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2006年2月

2006年2月28日 (火)

皇室典範 田嶋女史vs櫻井女史

 5時過ぎ、自宅に戻る。4時間ほど仮眠したのち、シャワーを浴びる。

 10時から某所で打ち合わせ。昼食を出前でとりつつも15時までの打ち合わせとなった。昼食は、盛りそばの大盛り。

 17時近くに一般質問の原稿を提出する。18人目で最後とのこと。

F1000003 21時過ぎ、秋刀魚の塩焼きを中心に夕食をとっていたところ、電話があり、長野市での懇親会に出席する予定であったことを言われ、青ざめる。
 広島から帰ってきて寝込んでいたときにもらった電話がそれだったと朧気ながら思い出す。愛車のプリちゃん(メス、2歳半過ぎ)で高速道路を飛ばし、一路、長野市へ。2次会途中からの「飲み飲み」となった。車中泊。

 平成18年2月25日『新潟日報』に「争点論 誕生するか女系天皇」と題して、田嶋陽子女史と櫻井よしこ女史の比較投稿が掲載されていた。田嶋陽子女史は、高校時代の母校の英語の先生であったこともあり、卒業時には親近感をもっていたが、社民党に近づくにつき、段々と違和感を覚え、最近ではすっかり「嫌い」の部類に入っている。
 櫻井よしこ女史は各種イベントでお会いすることも多いうえ、長岡高校出身ということもあり、都内でお会いしても共通の話題がある。
 ・・・とそんな個人的なことを別にしても、お二人の皇室典範に関するものは対象的であり、興味深いものであった。以下に引用したい。


 小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、女性・女系天皇誕生に道を開く報告書を提出。男系維持派の巻き返しに、ポスト小泉の政局的思惑も絡み天皇制をめぐる議論は活発化した。紀子さまご懐妊の報道でやや鎮静したものの、両派の溝は深い。桜井よしこ氏、田嶋陽子氏の女性論客二人に話を聞いた。(共同通信編集委員・龍野建一)


田嶋陽子(評論家)
 たじま・ようこ 
 1941年、静岡県出身。津田塾大博士課程修了後、英国
留学。法政大教授などを経て参院議員。知事選出馬で失職。
テレビのコメンテーターなど

 男女平等の手本期待
      
 親しみ感じる存在のままで

-女系・女性天皇問題を考える基本的立場は。

「わたしは天皇制反対で、いずれなくなる方がいいと思って
 いる。
長子継承とか女性天皇とかを言う前に、天皇制が
 日本にとって本当に必要かをまず最初に議論しなければ
 いけない。憲法で天皇制は国民の総意に基づくとされている。
 もし国民が天皇制はいらないということになれば、大
 変お疲れさまでした、ご自由にお暮らしくださいとなる。
 そうなれば、男系、女系などは一家の問題だから家族会議
 でお決めいただければいいことで、国民の関知するところ
 ではない」

-しかし共和制にしようというのは少数派だ。

「国民の総意で天皇制を続けようということならば、皇室典範
 を改正し、女系・女性天皇も容認しなければ続かない。男系
 ではつぶれてしまう。わたしは男系、女系どちらでもいいの
 だが、国が法律まで定めて男女共同参画社会を目指し、男女
 平等に一歩ずつ歩み出しているのだから、一度、女性・女系
 天皇を見てみたい気がする。基本的人権、男女平等の憲法が、
 判断の規範だ」
「皇室典範は憲法の下位法で、普通の法律と同じように
 決められるということを、国民は理解しなくてはならない。
 その憲法は主権在民をうたっている。それは、天皇の在り方
 は国民が決めるということでもある」

-「血筋」による「万世一系」維持が男系天皇派の主張だが。

「制度として象徴天皇は決められた国事行為を行うだけなの
 だが、天皇ご一家は、人権を持ち民主的な、国民にとっての
 理想の家族であってもほしい。すでに家長制度はなくなって
 いるのだし、女性は子どもを産むだけの道具にされては
 いけない。女系天皇でもよいということになれば、今も家の
 跡取りのプレッシャーやトラブルに苦しむ国民は随分、
 楽になる。そのお手本になってもらいたい」
「人間中心の考え方からみると血筋というのはまったく、古い
 考え方だし、差別、女性蔑視(べっし)につながる。天皇制
 の成り立ち自体が女性差別を内在しているともいえる。最近、
 これまで遠慮されていた皇紀2666年とか125代などと
 いう表現が大手を振って出てきているが、歴史は逆戻り
 できない。前近代のしっぼを皆さんは、どう考えていくのか
 という問題だ」

-男系維持のために旧皇族の復帰や廃絶宮家の復活などの
 アイデアもあるが。

「本当にそうしたいならしてみたらよいが、そんなことをしたら、
 遺伝子学的にも問題が起こりはしないか。愛子さんと旧皇族の
 子孫の男子を結婚させる話まで出ているようだが、結婚の自由
 を抑圧、無視することになる。ロボットや機械ではあるまいし、
 そういう非人間的なことは許されないし、悲劇だ。ひどい発想
 想であり、皇室は駄目になる」
「今、日本には皇室を尊敬するというより、親しみを感じている
 という人のほうが多い。愛子さんを生まれた時から見守っている
 からこそ、みんな、愛子さんが天皇になってもらいたいと思って
 いる。親しみがうせたら天皇制はおしまいだ」

-女系天皇問題を論議する意味は。

「民主主義国家に本当に天皇制がいるのか、ということを考える
 きっかけになればよい。たとえ天皇に政治権力はないとしても、
 これからの国の在り方にかかわる。国民に最後の責任がある」


桜井 よしこ(ジャーナリスト)
 さ<らい・よしこ
 ベトナム生まれ。米ハワイ大卒。米紙東京支局員、ニュース
キャスターなどを経てフリーランスのジャーナリスト。著書
に「エイズ犯罪・血友病患者の悲劇」など。

 血筋守ることが肝要
     天皇家という文明学ぶ好機

-女系天皇反対の立場を明確にしているが。

「女系天皇には反対ですが、女性天皇は容認です。愛子さまは
 父の血筋を通して天皇家につながっている男系の女性天皇
 だからです。しかし、成人して庶民と結婚し、さらにその女子
 が天皇になって、また庶民と結婚するとなると、限りなく
 天皇家の血が薄まっていく。それがなぜいけないのか。科学
 ではなく、文明論だからです。神武天皇は神話の中の人物だが、
 この方を初代として男系で125代、血筋を天皇家として
 守ってきた。そういう民族生成の物語には物語ゆえに、理屈
 を超えた面がある。今日の合理主義で割り切るという発想が
 おかしい」
「飛鳥時代にも、男子の世継ぎがいないときには女性天皇で
 時間を確保し、男系の血筋の男子を捜した。継体天皇は
 今では親せきとは言い難いはど離れた傍系だが、当時の
 内親王をお嫁にするという工夫をした。旧皇族の中にも、
 大正天皇の姉妹をもらい、今の天皇家と極めて近い関係に
 ある家がある。そういう先人の知恵、工夫を大事に
 しなければいけない」

-困難な男系維持の主張は、過激な反皇室論者に
 通じるという皮肉もある。

「それは理屈でしょう。逆に、庶民の夫を”陛下”と呼ぶこと
 を国民がどう感じるか。旧皇族は連合国軍総司令部(GHQ)
 の命令で皇籍を離脱させられ、60年間、一般人として暮ら
 してきたが、心持ちはしっかりとしている。今から準皇族と
 位置付け、お役目を果たしていただけば、20年、30年先
 にそこで生まれた男の子のほうが、よほどしっくりいくの
 ではないか」
「愛子さまの配偶者に皇族からという想定は、市民的スタイル
 の逸脱という疑問があるかもしれない。しかし、現憲法で
 世襲を定めている天皇家は職業選択、居住、婚姻の自由など
 憲法上の自由とは、もともと別世界にある。表現は慎重で
 ありたいが、国民一般の婚姻の自由とは同列に論じられない
 のではないか」

-皇室典範の改正は。

「改正せざるをえない。例えば、男系男子という現行の条文を
 男系の御子とすれば、女性天皇の道は確保される。それでも
 (継承者は)限られるから、養子や断絶宮家の再興、旧皇族の
 復帰が必要になる。野中の一本杉のように孤立している今の
 皇室のすそ野を広げ、周りに風を防ぐ森がなくてはいけない」
「天皇は国家、国民のために祈りをする存在であり、権力では
 ない。大事なことは文明の担い手として、先人が体験から
 編み出した権力と権威の分離を担保することだ」

-紀子さまのご懐妊で論議が少し静まった。

「ニュースを聞いた時、日本文明の逆襲だと感じた。少し冷静
 になって考える時間を何年間か、与えてくれたのではないか。
 小泉(純一郎)首相もどうしても典範改正案を通すと
 言わなくなったし、第4子や皇太子家でのご懐妊もありえない
 ことではない。展開は変わってくるだろう」
「若い世代には天皇家に関心のない人が少なくない。あっても
 芸能人の扱いだ。女性天皇と女系天皇の違いを分かっていない人
 も多い。その中で議論すること自体が難しいし、今、どちらの
 結論が出ても不満が残る。与えられた時間を上手に活用して、
 天皇家の由来、それを大きな核として形成されてきた日本文明
 を学ぶ好機だ。日本人が日本についての無知から抜け出す機会
 ととらえるべきです」

2006年2月27日 (月)

会田市長、施政方針2006

 3時就寝。8時起床、ふとTVを見ると、民主党永田ひさやす議員の件でまだ騒いでいる。病院に入院したとのことであったが、謝罪や釈明もなく、まず入院で時間稼ぎというのは、国民に対しどういったイメージを与えるのか十分吟味する必要があったのではないかと思う。松浪健四郎議員の水かけ事件(『何発ヤったんだ』との下品な野次だったとの話も)でのあおり役から始まり、「阪神大震災の被災者が火をつけた・・・・・・」など、今までも物議を醸し出してきたが、今回がその結末たるものだろう。

DSC01047 10時から本会議。平成17年度の補正予算を議論したのち、会田市長による平成18年度の施政方針演説、教育長による平成18年度教育方針である。
 昨年の12月議会での一般質問、「新年度予算の会田カラーはどんなカラーになるのか」に対する市長の答弁は、「スカイブルー」であった。「その色を聞いているんじゃない」とのツッコミも議場内にはあったが、希望があるような予算編成ということを表現したかったのかと思う。
 実際の予算審議はこれからになるが、目玉となるような施策、希望をもてるような感覚にならなかったのは私だけだったのだろうか。不公平と一部方面から言われたとしても、「選択と集中」をもって、柏崎市の強みになるような施策に投資することも重要ではないかと思う。満遍なくということも分かるが、時代は自治体間競争の時代である。

F1000001

12時に休憩となり、朝食も食べていなかったので、市役所の売店に行き、「乱切り蕎麦」、「おにぎり」、「野菜一日、これ一本」でブランチ。一気に食べてしまったので、眠気が襲ってきた。
 13時から会議が再開。ひたすら新年度予算の説明を受け、17時過ぎに終了した。

 18時から新潟市に移動。商売関係の友人たちと某所で「飲み飲み」。車中泊。

2006年2月26日 (日)

市内NPO、「戦艦 大和」が残した技術

 4時就寝。8時起床、各種資料の整理。

 昨日、今日と高柳町でイベントが開催されており、是非、行ってみたかったが、整理していない資料や予算資料の読み込みや雑務が多くあるために行けず。残念。

DSC01042 12時、広島で買った味噌を使ってなめこと大根の味噌汁。なめ茸と小粒納豆でご飯をかっこんでのブランチ。
 なめ茸の薬臭いような人工的な味付けが昔はイヤで仕方なかったが、最近はどうしたことか、懐かしさのように感じてしまう。ドクターペッパーが好きになったのと同じ感覚である。

