ~
   ・・・ピアノ売ってちょーだい」

タケモトピアノのCM。関西に来たな感があって安心?する。

DSC00356  阪神淡路大震災記念館に行こうと思ったが、サミットの撮影の調整などがあり、タイミングを逃す。それよりも朝から何も食べていないことに気づいたので、ホテルの地下にあるスーパー(グルメ・シティ)や100円ショップで買い物。うずらの卵入りで有名な京都の高橋食品さんの「おひとつどうどすぇ」など多数の納豆、ご飯、インスタント味噌汁、100円の汁椀で食事。

 食後、ひたすら『わが闘争』を読む。小腹が減っては、味噌汁や納豆をちょくちょく食べ、『わが闘争』読破を目指す。

hh チャンドラ・ボースが初めてヒトラーに会ったのは、チャンドラ・ボースがインド内のイギリス政府から秘密裏にドイツに亡命した1942年5月29日。 
 アレクサンダー・ヴェルト著『チャンドラ・ボースの生涯』新潮社によれば、そのときこんなやりとりがあったそうである。

 「総統の書かれた『わが闘争』の第26章は、インド問題に触れて気になる所がある。総統の気持は今もそのままかどうか、直接お聞きしたい」

 ヒトラーは、肩をそびやかすだけで直接答えない。チャンドラ・ボースの指摘した箇所は、

イギリスのインド統治は動揺しているか
「イギリスは、自己の支配機構の中で人種的解体の運命をたどるか(現在のところインドでは完全に問題外であるようなことだが)、あるいは強力な敵の剣によって征服される場合にのみ、インドを失うだろう。しかし、インドの扇動者連中にはこのことは成功しないだろう。イギリスを征服することがどれほどむつかしいものであるかは、われわれドイツ人が十分体験してきた。」

『わが闘争(下)』p363-「第14章 東方路線か東方政策か」

の部分。さらにチャンドラ・ボースは、

 「インド独立に対して、ドイツ政府は支援のための声明を出して貰いたい。」

とたたみかけた。初めて会う、独裁者ヒトラーにかみつき、さらには要求をしたのである。恐るべし、チャンドラ・ボース。それに対し、ヒトラーは世界地図を指さしながら、

 「ドイツの先鋒は、リビアとコーカサスで足踏みしている。インドとはこんなに離れている声明をだしても無理であろう。」
 「私の見解では、インドが自治政府を持つには、150年はかかるであろう」

と答え、ニベもなかったという。

 ヒトラーといえば、アーリア人の優位性を説くあまりに、アジア人をかなり低くみていたが、同盟国である日本も同様であった。同じく『わが闘争』には、こうある。

「もし人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者の三種類に分けるとすれば、第一のものの代表者として、おそらくアーリア人種だけが問題となるに違いなかろう。」
「たとえば、数十年もへぬ中に、東部アジア全部の国が、その基礎は結局、われわれの場合と同様なヘレニズム精神とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式-少なくとも部分的には-だけがアジア的存在様式の特徴を身につけるだろう。日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。実際生活の基礎は、たとえ、日本文化が-内面的な区別なのだから外観ではよけいにヨーロッパ人の目に入ってくるから-生活の色彩を限定しているにしても、もはや日本的な文化はないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学、技術的労作なのである。これらの業績に基づいてのみ、東洋も一般的な人類の進歩についてゆくことができるのだ。これらは日々のパンのための闘争の基礎を作り出し、そのための武器と道具を生み出したのであって、ただ表面的な包装だけが、徐々に日本人の存在様式に調和させられたに過ぎない。
 今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくもその泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まっていくだろうが、現在の文化は硬直し、70年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。だから、今日の日本の発展がアーリア的源泉に生命を負っているとまったく同様、かつて遠い昔にもまた外国の影響と外国の精神が当時の日本文化の覚醒者であったのだ。」

『わが闘争(上)』p378-「第11章 民族と人種」

 つまり、日本は猿まねの国であり、文化創造者たるアーリア人の力なくしては民族の復興はないというのである。これに対して、当時の日本人はどうしたか、というと、名越先生も購入したという、昭和17年に興風館からでた翻訳出版『吾が闘争』(上)(下)では、第11章「民族と人種」の日本に関する項目、原書で16ページ分を自己検閲し、削除して出版している。ヒトラーにかみつく、骨のある人間は日本にいなかったのである。いくら同盟国とはいえ、言うべきことはキチッと言うべきであろう。インド、日本以外でもチャンドラ・ボースの評価が高いのは、こういった毅然とした態度にもあると思われる。

2006年1月16日 (月)

朝日新聞取材、ネタジ(偉大なる指導者)

 7時起床。すっかり体調が良くなったので、本を読みながら風呂に入り、納豆1パックで朝食。

_1 9時過ぎ、ホテルをチェックアウトし、新宿に向かう。新宿、紀伊国屋で本を物色。角川文庫版のアドルフ・ヒトラー著『わが闘争(上)』『わが闘争(下)』『続・わが闘争 生存圏と領土問題』を購入。詳細は、明日のブログに書こうと思うが、ヒトラーにチャンドラ・ボースがかみついた箇所、

_1そして日本が自己検閲した箇所を確認するための購入である。文庫を買ったのち、演劇コーナーに行き、『月刊シナリオ』2006年1月号を購入。 これは映画『男たちの大和/YAMATO』で削る前の脚本や元の脚本を書かれた野上龍雄氏のコメントがあるとのことで購入。後日、本ブログに詳細を書きたいと思う。

DSC00331_t 10時30分から朝日新聞の取材を受ける。新宿中村屋1階の喫茶で、ロイヤルミルクティーを飲みながらの取材。政治ではなく、納豆関係のことであったが、約2時間ほど話し込む。DSC00342_t途中、せっかく中村屋なのでと、ビハリ・ボースの事も記者さんに語ってしまい、引かれる。

 12時過ぎ、取材終了。記者さんはそのまま貴社されたが、私は2階のレストラン「ルパ」に上がり、昼食としてビハリ・ボース直伝のインドカリーセット2100円を注文。DSC00332_tサラダのドレッシングは「フレンチ」、食後の飲み物は「インド・ティーのアイス」をチョイス。
 じゃがいもの大きなものがゴロンと入ったカリーのなかには、骨付きのチキンもあり、持ち上げただけで骨が落ちるほど煮込んである。DSC00333_tピクルスやらっきょ、チャツネがついてくるものも嬉しい。「お好みで・・・」と一緒にだす粉チーズもアクセントには良い。見た目、油分が分離しており、ちょっと期待できないかな、と思うつつ食べてみると、DSC00335_t意外にスパイスと溶け合いがよく、ご飯も美味しい。辛味はあまり感じないが、汗が噴出した。
 紙のランチョンマットには以下のような事が書いてあった。


中村屋のカリー 恋と革命の味

DSC00337_t 大正7年、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースは亡命中の身で中村屋創始者の娘俊子との恋を成就。革命的な中村屋カリー物語の第一頁となりました。妻にカリー本来の味を伝えたい一心から、ボースはカリーの生命となる20種ものスパイスを求めて世界を巡り、苦心の末に日本で初めての純インド式カリーを昭和2年に完成。

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中村屋喫茶部開店を飾るメニューとして、日本人に衝撃的な味覚を知らせたのでした。時代を越えて、今に継承しる本当のカリーの味。ボースのロマンの香りも一緒にお味わいください。
 カリーの食後にインドティーがぴったりです。


 食後、某大学生と待ち合わせをし、納豆に関するラベルのコピーや資料などを渡す。1年かけてマーケティングの研究をしてみたいそうで、商品としての納豆を対象に選んだという、「将来が期待できる若者」である。立派な納豆野郎に育つことを願う。

 15時過ぎ、チャンネル桜に遊びに行く。田形先生もちょうどいらっしゃり、二人のボースのことや支那事変当時の現地の生活、庶民の戦争感など色々とお話を伺った。
 田形先生は当時、軍人であるため、坊主頭。軍服を脱いで、町の銭湯に行っても軍人とすぐ分かる。銭湯では、(年齢の関係から戦場に行けない)50歳過ぎの熟年層に、

 「情けない戦い方するな。
 そんな事やってると、
 俺たちが(戦場に)出て、やってくるぞ。
 早くアメ公蹴散らせ!」

というような事をよく言われたそうである。それも一人や二人ではなく、多くの熟年層、しかも日露戦争を経験している人もおり、真剣な眼差しで言われたそうで、敗戦した途端、「戦時中から戦争には反対だった。軍人は人殺しだ」と言う人が増えて驚いたそうである。
 先生もまだ映画『男たちの大和/YAMATO』をご覧になっていないとのことだったので、「是非、ご覧になったあとにはご感想をお教えください」とお願いした。

DSC00348_t 17時、新宿に戻り、『TVチャンピオン』B級グルメ王ご用達の「かのや 新宿西口店」(東京都新宿区西新宿1-16-11 )で、「コロッケうどん 380円」「生卵 60円」で夕食。「コロッケそば」「コロッケうどん」などのコロッケ系は天ぷら系に比べ市民?権は低いようだが、つゆに衣やジャガイモが溶けこんだときの「モロモロ」感は天ぷらより上だと思う。コロッケが別の皿に盛られてきたので、コロッケをのせる前にDSC00350_tDSC00351_t持ち込んだ納豆を投入。しかし、ここは立ち食いソバ系の店内の雰囲気。すぐ隣にいた中年男性に露骨にイヤな顔と咳払いをされてしまった。満腹になった後、神戸に移動。 

c  インド独立のヒーローとして、現在の教科書に扱われることがあるのは、主に「偉大なる魂」マハトマ・ガンジーとネール首相であろう。ネール首相は、マハトマ・ガンジーの弟子であり、無抵抗主義。インド独立はまったく無血、武力闘争なしにできたと思ってしまう人が多いのはこの取り上げ方によるであろう。もちろん、国父たるマハトマ・ガンジーは偉大であり、インドの精神にもなっているが、実際に「行動と武力と積極性」をもって独立に邁進したのが、「偉大な指導者」(ネタジ)と言われる、チャンドラ・ボース(1897年~1945年)である。
軍事力なくして独立はできないと、インド国民軍(INA)を創設、日本とともにインパール作戦を戦っている。
gc チャンドラ・ボースも、最初はガンジー同じ国民会議派にいた。33歳でカルカッタ市長となり、その後41歳のとき、ガンジーより直接会議派議長を託されている。(写真:ガンジーは28歳年下のチャンドラ・ボースに託した)
nn ガンジーの直系であり、国民会議派ネールもチャンドラ・ボースと比較されることは多いが、インド国内での評価は圧倒的にチャンドラ・ボースであるという。
 イギリスの植民地であったインドを独立させるため、ドイツに亡命。その後、日本へ協力を求め、インパール作戦、大東亜会議での演説、事故死と数奇な運命をたどる。今後、本ブログでチャンドラ・ボースと日本の関係を書いていこうと思う。

