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2006年1月13日 (金)

新宿・中村屋のカレーとビハリ・ボース

DSC00297 1時就寝。5時起床。インドと日本の関係について、webサイトを作るため、日印関係の資料をあさる。資料を整理しつつ、ネタをブログにまとめる。8時、大粒納豆、麩、三つ葉、ネギたっぷりの味噌汁2杯とおにぎりで朝食。

12時過ぎまで某団体と一緒にボランティア活動。汗だくである。活動終了後に肉まん、ピザまん、牛乳で昼食。

DSC00299_t 13時、印刷屋さんで打ち合わせと雑談。13時30分から会派の勉強会。東京電力さんとの意見交換である。
 先日、各社のプルトニウム利用計画が発表され、東京電力分の利用計画はどこの発電所で使うかは明記されなかった。その件も含め、来週の原子力サミットの予習ということで、勉強会を実施した。
 現時点でもプルトニウムは原子炉のなかで燃えているうえ、日本は基本的に核兵器などに転用可能なプルトニウムは余剰に保持しないということが、なかなか理解されないこともあり、プルサーマルの利用は進んでいない。住民感情からしても、柏崎の場合には、かなり白熱しつつも議会で承認されたが、東京電力自体の不祥事によってプルサーマルが凍結、感情的なしこりになっている。
 結局、技術的な意見交換より、東京電力側の住民に対する意識や信頼回復の話がメインになった。

 17時、帰宅。書類の整理と頼まれていたDVDの作成。VHSビデオからDVDのコピーを頼まれることが多いが、チャプターをきったり、メニューを作るのに多少の時間がかかる。

DSC00300_tDSC00301_t 20時30分、干し納豆でダシをとった根菜類たっぷりの豚汁(最後にまた干し納豆をのせ、さらには大徳寺納豆も風味付けに投入)、まぐろやサーモン、ブリの刺身の切れ端が入ったパックを買ったので、それに山芋をすってかけた「山かけ」で夕食。食後は。ひたすらブログやメール、掲示板への書き込み。明日から6日間も自宅には戻らないので、できる限りのことは片付ける。

_3  インド独立には、多くのインド独立の志士たちがいたが、なかでも重要な動きをしたのが、『二人のボース』ビハリ・ボースとチャンドラ・ボースである。
 今回はビハリ・ボースについて、日本との関係を書いてみたいと思う。
 ビハリ・ボースは、「偉大なる魂」ガンジーや、ネールが主導したインドの中心的な政党・国民会議派のなかでも急進派であり、武力による闘争を主張してきた。
 イギリスの植民地であった1914年、1915年に独立運動のための反乱を起こすが、密告により失敗。日本に亡命する。
_6  日本国内では、大アジア主義を唱えた福岡の「玄洋社」頭山満をはじめ、中村屋の創始者・相馬愛蔵に匿われ、同じく日本に来ていた孫文らと親交を深めるとともに、「インド独立連盟」(IIL)を設立。
*写真:右から犬養首相、ビハリ・ボース、頭山満、内田良平
 当時、日本はイギリスとの日英同盟を結んでいるため、IILの設立には好意的ではなかったが、中村屋の店員たちはこう言ったという。

 「政府は見殺しにするが、我々は保護する!」

と決死の覚悟でビハリ・ボースらを守ったのである。
 この好意に感動したビハリ・ボースは1927年(昭和2年)、「純印度式カリー」を中村屋で紹介した。これが、現在も続いている「新宿中村屋」名物のカレーである。
 そして、1941年(昭和16年)12月8日、大東亜戦争開戦。
*プレイボタンを押すと始まります。


*Windows Media Playerは無料でダウンロードできます。

大東亜戦争終結ノ詔書


との開戦の報を聞いたビハリ・ボースはこう思ったという。

「これでインド独立の夢がかなう!」

 当時、インド独立のため活動をしながらも、政治的な関係でドイツに亡命していたチャンドラ・ボース。彼こそ次のインド独立活動の中心をなすと見込んだビハリ・ボースは、1942年(昭和17年)、日本政府に対しチャンドラ・ボースを日本に呼ぶことを要望。1943年(昭和18年)5月に実現。二人のボースの会談により、IILをチャンドラ・ボースに全権委譲することが決定。ビハリ・ボースもインド独立のため、引き続き努力するものの、インド独立をみることなく、昭和20年1月21日、東京でこの世を去った。
 お墓は東京都府中市の多磨霊園にある。
 3年に一度は、尊敬してやまない新渡戸稲造先生のお墓をお参りに行っているので、次回はビハリ・ボースのお墓もお参りしたいと思う。
 ビハリ・ボースは、中村屋の娘と結婚し、日本に帰化しているが、その一人息子である正秀は、大東亜戦争の沖縄戦において、本土防衛を願いながらも戦死。靖國神社に祀られている。

india 大東亜戦争終戦後、インドのネール首相来日の際、ビハリ・ボースの亡命生活を手助けした者のなかの生存者である、葛生能久、大川周明に使者がきた。ともに、戦犯とされており、特に大川周明は、A級戦犯として起訴されていたが、ネール首相から「インド国民の感謝と謝意」の敬意を表されている。

a*大川周明は、東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人。水色のパジャマ、素足に下駄で出廷し、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後から「ペコン」と叩いたり、突然ドイツ語で「インデアンス、コメンジー」(インド人よ来たれ!)と奇声を発した人物。

 田形先生はビハリ・ボースとも親交があり、当時のお話については、チャンネル桜のBBライブラリーに収録されている。田形先生は、現在、生存している戦争経験者のなかで多分、唯一であろう「二人のボース」に直接会った人間である。
 ビハリ・ボースに導かれるように、二人でチャンドラ・ボースの部屋を訪れ、チャンドラ・ボースから

 「一緒にアジアのために戦おう」

と握手を求められ、自然に涙がでたそうである。ビハリ・ボースからは、インド独立後は、インド空軍の創設、パイロット養成のためにインドに来てくれとまで言われている。

 また、ビハリ・ボースは支那事変勃発の際にこう主張していたという。

 「支那事変は、アジア人同士の内乱であり、元凶はイギリスにある。日本も支那も孫文の大亜細亜主義に目覚めよ。日本は支那に向けている矛先をイギリスに向けよ。そうすれば、インドのみならず、全アジアが裁ち上がる」

 大東亜戦争の意義、日本の戦地拡大路線を思うに考えさせられる主張である。

<次回はチャンドラ・ボース>

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