DSC01043 13時30分から柏崎市市民プラザで「なんかやろうねっか・地域を支えるのは○○世代」。主催は、市民NPOスペシャル実行委員会、後援が柏崎市、みるみるつながる市民ネットワーク。
 まず、柏崎市内の地域の課題、話題の提供ということで4団体からの報告があった。


障がい児編・・・・NPO法人トライネット
  心身に障がいのある子どもたちの放課後支援、障がい者のデイサービス、ヘルパー派遣を展開中。さらに障がいのある人もない人も「困った時はお互い様」地域生活の応援隊として活動中。

高齢者編・・柏刈助け合い
              ちょこっと(NPO法人申請中)

 健常者も障がいがある方も、高齢者も「皆平等に安心して暮らせる町」を基本理念に活動しています。柏刈地域に住んでいる私たちが、外出支援などお互いに助け合っているのです。

環境編・・協同組合ニューエネルギーリサーチ
 新エネルギーの普及・啓発活動を目的に、(協)ニューエネルギーリサーチは平成11年3月に発足。設立直後に廃食用油のディーゼル燃料化のリサイクルプラントを独自開発。続いて平成13年度にNEDOの採択を受けて風の丘に480キロWの大型風力発電施設を設置した。この風力発電施設は公募により「ぶんぶんカゼラ」の名称が付けられ、柏崎のシンボルになっている。風力発電施設の悩みは雷。ゴロゴロとくるともう落ちている。

こども編・・比角地区子ども育成会
 比角地区各町内子ども会と育成団体の連絡調整や、健全育成の推進と子ども達の居場所を作りを地域全体で作り出すことを目的にした「放課後クラブ」を開設し、活動を展開中。


DSC01044 報告のあった4団体を含め、市内の市民活動7団体のプロモーションビデオも映写されたたのち、じょんのびタイム(アトラクション)として、比角りずみっこクラブさんの踊りであった。
 小さな女の子が一所懸命踊る姿はひたすら可愛い。またこのような事を言って、「アチラ」方面の人間だと勘違いされそうな予感である。
 最後は、茶話会として意見交換が行われた。今回のような試みは2回目とのことである。柏崎市には色々な活動をしている方がおり、それぞれにレベルも高い。こういった機会を設けることによって、各団体間の連携がよりうまくいき、柏崎がもっと住みやすい街になることを願ってやまない。
 自分でも何かやりたいことはないか、と片付けを手伝いながら聞かれた。ある程度時間ができる身分になったときには、「柏崎の歴史をつなぐ会」とでもいったものをやり、「柏崎検定」を創設し、是非、地元を愛する子供を育てたいものである。

DSC01046 23時、スーパーの閉店間際で半額になった生寿司セットと200円の鰤のあらが入ったパックで作った「ぶり大根」で夕食。
 大根の下ゆでが中途半端になってしまったのか、ちょっと味のしみ込みが悪かった。明日の朝にはもっと美味しくなっていることであろう。

_2 先週、広島に行っている際に地元新聞で見つけた記事をスクラップしておいた。なかでも「戦艦 大和」に関する以下の記事は興味深かった。

*写真は、昭和19年10月22日 ブルネイ湾出撃シーン。
 手前から「戦艦 長門」「戦艦 武蔵」「戦艦 大和」


平成18年2月19日『中国日報』

 今を読む ノンフィクション作家 迫 勝則
 繁栄生んだ技術の伝承

 不沈の戦艦大和

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の一階に、
「呉の歴史」展示コーナーがある。
 先日そこを訪れたとき、若いカップルが、アメリカ軍の
空爆を受ける呉市街の様子に見入っていた。VTRの放映が終わり、
やがて二人は、顔を見合わせただけで、その場を立ち去った。
すさまじい空襲が、はるか速い国の上空ではなく、いま自分
たちが住んでいる街の上空で起きていたことが、かなりショック
だったように見えた。

 いま日本中にそこはかと流れる空気がある。それは、あの戦争
について事実をしっかりと受け止めたいという思いである。
その風潮は、映画「男たちの大和/YAMATO」のヒットを生み、
呉の「大和ミュージアム」への予想を超える人波へとつながって
いる。
 過去の戦争に思いをはせるとき、呉空爆の後、アメリカ軍は
なぜ広島の地に原爆を投下したのだろうか、という素朴な疑問
が浮かぶ。広島はその当事者でありながら、そのことについて、
あまり多くが語られていない。広島・呉地域には、当時、巨大な
軍事産業が存在していた。その始まりは、1894年に開戦した
日清戦争。天皇直属の軍最高統帥機関である大本営が
広島市に置かれた。広島市には、比治山陸軍兵器庫など、
次々と軍の施設が築かれていった。
 アメリカ軍が人類初の原爆投下の地に広島を選んだ理由は、
そこが日本産業の技術力の最先端をいく地域だったからである。
 呉の海軍工廠で戦艦大和の建造が始まったのは、
昭和12年11月のことだった。翌年4月、マツダの創業者である
松田重次郎は、陸軍省兵器局に呼び出された。「翌年4月までに
歩兵銃月産2000挺を製造するに必要な措置を講ずべし」。
これにより東洋工業(現マツダ)は、三輪トラックの生産を中断し、
兵器工場へと変身することになった。
 そもそも松田重次郎が、軍部から厚い信頼を得るようになった
のは、同社が耐熱効果に優れた軍艦用コルク板の開発に成功
したからである。その後、卓越した技術力と熱心な仕事ぶりが
評価され、機械ものの発注を受けるようになった。
 私自身、その会社で32年間働いた。戦争であれ何であれ、
かつて自分が勤めていた会社が、兵器を製造していた事実を
知るにつけ、どこか悲しい心情を禁じ得なかった。
 しかし、私たちは「負の遺産」だけでなく、当時、関西随一を
誇った兵器工場の「正の遺産」も忘れてはいけない。

 例えば、その一つが金属を削って磨く研削・研磨技術。この
技術は、後に日本一の精度を誇る精密機械の製造、世界初
のロータリーエンジン実用化へとつながっていった。
 この技術伝承の成果は、マツダだけではない。戦後、海軍
工廠の設備を利用して大型タンカーや客船の建造に乗り出した
石川島播磨重工業。軍艦建造に使われた砥石(といし)の技術
をベースに、世界有数の半導体製造装置メーカーに成長した
ディスコ。かつて軍需で生計を立てた多くの企業が、その後、
非軍事産業に転換し、日本の復興を支えることになった。
 「今日の繁栄は多くの犠牲者のうえに成り立っている」という
のは、後世に生きる人たちの言い回しである。戦後、私たちに
未曾有の豊かさをもたらしてくれた幾多の技術が、戦艦などを
造るプロセスのなかで生まれたことは紛れのない事実である。
 その優れた技術力で、当時世界最強とうたわれた戦艦大和
は、アメリカ軍の激しい集中砲火を浴びて、三千名余りの
乗組員とともに東シナ海の海底に沈んだ。
 いま映画や展示を通して私たちの心のなかに再浮上した
戦艦大和。その悲しい物語のなかに、私は一筋の光明を見る。
それは、「人間を豊かにする技術の象徴としての戦艦大和は
永遠に沈まない」ということだった。

2006年2月25日 (土)

有事に自衛隊よりボランティア?

 3時就寝。8時起床、『Will』や『国家の品格』など本5冊を持ち込み、長風呂。2時間も入ってしまい、体も本もシワシワになった。

 あまり盛り上がりが無かったトリノ冬季オリンピックで、フィギュアの荒川選手が金メダル。嬉しい限りである。しばらくは「イナバウワー」をネタに使いそうな予感。

DSC01040 12時、母親の手作りの餃子と納豆ご飯でのブランチ。出産後の妹に食べさせようと作ったそうで、ニンニクやニラが多く入っている。病院では個室だから良いが、大部屋であったらヒンシュクものであろう。

 13時から来客。初夏のイベントの事務業務についてである。色々とも問題があり、気が重くなる。

 28日が一般質問締切のため、色々な方からもらった意見やメール、そして予算書を読み込んで質問内容をどのネタにしようか検討する。あまり多くのテーマを盛り込んで質問をしても、結局は密度の薄い時間になってしまう。絞り込んだ内容で一問一答の分かりやすい質問をし、多くの市民の方にも議会に興味をもってもらえるようにしたい。

DSC01041 23時、里芋と油揚げの煮物、揚げ納豆、ほうれん草の胡麻よごしで夕食。資料ばかり見て、ストレス状態なので、ビール500mlを4本を飲む。お茶も飲まずにいたからか、ストレスなのか、グイグイ入ってしまう。早死の予感。

 先週、自宅にいなかった際の地元新聞を整理していたら、国民保護計画についての新潟県平和運動センターのコメントの記事があった。


平成18年2月17日『新潟日報』

 国民保護計画 県素案修正の意見案を公表
 「考える会」県民意見を募集

 学識者や労組団体などでつくる県国民保護計画を考える会
(事務局・県平和運動センター)は16日、県国民保護計画
の素案に対し、国際人道法の視点から修正を求める意見案
「市民共同パブリック・コメント」をまとめ、公表した。
同日から三月上旬まで意見案に対する県民意見を募集し、
県に提出する。
 意見案は15ページ。同計画素案の第一編「総論」、第二編
「平素からの備え」、第三編「武力攻撃事態への対処」、
第四編「原子力発電所など重要施設への武力攻撃事態への対処」、
第六編「復旧に関する計画」に対する意見をまとめた。
 第一編「総論」をめぐっては

1.侵害排除活動より
  住民の生命、身体、財産の安全確保の優先

2.国際人道法の文民保護規定を確保、
           実施するための具体的方策

3.国際法などで紛争時に特段の配慮が求められている
  子供の心身の安全確保

などについて具体的に記述することを求めている。
 このほか「戦争予防こそが国民保護の最良の方法」とし、
平時から地域、職場、学校などで平和教育の実践を要請。
また弾頭に核、生物・化学兵器を登載したミサイルによる
攻撃を受けた場合、対処に当たる自治体職員や消防団員、
指定公共機関職員らの安全確保のため、一方的な業務命令
や従事拒否への処分を行わないことなども
求めている。
 意見案は、県平和運動センターのホームページなどで
掲載している。


 コメント内容についての詳細は、ここに掲載されている。

 このコメントに対して、詳細なコメントをしようと思ったが、読み進むうちにその気が失せてしまった。
 イデオロギーの違いと言ってしまえば、そこまでかも知れないが、あまりにも有事に起こるであろう現実から遠く、ある種の理想が書かれていることに違和感を感じる・・・・。

2006年2月24日 (金)

総務常任委員会、行政業務の基本

 7時起床。朝食をとり間もなく、メールや資料の整理をし、9時過ぎに市役所へ。

 10時から、総務常任委員会を傍聴。特に問題なかったが、防災無線の電池交換問題については、

 「電池交換で救える命もある」

といったキャッチフレーズで、定期的な電池交換を市民に促すよう提案をさせてもらった。

_1 12時過ぎ、飴やチョコレートで空腹を誤魔化しつつ、15時まで相談業務。自宅に戻ってから、先日江田島で買ってきた羊羹を祖母、母とともに食べる。固めの羊羹で、小倉のつぶつぶが良い感じ。

 17時近くになって、『柏崎日報』が届き、今日同時に開催された委員会である厚生常任委員会で起こったことを知る。日程が詰まった議会では、委員会が同時開催であるため、オブザーバー参加するにも、どっちかの委員会を選択するしかないのは残念である。
 厚生常任委員会での議論は、一昨日の本会議初日にも公明党の真貝議員から指摘があったが、以下のようなものであったという。