2006年1月15日 (日)

番組収録:名越塾インド編

DSC00313_t

 1時就寝。6時、起床。二日酔いなのか風邪なのか分からないが、とにかく頭が痛い。ホテルの近くで、頭痛薬と朝食を購入する。あったかい「春雨 海鮮」(中国産で少し不安)で朝食にし、布団をかぶって二度寝。9時過ぎに起き、シャワーを浴びて、渋谷に向かう。

DSC00314_t 今日は、チャンネル桜の名物番組『世界に開かれた日本近現代史』の収録で、テーマは「チャンドラ・ボースと日本 -インド独立に果した日本の役割-」(仮)、講師は名越二荒之助先生である。生徒役は地方議員のみであるが、せっかくの機会なので、O嬢も誘って待ち合わせ。O嬢から日露戦争、日本海海戦までの過程も描かれた「戦艦 三笠」カレンダーをもらう。一度、チャンネル桜のスタジオに行くものの、暗いようなので、スターバックスに行き、キャラメル・マキアート(S)で休憩。再度、チャンネル桜にいくと、すでに打ち合わせが始まっていた・・・・。

 今日の参加メンバーは、東京都杉並区からお約束の松浦芳子議員、自民党・梅田久恵議員、自民党・井口かづ子議員、民主党・田中朝子議員。東京都東大和市の関野たかなり議員、神奈川県藤沢市の三野由美子議員、千葉県松戸市の桜井秀三議員、東京都豊島区の本橋ひろたか議員、飲み仲間でもある東京都武蔵村山市の天目石要一郎議員、O嬢、そして私である。

 1時間番組を3本収録。午前中の1本目は以下のような内容で行われた。


・チャンドラ・ボースの魅力
  青年の心をとらえるダイナミズム。
  日本人離れ、そしてインド人離れしたスプリング・タイガー
 a.日本と価値観を同じくするインドは親日
 b.人口9億人のポテンシャル
 c.バグラディッシュの英雄
    タゴール、チャンドラ・ボース、パール判事
 *ベンガルの(=バングラ)国(=デシュ)

 1.杉並区の蓮光寺に眠るC・ボース
   遺言は黄金の厨子の中に
   ラグクリシュナン、ネール、ガンジーの祈念碑と胸像

 2.昭和58年、名越先生のインド訪問時
         (インディラ・ガンジー時代)
   レッドフォートを睨んで立つ
      INA(インド国民軍)の群像
 3.インド独立50周年
   C・ボース生誕100周年(1997年、平成9年)
   代々木公園で開催された「インドの夕べ」(8月1日)
   グランナース・レイキ最高裁判事の挨拶で、
   インドから見た日本の代表的人物として、
   以下の人物を挙げた。
   聖徳太子、北条時宗、岡倉天心、東郷平八郎、
   そして東條英機。

   その後、インパール作戦とインド独立を語った。

 4.C・ボース 1941年1月17日 インド脱走
   1942年5月29日 ヒトラーとの対話、そして日本へ
    東京到着 1943年5月16日
    カルカッタ上陸作戦を提案


DSC00315_tDSC00316_t 1本目を収録したところで、昼食休憩。近くの「こどもの城」(アンファン・ひさご 電話:03-3797-5693)にてロースカツAセット、コーヒー付を注文。特にこれといったものはなく、ただ腹を膨らませた感じであった。

 午後からは2本目の収録。昼食後の眠気が襲ってくることはまったくなく、面白い名越節が光った。


2本目「インド国民軍とインパール作戦」

 1.C・ボースを支援した人
  a.インド人
   ア.ビハリ・ボース(1886-1945)
     来日して、IIL(インド独立連盟)を結成。
     相馬俊子と結婚、長男は沖縄で戦死。
     多磨霊園に墓があり、カルカッタに全身像がある。
   イ.グプタ
   ウ.プラタップ
     小平市で愛の宗教(万教帰一)、
     釈迦、キリスト、マホメット、明治天皇
     を唱えた。終戦後、一時帰国して国会議員となり、
     日本にこそ賠償金を払うべきと逆賠償を説いた。
     1981年逝去、93歳。
  b.日本人
   ア.藤原光市(F機関)。通訳の国塚中尉。
     F機関13名で5万人のインド人捕虜を組織。
   イ.大東亜会議
   ウ.東條英機参謀総長の命令
 2.インパール作戦
 3.インド国民軍進軍歌「行け行けデリーへ」を聞く。
   日本語版は、小関裕而
   ビハリからチャンドラへの移譲式典の模様を聞く。


 名越先生に言わせれば、日本の初戦における快勝で誰もが勝ち気分になっており、学徒出陣も遅過ぎるというのである。

 「まぁ~、日本は勝てる!ゆうて、
  のんべんたらりとしとったですわぁなぁ~」

 アメリカは、真珠湾攻撃後、すぐに大学生なども志願して戦場にでてきており、日本より一年早く学徒出陣をしている。名越先生より1歳年下にあたるアメリカのブッシュ現大統領のお父さん<パパ>、ブッシュ元大統領は19歳で志願し、爆撃機に搭乗している。
 学徒出陣が良いか悪いかは別としても、国力で勝っている上に学徒も志願して戦場にでてくるような雰囲気、世論があったアメリカに対しての日本はお粗末の感がある。


3本目「C・ボースの最期とインドの独立」

1.インパールの勇戦
  マウントバッテンの驚き
2.台北におけるC・ボースの最期
3.英国によるINA裁判と全国民による反対運動
  1945年11月5日開始、1946年1月4日釈放
4.反対運動の盛り上がりとインド独立。1948年8月15日。
  各地に建てられたC・ボースの像
5.平成3年4月、「コヒマに咲く」日英友情の花。
  カルカッタに生きるC・ボース
6.ロトパチン村にあるもの。
  アジア唯一の地元民によって建てられた日本人慰霊塔。
  レッドヒルの麓(2926高地)
7.マパオで今も歌われている「日本兵士を讃える歌」

*『日本の歴史事典』ではC・ボースは連合国軍に降伏したこと
  になっているが、実際はしていない。
*ガンジーとネール、そしてC・ボースの比較評価


palauDSC00317_t  収録後、名越先生から参加者にパラオの国旗が配られた。日本、バングラデッシュの国旗とともに、日の丸三兄弟である。
 近くの喫茶店で、名越先生のお話を聞きながら、カフェ・オレを飲む。先生は見てみたいと思われているものの、まだ映画『男たちの大和/YAMATO』をご覧になっていないとのこと。
 第2次世界大戦におけるチョーA級戦犯は、資本主義の国同士で消耗戦をやらせ、最後に共産主義の国になるよう、かっさらったスターリンであり、チョー戦争犯罪者はルーズベルト、トルーマンだと主張してやまない先生だけに、感想を是非、番組で発言してもらい、お聞きしたいとお願いした。

DSC00321_t お腹がすいたものの、頭痛もひどく、独りで夕食を食べるのも何なので、O嬢にお付き合いいただき、JR大塚駅近くの「お好み焼 てな」にて、もんじゃ、たこ焼きと生ビール。月島に行って食べるときもそうだが、もんじゃの具で納豆を除いて一番好きなコンビネーションは、「明太子、モチ、チーズ、ベビースター」である。O嬢もまったく同じとのことで、盛り上がるが、若手芸人・サワー沢口の「仲間にはげまされながらリアルに吐く人」というネタ

 「1次会のゲロ・・・オロロロロッロロオオオ、
  2次会のゲロ・・・オホホロオロ、大丈夫だから・・
  3次会のゲロ・・・オロロ(もう出るものがない)、ハァハァ」

をやり、ドン引きされてしまった。
DSC00324_t 鉄板の横にたこ焼き器が埋め込んであったので、思わず注文した、たこ焼き。まずドロドロの生地を各穴に流しこんで、そこにゆで蛸を投入。続いて、天かす、刻んだ紅しょうが、刻みねぎ、隠し味に醤油である。
DSC00325_t たこ焼き器でたこ焼きを作るのは初めての経験。アイスピックのような器具でクルクルとたこ焼きをまわしていたら、途端に楽しくなり、頭痛を忘れる。処女作にしては、それなりの形のたこ焼きが出来上がって満足であった。
 牡蠣バター焼き、ミノのニンニク焼きを食べて、店をでる。

DSC00330_t なにげなく古本屋さんに入ったところ、ハードカバーの中古本が500円均一になっていたので、持っている本もあったが、つい購入。
 O嬢と駅で別れ、大塚ステーションホテルに戻り、ベットに入って読みふける。スーパーで納豆3パック、風邪薬を買っていたので、納豆1パックを食べ、薬を飲み、23時過ぎに就寝。

2006年1月14日 (土)

皇室典範改悪阻止国民総決起集会

DSC00304_t 3時過ぎ就寝。8時起床。N嬢が長岡駅まで送ってくれたので助かった。長岡駅で野菜サンドイッチ、筋子のおにぎり、カフェラテを購入し、新幹線のなかで朝食。「サンドイッチ」なのか、「サンドウィッチ」なのか、くだらない事で悩む。

