シドニー海軍葬と日本の母
メールや頼まれていた原稿を書き、3時就寝。6時から経営者モーニングセミナーであったが、体調不良のため、今回は欠席させてもらう。
8時、起床。いまだ風邪は良くならず、今日の打ち合わせもキャンセル。ご飯。卵を落とした白菜の味噌汁、納豆で朝食。今日は、いつもの再仕込み醤油ではなく、「伊勢うどん」のつゆで味付けてみたが、悪くない。
午前中は『Will』などの月刊各誌を読みながらベットでおとなしく寝る。元日本共産党の兵本達吉氏の共産党内部事情の記事が面白い。12時過ぎ、母が祖母や妹、甥っ子の昼食として、卵とハムのサンドイッチを作っていたので、残った食パンの耳をもらう。普通なら、油で揚げて砂糖をかけて一品にすると思うが、今回は違う。オリーブオイルに浸してから、オーブントースターでカリカリに焼き、塩をかけてスティックパンにして食べる。これで、半熟の卵の黄身をすくって食べると、パンの耳の再利用とは思えない美味さになる。
昨日のライフセービング選手の壮行会では、選手に話掛けて、風邪をうつしてはいけないので、他の人と話していたが、メルボルンやオーストラリアに行った事がないことから、シドニーやキャンベラの話になった。幼稚園のときの担任で、国際感覚鋭いS先生からキャンベラの戦争博物館のお話を聞いた。戦争博物館がメインストリートにあるという。
なぜ、私がシドニーに行ってみたいかというと、「シドニー海軍葬と日本の母」の話や映画化されたビデオを購入したいからである。
大東亜戦争の緒戦。昭和17年5月31日夜、日本軍は真珠湾に続いて、オーストラリアのシドニー湾に停泊中のアメリカ海軍「重巡洋艦 シカゴ」を攻撃すべく、松尾敬宇大尉、都竹正雄二等兵曹他、4名にて特殊潜航艇三隻で潜入。魚雷で攻撃しようとしたが、砲撃を浴びるなどして二隻が沈没、一隻が不明となった。
*特殊潜航艇:
軍港攻撃のため開発した小型潜水艦。搭乗員は2人。魚雷は2発搭載。母艦から出撃し、停泊中の敵艦を魚雷攻撃した後、外洋で待つ母艦に戻る。
二隻のうちの一隻は、砲撃を受けたことにより、魚雷が発射不能となり、「重巡洋艦 シカゴ」に体当たりを試みたが失敗。万策尽きた松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は、責任を感じ特殊潜航艇のなかで短銃にて自決したのである。
松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は出陣にあたって、次の歌を詠んでいる。
松尾大尉:
散りぎはの心安さよ山桜 水漬く屍と捧げ来し身は
都竹兵曹:(母にむけて)
一億の人に一億の母あれど 我が母に優る母あらめやも
不明となった一隻は魚雷を発射したものの「重巡洋艦 シカゴ」に命中せず、オーストラリア海軍基地があるガーデンアイランドの岸壁を直撃。爆発により係留中の兵員保養船「クッタバル」が沈没し、オーストラリア海軍の兵士が21名死亡した。
この攻撃終了後、オーストラリア海軍は、湾内で沈没した二隻を引き揚げ、日本海軍軍人の遺体を収容。そして、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は
「オーストラリアとして日本の政策に反対するが、祖国のために勇敢に戦い、死んだ人間は別である。世界の人々によって誉め讃えられなければならない。」
と海軍軍人が戦死したときの最高栄誉礼を行うことを発表したのである。
昭和17年6月9日、グルード少将のほか海軍士官、スイス総領事が参列するなか、4人の日本海軍軍人(松尾敬宇大尉、他)のため、日章旗に覆われた4つの棺に、二列に整列したオーストラリア海軍の儀杖隊が「敬礼」、弔砲、そして葬送ラッパ(ザ・ラストポスト)を行うという、最高の海軍葬が執り行われた。
オーストラリア海軍の軍人も21名亡くなっているなか、敵国となった日本の軍人の葬儀を何故行うのか!との批判もでたが、グールド少尉はこう言ったという。
「これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このように鉄の棺桶に乗って、死地に赴くには、最高度の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか」
火葬されたのち、遺骨は引き揚げ船「鎌倉丸」で日本の遺族の元に送り届けられた。遺骨を受け取った、松尾敬宇大尉のご両親は涙をこらえ、気丈にこう詠んだ。
父:
菊地なる神の訓をひたぶるに よくぞ果せし益良雄の道
*菊池>郷里・肥後の菊池神社の意
母:
君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ
海軍葬の模様は、ラジオを通じてオーストラリア全土に放送され、感動をよんだという。放送内容に日本語直訳を付け足されたものが、靖國神社の遊就館に保管されている。
しかし、話はこれで終わらない。
昭和43年、松尾敬宇大尉のご母堂・まつ枝さん、当時なんと御年83歳がオーストラリアを訪問したのである。
まつ枝さんは訪問の理由をこう語った。
「戦時中にもかかわらず、
海軍葬の礼をもって弔ってくれたオーストラリアの人に、
お礼が言いたい」
83歳、長時間のフライトで体の節々も痛かったであろう。まつ枝さんはオーストラリアに着き、丁寧な言葉でオーストラリアの人々に経緯と謝意を伝え、戦死した6人の名を叫びながら、シドニー湾内に郷里・熊本から持参した押し花をまいた。
そして、次のような歌を詠んだ。
みんなみ(南)の海の勇士に捧げやばと
はるばる持ちこしふるさとの花
花を追う色紙波間にみえかくれ いつか6つの霊に届かむ
荒波の底をくぐりし勇士らを今ぞたたえめ心ゆくまで
オーストラリアの現地新聞は、一面に
「勇者の母来る!」
と掲載し、歌を英訳。オーストラリア全土を感動させた。
この感動の物語は、昭和61年にオーストラリア国内でトニー・ウィラー氏の監督によって、映画が作られた。私はこの映画のビデオを入手したいのである。
現在、シドニー湾攻撃に使われた特殊潜航艇は、乗組員の遺品とともにオーストラリアの首都キャンベラの戦争記念館に展示されている。
また、熊本県菊池市の菊池神社には、松尾敬宇中佐の像がある。
*写真類は名越先生の資料より転載
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