平成18年2月24日『柏崎日報』

 診療所の条例改正 自治法違反重視 早い施行求める

 2月市会の委員会

 24日開かれた市議会2月定例会の厚生常任委員会で、今市会
に提案されている「診療所の使用料及び手数料条例の一部改正」
をめぐり、複数の議員が提案の経緯や対応をただした。当局が
これまでの条例の不備を陳謝したのに対し、議員側は地方自治法
違反となっている事態を重く見て、一日も早い施行を強く求めた。
 同条例は、昨年5月の市町合併による高柳診療所の関連。当局
の説明では、市の診療所にかかわる使用料・手数料は地方自治法の
規定で定められているが、高柳診療所は介護保険施設の指定を
受け、介護サービスの提供をしているにもかかわらず、サービス料
の定めがないこと、1994年10月の制度改正で医療保険
や老人保健による入院患者の食事費用は「療養の給付」から
切り離され、入院時食事療養費になったが、その定めがないこと、
労災保険や自動車損害賠償にかかわる療養費の定めがないことが
不備の内容。
 一方で、高柳診療所は77年に労災保険指定医療機関への登録、
2000年に介護保険施設の指定を受けたが、所要の条例改正を
していなかった。94年の制度改正の際にも条例改正を
行わなかった経緯がある。
 当局の説明に対し、遠藤清氏(民友)が「自治法違反という認識
はどの程度あったのか。もっと早く明らかにされるべきだった」、
矢部忠夫氏(社会クラブ)は「最終的には合併協議の中でもらした
わけで、旧町時代まで責任をさかのぼるべきではないか」などと
指摘。真貝維義氏(公明党)は昨年4月の市議会臨時会で合併に
伴う補正予算に高柳診療所分を盛り込んだことなどを取り上げ、
「当局が業務内容を把握していなかったということは理解できない」
と言及。真貝氏は違反行為を続けることは認められないとし、
「一日も早く施行してほしい」と当局の対応を求めた。


 基本的に行政機関は定められた法の通りに業務を執行するのであるが、今回は該当する法を制定することなく、なぁなぁというか流れのなかでやっていたことになる。そのフォローに「把握してなかった」との答弁で泥沼になった感がある。

 19時過ぎに電話をもらい、柏崎準倫理法人会の役員会があったことを知る。すっかり3月の同日だと思いこんで手帳に書き込んでいた。イージーミステイクである。あわてて商工会議所に行き、会議に参加。

DSC01033

 21時過ぎ、自宅に戻り、役員会ででたちらし寿司弁当で夕食。食べながら、勢い余って、割り箸で発泡スチロールの箱に穴を開けてしまう。これがタレを入れた納豆であれば、タレの「お漏らしの刑」を受けたところであろう。

2006年2月23日 (木)

建設企業委員会、名越先生曰く「超A級戦犯」

 8時起床、なんとか体調が戻ってきたので、資料をまとめてから市役所へ行く。

 10時から建設企業常任委員会。除雪に関してや柏崎マリーナの県への清算金の関係を質問させてもらったが、他は特に討論もなく、原案のとおり可決。

*災害救助法の適用は本来、合併後の新市が対象となるが、高柳は合併特例として旧区域で認められた。しかし、隣接する鵜川地区なども同様の状態であり、適用の運用基準を県に要望している。

DSC01028 12時過ぎ、自宅に戻り、米から作ったお粥に干し納豆をのせて2杯ほどかっ込む。お粥に干し納豆の組み合わせで食べていると、なにやら今まで食べていたものが俗っぽく感じる。
 生まれた姪っ子や妹のところに行ってやりたいものの、まだ調子が悪く18時まで寝る。

 19時から某政治勉強会の飲み会。ビールも飲めず、温かいウーロン茶でごまかす。

 23時に戻り、就寝。

DSC01032 名越二荒之助先生から手紙が届いており、『世界から見た建国記念日』などの小冊子が入っていた。
 大東亜戦争の秘話をはじめ、日韓、日中との感動的なお話をご存じである先生には学ぶことが多い。
 大東亜戦争の話になると、名越先生は必ず、

「だいたいですねぇ~、
 日本でA級しぇんぱん(戦犯)、
 言いますけどねぇ~。
 チョーA級しぇんぱん(戦犯)
 は スターリン ですよぉ~」

とおっしゃる。
 今回、頂いた資料のなかに、それを明確に表した先生の論文があったので、以下に引用する。


平成17年10月25日『国民新報』

コミンテルンとスターリンの大謀略

            高千穂大学元教授 名越二荒之助

 現代日本で「A級戦犯」といえば、誰しも「東條英機」に
指を屈す。ところが日本という島国から一歩外へ出てみると、
そうではないことに驚くのである。
 平成9年2月に、靖國神社や護国神社の神職の方々を案内
して台湾の台中にある「英魂観音亭」で慰霊祭を行った。
かつて大東亜戦争に志願した歴戦の勇者たちが、台湾各地から
集まった。神道方式の祭典が終わると、彼らがいきなり質問
してきた。
 「日本には東條神社があるのか」と。胸を突かれたような
驚きであった。「ない」と答えると、「なぜ建てない。アジア
解放の偉人ではないか。日本が建てないなら、我々で建てる」
と言う。彼らは「東京裁判」で洗脳されていないから当然の
発言であろう。
 もう一つ紹介すれば、その年はインド独立50周年に当たっ
た。8月には独立を祝うために「インドの夕」が日本の各地で
開かれた。代々木公園で行われた時、インドの最高裁判事の
グランナース・レイキ氏が挨拶した。彼は日本歴史上の5人の
偉人を挙げながら、日印関係を語った。彼が挙げたのは
聖徳太子、北條時宗、岡倉天心、東郷平八郎、東條英機の5人
であった。
 ここでは紙数の関係で詳しく語れないが、東條首相について
は、「大東亜会議を主宰し、後に参謀総長を兼務していた時
に、インパール作戦にゴーサインを出した。チャンドラ・ボース
のインド国民軍が、インド国内に独立権を掲げることができた
のも、東條首相のお蔭であり、それがインド独立に繋がった」
と語った。
 現在東京に住んでいる米国人のビル・トッテン氏が、参議院
議員会館で講演した時、「大東亜戦争によって、アジア・
アフリカ諸国はすべて独立した。その中にはまだ独立して
いない国が一つだけ残っている。日本はなぜ自分自身の独立を
考えないのか」と、語っていた。

驚天動地の真実

 それでは日本が独立を取り戻すにはどうしたらよいか。
 東京裁判は、戦勝国が敗戦国を懲罰的に裁いたのである。
早く東京裁判から解放されて、第二次大戦そのものを公平な目
で見たらどうか。そのための良書がある。
 三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略』という本で
ある。著者の三田村氏は、昭和3年から内務省にあって、国内
国外の共産主義運動の調査研究に当たった。昭和10年から
衆院議員となり、支那事変から大東亜戦争にかけて、共産主義
がいかに巧妙に変貌して日本の中枢に入り込み、支那事変を
長期化し、国内を社会主義化した。氏はそれらと戦ったために、
憲兵や特高警察に追われる身となった。
 戦後になって三田村氏は、前掲の体験を一冊にまとめた。
「解説篇」では、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者たちを
明らかにし、「資料篇」ではコミンテルンの秘密機関の実態
や、支那事変・大東亜戦争下の時局論文や企画院事件の記録等
で裏付けている。当時を生きた著名人が読後感を寄せているが、
中でも注目すべきは、東條内閣の商工大臣を務めた岸信介の
序文である。
 その一節に、

「近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、
 支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、
 スターリンと尾崎秀実に踊らされた操り人形だったという
 ことになる。
 私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、
 今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、
 スターリンでなければならない。然るにこのスターリンの
 部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、
 まことに茶番というよりほかない」

 この驚天動地というべき内容の本が、昭和25年3月に、
発刊された。しかし当時のGHQ民政局は、共産主義者が
主導権を握っていた。これが流布されだしたら、東京裁判は
やり直さなければならなくなるので、直ちに発禁処分となった。
 その後、遠山景久氏によって『戦争と共産主義』と題して
刊行され、昭和62年には『大東亜戦争とスターリンの謀略』
として自由社から発刊された。現在は井川忠昭氏の尽力に
より、ほとんど自費出版の形で頒布されている。

スターリンが晩年に自白した大謀略

 私はここで三田村氏の著書の裏付けとして紹介したいこと
がある。有名な「スターリン論文で、彼は1952(昭和27)
年3月、「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」と題する
長論文を発表した。
 この四百字詰め100枚に上る論文は、彼の遺書みたいな
もので、第6章は「資本主義諸国間の戦争の不可避性の問題」
と題している。ここで彼が強調したことは、『日独が崩壊した
現在、第三次大戦は米・ソが戦う』と一般に信じられている。
しかしそれは違う。そもそも第二次大戦は、日独対米英が
戦かったものであっていはば「資本主義相互間の戦争」で
あった。1939年、独ソが不可侵条約を結んだ。それに
よってドイツはポーランドに侵攻し、英仏と戦かうように
なった。アジアでは1941年日ソ中立条約を結んで、日本は
南方に進出し、米英と戦うようになった。
 かくして資本主義国家相互が死にもの狂いで戦った。
その間、ソ連が危くなれば米英はソ連に味方し援助を
惜しまなかった。かくして日独が敗れると、東亜では一カ月
足らずの侵攻で満洲、北朝鮮、樺太、千島を支配におさめ、
東ヨーロッパでは七つの衛星国をつくり、世界を二分する
大勢力となった。
 この教訓を生かして第三次大戦でも資本主義相互間の戦争
に持ってゆかねばならない。現在、日独は敗戦によって力を
失ったように見えるが、復興は早い。第三次大戦も矛盾を
抱えた資本主義国同志で戦争させ、社会主義国は最後に笑う
勢力にならねばならない。以上の点を強調した論文である。
スターリンはこの論文を発表した翌年の3月に亡くなった。

アメリカ人による第二次大戦批判

 スターリンが第二次大戦最大の謀略者であり、「資本主義
相互間の戦争」を演出したことは、アメリカの共和党系の
軍人、政治家、評論家はよく知っている。フーバー前大統領
などは「日蒋間の仲裁に入れ」と言い、独ソ戦では「仲裁
してアメリカが欧州の主導権を握れ」と言っていた。共産
主義の本質を知らないルーズベルトは、日独憎さにソ連を
支援して、スターリンという悪魔と手を結んだ。そのため
支那大陸は毛沢東に、ヨーロッパの半分は共産圏に奪われて
しまった。米参謀本部のウェデアイア大将のごときはその
回顧録で、「チャーチルという頑固者が、英国本来の外交
政策を破壊して、ヨーロッパをソ連に与えてしまった」と
激怒している。
 アメリカがスターリンの大謀略に引っかかった話は、小生
既に「ワシントンの遺訓に背いたアメリカ」と題して書いて
いるので、ここではこれ以上触れない。

ソ連とコミンテルンの戦争犯罪

 第二次大戦を演出した大謀略ぶりはスターリン本人が
自慢気に自白し、アメリカの識者も充分に認めるところで
ある。国際軍事裁判にかけると、彼こそ「超A級戦犯」で
あることに異義はさしはさめまい。日本の場合で言えば
「日ソ中立条約」が有効中にも拘らず、それを破棄した
モロトフ外相や、一挙に北朝鮮、樺太、千島の大侵略を指揮
したワシレフスキー元帥は、「A級戦犯に値しよう。さらに
日本人60方人を拉致拘留した犯罪もA級戦犯だ。そして
スターリンの謀略に便乗して独立を獲得した毛沢東や金日成、
そして東欧諸国の独裁者たちは「スターリン・チルドレン」
というべくA級戦犯にダッシュがつくであろう。
 そして日本人として忘れることのできない戦犯がいる。
それはゾルゲの手下になった日本人どもである。彼らは
コミンテルンに所属し、支那事変を長期化し、国内世論を
対米戦に誘導した。その重要な機密情報を百数十回に
わたってソ連に流した。このゾルゲ事件に連座した
尾崎秀実らは、日本を敗戦に追い込んで、共産革命の
チャンスにしたかったのである。東條英機は、敗戦の責任
を一身に負うような言い方をしているが、日本を敗戦に
導くためにスパイとなった尾崎らの責任はどうなるのか。
 たしかにゾルゲ尾崎らは開戦の重刑に逮捕され、
戦争中に処刑された。しかし尾崎に連座した連中はその後
釈放された。さらに尾崎路線を踏襲し、当時の総合雑誌
「改造」や「中央公論」誌上で、便乗論を展開していた
学者評論家はどう裁くのか。彼らは日本が敗戦すると、
掌を返したように豹変して、またぞろ時局迎合の論題を
展開しだした。このようなカメレオン学者や進歩的文化人
の犯罪をどう扱ったらよいのか。