 新幹線で浦佐、越後湯沢と通り抜け、群馬にいくまでの間、まざまざと気象の違いを感じた。
 合併前までの旧柏崎市では、海が近いこともあり、基本的には雪がそんなに降らなかったが、今回の大雪は別。海岸あたりでも30cmは軽くある。しかも湿気を含んでいて、雪が重たい。
 また、昨年の合併により旧・高柳町が入ったことで、豪雪地域をもつ自治体となった。高柳町ではゆうに3mを超えている。「柏崎はいいねー雪降らなくて」という市外の人は多いが、その認識もいずれ変わるであろう。

 11時過ぎ、東京駅に到着。大きな荷物をコインロッカーに入れ、日比谷公園まで歩く。天候が悪くなってきたので、心配になりつつも12時ごろ会場である野音に到着。

DSC00307_t 今日は、皇室典範改悪阻止のための国民総決起集会。有志による温かい豚汁や化学カイロの差し入れもあったが、とにかく寒い。他の地方議員も何人か参加予定であったものの、最初にいたのは杉並区の松浦芳子議員と私だけだったので、とりあえず二人でご挨拶。その後、地方議員も集まりだし、会場もほぼ満席になったところで集会の本格的なスタート。弁士は、以下の強力な(濃いぃ?)メンバーであった。(敬称略)

 井尻千男、伊藤哲夫、伊藤玲子、遠藤浩一、大高未貴、小田村四郎、加瀬英明、河内屋蒼湖堂、小堀桂一郎、田久保忠衛、中西輝政、名越二荒之助、西尾幹ニ、西村幸祐、荻野貞樹、平田文昭、宮崎正弘、三輪和雄、百地章、八木秀次、渡部昇一

 最後は弁士、地方議員ともに壇上にあがり、声明文を発表。田形先生による萬歳三唱で締めくくった。
DSC00311_t 集会終了後は、大雨のなかデモ行進。傘をもっていかなかったので、そのまま歩きはじめたら、交通整理の警察官の方に「大丈夫ですか?風邪に気をつけて下さいよ」と気遣いの言葉を頂戴する。
 公安か、反対側の陣営なのか不明だが、写真を盛んにとってチェックしている人がいたので、100万ペソ?の笑顔でピース。平和を愛してやまない男でございます、ともアピール。
 1500名を超える日本の国体護持を願う人々とともに、雨のなかデモ行進は迫力十分、見応えたっぷりであった。この模様は、チャンネル桜において、以下の日程で放送される。

・平成18年1月16日(月)~20日(金) 20時~22時 
  「報道ワイド日本」内にて連日放送予定

・平成18年1月21日(土)   21時~24時
  「日本よ、今...」にて     3時間一挙放送

 寒い冬雨のなか、これだけ多くの人が集まり、日本の国柄を思っていることを小泉首相をはじめ、女系天皇容認の皆さんによく考えて頂きたい。

 17時過ぎ、大塚ステーションホテルに到着。このホテルは無線LANが使えるので、仕事もできそうと思っていたが、知人からの電話があり、某立ち飲み屋にて「飲み飲み」に。知人も6年前に会社を立ち上げ、サラリーマンから経営者へ転身したが、色々と悩みはあるようで、今は他人と一緒に仕事をすることに不安があるという。愚痴を聞きながらの酒となった。暗い酒だからなのか、デモで冷たい雨にうたれたからなのか、熱がある感じがする。

2006年1月13日 (金)

新宿・中村屋のカレーとビハリ・ボース

DSC00297 1時就寝。5時起床。インドと日本の関係について、webサイトを作るため、日印関係の資料をあさる。資料を整理しつつ、ネタをブログにまとめる。8時、大粒納豆、麩、三つ葉、ネギたっぷりの味噌汁2杯とおにぎりで朝食。

12時過ぎまで某団体と一緒にボランティア活動。汗だくである。活動終了後に肉まん、ピザまん、牛乳で昼食。

DSC00299_t 13時、印刷屋さんで打ち合わせと雑談。13時30分から会派の勉強会。東京電力さんとの意見交換である。
 先日、各社のプルトニウム利用計画が発表され、東京電力分の利用計画はどこの発電所で使うかは明記されなかった。その件も含め、来週の原子力サミットの予習ということで、勉強会を実施した。
 現時点でもプルトニウムは原子炉のなかで燃えているうえ、日本は基本的に核兵器などに転用可能なプルトニウムは余剰に保持しないということが、なかなか理解されないこともあり、プルサーマルの利用は進んでいない。住民感情からしても、柏崎の場合には、かなり白熱しつつも議会で承認されたが、東京電力自体の不祥事によってプルサーマルが凍結、感情的なしこりになっている。
 結局、技術的な意見交換より、東京電力側の住民に対する意識や信頼回復の話がメインになった。

 17時、帰宅。書類の整理と頼まれていたDVDの作成。VHSビデオからDVDのコピーを頼まれることが多いが、チャプターをきったり、メニューを作るのに多少の時間がかかる。

DSC00300_tDSC00301_t 20時30分、干し納豆でダシをとった根菜類たっぷりの豚汁(最後にまた干し納豆をのせ、さらには大徳寺納豆も風味付けに投入)、まぐろやサーモン、ブリの刺身の切れ端が入ったパックを買ったので、それに山芋をすってかけた「山かけ」で夕食。食後は。ひたすらブログやメール、掲示板への書き込み。明日から6日間も自宅には戻らないので、できる限りのことは片付ける。

_3  インド独立には、多くのインド独立の志士たちがいたが、なかでも重要な動きをしたのが、『二人のボース』ビハリ・ボースとチャンドラ・ボースである。
 今回はビハリ・ボースについて、日本との関係を書いてみたいと思う。
 ビハリ・ボースは、「偉大なる魂」ガンジーや、ネールが主導したインドの中心的な政党・国民会議派のなかでも急進派であり、武力による闘争を主張してきた。
 イギリスの植民地であった1914年、1915年に独立運動のための反乱を起こすが、密告により失敗。日本に亡命する。
_6  日本国内では、大アジア主義を唱えた福岡の「玄洋社」頭山満をはじめ、中村屋の創始者・相馬愛蔵に匿われ、同じく日本に来ていた孫文らと親交を深めるとともに、「インド独立連盟」(IIL)を設立。
*写真:右から犬養首相、ビハリ・ボース、頭山満、内田良平
 当時、日本はイギリスとの日英同盟を結んでいるため、IILの設立には好意的ではなかったが、中村屋の店員たちはこう言ったという。

 「政府は見殺しにするが、我々は保護する!」

と決死の覚悟でビハリ・ボースらを守ったのである。
 この好意に感動したビハリ・ボースは1927年(昭和2年)、「純印度式カリー」を中村屋で紹介した。これが、現在も続いている「新宿中村屋」名物のカレーである。
 そして、1941年(昭和16年)12月8日、大東亜戦争開戦。
*プレイボタンを押すと始まります。


*Windows Media Playerは無料でダウンロードできます。

大東亜戦争終結ノ詔書


との開戦の報を聞いたビハリ・ボースはこう思ったという。

「これでインド独立の夢がかなう!」

 当時、インド独立のため活動をしながらも、政治的な関係でドイツに亡命していたチャンドラ・ボース。彼こそ次のインド独立活動の中心をなすと見込んだビハリ・ボースは、1942年(昭和17年)、日本政府に対しチャンドラ・ボースを日本に呼ぶことを要望。1943年(昭和18年)5月に実現。二人のボースの会談により、IILをチャンドラ・ボースに全権委譲することが決定。ビハリ・ボースもインド独立のため、引き続き努力するものの、インド独立をみることなく、昭和20年1月21日、東京でこの世を去った。
 お墓は東京都府中市の多磨霊園にある。
 3年に一度は、尊敬してやまない新渡戸稲造先生のお墓をお参りに行っているので、次回はビハリ・ボースのお墓もお参りしたいと思う。
 ビハリ・ボースは、中村屋の娘と結婚し、日本に帰化しているが、その一人息子である正秀は、大東亜戦争の沖縄戦において、本土防衛を願いながらも戦死。靖國神社に祀られている。

india 大東亜戦争終戦後、インドのネール首相来日の際、ビハリ・ボースの亡命生活を手助けした者のなかの生存者である、葛生能久、大川周明に使者がきた。ともに、戦犯とされており、特に大川周明は、A級戦犯として起訴されていたが、ネール首相から「インド国民の感謝と謝意」の敬意を表されている。

a*大川周明は、東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人。水色のパジャマ、素足に下駄で出廷し、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後から「ペコン」と叩いたり、突然ドイツ語で「インデアンス、コメンジー」(インド人よ来たれ!)と奇声を発した人物。

 田形先生はビハリ・ボースとも親交があり、当時のお話については、チャンネル桜のBBライブラリーに収録されている。田形先生は、現在、生存している戦争経験者のなかで多分、唯一であろう「二人のボース」に直接会った人間である。
 ビハリ・ボースに導かれるように、二人でチャンドラ・ボースの部屋を訪れ、チャンドラ・ボースから

 「一緒にアジアのために戦おう」

と握手を求められ、自然に涙がでたそうである。ビハリ・ボースからは、インド独立後は、インド空軍の創設、パイロット養成のためにインドに来てくれとまで言われている。

 また、ビハリ・ボースは支那事変勃発の際にこう主張していたという。

 「支那事変は、アジア人同士の内乱であり、元凶はイギリスにある。日本も支那も孫文の大亜細亜主義に目覚めよ。日本は支那に向けている矛先をイギリスに向けよ。そうすれば、インドのみならず、全アジアが裁ち上がる」

 大東亜戦争の意義、日本の戦地拡大路線を思うに考えさせられる主張である。

<次回はチャンドラ・ボース>

2006年1月12日 (木)

岡倉天心とタゴール

DSC00293_t 2時就寝。7時起床。除雪ボランティアに行くこともあり、キャベツと小粒納豆の味噌汁を2杯かっこんで、8時に家をでる。市内某所にて除雪ボランティア。

 12時過ぎ、カツ丼の昼食をいただくが、久しぶりに重い雪を何回も持ち上げたので、箸を何回か落とす。昼食を食べながら、14日に皇室典範の早急な改定に反対する集会に行くことを話すと、おじいちゃん、おばあちゃんが興味をもってくれた。てっきり、土曜日も雪かきに来いという雰囲気かと思ったら、土日は暖かくなる予報だし、そっち(皇室典範)の方が大切と言ってくれた。心強い限りである。女系天皇と女性天皇の違い、そして種を残すということも理解してくれた。

DSC00294 17時まで作業したあと、一回自宅に戻り、19時からの柏崎青年会議所の委員会活動に参加。21時過ぎに自宅に戻り、鳥皮のたれ焼き、近所の肉屋さんの叉焼、さっと茹でたキャベツとパプリカ、育てたスプラウトで作ったサラダ、ビールで夕食。キャベツをはじめとする野菜の値段が高くなっているので、一番コストが高いのがサラダということなる。DSC00296 シメは、干し納豆を多く入れた納豆茶漬けである。永谷園「お茶漬け海苔」を湯通しした冷ご飯にかけ、干し納豆をのせたところに沸騰したお湯を万遍なくかける。干し納豆がそろそろムレたかな?ということろで一気にかっ込むのである。たまに喉の変なところに米つぶが入り、ムセるのが玉にキズ。

 4月にインド、5月に満州に行くので、しばらくの間、本ブログでは、インド、満州、大東亜戦争、そして今だ客足の絶えない映画『男たちの大和/YAMATO』に鑑み、「戦艦 大和」について書きたいと思う。

_2  アジア人初のノーベル文学賞を受賞したのは、インド(ベンガル)の詩人タゴール。彼はインド国家の作詞者でもある。
 そのタゴールと接し、アジアの精神を考えるに互いに影響しあった日本人がいた。何を隠そう、思想家でもあった、あの岡倉天心である。
 岡倉天心は、1905年の日露戦争を前後に英語で『東洋の理想-特に日本の美術に関して』『日本の覚醒』『茶の本』を書き、英語圏の知識人のなかでも知られた存在であった。
 1902年、天心40歳のときにインドを訪問。イギリス支配下に苦しむ民衆の姿などを目撃するとともに、タゴールとの出会いがあった。天心はタゴール家に10ヶ月間滞在。ヨーロッパの栄光がアジアの屈辱の上に成り立っている時代において、アジア文化圏内の表面上の大きな違いを認めつつ、その根底を貫く精神文化の共通性などを様々なことが議論した。その時の影響を、タゴールは講演『東洋と日本の使命』で以下のように述べている。

「幾年か前のことです。わたしは日本の国から来た一人の偉大な独創的な人物に接したときに、真の日本に出会いました。・・東方の声がこの人から、わたしどもの国の若い人々に伝えられました。これは意義深い事件であり、わたし自身の生涯の中の、記念すべき出来事でありました。彼は東洋の真価にふきわしい人間の精神に雄大な表現を与えることを生涯の使命とするように、青年たちに要求しました。」

 天心は自身が提唱した「アジアは一つである」という思想についても、タゴールと議論を深め、インド滞在中に『東洋の理想』を脱稿した。その『東洋の理想』にはこうある。

「アジアは一つだ。ヒマラヤ山脈は二つの強力な文明-孔子の共同主義の支那文明と、ヴューダの個人主義の印度文明とを、ただこれを強調せんがために分つ。しかしながら、この雪の障壁を以ってしても、あの究極と普遍とに対する広い愛の拡がりを、ただの一時も遮ることは出来ないのだ。この愛こそは、彼等に世界のすべての大宗教を生み出すことを得させたものなのだ。そして、彼等を、地中海やバルト海の諸民族-特殊に留意することを好み、生活の目的ではなしに手段を探求することを好むところのこれらの諸民族-から区別する所以のものだ。」

 簡単に言ってしまえば、人生の手段にエネルギーを注ぐヨーロッパ文明に対し、アジア文明は人生の目的やその意味の探求に力を注ぐという。その点において、表面上共同主義と個人主義のように分かれているように見えるアジア文化には共通性があり、アジアは一つであるというのである。
 天心は帰国後、弟子の横山大観、下村観山、菱田春草をインドに送る。タゴールは1913年にノーベル文学賞を受賞したのち、1916年6月に日本を訪れる。来日したタゴールの講演を聞いた、ときの内閣総理大臣・大隈重信はその「アジアの精神」に涙したと言う。_2タゴールは台東区池之端の横山大観邸や横浜の原富太郎邸三渓園、そして軽井沢に3カ月間滞在したが、特に軽井沢がお気に入りだったという。その関係から、現在も軽井沢にタゴールの胸像がある。
 翌年の1917年にも来日、1924年(大正13年)に、来日した際、アジア文化を低いものと見て、ヨーロッパ文化を模様しはじめた日本を警告する講演を行い、詩人野口米次郎と論争。_6後のインド独立の志士ビハリ・ボースとともに上野で写した写真も残っている。
 タゴールは1929年に2度来日。インド独立の動きを見つつ、1941年に死去した・・・・・・。

<次回はビハリ・ボース>

2006年1月11日 (水)

豆腐、日本への伝来

 1時帰宅。かなり酒が入っていたが、体中が煙草臭いので風呂に入り、ホテルにて3時就寝。
 6時から経営者モーニングセミナーであったが、柏崎に戻ってこれず。

DSC00287_tDSC00290_t 8時起床。9時過ぎ自宅に戻る。三重県鳥羽市で買ってきた牡蠣、人参、牛蒡、伊勢醤油を使っての牡蠣ご飯、自家製の白菜とゆずの浅漬け、鰺のあらと小粒納豆の味噌汁で朝食。寒いので、味噌汁には七味唐辛子をたっぷりとふった。

 14日からの出張に向けて、各種の手続きや会社関係の手続きをするため、昼食を取る間もなく、歩き回る。

 15時から事務所での来客相談。明日、一緒に除雪ボランティアに行こうと約束する。

DSC00291_tDSC00292_t 新規事業の資料作成をし、21時に夕食。妹と母親で作った餃子があったので、焼いて食べることにした。中に入れる餡も皮も何枚か残っていたので、引き割り納豆と冷凍しておいたコンソメスープも削って、餡とともに包み、納豆餃子も作ってみた。なかなかの出来栄えと思ったが、ジューシーさをだそうとしたコンソメスープとの相性がイマイチ。本来ならラードかもっと脂気のあるスープの煮ごこりなどを入れると良いのだろう。

 食後もひたすら資料を作成。4月の地方議員団によるインド訪問のための資料やwebサイトの材料を作成する。

 納豆に関する質問のメールを多くもらうなかで、豆腐に関する質問があった。豆腐と納豆とどちらが古いか、ということである。日本だけではなく、支那大陸も入れてであれば、豆腐の方が古い。日本国内ではどうかといえば、分かっていない部分がある。
 日本にある文献のなかで、初めて「豆腐」を意味する言葉がでてくる文献は、平安時代後期の寿永2年(1183年)正月2日、春日若宮の神主・中臣祐重の日記であり、正月の奉献御菜種のうち

 『春近唐符一種』

と書いてある。現在の奈良春日大社にその日記が保存されているとのことだ。
_1  また、鎌倉時代後半の弘安3年(1280年)の日蓮の手紙には

 『すり豆腐』

という文字がでてくるので、その時代には既に豆腐は精進料理には無くてはならないものであったと容易に予想できる。
*写真は江戸時代に大ベストセラーとなった豆腐のレシピ本『豆腐百珍』
 対して「納豆」の文字が歴史上最初にでてくる文献は、平安時代の中期に藤原明衡(あきひら 989-1066)が当時の風俗や食生活を含めて書いた『新猿楽記』である。
 「納豆」の文字が、大徳寺納豆のような塩辛納豆なのか、一般的な糸を引く糸引き納豆なのかが判別できないので確実ではないものの、豆腐と納豆、どちらが先に一般に普及したのか、歴史ロマンは広がる。

2006年1月10日 (火)

ミャンマー(ビルマ)独立と『軍艦マーチ』

 1時就寝。6時起床し、事務所の積み上がった書類を整理。新規事業の資料の作成にも没頭し、13時過ぎに。

DSC00282DSC00284 知人が飼っている鶏が生んだという、濃厚な地卵を使って、スペシャル挽き割り納豆丼。ネギたっぷりの味噌汁と鮭の粕漬け、たらこで楽しむ。

 午後からは来客が多く、お茶やお菓子を一緒に食べる。1歳にも満たない女の子の赤ちゃんを抱かせてもらったり貴重な時間でもあった。DSC00278_1せっかく事務所に来てもらったので、面白いものを食べてもらおうと、アイス「手造り かに」(ミッシュハウス株式会社 北海道札幌市中央区伏見2丁目2-20 電話:011-552-5531)をだすが、磯臭く、蟹の身と濃厚なバニラがまったくかみ合っていないと不評であった。

 17時から柏崎青年会議所の委員会活動。

 19時、一度帰宅し、書類整理などを行ったのち、某団体の新年会のため、再度、家をでる。 

 元旦のブログに『軍艦マーチ』をアップし、マーチングバンドパレードでの演奏という妄想?を書いたが、そんな事をしたら柏崎に来ているアジアの留学生もイヤがるとのご批判を昨日のコンサート会場で頂戴した。
 柏崎には、中国、モンゴル、韓国、スリランカ*ジャワルダナ大統領について>などのアジア各国からの留学生がいる。留学生の皆さんには、とにかくよく勉強して頂き、日本の学生との交流をもって、新しいアジアの新時代を築いてほしいと願うばかりである。