660名自決者を忘れるな

 そして忘れてならないことがある。我国では敗戦直後、
責任を感じて自決した人が、合計660人に及ぶ。
額田担編『世紀の自決』には、自決者の名前から日時、
階級、場所等について詳しく調べてある。この調査に
よれば、下士官、兵、軍属が約半数で、国外での自決は、
74%に達する。彼らはなぜ自決の道を選んだのか、
遺書を読めば敗戦の責任を陛下にお詫びするとか、
国体護持の人柱になるとか、外国に占領された日本に
住むことはできないとか、自決の動機には身震いする
ばかりの話がこめられている。もちろん将官の中で本庄繋
(関東軍司令官)、杉山元(支那事変の時の陸軍大臣、
大東亜戦争中の参謀総長)のように自決をもって責任を
とった人があるが、無神経にのうのうと生きのびた人も
ある。
 それでは不充分であり、東京裁判は不公平だから、
日本独自に戦争責任を問え、という人がある。その答は
もう出ている。
 占領軍が戦犯逮捕を次々進めていた昭和20年9月12日
時の東久爾宮首相は、陛下に連合国に先だって日本の手で
審理し、黒白を明らかにすることの必要を内奏した。
それに関して陛下は、

「たとえ戦犯の指名を受けた者でも、日本のためには
 忠誠を尽くした国民の一人である。それを天皇の名を
 以て行う裁判の法廷に被告として立たせることは忍び
 得ない」

と仰せられて、お聞き入れにならなった(下村定『終話処理
の回顧』より)。
 もし事後法を作って、同じ同胞を密告し吊しあげ
だしたら収拾つかなくなり、陰惨な悲劇を招来することは
明らかである。昭和天皇は大局観に立って、こういう問題
は歴史の裁判に俟(ま)つことを暗示せられたのであろう。

2006年2月22日 (水)

平成18年第1回定例会初日

 自宅にいない間に溜まっていた郵便物やFAXの整理、返事の手紙やFAXを書いたりしていたら夜が明けてしまった。

 7時から1時間ほど仮眠し、シャワーを浴びたのち、市役所へ。9時から議会運営委員会に出席。
 いままでの代表「質疑」を代表「質問」に変えてみようという動きがあった。
 「質問」と「質疑」は厳密には違う。「質疑」は既に議題となっている議案などに対して説明を求めることで、自分の意見は入り込まない。「質問」はどの部分でも聞け、自分の意見も入れての言葉にもなる。今回の試みは歓迎である。

 10時から12時まで本会議。今議会の平成17年度の補正予算の目玉は、14億7000千万円を起債の繰り上げ償還である。柏崎地域広域事務組合事務の継承が隠れた負担なっているので、市の借金である起債を繰り上げて返済しておかなければ、起債制限比率の制限に引っかかる。今回、繰り上げ償還をしなければ、2005年末での起債制限比率は約18%になる算定であった。

*起債制限比率が20%を超えると一般単独事業で地方債の発行ができなくなるなど厳しい行政運営の制限がかかる。

DSC00986 一般質問の事項の調整など打ち合わせがあり、昼食をとる時間もなく。13時から平成18年度予算に関する勉強会。収入役に説明をしてもらい、平成18年度予算の大まかな方向を読み取る。各事業に対する詳細な質問は委員会の場になろう。

 15時、自宅に戻るも、体がだるい。体温計で熱を測ってみると、なんと38度以上の熱、。そして、激しい下痢。大粒納豆2パックを生卵で溶いて、ズルズルと飲み込み、黒酢と蜂蜜をお湯で溶いて飲み、ひたすら寝る。

 今日は、昨年、韓国でも話題となった島根県の 「竹島の日」制定から一周年である。
下に引用した『読売新聞』の社説のとおり、これを一つの自治体である島根県だけの問題と切って捨てるのは、主権国家としてはあってはならないことである。
 国のとしての動きが望まれる。

日韓領土問題特別講演会


平成18年2月22日『読売新聞』社説

[竹島の日]
 「主権の問題を県まかせにするな」

 きょうは島根県が条例で定めた初めての「竹島の日」だ。

 条例制定は竹島問題について国民世論の啓発を図るのが
目的だ。知事も参加して竹島を考える集会などが開かれる。

 だが、日本の主権にかかわる領土問題で国民に理解を
求めることは県まかせでなく、本来、政府が行うべきものだ。

 竹島は江戸時代から漁労地として日本人が利用していた。
1905年に島根県に編入された。戦後の日本の領土を規定
したサンフランシスコ講和条約でも、日本の領土とされている。

 李承晩・韓国大統領(当時)はサンフランシスコ条約発効
直前の52年1月、一方的に李承晩ラインを設定、竹島
(韓国名・独島)領有を宣言した。その後、警備隊を駐留させ、
占拠を続けている。

 昨年3月の「竹島の日」条例制定時には韓国側が強く反発
し、自治体間の交流が中断するなど波紋を広げた。

 日本国内でも、領有権問題について国民の関心を呼び
起こした。島根県のホームページの竹島コーナーには、
条例を制定した3月から今年1月までに約70万件の
アクセスがあった。それ以前の同じ期間と比べ4・6倍だ。

 日本政府ではなく、県の独自の動きで竹島という領土
問題への国民の理解が深まったのは、何とも皮肉なこと
である。それでも、竹島問題への理解が広く定着している
とはとても言えない。

 韓国側は昨年3月、一般国民に竹島への観光ツアーを
認めた。4月には韓国国会で「竹島の持続可能な利用に
関する法律」を成立させた。実効支配強化へ既成事実を
積み重ねている。

 日本政府は、そのつど抗議してきたが、韓国は「妄言」
などと拒絶している。日本側が抗議以上に踏み込まない
のは、韓国を刺激するのは得策ではない、との判断も
あるからだろう。だからといって、国民に竹島の領有権
への理解を求めることまでおろそかにしてはならない。

 「竹島の日」制定の背景にあった漁業関係者の不満も、
依然強い。

 竹島周辺は、ズワイガニなどの好漁場だ。日韓両政府
は98年11月、竹島周辺を暫定水域とし、事実上の
「共同管理」とする漁業協定に署名した。

 ところが、7年余りたった今でも具体的な操業条件は
確定せず、事実上、日本漁船は締め出されている。日韓
両政府は昨年5月から協議に入っているが、進展はない。
ルール作りを急ぐべきだ。

 領土問題の解決は極めて難しい。だからこそ、領土問題
について国民の幅広い理解を求め、日本の立場を強化
していく努力が大事だ。

2006年2月21日 (火)

姪っ子誕生、胎便吸収症候群

DSC00976DSC00977 7時、起床。シャワーを浴び、メールの処理をしたのち、ホテル1階のレストランで朝食を食べる。もちろん、納豆は持ち込みである。

 9時過ぎにJR尾道駅に向かい、JR広島駅まで移動。何故なのか、電車のなかではひたすら眠く、うたた寝してばかりいた。

 JR広島駅から広島空港へ向かうリムジンバスの待ち時間、突然、

 「議員さんですよね」

と男性に声をかけられた。お話をお聞きすると、仕事の関係で広島に来ておられ、普段、チャンネル桜をご視聴で、先日の『人間の杜』の若手市議会議員の会をご覧になったそうだ。驚きつつお話を聞いているうちに、時間となったが、名刺交換をしなかったのが心悔やまれる。日本はせまいもんだ。

DSC00982 広島空港に着き、昼食をとろうとフードコートへ。「うまいもん屋 五エ門」で「ネギかけDXそば 1050円」を注文。青ネギどっさりのお好み焼きに、ネギ好きの心が騒ぐ。
 ソースをやや濃いめにかけて食べているうちに、「青ネギたっぷりの尾道ラーメンを食べていないなぁ」とふと思ってしまった。
DSC00980 すでに20代ではないので、お好み焼き+ラーメンが入る胃袋はないとは分かりつつも、青ネギの誘惑に負け、つい「尾道ラーメン ひろ」で「尾道ねぎラーメン 700円」を注文。
 「これでもか!」と言わんばかりに青ネギがのったラーメン到着。

DSC00981 尾道ラーメンの定義は、「鶏ガラ濃ぃい醤油味スープ、ストレート麺、背脂ミンチ」 だそうであるが、ここはサッパリ。麺をすすったときに入り込んでくる青ネギをシャクシャク。スープと一緒に青ネギをシャクシャク。
 ただ調子に乗って2つも買ったものの、今回の旅で2回目であるが、食べ物を残してしまった・・・猛省。

 ANA678便で羽田空港へ。羽田をでたところで、自宅や母親に何回も電話してみるも出ず。おかしいな、と思いつつ、新幹線で柏崎まで戻る。

DSC00983 N嬢が仕事帰りに車に乗せてくれるとのことだったのでお願いし、御礼がてら、夕食として、「CoCo壱番屋 新潟柏崎店」(電話:0257-20-6277)へ。暴飲暴食の旅を締めくくり、かつ胃袋に喝を入れるため、ヒレカツカレーの10辛に茄子をトッピング。
本当であれば納豆をトッピングしたいが、愛する納豆を激辛のなかに埋もれさせたくないという「偏狭な愛」である。
DSC00985 激辛好きとしてもちろんのことながら、食べながらも「とび辛スパイス」をワサワサとかけ、舌も痺れ、翌日、出口方面に問題がでてきそうな感じまで辛くする。大汗をかいて、背中びっちょり。気合いが入ったところでお店をでる。

 自宅に着くも、祖母のみで母や里帰りしていた妹や甥っ子の姿は見えず、そのまま待っていると大あわての母が帰ってきた。
 聞けば、昨日、妹がいきなり具合が悪くなり、3月1日の予定日を待たず、今日、帝王切開したとのこと。女の子を出産できたものの、胎児が胎便を肺まで飲み込んでいた胎便吸収症候で、「赤ちゃん」ならぬ「青ちゃん」で生まれてきたという。
 少々、ショック気味の母親からは、「なんでアンタ、こんな忙しいときに帰ってくるの!」と冷たい言葉。気持ちは分かるが、思春期ならグレているところである。気持ちを落ち着かせるように、家にいなかったときの事を聞く。

2006年2月20日 (月)

尾道「戦艦 大和」ロケセット

 7時起床。シャワーを浴びたり、メールの返信をして、9時過ぎにホテルをでる。

DSC00899 JR呉駅から快速で広駅、三原駅と乗り継ぐ。途中、車窓から見えるのは、島が多い景色で日本海側とはまったく違った感じである。11時、JR尾道駅に到着。駅からの風景もよく、「駅を中心にしたまちづくり」を実感する。我が柏崎駅ではこうはいかないだろう。せっかく美しい米山が見える位置にあるのに活用していないとつくづく思う。

DSC00885 朝食をとらなかったので、ブランチとして名物の尾道ラーメンを食べようと、製麺所経営母体とし、直営店である「尾道ラーメン いのうえ」(電話:0848-37-3646)に入る。
 その町の美味しいラーメン屋というと、駅から遠い場合が多いと思うが、このお店は徒歩1分程度のところにある。
 尾道を訪れた知人からは、是非、一度は食しておくべきと聞いていたので、どんなラーメンなのか楽しみである。

DSC00891 早速、「チャーシューメン 650円」、「餃子 5ヶ 200円」を注文。餃子が先に到着。片面がカリカリになっており、肉汁が広がる正当派の焼餃子。一気に食べてしまい、メニューの下にあった違うタイプの餃子「一口ピリ辛餃子10ヶ 300円」を追加注文。