 では、本当にアジアすべての国が日本に悪い感情をもって、反日的な態度でいるのか。現在では海上自衛隊の正式な曲となっている『軍艦マーチ』が流れることをイヤがるのか。

_1 かつてビルマと呼ばれたミャンマー。
 1824年、イギリスがビルマ攻撃を開始。ビルマはイギリスの植民地となる。
  大東亜戦争の開戦一年前、アウンサン・スーチー女史の父、アウンサンを中心とした「ビルマ独立三十人の志士」が祖国独立のため、日本に協力を求めてくる。
 日本では鈴木敬司大佐を長とした「南機関」を作り、海南島(中国南部広東省雷州半島の南に浮かぶ島)において、ビルマ独立の志士たちに徹底した軍事訓練を行い、ビルマ独立義勇軍を結成。アウンサンは日本名・面田(おもだ)と呼ばれていたという。
_1  そしてもう一人、アウンサンと同じく、ビルマ独立に燃えていたのが、バー・モウ。1893年に生まれたバー・モウは、1905年の日露戦争における日本勝利の報を聞き、アジア人もできるんだ!と思ったという。バー・モウは、弁護士から政治家になり、自治政府の初代首相となるものの、政治犯として投獄された。しかし、大東亜戦争が始まると同時に日本に協力。
 1943年(昭和18年)8月、ビルマは独立を宣言。バー・モウは初代ビルマ首相となり、日緬同盟条約を結んでイギリス・アメリカに対し、宣戦を布告した。
 ビルマ外相ウー・ヌーは独立に際し、以下のように演説した。

「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」

 ビルマ独立義勇軍は、北部タイで志願して集まったビルマ人数百名とともに日本軍とは別ルートでビルマに進攻。イギリス軍と激しい戦闘を行う。さらに数十名の日本人がビルマ独立義勇軍に参加し、漁船を使って、海上からラングーン(現在のヤンゴン)に侵攻する水上隊として戦闘。現地ビルマ人は熱狂的な歓呼で日本軍とビルマ独立義勇軍を迎えた。田形先生もそのときにビルマにおり、実体験としてのお話をお聞きした。
 しかし、日本の敗戦の色が濃くなってきた1945年(昭和20年)3月、アウンサン国防相率いるビルマ軍が、突然、日本に宣戦布告。アウンサンの寝返りであった。彼らの考えとしては、日本の敗戦は目に見えている、日本と戦ったという事実を作っておけば、のちのビルマの国益になると考えてのことであったという。バー・モウは「親日政権」を作ったと指導者として批難を浴び、日本へ亡命したのである。

 バー・モウの回顧録『ビルマの夜明け』にはこうある。

「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。」
「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリーの英国労働党政府ではなく、
東條(英機)大将と大日本帝国政府であった」
*()は三井田追記

 これに対してのアウンサンの政治的態度はさておき、のちのミャンマーは日本に対してどう思っているのか。

_1  1981年(昭和56年)1月4日、第33回独立記念日。自国民であるミャンマー人でも授与されていない「アウンサン勲章(ビルマ独立運動闘士)」を7人の日本人に対して授与するとミャンマー政府は発表。両国の関係者を驚かせたが、さらに受賞者7人全員、鈴木敬司大佐の未亡人を含む元「南機関」メンバーであったことも、「恩を忘れない・・」とアジアの人々に感動を与えた。

 そして、やっとここで『軍艦マーチ』に繋がる。
 ミャンマーの建国記念日には行進が行われるが、いまだに『軍艦マーチ』を使っているのである。

 他にも日本の軍歌『日本陸軍の歩兵の歌』『愛馬進軍歌』などをそのまま使っている。
 日本以外のアジアの国でも130年前の名曲『軍艦マーチ』を大切にしてくれているのである。

 ちなみに、イギリスやアメリカでは軍事政権による「ミャンマー」という国名の変更を認めず、いまだに「ビルマ」と表記している。軍事政権に監禁されているアウンサン・スーチー女史も認めていない。

2006年1月 9日 (月)

第2回中越地震チャリティコンサート

 4時起床。朝食もとらず12時近くまでひたすらメールとブログを書く。

DSC00258_t 12時、富山のます寿し、白菜の浅漬け(鷹の爪たっぷり)、沢庵、鯖の照り焼きでブランチ。納豆を食べたかったが、ますの寿しにはどうも合わないような感じ。

DSC00260_tDSC00259_t 13時前、今日の第2回中越地震チャリティコンサートの会場である市民会館に移動。ビデオ収録の準備をしたり、高校生や大学生と懇談。
 全席1113席の市民会館の4割近くが埋まるお客さんがお越しになり、大雪のなかありがたい限りである。
DSC00261_tDSC00262_t 演奏開始前、休憩中などにロビーでも演奏や歌が披露され、多くの人を楽しませていた。演奏者と観客は4m近い高低差があったが、この高さと同じ高さの雪が積もっていることを考えると凄いものがある。今日も、第2普通科連隊をはじめ、陸上自衛隊が除雪作業にでている。

DSC00264_t

 演奏のトップは、陸上自衛隊第12音楽隊、柏崎市吹奏楽団他による復興へのファンファーレ、アトランタオリンピックで使われた『サモン・ザ・ヒーロー(Summon the heroes)』。DSC00271_t 続いての柏崎高校は、プロレス好きとしては仮面の貴公子ミル・マスカラスの入場テーマとして認識している『スカイハイ』、最近、故本田美奈子氏が歌っている姿がよくTV放送される『アメイジング・グレイス』。そして、トヨタ・ノアのCMで流れる『愛するデューク』。熟練の柏崎市吹奏楽団は、『魔法戦隊マジレンジャー』で子供も心を動かし、『涙そうそう』で大人も虜にし、最後は『リトルマーメイド・メドレー』でシメた。
DSC00266_t そして陸上自衛隊第12音楽隊。最初は、アイスクリームにエスプレッソをかけたものを意味する曲名『ジェラート・コン・カフェ』がついたラテン系のフュージョン。NHKのTV番組で有名な『日本映像の20世紀』。DSC00267_t「うさぎ追いし・・」ではない、五木ひろしの『ふるさと』。副隊長のボーカル付きである。大塚愛の『SMILY』、昨日結婚したばかりという女性隊員が歌う『世界の約束』。夫となった方も自衛官であり、いまごろは長野で除雪作業をしているという。DSC00270_t 最後は、『聖者の行進』。テネシースタイルでの陽気なシメとなった。
 休憩をはさみ、柏崎市民合唱団による『雪のふるまちを』『ふるさとが好き』。柏崎総合高校、OG、帝京長岡高校、新潟産業大学『おほなゐ』(阪神淡路大震災へのオマージュ第3楽章「復興とそして祈り」)、中越大震災後に特によく聞かれた『Jupiter』、DSC00274_t最後は『ドリフのずっこけ大集合!』。『8時だよ全員集合』世代にはたまらないチョイスではあり、ヒゲダンスや加トちゃんの「ちょっとだけよぉ~」もあった。ちょっと照れがあったようで、動きがダイナミックではなかったが、心意気が良い。「ちょっとだけよぉ~、アンタも好きねぇ~」のときに流れる『Taboo』は名曲だと思う。
 この後、柏崎市内でも一番被災が多かった北条の北条中学校をはじめ、鏡が沖中学校との演奏、加山雄三の名曲『君といつまでも』『お嫁においで』『サライ』のグランドフィナーレもあったが、非常に残念ながらお客さんとの約束の時間になってしまい、会場を後に。

 16時30分、事務所で某社経営者と打ち合わせ。新規事業の販路についてつめる。

F1000002 19時から岬館にて、柏崎青年会議所の委員会活動。来週18日に行われる新年総会の準備である。

DSC00275DSC00277 21時、自宅に戻り、鮭の粕漬けと小粒納豆での夕食。発泡スチロールの容器だとこうはいかないが、堅いプラ系の容器の場合には、安心して撹拌できる。マイ納豆鉢を汚さずに済むのは良いが、やはり陶器の器を使わないと、豊かな納豆飯?をこれから食べるという感じがしない。

 故・田中角栄首相に関する本を読みながら長風呂。西山町が合併したいま、「田中角栄という政治家も柏崎からでた」と言われるであろう。どのような人物だったのか、再び勉強しようと思う。

2006年1月 8日 (日)

陸上自衛隊:第2普通科連隊、第12音楽隊

 5時起床。新規事業の業務計画やメールの処理。先日壊れたハードディスクを早く交換したいものの、まずは仕事である。

DSC00242DSC00244 8時、納豆茶漬け、白菜の漬け物、豆腐と油揚げの味噌汁で朝食。母親が漬けた白菜の漬け物であるが、甥っ子が遊びに来たとき、漬け物も食べるので、鷹の爪を少なくしたようだ。辛みが足りない感じである。

 あまりの大雪のため、いよいよ災害派遣として、陸上自衛隊に出動要請があった。柏崎の地を守る高田の第2普通科連隊が除雪のため出動した。柏崎市議会では未だに「自衛隊」という言葉を発するだけで野次が飛ぶが、既に自衛隊の存在そのものに反対など唱えている時代ではない。自衛隊の力も使って、いかに市民の生命と財産を守るかにかかっている。

_1DSC00241 昨日の帰りに思わず購入した、「紀州限定、梅干しキティちゃん」を携帯電話につけた。たらこ、りんご、梅干し・・・・・ジャラジャラと3つのキャラクターものがついた電話はすっかりギャル男(お)携帯の様相を呈している。真っ赤な携帯で自称・シャア専用であるが、やわやわになってきた。
 そのうち、金色のメッキを施した、「クワトロ・バジーナ専用 百式」携帯でも発売されないかと期待している。

 午前中は来客があり、相談の解決のための仕事。

DSC00245_tDSC00247_t 12時、伊勢で買ってきた伊勢うどんに蓮根の天ぷらをのせて、昼食。祖母も柔らかくて美味しいね、と喜んでいた。毎年、伊勢に行ってきたあとに食べさせているが、案の定、「初めて食べる」とのことであった。

DSC00252_tDSC00249_t 13時から、市民会館に行き、明日行われる第2回中越大震災復興支援コンサートの準備と陸上自衛隊第12音楽隊の隊員による、地元柏崎の高校生への音楽指導風景の撮影である。指導風景は、チャンネル桜での「柏崎アワー」か「防人の道 今日の自衛隊」で使いたい。
DSC00248_t 音楽隊の隊員による懇切丁寧な指導はもとより、なぜ自衛官になったのか、どうしたら音楽を専門にする自衛官になれるのか生徒から質問がでていた。何名かの生徒さんに声をかけ聞いてみると、自衛隊についてどんな組織なのか詳しく教えてもらったことはなく、戦争するための兵隊だと思っていたという。「戦争しないために、自衛隊がいるんだよ」と、アヤシーおじさん三井田として、独り熱く語ってしまった。
DSC00253_tDSC00255_t 地元の4年生大学である新潟産業大学の生徒さんも柏崎総合高校の生徒さんと一緒になって、仮設住宅に行って体験し、レポートをまとめてあった。大学と高校の接点が増え、若い世代の力が結集してくれることを感じた。柏崎も不安材料ばかりではないと嬉しく思う。

 17時過ぎに事務所に戻り、事務仕事。結局、データの喪失が怖いので、19時、ハードディスクを入手するため、M氏を誘って長岡に移動。PCデポ長岡店で必要なものを購入。

F1000002F1000001 ついでに「得々うどん」に寄り、夕食。「かつわんセット 910円」を注文したが、M氏が「キムチ煮込みうどん」を注文したものの、辛さでギブアップのため、途中で交換。確かに辛いが、顔を近づけるのも躊躇するほど熱せられた土鍋が強敵。大汗をかいて完食。

 20時30分過ぎ、自宅に戻る。今日は、うどんづくしであったので、整腸剤として納豆を1パック、味を付けずに食べる。お土産を渡すため、K嬢に事務所に来てもらって、パソコンを直しながら雑談。

 23時過ぎ、パソコンが完全に復旧したものの、疲れからか机に突っ伏してそのまま仮眠。

2006年1月 7日 (土)

再びの牡蠣、不二屋中華そば

DSC00190 6時起床。外は晴天。旅館の部屋は海に面しており、浜と目と鼻の先である。海のないところから観光にきたカップルなどは盛り上がること間違いないと思う。少子化対策として、カップルが盛り上がりそうな観光への補助&その夜はいきなり停電という政策があってもいいのでは、とくだらない事を考える。

DSC00191DSC00192 8時、旅館の大広間で朝食。卓上コンロで焼く肉厚の鰺の干物があったものの、あまり食が進まず、残さず食べるので精一杯。昨日食べすぎたからではない。原因はご飯と漬け物である。

DSC00194 9時、旅館をでて、再び鳥羽に向かった。家族に剥きたての牡蠣を食べさせたい一心で、お土産用の生牡蠣を買うためである。もちろん、その場で牡蠣をまた食べるためもある。晴天の浦村は、まさに風光明媚な景色であった。DSC00195
 またも中山かき養殖場(〒517-0025 三重県鳥羽市浦村町1208 電話:0599-32-5053 FAX0599-32-5686)で、10個ほど牡蠣を剥いてもらい生牡蠣として食べてしまった。家族へのお土産は、「むき身1kg 2500円」である。買ったあとは時間との勝負。急いで、柏崎に帰り、新鮮なうちに祖母と母に食べさせたい。

DSC00196 急いで鳥羽を後にし、伊勢をこえ、松阪市に。奥野社長の奥さんと待ち合わせて、松阪に来たときには必ず行く、「中華そばの不二屋」(電話:0598-23-9605)へ。急いで柏崎に帰らなければならないが、ここも毎年のお約束なので、外せない。経営に関する相談や世間話をしながら、「五目やきそば 750円」と「牛肉中華そば 850円」を注文。
DSC00199 「五目やきそば」到着。パリパリに揚がった中華麺に、とろみのついた塩味の五目あんがかかっている。生卵が付いてくるので、まずは中心にクレーターを作り、そこに生卵を投入する。DSC00200ザクッ、ザクッと麺を突き崩し、五目あんとともに食べる。麺の歯ごたえ、五目あん絡み具合が良い。続いて、生卵を絡めて食べる。汁が無いので、生卵溶き時間問題にも悩されることなく、楽しめる。DSC00206最後は、卓上に置かれたウスターソースを下品にドボドボとかけてのソース焼きそば味を楽しむ。卵かけご飯を食べようと思ったときに、醤油と間違ってソースを投入したときの悲しさはなく、生卵ともウスターソースが絡み、五目あん、パリパリ麺とも相性が良い。
DSC00202DSC00203 続いて、「牛肉中華そば」到着。この時点で早くも食い過ぎとの指摘もあるが、難なく入ってしまう美味しさなのである。松阪牛の切れっ端がのっているものの、和風だしの効いたさっぱりしたラーメン。お土産用も2人前を購入し、松阪を後にした。

DSC00231 途中、納豆のチェックで寄った某ショッピングセンターでCDが安く売っていた。「ニューミュージック」と題したCDがあり、スターダストレビューの『今夜だけきっと』が入っていたので、目に止まった。小坂明子の『あなた』はあれば良いという感じであったが、信濃路を通って柏崎に帰るので、狩人の『あずさ2号』が入っていることを考慮し、購入。980円。オメガトライブの『さよならのオーシャン』もあったものの、ゆっくりバージョンでいまいちノリノリになれず。

F1000005DSC00213 晴天の三重、愛知、岐阜を抜け、青空に映える雪山が美しい長野、そして大雪警報の新潟へ。

DSC00215DSC00217 自宅に到着したのが18時過ぎであった。パチンコに行っていた弟も呼び出し、早速の生牡蠣、昆布でダシをとった土鍋を用意しての牡蠣しゃぶである。祖母も母も、弟も美味い、美味いと10個以上は確実に食べた。祖母は最近、美味しいものを食べると、「これは初めてだぁ、うんまぃねぇ~」と言う。牡蠣が初めてのはずはないが、今日も牡蠣は初体験とのことだった。

_1

 伊勢の地ビール「神都ビール」を亡父の写真の前にお供え。
 伊勢神宮で入手した御札を事務所の神棚に納め、同じく「神都ビール」をお供えした。

 郵便物などの整理をしつつ、23時就寝。

2006年1月 6日 (金)

伊勢神宮参拝、観光施設経営

DSC00130DSC00131 6時に起床し、二見ヶ浦の海岸にある二見興玉神社に向かう。夫婦岩から望む日の出を楽しもうと思ったのだが、あいにくの曇りで綺麗な朝日を拝むことはできなかった。神社を参拝し、帰路につく。

DSC00132 この地も観光客が多いが、悪戯も多いようで、駐車場にあるお土産屋さんや案内の看板などにはスプレーの走り書きのようなものが見受けられる。つい最近に書かれたと分かる「HGフォー」の文字もあった。情けない限りである。

DSC00133 8時、旅館に戻り、部屋で朝食。新潟から来ておいて言う言葉ではないと思うが、ご飯と漬け物が・・・・で、あまり食が進まない。朝の湯豆腐は嬉しいものだが、ご飯がバサバサ、漬け物が既製品の着色料たっぷりの壺漬けやしば漬け。ご飯は軽く一膳のみ。

DSC00134DSC00137 10時過ぎ、松阪市の納豆メーカーさん奥野食品・奥野社長と待ち合わせて、毎年恒例の伊勢神宮参拝。
 平日にもかかわらず、おかげ横町は人であふれている。煎餅の焼けるいい匂いがしたので、寺子屋本舗(京都市右京区西院東貝川町10-2 電話:0120-39-5226)が出店しているお店で「激辛一味 120円」を購入。30代のむさ苦しい男二人で煎餅を食べながら歩く姿は、よく考えたら不気味である。

DSC00138 伊勢神宮内を進むと段々と清まってくる感じがするのは気のせいであろうか。
 商売繁盛や健康はもとより、
我が国の弥栄(いやさか)を願い
参拝。
DSC00142 神宮(伊勢神宮)は、20年ごとに内宮・外宮の御正殿を始め全ての建物を建て変え、ご神体も新神殿に遷る。これを神宮式年遷宮というが、690年の持統天皇の御代に始まり、戦国時代などの混乱、中断期を除き、1993年の第61回式年遷宮まで20年ごと(一部不定期な期間があり)に行われ続けている。次の第62回式年遷宮は2013年。そのための土地などが公開されていた。

DSC00143 御札や御守りを購入。神宮内にいる鶏が気持ちよさそうにひなたぼっこをしていた。神社には、それぞれの神にかかわる使い、神使がいる。伊勢神宮では鶏である。

DSC00147_tDSC00149_t 参拝あとの恒例であるカケチカラ会さん奉仕の甘酒を頂戴する。胃にしみるような温かさと爽やかな甘みが心地よい。まわりの人からも、グイと飲んでは「ほぉぉぉ~」などの声を発している。

DSC00152_tDSC00165_t 12時を過ぎたところで、奥野社長も噂に美味いと聞いたという「五十鈴川河畔 とうふや」(電話:0596-28-1028)で昼食。外には漬け物用の大根が干してあるところからして、既に美味そうな香りがしてくる。店内は、古民家を移築したような造り。土間もあり、かまども昔そのままだ。
DSC00159_tDSC00160_t 「とうふや膳 2000円」を注文。お正月らしく、黒豆や大根膾、田作り(ごまめ)、鴨ロース、イカの詰め煮がついていた。
DSC00161_t まずは伊勢湾でとれたという穴子の天ぷら。ザクッと上あごに痛いばかりの衣のなかから、もうもうと湯気を立てて、とろけるような穴子。天つゆと大根おろしがついていたが、これは塩でビールとともに楽しみたい感じである。
DSC00162_t 手作りの寄せ豆腐は、最初はそのまま、続いて天然塩、最後にネギ、生姜などの薬味とともにタレをかけるという3種類の食べ方を楽しめる。これも国産の大豆を使って丁寧な仕事がしてあるものの、東京都葛飾の埼玉屋さんをはじめ気合いある豆腐屋さんとの付き合いがあるせいか、申し訳ないが大きな感動まではいかなかった。
 とはいうものの、すっかり満足の昼食であったのも事実である。次回も伊勢湾の穴子を食べにくると思う。