DSC00892 チャーシューメン到着。醤油ベースながら、透き通るような色合いに細かい背脂が浮いている。早速、スープをすすってみると、骨でダシをとったような獣系の味わいのなかに魚介類の香り。唇を背脂が通過するときのヌルヌル感も心地良い。しかしさっぱりとしている。
DSC00893 麺は細いストレート麺。さすが製麺所直営店、チュルンと入っていく麺はスープともよく絡み、たまに青ネギもアクセントとして参加してくる。ただ唯一、チャーシューの臭みが若干気になった。

DSC00894 一口ピリ辛餃子到着。ぴりぴりと一枚ずつはがして、食べてみる。辛味と肉の量もちょうどよく、これはビールにぴったりの一品。ビールを飲もうかと思ったが、歩いて尾道を楽しもうと思っていたので、我慢、我慢。
 最初に美味しいラーメンを食べ、幸先の良いスタートである。

 歩き回るため、宿泊先の尾道第一ホテルに行き、荷物を置く。

DSC00895 大和ロケセットのある向島までの船の往復チケットと入場券がセットになったものをJR尾道駅にて500円で購入。船の発着所に向かう。駅や船の発着所近くの自動販売機は、「男たちの大和/YAMATO」仕様になっていた。ここまで徹底されると観光客としても気持ちが良い。

DSC00903 「男たちの大和/YAMATO」ロケセットがある日立造船所に到着。ここで、無料のシャトルバスに乗り換える。シャトルバスと同じくらい、観光バスがひっきりなしに入ってきており、大和ブームであることを再認識する。

DSC00905 まずは直径1.5メートルの菊花紋章がある船首からセットに上る。

 「と、とにかくデカイ」

DSC00907の一言に尽きる。観光客用のカメラマンがおり、

 「はい、チーズ」

ではなく、DSC00912

「はい、ヤマト!」

と言って撮影していた。こういう場合は笑っていいものかどうか分からない。
DSC00913 ロケセットを見る前からパラパラと雨が降っていたが、甲板を歩きまわることになると雨脚が強くなってきた

 運命の昭和20年4月7日の戦闘前の天候は、高度1000メートル以下、灰黒色の積雲層。12メートルの南の風、波のうねり高し、11時35分、日本艦隊から70キロメートル付近に2群以上の敵機接近を探知。雨脚が次第に激しさを増して、雨の中の戦闘となっている。
DSC00926 12時32分、戦闘開始。敵機386機と交戦。14時05分、「軽巡洋艦 矢矧」が沈没。駆逐艦が必死に「戦艦 大和」を護るも、14時23分、世界最強最大の不沈艦「戦艦 大和」は爆沈した。

 実は、せっかくと思い、運命のこの戦闘時間に合わせてロケセットを訪れたのである。傘なしではいられない雨脚となり、なにやら運命めいたものを感じる。(考え過ぎ?)

DSC00927 セットを見たあとはロケに使った品などが飾ってある部屋を見学。見学していると初老の男性が、「大和は左側を集中して狙われたんだ!」と説明してまわっていた。つい「米軍もシブヤン海での『戦艦 武蔵』で学んだんでしょうね」と返答してしまった。
 次いで、お土産を売っている「ええもんや売店」、ロケのときの賄い場をそのまま食堂にしている「圭ちゃん食堂」に行く。

DSC00930 「圭ちゃん食堂」では、「大和カレー 500円」や「尾道ラーメン 500円」があったが、ラムネ工場を艦内にもっていた「戦艦 大和」にちなんだ「大和ラムネソフトクリーム 300円」(合成保存料、酸化防止剤なし)を購入。
 「戦艦 大和」では、消火装置の炭酸ガスを利用したラムネ製造機や羊羹の工場があった。
 ちなみに引退したが、米海軍の「空母 ミッドウエイ」にはコーラの工場があった。
DSC00931 「大和ラムネソフトクリーム」は、ソフトクリームとしては優秀で、乳脂肪分たっぷりの美味しいクリームであるが、ラムネの清涼感が乳脂肪分と相殺された感じになっており、残念に思う。

 「圭ちゃん食堂」をでると、すっかり天気は晴れていた。再度、シャトルバスに乗り、ロケセットを後にする。

DSC00941 尾道の街並みを楽しみながら、徒歩で尾道御袖神社に行く。
 「学問の神様」となった菅原道真公が祭られているから来たのではなく、この神社に登る階段を見たかったからである。
 大林宣彦監督の映画『転校生』で、尾美としのり氏演ずる「一夫」と小林聡美氏演ずる「一美」が、この階段を抱き合いながら転がり落ち、性が入れ替わっているシーンに使われた場所だ。
 階段を見て、映画と同じことを確認し、もちろんのことながら参拝した。

DSC00949 続いて千光寺山ロープウェイで街並みを見ようと、ロープウェイの駅まで徒歩で移動。駅までくると甘ーい香りが漂っていた。ワッフル専門店「コモン」であった。覗くと女性客しかいないようなオシャレなお店である。普段であればこの系統のお店には入らないが、いずれ自分のお嫁さんになってくれるような女性を連れてくるかも知れない(永遠に無いとの噂も)ので、工学のため入って、バターワッフルを注文。
 甘い物が苦手なので、メープルシロップをつけずに食べたが、軽い味わいでサクサクッと食べてしまった。

DSC00951 往復のロープウェイチケットを購入し、早速乗車。しかし、修学旅行生なのか、集団とぶつかってしまい、ロープウェイからの景色は楽しめず。
 だが、頂上では素晴らしい景色を楽しめた。ロケセットを見てみると、その大きさが改めてよく分かった。
DSC00952 また、坂や山など有機的な曲線で構成された、尾道のまちの美しさも分かった。
 頂上で、独りでバシバシとデジカメで写真を撮っていたら、20代のカップルにシャッターを頼まれた。

 「じゃあ、いきますよぉー、
       はい、ヤマトぉー!

 (カップル)「・・・・・・・」

ドン引きである。

DSC00954 修学旅行生でいっぱいにならないうちに帰りのロープウェイに乗車。
 同乗する案内のお姉さんと二人っきりという危険な状況?になったが、お姉さんは淡々と半音高い観光ガイド口調で説明を開始する。

DSC00956 途中で、お姉さんに近寄り

 「『男たちの大和』で
  お客さんは増えました?」

と聞いてみたところ、

 「えっえっ、すっ、凄いですよ。」

とあわてふためいた返事ののち、またも半音高い観光ガイド口調に戻り、説明をはじめた。すっかり、怪しまれたようである。

DSC00958 ロープウェイを降りてから、徒歩で曹洞宗天寧寺に移動。五百羅漢像をしばし凝視。亡くなったお釈迦様の教えを世に広める、悟りをひらいた五百人の弟子である。しばらく見つめていると、なんだか言葉には表せない気持ちになった。

DSC00959 天寧寺のあとは、ひたすら町歩き。商店街とチェーン系の企業の共存、路地裏のちょっと変わったお店の存在など、とにかく楽しく、そして参考になる仕掛けが多くあった。
 閉店時間となってしまい、立ち寄ることはできなかったが、銭湯を喫茶店に改装したお店は非常に興味深かった。

DSC00962 せっかく広島県に来たのに、牡蠣を食べていない事に気づき、地元のスーパーで半額になっていた広島産の生牡蠣や好物のじゃこ天を購入。
 これにエイショクの「広島納豆」で食事にしようと思ったが、もう一品ほしくなり、別のスーパーに行く。

DSC00963

 「きざみはもの皮」が売っていたので、ポン酢醤油とともに購入。
 ホテルにいそいそと戻り、ポン酢醤油で生牡蠣、鱧の皮を。ポットのお湯の湯気でじゃこ天を熱々にしてビールのつまみにし、夕食。
 つい納豆を食べるタイミングを逃してしまったので、明日の朝食べることに変更する。

 『ビートたけしのTVタックル』を見終わったところで小腹が空いたので、昼に食べたラーメンとは違うタイプのラーメンを食べることにした。
DSC00965 尾道にはキャバレー街があり、その近くに創業42年の老舗ラーメン屋があるということで、ホテルをでて、繁華街に向かう。
 スナックなどが立ち並ぶなか、ガラスショーケースのタバコ屋があり、本当に懐かしい感じがする。自分の家で煙草屋をやっていたときに使っていたガラスショーケースがまだ現役であった。

DSC00972 目的の老舗ラーメン屋「中華そば 一楽」に到着。まず、瓶ビールと餃子を注文。餃子は韮が思いっきりたっぷりと入っており、臭いなどを気にせず、ひたすらアチラ方面の効果も求める人間にはもってこいの餃子であった。ビールが終わったところで、紹興加飯酒「会稽山(カイケイザン) 600円」に切り替え。
DSC00973 「中華そば 450円」を注文。1957年に1杯45円でスタートしたラーメンだそうである。
 ダシは鶏で、あっさりと透明なスープ。尾道ラーメンの特徴と言われる背脂はまったくなく、昭和の正統派ラーメンといった佇まいである。スープをすすってみると、素直なクセのない、飽きのこない感じであった。
DSC00974 麺は、細いストレート麺。あっさりとしたスープにこれまた個性が強すぎない麺で、毎日でも食べられるラーメンである。
 また、お店を切り盛りしているお母さんと娘さんの会話も味わい深い。
 このお店の名物として、中華ちまきも有名なようであるが、すっかり満腹になっていたので、次の楽しみとして、お店をでた。

 ホテルまで歩いて戻り、23時過ぎに就寝。

2006年2月19日 (日)

旧海軍兵学校、呉大和ミュージアム

DSC00794 7時、起床。気持ちのいい朝、ホテルの部屋からの景色は最高である。今日は海軍関係を見学することもあり、思わず

「あ~さぁ~だぁ~夜明けだぁ~
   潮(うしお)の息吹ぃぃぃ~」

と『月月火水木金金』を歌いそうになる。

 9時過ぎ、ホテル前で三重県松阪市・奥野食品の奥野社長、K嬢と待ち合わせをし、呉市に奥野さんの車で移動。

DSC00795 11時、早速、大和ミュージアムに行こうとするものの、あまりの人出にひるんでしまい、まずは外にある展示物を見てから、食事をとることにした。
 映画『男たちの大和/YAMATO』の影響とはいえ、ひっきりなしに観光バスが到着し、中高年のご夫婦や若いカップルなどが入館している。
DSC00796 大和ミュージアムの入口周辺前には、「戦艦 陸奥」の40センチ主砲、スクリューなどが展示してあり、早くもマニアの心をくすぐる。
 「戦艦 陸奥」は、「戦艦 長門」とともに「戦艦 大和」が完成するまでは大日本帝国海軍の旗艦であり、当時世界最大の戦艦であった。初陣は昭和17年のミッドウェー海戦DSC00800同年7月に大和型の2番館艦である「戦艦 武蔵」の完成に伴い、「戦艦 長門」とともに第二戦隊に編入。昭和18年1月、横須賀に帰港して修理の後、柱島泊地に回航されて訓練をしていた矢先、同年6月8日12時10分、停泊中の「戦艦 陸奥」の第三砲塔付近から突然白煙を上がり、火薬庫が大爆発。mutsu艦体はまっぷたつとなり、沈没した。 これにより1474名の乗組員のうち、助かったのはわずか353名。1121名が艦と運命を共にした。原因はいまだもって不明であり、船体は昭和45年7月23日に引き上げられた。
*写真は、昭和12年1月30日、横須賀港での姿。
 「戦艦 陸奥」については、1960年に『太平洋戦争 謎の戦艦陸奥』として、映画化もされている。

DSC00809  大和ミュージアムの真ん前にスーパーマーケット「you me town」(ゆめタウン)があったので、地元の納豆を買う。売り場をウロウロとしていると、肉じゃが発祥の地対決として、舞鶴式と呉式で作った肉じゃがが売っていた。旧大日本帝国海軍の名物であったカレーや肉じゃがは、どこの鎮守府が発祥の地か競っている。
 しかし、それをキッチリ商売にするあたり、なかなかの商売人が多いと感心した。