DSC00169_t 食後の腹ごなしということで、伊勢の失敗観光施設の代表と言われる「伊勢・安土桃山文化村」に移動。派手な色合いの城が特徴的である。車で駐車場のゲートに行くと、駐車料金700円とある。「高いなぁ~」と思いつつ、勉強だと思って、安土桃山時代の庶民の格好をした妙齢の女性に1000円を渡すと、

「はい、お釣り300両です」
「・・・・・・」

DSC00168_tDSC00166_t駄菓子屋のおばちゃん級である。駐車場に入ってみると、これまた誰も歩いておらず閑散としている。平日なので仕方がないのかと思って、窓口にいくと、入場料4900円。
この時点でこの施設の失敗と言われる理由が分かった感じがした。超ド級、いや超大和級の「今どきこんな商売ないだろぉ~」である。もちろん、入場はせずそのまま駐車場を十分に楽しみ、鳥羽方面に向かった。

 鳥羽といえば、鳥羽一郎・山川豊兄弟?、そして海女さんと牡蠣のイメージである。
 故・伊丹十三監督の映画『タンポポ』でのワンシーン。白いスーツを来た男、役所広司。まだ少女のあどけなさを残す若い海女さんから売ってもらった牡蠣を食べようと、殻に直接口をつけるが、殻で唇を切る。切った唇からしたたり流れる血を海女さんがエロティックに舐めあげ、最後には海女さんの手から直接牡蠣を食べる、あのシーンも思い出す。
DSC00170_tDSC00171_t それはさておき、こちらも毎年恒例、牡蠣の国・浦村で、牡蠣の養殖をされている「中山かき養殖場」(〒517-0025 三重県鳥羽市浦村町1208 電話:0599-32-5053 FAX0599-32-5686)に行く。ここでは、養殖の牡蠣を目の前で剥いて、生か焼きで食べさせてくれる。DSC00174_tDSC00175_t1個100円。養殖といえども、旬の冬。口に含むと、ピュッと海水の塩気が口に広がった後に濃厚な牡蠣の旨味、そして噛み締めると貝柱の甘みが余韻を残す。結局、焼き8個、生21個を食べた・・・いくら牡蠣好きとはいえ、我ながらアホである。

DSC00176_t 好物の牡蠣で満足したのち、伊勢市に戻り、みえのふるさと先導人でもある桜自然塾社長、ゴーリキマリンビレッジ支配人の大塚隆氏と打ち合わせ。大塚氏は、地元経済界では「経営の野人」の異名をもち、沈没しかけた観光施設の立て直しに奔走されている。
 色々なビジネス展開などを含めて、2時間ほど話こむ。そのうち一つは今年、新規事業として立ち上げる予定。毎年の参拝だけではなく、仕事の話もでき、今年は良いスタートである。

 18時過ぎ、奥野社長と別れ、旅館に戻る。昨日と同じ「浜千代館」(電話:0596-43-2050)。風呂に入り、19時から部屋で夕食。

DSC00179_tDSC00178_t 先付けは、数の子、紅餡、田作り、卵焼き、梅酒漬け梅の甘露煮。酢の物は蛸、くらげの黄身酢和え。
DSC00180_tDSC00182_t 小鉢は、鳥貝のマヨネーズ和え、海老芋しんじょ。貝類が好きなので鳥貝のコリコリは嬉しい。
DSC00177_tDSC00186_t お造りは、鯛を中心にした姿盛り。日本の旅館伝統らしく、仲居さんに「2日間、お世話になります」と寸志を渡したのが効いたのであろうか?豪華である。残った鯛の頭などは厨房を貸してもらえれば、潮汁でも作るところ。天ぷらは、なす、大葉、アーモンドをまぶした衣の海老、甘藷。甘藷は残念ながら、中心が生のままの揚げミスであった。
DSC00187_tDSC00185_t 鍋物は、海老、鶏肉、白菜を中心にしたさっぱり味。またもバサバサ気味のご飯を入れて雑炊に。伊勢エビを半身にした焼物は、海老の味噌の濃厚さにヤラれた。
DSC00189_tDSC00181_t 牡蠣を蒸したほうらく焼き、大蛤の吸い物。しかし、昼に目の前に剥いてくれた牡蠣を食べてしまったので、感動はなし。DSC00188_t最後にみかんと苺のデザートで終了。
 またも満腹で、いつ寝たのか分からず。

 

2006年1月 5日 (木)

いざ「うまし国 三重」へ

 2時就寝。5時起床。メールやブログをひたすら書くが、突然、パソコンのマザーボードから警告音が鳴る。パソコンのデータを喪失しないために、常に同じ内容を2つのハードディスクに書くシステム(RAID-0)を組んでいるが、そのうち片方のハードディスク(300GB)が壊れたのである。年明け早々ツイていない・・・・逆に考えれば、全てのデータを喪失しないで済んだので、ツイていたとも言える。ハードディスクが1つとなってしまったので、万が一の事を考え、データをDVDにコピー。

DSC00096DSC00095 早朝、出発しようと思っていたが、パソコンのトラブルのお陰で、11時に愛車プリちゃん(メス)で三重県に向かう。高速道路にのり、上越ICを超えたあたりから、豪雪。3m以上の積雪のなか、時速40kmほどでのノロノロ運転。雪の壁のなかを走っている感じである。

DSC00097DSC00098 渋滞のイラだちと空腹もあったので、「ハイウェイオアシス おぶせ」にて休憩。まちづくりでも有名な小布施らしく、ここで休憩する車も多い。レストランに向かう途中、回りを見ると2mを超えるつららがあった。DSC00100DSC00101あの下で作業か何かをしている最中に落ちてきたら・・・・。
 レストランで「信州桜定食 880円」を注文。馬肉をすき焼き風に煮て卵でとじたもの、なめこの味噌汁、野沢菜のセットである。朝食も食べていなかったので、あっと言う間に完食。

DSC00102  食べた終えたあと、売店をふらふらと見ていたら、長野キャラクター「信州りんごちゃん」のグッズがあった。赤いりんごが可愛かったので、「りんごちゃん」ストラップを購入。キューピーのたらこと一緒に携帯電話につける。

DSC00104 レストラン入り口にあった「わさび 肉まん 250円」が気になっていたので、こちらも購入。緑色のちょっと固めの生地のなかに、山葵の風味の効いた肉の餡が入っており、珍しい味であったが、味付けがちょっと甘めであり、山葵の風味が活きず残念。

 腹ごしらえができたところで、ひたすら車を飛ばす。長野市を超えてからは雪も少なくなり、寒さは変わらないものの、晴天。

DSC00105 途中、休憩のため伊那峡SAに寄ったところ、元気におでんを売るおばちゃんの「3つ買えば、1つタダだでよぉ、おにぃちゃん、こうてチョーよ」といった商売トークに心動かされ、大根、卵、ウインナ巻き、ちくわの4つを300円で購入。からしをつけようとすると、一緒に味噌も置いてあり、「名古屋が近いがや」と思う。寒空の下のおでんは美味い。

 18時過ぎに伊勢ICに到着。近くのジャスコで、納豆や値引きになっていた海産物を購入。
 19時、伊勢志摩国立公園/二見ヶ浦「浜千代館」(電話:0596-43-2050)に到着。食事付きの宿泊プランで、夕食の時間が19時となっており、即、部屋での夕食。
DSC00109DSC00110 赤ワインの食前酒。八寸は正月らしく、海老、饅頭、卵焼き、栗きんとん。酢の物は、もずく、赤なまこ、氷頭を合えたもので歯ごたえある組み合わせが嬉しい。
DSC00111DSC00111小鉢は、スモークサーモンとイカの麹付け。お作りは、サザエ、まぐろ、海老など。サザエが日本海のものより柔らかいと感じるのは気のせいであろうか。
DSC00120DSC00117 定番の茶碗蒸しに続いて、抹茶塩で食べるカレイの唐揚げ。パリッとした食感と適度な塩気がビールに合う。
DSC00121 ビールは、「アサヒ・スーパードライ」の伊勢志摩国立公園バージョン。味は普通のドスーパードライと変わったところはなく、ラベルが違うのみであるが、こういうちょっとしたカスタマイズは観光客にとって嬉しいものではないだろうか。ビール党の私としては、できれば伊勢もしくは三重県内の地ビールもおいてほしいところである。
DSC00116DSC00118 焼物は、イサキの塩焼きとサザエの壺焼き。イサキの白身で淡泊な味わいが良いが、少し塩が足りないような気がした。煮物として伊勢海老の具足煮。もともと具足煮は漁師料理で、伊勢海老を殻ごとぶつ切りにし、醤油、酒、みりんで煮込む。伊勢海老の殻が武具のすねあてに似ていることから具足煮という料理名がついた。身も美味しいが、だし汁が美味い。
DSC00115DSC00119 卓上コンロにのった鉄板には、熱くなった油のなかに大蒜のスライス。そこへ、柔らかい伊勢牛を投入し、伊勢中の大蒜焼き。箸でもちぎれる肉の柔らかさ。この肉自体はもとより、この牛の内臓を食べたら美味そうだな、と思う。デザートはメロン、苺。
 すっかり満腹になったが、まだ風呂に入っていなかったので、大浴場に行き、大きな湯船につかる。気がついたら、湯船で寝そうになり、顔が湯についたところで目が覚めた。

DSC00124DSC00122 風呂を上がり、ジャスコで買った値引きになっていた海産物、「三重県産の赤なまこ 生食用 398円」(20%引き)、ゆずぽんと「大粒生かき 438円)をつまみにして、再度ビール。

 何時に就寝したか不明。いつの間にか寝てしまった。

 

2006年1月 4日 (水)