DSC00812 朝食?として、スーパーのなかのフードコートの「ジャムザキッチン」で「鉄板スープカレー焼肉 680円」を食べる。少しパンチが足りないカレーであったが、熱々の鉄板にスープカレーをかけると、ジュワーッと香りが立ち、見た目でも音でも香りでも楽しめた。

DSC00805 食後、そそくさとスーパーをでて、大和ミュージアムへ。入場料500円を支払い、入場券を購入。入り口付近では、映画『男たちの大和/YAMATO』のプロモーション映像の上映とともに、映画で使われた配食缶や25mm機銃弾倉(15発)も展示されており、気分が盛り上がるような配置となっている。

DSC00807DSC00824 そして、いよいよ目的である1/10「戦艦 大和」とのご対面である。

 「デ、デカイ・・
     そして美しい」

*写真をクリックすると大きくなります。
 しばし見入ってしまった。
 館内の1階には日清戦争から大東亜戦争までの海軍の発展の仕方が詳細に紹介されており、なかでも支那事変から大東亜戦争、そして敗戦までを11分程度にまとめたビデオは秀逸であった。ただ、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」、宣戦布告がないときの「支那事変」を「日中戦争」と紹介しているところのみが残念である。gakuto そのビデオが流れているモニターの最前列で食い入るように見ていた、ご高齢と思われる白髪のご老人は、敗戦の「玉音放送」のシーンを見て大粒の涙を流されていた。周りの人との会話を聞けば、そのご老人は学徒として出陣し、最後まで戦いながら終戦間際の昭和20年7月20日に沈没した「航空戦艦 伊勢」に乗っていたという。
 また、館内を案内するボランティアのご老人の方もいらっしゃり、奥野さん、K嬢とともにお話を聞いてみると、小さい頃、自宅からドックに入っている「戦艦 大和」を見ていたという。話を聞けば聞くほど、「戦艦 大和」とそれを造った地元・呉市が好きで好きで仕方がないようであった。地元を愛する気持ちをこれほど強くもてるということを羨ましく思った。
DSC00823 館内はまだまだ特攻隊員の遺書や各種砲弾、未来の艦として『宇宙戦艦ヤマト』などの展示があったものの、13時には海上自衛隊呉基地に見学にいくことになっていたので、泣く泣くザックリと見てまわることに。
 山口多門中将の遺書は撮影禁止となっていたが、胸にせまるものがあった。
 いずれにしろ、また来てゆっくりと見たい。

DSC00828 13時、海上自衛隊呉基地のFバースに到着。受付をし、見学案内の開始時間を待つ。現在は隣国との関係もふまえて公開されていないディーゼル潜水艦ではあるが、停留しているので近くまでいって見ることができた。
 日本も早く原子力潜水艦を持つべきであろう。
DSC00834 今日は、海上自衛隊訓練支援艦 ATS-4203「てんりゅう」の公開である。この艦は、護衛艦の対空ミサイルの訓練を支援する艦である。つまり飛んでいる敵をミサイルで打ち落とす訓練を行う。
DSC00844 標的機としてファイアビー・チャッカー(飛行機形)もしくはチャッカー(ミサイル形)を飛ばし、これを撃つ。ただ、毎回撃って壊しては予算ももたないので、外れるように撃ち、後で回収し修理するそうだ。
DSC00835 62口径76mm単装速射砲に見入る人も多かった。しかし、個人的には先に「戦艦 陸奥」の40センチ主砲を見てしまっているので、迫力という点では不足の感あり。

DSC00839 「てんりゅう」の横には、イージス護衛艦 DD-176「ちょうかい」が停泊しており、多くの見学者がその艦体をバックに記念撮影をしていた。
 個人的には、柏崎まで乗せて帰ってもらい、そのまま配備してもらいたい思いであった。(港の浚渫は必要)

 冷静に考えれば、一日で旧大日本帝国海軍「戦艦 大和」と海上自衛隊の最新鋭イージス護衛艦を見たことになり、ある意味凄い。まるで、ミッドウェー海戦のど真ん中に最新鋭イージス護衛艦がタイムスリップした設定の漫画『ジパング』のようである。

DSC00847

DSC00848 見学終了後、フェリー発着の港に行き、高速船(450円)にて、江田島に移動。港から海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校までバスで移動。
DSC00849 15時からの見学コースに申し込み、時間までの待ち時間、敷地内部のコンビニで軽い昼食として、「スープはるさめ」、「野菜一日これ一本」をとる。

DSC00851 15時、広報展示室に行き、まずは見学の説明を受ける。案内して頂くのは、潜水艦に20年乗っていており、現在は退官され案内業務を請け負っているというE氏と16歳の生徒さんである。
 ユーモアたっぷりのE氏は、

 「ここに旧海軍の軍人さんだった方はおられませんかー、
  戦争のことも話すので間違ったら怒られますので」

といきなりカマしたものの、日本の運動会の始まりが明治6年にこの兵学校からはじまったことから説明し、見学者からは「おおぉー」の感嘆の声があがった。

DSC00853 威風堂々という言葉が似合う「大講堂」は、大正6年の竣工、使われている石は、国会議事堂と同じ山口県の黒髪島の御影石。国会議事堂より手入れが良いのが綺麗な感じであり、銅板で覆われた屋根はいい感じで緑青色になっている。イスなしで2000名収容可能であるが、マイク設備はない。uu ただ、音響的な作りが非常に良く、マイク無しでも全員に声が通るという。E氏曰く、

 「私が現役のときはねぇ~、
 全員立ってましたよぉ~
 今はイスなんかだして、たるんでますな」

とのことである。
 正面の彫刻は知恵の神ミネルバの使いであるフクロウになっている。ありがたい感じがするので思わず記念撮影。
 「ミネルヴァの森のフクロウは夜とぶ」ヘーゲル

DSC00861 明治26年竣工、赤煉瓦でできた幹部候補生学校。イギリスから軍艦でもってきた良質の煉瓦を使ったそうで、手触りも良い。

 「皆さん、触ってください。いい肌してますから。
  ここで、あの煉瓦に勝てる肌はそこのお嬢ちゃんだけかな」

DSC00858と女性に対する微妙な発言も忘れないE氏。
 幹部候補生学校の長さは144メートル。「戦艦 大和」が全長263メートルなので、いかに「戦艦 大和」が大きかったのかも理解できた。

DSC00857 ずっと女人禁制であったため、植えられた松も男松のみ。ただ、1本だけ女松がいつの間にか生えてきたそうで、それはそれで切ることはなく、大切にしているそうだ。

DSC00862 「女性の皆さん、
  自衛隊入るなら海上ですよ。
  これ見ても分かるでしょー。
  自衛隊のなかでも女性に一番優しい」

とE氏、絶好調。
 建物内部の照明の配置についても、照明学会で表彰を受けたそうである。

DSC00866 今日の大きな目的である参考館に向かう。
 参考館の横には、「戦艦 大和」の主砲弾、日清戦争で活躍した三景艦で使用した主砲弾があった。「戦艦 大和」はいわずもがな、三景艦は国威を発揚するため、日本の景勝、「松島」、天の「橋立」、安芸の宮島「厳島」の三大名所の名をつけた艦のこと。
DSC00864 二人乗りの特殊潜航艇「甲標的」もあった。日本ではここにしかないそうである。この「甲標的」は、真珠湾攻撃に参加したもので、昭和35年、米軍によって引き上げられ、横須賀経由で江田島に運ばれた。当時、艇体頭部は切断されていたそうだが、昭和37年に復元されたとのこと。

ari  真珠湾攻撃の航空部隊による奇襲が行われる前に、真珠湾内に「甲標的」5隻が侵入していたが、アメリカ海軍の「駆逐艦 ワード」の攻撃を受け、4隻が撃沈。失敗した1隻のうち1名が戦死し、この9名が「九軍神」と呼ばれた。生き残った1名である酒巻和男海軍少尉は「軍神」にはならず、捕虜となったことは終戦まで公表されなかった。

DSC00863 いよいよ参考館である。内部は撮影禁止。まっすぐ階段を上がると東郷平八郎元帥、山本五十六元帥、そしてネルソン提督の遺髪室である。どういう作法でお参りすれば良いか分からず、とりあえず手を合わせる。2階は、江戸末期からの兵学書、咸臨丸、坂本龍馬の資料、日清戦争をはじめとする数々の資料、そして山本五十六元帥の胸像があった。長岡の山本五十六公園にあるものと同じもの。
 そして、山口多聞中将の資料、真珠湾攻撃の「9軍神」をはじめとする海の特攻隊「回天」搭乗員や神風特攻隊の遺書。シドニーの海軍葬の資料もあった。
 両親や妹、弟を守りたい一身で、家を継ぐべき立場ながら、血で志願の理由を書いた者の遺書や血判状は見るだけで胸に迫り来るものある。遺書も20代前半、10代後半としては美しい字であり、胸打つ文章である。
「神風特攻隊」映像
 K嬢もじっくりと見ていたようで、二人して集合時間に遅刻。30分の見学時間しかなく、1階にある展示物を見ることができなかった。非常に心残りである
 奇跡の艦「駆逐艦 雪風」の舵輪など、見たいものが他にも多くあった。
 一般見学コースとは違う申し込みで見学できないものか、後日検討したい。

flag  見学も終了となり、戻りながら日章旗の説明になった。
 日章旗は安政元年、ペリー来航の後、薩摩藩主の島津斉昭が日本の国旗として提案したもの。その後、明治3年(1870年)の太政官布告第57号商船規則に基づき、日本船の目印として採用されたのが最初であったが、当初はあまり普及せず、実際に日本の国旗として認識され始めたのは、日清戦争のときである。
 ちなみに、その洗練されたデザインゆえ、明治新政府が樹立した際、フランスが当時の価格で500万円で売ってくれと申し出たという。当時は、明治維新後の財政難で金は幾らあっても足りなかった。500万円は喉から手が出る金額なものの、首脳陣は1000年の歴史を持つ日章旗を手放してはならない、

「国旗を売り渡す事は、
       国家を売り渡す事」

として、売却話は幻に終わった。
*泉欣七郎・千田健共編『日本なんでもはじめ』ナンバーワン社では【フランス】、安津素彦著『国旗の歴史』では【イギリス】となっている。

 最後に案内してくれた生徒さんにも、

 「軍事を学ぶとともに歴史を学んでね。
  太平洋戦争じゃないよ、大東亜戦争だよ」

と話しかけ、敷地を後にした。

DSC00868 江田島から呉市に戻ったところで、辺りも暗くなってしまったので、「呉の屋台」街まで徒歩で移動し、3人で「飲み飲み」。
 【歴史の見える丘】の「噫(ああ)戦艦大和塔」DSC00870や「旧呉海軍工廠礎石記念塔」、そして「戦艦大和戦死者之碑」等78基の合祀碑がある【旧海軍墓地長迫公園】に行けなかったことが残念である。江田島の教育参考館のこともあり、再度、呉市と江田島は訪れなければならないようである。
 おばちゃん独りでこなしている屋台「龍王」に入り、まずは瓶ビールで乾杯。少し汚れかけたコップも屋台の醍醐味である。
DSC00873DSC00875 モウモウと湯気を立てているおでんを数品つまんだ後、揚げ餃子気味に表面が油でカリッと揚がっている「焼餃子」、「豚耳の網焼き」「牛ホルモン焼」などでグイグイと飲み進む。ビール8本、焼酎お湯割りを空けたところで「おばちゃーん、ごちそーさまー」と河岸を変える。

DSC00876 チェーン展開している「珍豚香」にて、再度ビールを飲みつつ、「スペシャルラーメン 710円」でシメとする。
 店の前の掲げられたキャッチフレーズ「三度食べて初めてわかるフランス仕込みのすごい味」という、古いんだか、新しいんだかわからない感覚にちょっと惹かれたのである。奥野さん、K嬢は「美味辛つけ麺 890円」。DSC00881DSC00882スープはトンコツ系、麺が博多ラーメンのようなストレート麺。個人的にはスープはなかなか美味しいと思ったものの、絡み具合にやや難ありという感じであった。やはり三度食べなければならないのであろうか。

DSC00884 奥野さん、K嬢と分かれ、宿泊先の呉阪急ホテルに行く。部屋にはベットの他に机もあり、仕事をするにはもってこいの環境であったが残念ながら無線LANがなかった。
 かなり充実した一日だったため、パソコン上にまちづくりなどについて気付いたことをメモするだけで眠くなってしまった。23時過ぎに就寝。          

2006年2月18日 (土)

広島・原爆慰霊碑とパール判事

F1000001 7時、起床。サウナや長風呂でサッパリしたのち、カプセルホテル内のレストランで「納豆定食 300円」で朝食。
 カプセルホテルをでて、スーツや不必要なものを段ボール箱につめ、自宅に送り、身軽になってから羽田空港に向かう。

 10時過ぎ、羽田空港に付き、カウンターでチェックインをしてみると、チケット手配会社のミスで予約を入れてあったのは9時前に出発する便であったことが分かった。あわてて、便の変更をお願いし、なんとか移動できることになった。

F1000002 安心し?お腹がすいたので、ターミナル内のパン屋さん「PAUL」でカンパーニュとパン・オ・フロマージュ・フェメとお茶を購入し、昼食。カンパーニュは、よくレーズンや胡桃が入っているものが売っているが、やはり何も入れず、何もつけずにプレーンなものを食べるのが一番美味しいと思う。

F1000005 ちょっと量が多かったことと、広島ですぐお好み焼きを食べたいので大半を残して、今夜の夕食か何かにすることにする。
 機体の変更で10分遅れになったものの、ANA677便で広島空港に移動。

DSC00718   広島空港に到着し、1300円のバスで広島駅に移動。
 広島駅に着くと同時に、ソースの焼ける香りに誘われ、「お好み焼き みっちゃん」で「特製スペシャルそば入 1260円」を注文、ついでに157円増しでご飯、味噌汁、つけものをつけての定食にできるとのことだったので、「定食セット 157円」を追加。

DSC00723 そんなに空腹ではなかったが、お好み焼きをおかずにご飯を食べる「炭水化物めし」をやってみたくなったのである。パリパリとしたそばの食感香ばしく、複合したうねりのある美味さのお好み焼きを楽しむことができたものの、ご飯は冷たくカピカピ、味噌汁はほぼ水と同じ温度であった。

DSC00725 味噌汁の温め直しをお願いすると、お椀のまま電子レンジに入れたようで、味噌汁の外側だけが熱く、結局中心部は冷たいまま。
 お好み焼きが美味しかっただけに、この点は非常に残念である。結局、なにか気持ち的に完食する気にならず、早々に店をでた。食べ物を残さないことをモットーとしているが、今回だけは勘弁という感じであった。

DSC00727  駅から歩いて、まず向かったのが、広島護国神社。ここには、戦没された英霊はもとより、勤労奉仕をしている最中に原爆の犠牲となった動員学徒、女子挺身隊も祀られている。
 小泉首相の私的参拝?のポケットから小銭をチャリーンではなく、正式な神道式で参拝。

DSC00729 このすぐ近くに「中国軍管区司令部の地下通信室跡」(こう書くと現在の『中国』と間違うので、やはり『支那』の名称は使う必要がある)とその慰霊碑がある。大東亜戦争当時、広島城周辺には中国地方の司令部関係の各建物があったが、原爆の投下地点から約700メートルのこの地は、原爆の炸裂と同時に壊滅。半地下式のこの司令部通信室だけがかろうじて残った。そして、この地下司令部通信室から、学徒動員で来ていた比治山高女の14才の女学生、岡ヨシエさんが、「広島全滅」の第一報を送信したという。

DSC00735 さらに、広島城内には日清戦争時の大本営の跡地もある。1894年10月18日から22日までこの地では臨時帝国議会も開かれ、「臨時軍事予算案」が満場一致で可決。1895年4月17日に日清講和条約が調印されるまで日清戦争の指揮命令系統がここに集中していた。

DSC00736 原爆投下地点から約700メールであっても、いまだ生命を息吹きを感じさせる木々を抜けて、原爆ドームに向かう。
 原爆ドームに来るのは3回目である。いつ来ても、人があふれているが、お約束と言えようか、「日本の侵略戦争、過ちをアジアに謝りましょう」的な署名や募金を集めている集団があった。その集団のなかから中年の女性がこちらに向かってきて、核の怖さや日本の悪さを盛んに私に説明を始めた。

DSC00740 「この悲劇を反省して、
  世界に核兵器をやめるよう
  訴えるべきと思いませんか。」

とおっしゃるので思わず、

 「核による無差別殺戮を反省するのは
  まずアメリカじゃないんですか?
  被爆国が先に反省をするんですか?」

と思わず、反論してしまった。
_1 中年の女性はキョトンとした顔になってしまったので、大人気なかったと反省し、中年の女性のあとをついてきた小さな女の子に話をズラした。
*写真は被爆前の原爆ドームの建物
 その女の子は娘さんで、いずれインドに留学させ、ガンジーのような平和を愛する人にしたいという。(本当に偶然とは恐ろしいものである)ちょうど、インド絡みの話をやっている最中であり、また平和に対する思いは一緒なので、100円を募金した。
 最後は気持ちよくその場を分かれたが、インドは核保有国であることは知っているのか心配である。

DSC00748 原爆ドームから平和記念公園に行き、原爆慰霊碑の前で手を合わせる。
 主語が何であるかが問題であろうが、いつ見てもこの碑の

 「安らかに眠って下さい
     過ちは繰返しませぬから」

には違和感を感じる。
 昭和27年に、この原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませぬから」を見たパール判事はこうコメントした。

 「東京裁判で
 何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグが
 これほどまでに日本人の魂を
     奪ってしまったとは思わなかった。
 東京裁判の影響は原子爆弾
             の被害より甚大だ。」

 そして、同じく昭和27年11月6日、広島高等裁判所での講演では次のように述べた。

 「私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れてゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。
 誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。」

               参考文献:平成7年8月1日『やすくに』

 胸につかえるものがありつつも、バスで宿泊先の広島プリンスホテルに移動。

_2  18時、ホテルにつくなり、宮島の厳島神社を船上から参拝するツアーがあるというので、あわててホテル1階のコンビニでビールを購入し、参加する。3300円で、もみじ饅頭付きである。
DSC00754  船は約13ノットで進んでいたそうだが、結構なスピードを感じていた。波しぶきも凄い。普段、船に乗らない人間にとって、13ノットという数字と体感スピードを比較できたのは幸いであった。しかし、あの「戦艦 大和」は最大速力27.46ノット。まさに化け物である。

DSC00791  海上の厳島神社正面より参拝することができた。夜の厳島神社は幻想的であり、景色だけでも十分楽しめた。
 20時過ぎ、ホテルに戻り、朝方買ったパンを少しつまみつつ、ビールを飲む。

 せっかくなので、ホテル最上階23階のラウンジ「トップ・オブ・ヒロシマ」に行き、夜景を見ながら生演奏のジャズを聞く。カバーチャージ730円。「ジン・トニック 1160円」「オリジナルカクテル 弁慶 1300円」(弁慶を表現するため、黒いウォッカベースでティッシュがグラスにかかっている)を飲む。
 疲れもあり、23時に就寝。

2006年2月17日 (金)

頭山満生誕150年祭

 早朝4時過ぎに池袋に到着。そのままマンガ喫茶に入り、資料の作成や仮眠。

 8時過ぎ、知人の会社に遅ればせながらの新年の挨拶にいく。

 11時、チャンネル桜に行き、若干の打ち合わせ。12時から近くの定食屋にて、サーモンの西京漬け定食(時間がなく、写真取り忘れ)で昼食を取りながら、若手保守議員の今後の活動についての打ち合わせ。食後に、喫茶店に移動し、カフェ・オレを1杯。

 13時、外交評論家の加瀬英明先生、杉並区の松浦芳子議員、チャンネル桜水島総社長以下のスタッフとともに、外務省に行く。もちろん、インド訪問に関しての協力依頼である。加瀬先生クラスの人物であれば、通常、外務省の課長クラスは逆に訪ねてくるとのこと。しかし、今回はお願いする立場である。玄関の厳重なチェックを受け、担当課と打ち合わせ。快く、協力してもらえることなり一安心。

 15時、新宿に一度でて、紀伊国屋で参考書籍探し。地方自治体間の競争の時代である。どの自治体がどんな事に挑戦し、成功もしくは失敗しているのか、情報をより多く集めることが重要と思う。

_1 18時30分から信濃町に移動し、徒歩で明治記念館に移動。
 移動途中に。かの東横イン社長の自宅があり、あまりの豪華さに驚く。
 今日は、「頭山満生誕150周年祭」である。
*写真は、孫文と神戸にて会談している頭山満
DSC00703 頭山満は、「立雲」を号として、自由民権運動を立ち上げ、金玉均、孫文、ビハリ・ボースなどのアジア独立運動家を支援した人物である。
 現在、反日を国策としている中華人民共和国。その国の父と言われる孫文を物心ともに支援したのが頭山満をはじめとする日本人であったことを現在の中国政府にはよく理解してもらいたいと思う。
DSC00710 今回の会の代表発起人は、平沼赳夫衆議院議員をはじめ280名余。保守系と言われる政治家から民族活動団体など多種多様な人間で会場は1000名を超える人数となり、立食パーティながらも料理の近くにもいけず。会場も一つではおさまらず、第2会場のモニターを見ながらの参加となった。
 会場には、名越二荒之助先生や国民新党代表代行となった亀井静香衆議院議員もいらっしゃりご挨拶をさせてもらう。
 伊藤好雄氏にもお会いした。話には聞いていたものの、ご本人に会うとは思わなかった。伊藤好雄氏は、三島由紀夫の「楯の会」創設メンバーであり、解散まで実動部隊班長。昭和52年(1977年)には、故野村秋介、森田忠明、西尾俊一氏とともに、経団連を襲撃した人物である。現在は、NPO法人モンゴル緑化日本協会などで活躍されているとのこと。ちなみに、新潟刑務所に服役後、1982年に出所している。

DSC00706 食事をとれなかったので、杉並区の松浦芳子議員、チャンネル桜のS嬢と明治記念館の本館「憲法記念館」のラウンジ「Kinkei」で軽食。
 ヒレカツサンドセット、コーンポタージュ付きを注文した。
DSC00707 この建物は、明治14年(1881年)に建てられ、明治21年には明治天皇ご臨席の大日本帝国憲法草案審議の御前会議が開かれた、歴史あるものである。
 明治40年(1907年)、伊藤博文に下賜。大正8年(1918年)に明治神宮(奉賛会)に奉献され、現在の場所に「憲法記念館」として移築された。昭和22年11月1日「明治記念館」の名称となり、「明治神宮」の結婚式場として開館したそうである。
 松浦議員は、この場所で結婚式を挙げるのが夢だったとのこと。
 話はいつの間にか私の結婚話になってしまい、耳に痛い時間となった。
 ちなみに、軍事ジャーナリストであり、チャンネル桜『防人の道 今日の自衛隊』キャスターでもある井上和彦さんは、靖國神社で結婚式を挙げたそうである。ある意味凄い。

 「頭山満生誕150周年祭」は、評論家 松本健一氏による講演「大アジア主義と頭山満」、憲法・皇室法研究家 田尾憲男氏による講演「頭山・葦津の精神継承と現下の危機」ののち、帰りに配布資料を頂戴し、終了。資料は以下の書であった。