2006賀詞交換会

F1000002 1時就寝。7時に起床したが、窓を開けるととにかく凄い雪。TVニュースを見ても交通機関の乱れが話題になっている。O嬢、ママ嬢が電車のなかに閉じこめられたり、もしも何かあった場合でもいいように、今日もおにぎりを作り持たせる。
 8時過ぎ、お二人を駅まで送る。喜んで帰ったので一安心。

DSC00081 11時から2006賀詞交換会。まずは、藤間師匠による「祝いの舞」。国会議員は、衆議院議員・近藤もとひこ氏(自民党)、衆議院議員・鷲尾英一郎氏(民主党)、参議院議員・黒岩宇洋氏(民主党)、DSC00086参議院議員・森ゆう子氏(民主党)、参議院議員・近藤正道氏(社民党)、参議院議員・田中なおき氏(自民党)が出席。挨拶の時間は一人3分との約束だが、案の定長くなり、柏崎ぶどう村ワイナリーのワインでの乾杯は、なんと12時。DSC00087しゃべるのが商売の議員といえども、短いスピーチで人の心を動かすことも重要である。
 乾杯の後、残すのが「もったいない」ことから、オードブルを数品つまんだのち、活動開始。

 両衆議院議員は、燕市の賀詞交換会のため、会場からはいなくなったが、他の国会議員がいる。ここぞとばかりに国会議員に片っ端から声をかけ、皇室典範改正人権擁護法案についてお話させてもらった。イちゃった野郎と思われたことと思うが、この問題こそまさしく国会議員の仕事である。所属する政党は違うが、乱闘になると大仁田厚議員を相手にする森ゆうこ議員とは色々と情報交換をした。

_1 賀詞交換会終了後、荒城議員とうちの事務所で「うれっ子」(電話:0257-22-4648)のチャーシューメンを食べながら意見交換。
 その後、来客があり、相談事の解決に悩む。解決のための資料作りや情報収集で夕方まで。

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 20時、銀ムツの煮込み、車麩卵添え、冷凍しておいた茶豆で夕食。
 食後もひたすら資料づくりである。
 正月から仕事の依頼が多くあり、一瞬イヤになるが、仕事を頼まれることもありがたいことであると思い直し、作業し続ける。

2006年1月 3日 (火)

大雪のなか「じょんのび村」

_1  2時就寝。6時起床。メールやブログの処理をしてから、O嬢、ママ嬢の朝食づくり。コーヒーを飲んでもらっている間に、博多めんたいこを入れて、ニギニギ。米は、棚田のお手伝いでもらったコシヒカリであり、握っている最中のチャチャという適度な粘り、テラテラと光る粒からしても美味さが分かる。お二人とも米が「甘ーい」とお笑いコンビ「スピードワゴン」井戸田氏のようなコメントであった。

 朝食後、お二人を高柳町の「じょんのび村」に送る。夕方まで個室をとり、女二人ゆっくりしてもらう算段である。

DSC00075DSC00074 自宅に戻り、新年の挨拶にきた親戚とともに昼食をとることに。「うれっ子」(電話:0257-22-4648)のチャーシューメンを食べながら、世間話。そのうち、話の雲行きが怪しくなってきて、最後は

 「孝欧ちゃん、そろそろ結婚しなきゃダメよ~」

と叔母さんに怒られるのであった。

 親戚と話し込んでいるうちに16時を過ぎたので、「じょんのび村」にお二人を迎えにいく。大雪のなかの温泉で最高であったという。

DSC00077DSC00076 帰り際、色々な食材を購入して、事務所での夕食。高柳名物となった豆腐をはじめ、がんもどき、ブリかまの塩焼き、昨日頂戴した手作り蒟蒻など。DSC00078せっかくなので弟も呼び、4人で乾杯。地卵と極上のコシヒカリで作った「卵かけご飯」もつまみである。
 飲み始めてから数十分、O嬢、実は今日が誕生日だと言う。

 「いくつになったんですか?」
 「えっ、さんじゅう・・・、いや、さんじゅっさい!」

とあくまで本人の申告である。

DSC00079 お祝いということで、米山町を含む鉢崎周辺で祝い事があると作って食べるという、海草を練って固めた郷土食「えげす」をO嬢にプレゼント。恋愛から歴史まで幅広い話題で夜が更けていった。 

2006年1月 2日 (月)

日本で一番海に近い駅「JR青海川駅」

 5時起床。今年、はじめる新規事業の計画。
 朝食もとらず午前中から16時まで親戚まわり。おせちとお茶でお腹いっぱいである。

 ジェンダーフリーについて、子供をもつ親戚に色々と聞いたが、子供をもつ母親としてもジェンダーフリーをはじめとする男と女の性差はないという教育には違和感を感じているという。男女の権利は平等であるべきとは思うが、男女は同質ではない。その点を間違う自治体はもちろん、国に未来はないと思う。

F1000015 亡き祖父の弟は、柏崎市議会議員で議長まで務めた、故・庭山正平。三井田家・家長として新年のご挨拶で伺ったが、お宅に上がらせて頂き、改めて賞状類を拝見すると、天皇陛下から頂いた勲章をはじめ、市議会議長会の表彰などがあった。ほぉーと感心していると、若奥さんがお茶請けに手作り蒟蒻をだしてくれた。クニュ、クニュと活きの良いイカのような歯触りが美味しく、一気に食べてしまった。不躾ながらお土産としても頂戴した。

 16時過ぎ、柏崎駅にO嬢、ママ嬢を迎えにいく。お二人とも豪雪のなかの温泉や柏崎の味を体験してみたいとのことであった。荷物を事務所に置いたのち、柏崎市内の観光。冬の柏崎といえば、波荒れ狂う日本海を体験させることであろうと、米山方面へ行き、激しい海風を浴びてもらった。
_2 色々とまわり、最後は日本で一番海に近い駅「JR青海川駅」である。1993年1月~3月までTBS系で放送されたドラマ『高校教師』最終回のラストシーンは「JR青海川駅」で撮影された。O嬢、ママ嬢には冬の日本海とローカル線という、石川さゆりが歌いそうな状況を楽しんでもらった。
 O嬢は、何を思ったか、他に客がいないこの駅に停車する電車を見て、

 「えっ、この電車、私がいるから止まるの?」

と思いっきり、ワンマンバスと間違えていた。

_1

 ついでに、駅に備え付けてある来訪記念ノートにも二人揃って記入。この駅もだいぶ有名になったようで、来訪者が多い。多くの人に来て頂くことは良いが、落書きや悪戯も多いようで、「警告」と書いた紙が何枚か貼ってあった。悲しいことである。

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 (仮称)三井田観光の極寒、荒れ狂う日本海ツアーを終え、夕食。車麩の煮付けの他、皮をつけたまま圧力鍋で煮込んだ(ポイントは八角)煮豚、地場産の冬の魚を中心にした刺身など。

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ビールのほか、酒(清泉)等で歓迎会?話は盛り上がり、エンドレス状態に突入・・・。

2006年1月 1日 (日)

うるう秒、妄想?海上自衛隊音楽隊

*政治家は時候の挨拶が禁止されております。インターネットについては明確な規定はないものの、自粛すべきという見解も多いので、明確な年頭のご挨拶ができず申し訳ありません。

 1時過ぎ就寝。6時起床、早速、年賀状などを整理。
 今年の元旦は、うるう秒の関係で通常の年より「1秒」長い1日である。少し得した気分。
 親戚の新年の挨拶で、朝食や昼食の区別なく、来る度におせち料理を突きながら酒を飲み、毎日続けたら確実にダメ人間になる生活である。
 自分としては珍しく購入した年末ジャンボ宝くじは、15000円の投資中1500円というお約束の10%リターン。

DSC00069 18時過ぎ、上等の骨付きラム肉を頂いたので、発酵バター、バジル、隠し味で醤油を入れソテー。胃が疲れているのでご飯ものは、納豆茶漬けにして夕食。祖母には、塩辛納豆をもちでくるんだものを2個。

 初夢は、元旦の夜に見る夢。元旦に妄想する?私の政治的な初夢は、やはり海上自衛隊の誘致。しかし今年だけでカタのつくものではない。少しずつでも前進するような小さな夢を叶えていくやり方が懸命かと思う。
 今年は、海上自衛隊誘致への理解者がさらに増えるとともに、こういった主張をすることによって、

 「柏崎は主張すべきことを主張しているな」
 「おいおい、柏崎ってのは活力のある街だな」

と市内外、いや県内外の多くの人に言われるようになることが第一段階。
 第二段階は、妄想が入って、以下のようなものである。
 柏崎に夏の訪れを告げる「ぎおん柏崎まつり」。毎年7月、3日間にわたって開催される。その初日を飾る市内小学生によるマーチングバンドパレード。中央商店街のアーケードには、我が子、我が孫を見にきた家族をはじめ、カップル、柏崎へ観光に訪れた人々など観客があふれ、車道には楽器をもった小学生の列。そして、先頭には、陽の光があたり、目にしみるような白い制服を着た大人の一団が静止している。
 「まだか、まだか」と観客がざわめきだしたところに、女性のよく通る場内アナウンスが、商店街各箇所に設置されたスピーカから流れる。

「ただいまよりぃぃぃ、
 平成18年度ぉ、マーチングバンドパレードを
 開始いたしますぅぅぅ。」

*屋外なので、エコーがかかったように聞こえる

 アーケードの観客からは大きな拍手。

_2  「先頭はぁぁ、ゲストバンドぉぉ、
 海上自衛隊<柏崎>音楽隊
 
です・・・」

 間髪入れず、整列した海上自衛隊音楽隊によるこの曲の演奏が始まるのである。 


[Windows Media Player]形式。
プレイボタン(一番左)を押すと始まります。
*Windows Media Playerは無料でダウンロードできます。

 お正月なので、妄想もお許し頂きたい。

_1 ちなみに柏崎のマーチングバンドは、柏崎青年会議所の先輩が昭和52年に働きかけを行ったことから始まっている。

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