 頭山満著『南州遺訓』、没後40周年特集「小日本」
 葦津珍彦著『大亜細亜主義と頭山満』


DSC00711アジアと日本の魂
       
武士道精神の継承を

頭山満翁生誕150年祭趣意書

 「日本の明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は第二の明治維新である」と日本亡命の孫文が語ったごとく、明治維新はまさに西洋列強からの東洋開放の序幕でした。
 幕末そして明治維新に始まる日本の近代の歴史は、アジアの諸国民に対して大きな衝撃を与え、民族の独立と維新変革への覚醒をもたらしました。アジアの諸地域からは、多くの青年や革命の志士たちが、日本に学ぶために留学し、あるいは日本人を頼って亡命してきました。とりわけ中国大陸や韓国、それにインド、フィリピン、ベトナムなどから、革命の志士や独立運動家が次々に日本を訪れ、当時の東京は、あたかもアジア諸国の革命と独立運動の亡命基地の様相を呈していました。
 アジアの同朋として彼らの志を受け入れ、明治維新の尊王攘夷の精神に基づくアジアとの連帯意識と、日本の武士道精神でもって彼らを庇護し、協カと支援の手を差しのべ、時に革命の同志として中国大陸などで生死の行動を共にしたのは、日本の在野の志士浪人たちでしたが、その中心的人物だったのが頭山満でした。頭山は、亡命者らを温かく援護しただけでなく、犬飼毅らとともに辛亥革命後に自ら中国に赴いて、革命の援助も行いました。
 また頭山は、維新の英傑西郷隆盛の精神と理想を継承し、明治政府に対する自由民権運動や不平等条約の改正から、昭和の満州問題や日華事変で日中の全面和平を求めて尽カするなど、明治・大正・昭和の三代に亘って大きな影響カを行使した存在でした。昭和19年に没して後は、敗戦で歴史観が大きく転換しましたが、戦後においても、頭山と彼の同志たちが抱いた理想と行動は、多くの人々の心に受け継がれてまいりました。残念ながら表の歴史からは故意に遠ざけられてきましたが、日本の近現代史の再評価が問われる現在、再び歴史の光を当てられて、必ずや甦る日が近いことをわれわれは確信するのです。
 今年は戦後60年になりますが、世界は既に14年前に、戦後の東西冷戦体制の崩壊ですっかり変わってしまいました。世界の各地で民族や宗教対立による新たな地域紛争や国際テロ戦争が続発しております。アジアの近隣諸国もその例外ではなく、しかもそのことが新たな摩擦の種ともなっております。こうしたなかで、我が国のみは未だに主権を失った占領時代につくられた憲法のままで、内外の危機への対応不全をきたし、今日、国民は漸く憲法の全面改正の緊要なることを痛感するに至りました。さらに、二千年以上にわたって堅持してきた、男系男子の皇位継承の大原則をも崩そうとする政府による皇室典範改変の危機も、既に生じております。
 このような困難な時代に遭遇する我々日本国民は、一体何を指針とし、どう行動するのが国家の為になるのか、その自問を繰り返す度に、政治家や官僚も含め、常識ある国民が、本来離脱の対象とされるべきいわゆる「戦後的価値」の呪縛から解き放たれずにいるのを自覚させられます。
 本年は、頭山満翁生誕150年を迎えます。この機会をとらえ、われわれは改めて我が国の近現代史を回顧し、本来の日本人としての魂を取り戻したいと思います。そして、アジア諸国民との魂に基づく関係を再び築き、日本の国柄に相応しい皇室典範と憲法体制を築く上で、西郷・頭山といった優れた先人たちが国家の危機に直面して苦闘した歴史を学び、そのなかから我々が堅持すべき指針と精神を掴み取って、我が国の誇りとする高貴なる武士道精神を継承していきたいと考えております。


 21時から東京電力勤務時代に知り合った某社営業マンと久しぶりに「飲み飲み」。大手メーカーも色々と大変のようだ。

 23時、近くのカプセルホテルに宿泊。

2006年2月16日 (木)

講演会、チャンドラ・ボースの遺骨

 2時就寝。4時30分に起床し、愛車のプリちゃん(メス)で上越市に移動。

_1  6時から直江津駅前のホテル・ハイマートにて、上越市倫理法人会の経営者モーニングセミナーにて講演。講演のタイトルは、「納豆、そして日本の歴史」。自己紹介から入り、会社の紹介、その後は納豆の栄養、歴史について。納豆の効能を日本人は経験的に知っていた話を例にだし、いかに先人が食を工夫し、知恵をしぼってうまく食材を使っていたか、日本人はもっと誇りをもっていいと主張。韓国、中国、インド、タイなどのアジアの納豆シリーズにいき、【インドネシアの納豆】テンペの話。テンペを紹介するとともに、お約束のインドネシア独立の話から、大東亜戦争、そしてアジアの歴史と日本を語る。最後に、政治家になった理由を亡父との想い出からお話し、終了。

DSC00690 講演ののち、出席された経営者の方々との朝食会。色々とお話していたところ、なんとインドネシア独立を描いた映画『ムルデカ17805』を自主上映された社長さんがいらっしゃった。人の出会いとは分からないものである。
この「17805」はインドネシア独立の
      皇紀2605年8月17日を表す。

 4月に行う予定の田形先生の講演会についても、チラシを配ったところ、多くの方から是非聞きたいとのことであった。ありがたい限りである。

 10時過ぎ、自宅に戻る。届いた平成18年2月15日付『防衛ホーム』を読んでいたら、先日行った「第2回中越地震チャリティコンサート」の記事がでていた。当日のビデオや中越大震災のビデオを素材に、早く「柏崎アワー」の構成をしなければならない。
 「紹介記事」PDFファイル。第12音楽隊の皆さんには感謝である。

DSC00692 14時からエネルギーホールにて、今年5月14日から行く満州柏崎村訪問団の打ち合わせ。太古洞開拓関係者であり、ソ連の侵攻後の満州の歴史などを調べていらっしゃる東京都調布市・池田医院の池田精孝先生がお見えになり、お話を聞く。
 長崎に原爆が落ちたのを確認したかのように、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州に侵攻。満州を守っていたはずの関東軍は武装解除し、早々に撤退。幼い我が子を抱えた母親は逃避行できないとあきらめ、我が子の首に手をかける、我が子を川に沈める、山に置き去りにしてくる、子供のために支那人、朝鮮人の妻になった者。なんとか後から逃れてきたものの、見捨てられた幼い子供達を見つけ、自分の荷物を捨て子供を負ぶって逃亡し、途中で餓死した方など、涙無くしては聞けない悲劇があった。
 ただ「平和、平和」と叫び、日本が悪いと外国にお詫びしようという平和教育などは無意味である。こういった歴史を埋もれさせず、きちんと教えていくことが本当の平和教育であろう。

DSC00696  17時、大粒納豆、刻みキムチ、醤油煮昆布の納豆ご飯で昼食。
 19時から柏崎準倫理法人会の役員会&懇親会であったが、仕事が終わらず欠席。
 20時過ぎ、今日、満州柏崎村の件で初めてお会いした元刈羽村議からお電話を頂戴した。若い市会議員が柏崎にいると聞いていたので、どうせ旧・社会党系()のような人間だろうと思っていたものの、私の「大東亜戦争」発言で安心したとのことであった。
*旧・社会党、社民党が柏崎に多いことから

 明日の午前中から都内で打ち合わせがあるので、23時40分の高速バスで東京に向かう。

 4月に地方議員数百名とともにインドに行く訪問団の団長を、東京都杉並区の山田宏区長にお願いすることになった。
 なぜ杉並区かと言えば、インド独立の志士「偉大なる指導者」チャンドラ・ボースの遺骨が、杉並区の蓮光寺に納められているからである。
_2  チャンドラ・ボースは、日本の敗戦のあと、インド独立運動続行のためにはソ連の力を借りるしかない、との思いをもつ。
 昭和20年8月18日、ソ連へ向かおうと機体の点検もそこそこに台北の松山飛行場から大連に向かう途中、エンジンの故障により飛行機が炎上、墜落し、全身火だるまとなった。急遽、病院に運び込まれたチャンドラ・ボースはラーマン副官にこう遺言したという。

 「私の死も近い、私は一生を祖国の独立の捧げて今死ぬ。
 インド国民に独立の戦いを続けるよう伝えてもらいたい。」

*写真は、台北に降り立ったチャンドラ・ボース最後の姿。
 名越二荒之助編『昭和の戦争記念館 第4巻 大東亜戦争その後』

 遺体は火葬され、秘密裏に東京に運ばれた。しかし、どのお寺も政治的な配慮から遺骨の安置を断る。そんななか、杉並区、蓮光寺の望月教栄住職が引き受け、今日に至っている。蓮光寺では、毎年の命日8月18日に欠かさず慰霊祭が行われている。

 数研社『世界史事典』をはじめ、多くの世界史では、チャンドラ・ボースはインド国民軍(INA)を率いて、米英に宣戦布告、ビルマより進出して独立戦争を仕掛けるが敗北、連合国に降伏、といった説明がされることが多い。しかし、実際にはチャンドラ・ボースは最後まで降伏せず、ビルマより進出したインド独立戦争は、日本軍も多くの犠牲をだし、大東亜戦争の3大愚戦(ミッドウェー海戦、ガダルカナル島)にも数えられるインパール作戦であった。
 インパール作戦については、後日書きたい。

 チャンドラ・ボースの遺骨をインドに返還するべく、インド独立に関わった元日本兵やチャンドラ・ボース・アカデミーと蓮光寺の方々が、戦後、外務大臣にネタジの遺骨返還に対する協力の要請を重ねている。
 平成2年4月10日、海部首相のインド訪問の際、遺骨返還の請願に対しインド政府からの返電が届き、また実際にアカデミーの方々自らがインドを訪問し、遺骨返還について話し合ったが、いまだ遺骨返還には至っていない。
 これは、インドの内政情勢や米ソ冷戦下における日本とインドの関係があった。
 チャンドラ・ボースのライバルの政治家であったネール一族が政権与党にいる間、チャンドラ・ボースのことは評価されず、またイギリスからの圧力もあり、学校の歴史教育で教えられることはなかった。
 しかし冷戦も終結し、インド国内においても、それまで政権を独占してきたガンジー・ネールの国民会議派と対立関係にあり、チャンドラ・ボースを支持するインド人民党(BJP)が平成8年の総選挙で第一党となった。
 インド独立50周年、チャンドラ・ボース生誕100周年にあたる平成9年には、チャンドラ・ボースを再評価する動きがはじまり、「カルカッタ空港」は、「ネタジ・スバス(チャンドラ・ボース)空港」(The international Netaji Subhash Airport)と改称、インド国会議事堂内にはチャンドラ・ボースの銅像が建立され、彼の誕生日(1月23日)は国の祝日と定められた。
 平成10年には、インド人民党のバジパイ首相を中心とした連立内閣が発足し、チャンドラ・ボースがインド独立の英雄として、歴史教育でも光を当てられることになった。
る。
 これ以外にも小さな出来事としては、インド独立20周年の昭和42年、日本国内でビハリ・ボースや孫文に協力し、チャンドラ・ボースも支えた頭山満が、彼に贈った日本刀がインドへ返還され、インド国内でチャンドラ・ボースの再評価が進むとともに感動をよんでいる。また元インド国民軍へ年金が支給が開始され、国会議事堂にチャンドラ・ボースの写真が掲げられた。
 また平成3年には、インド文民に与えられる最高位の名誉「インドの宝石」がチャンドラ・ボースにおくられた。

 とここまで書いておきながら、実態としてまだ遺骨は返還されていない。それは、彼の遺族をはじめ、出身地であるベンガル地方の人間がチャンドラ・ボースの死を認めていないからである。一部には、ベトナム戦争で指導していたとか、そんな噂もあるほどであり、それだけ尊敬されている。未だにチャンドラ・ボース死亡調査委員会がある。
 ただ、現実的にはバジパイ首相(平成13年12月9日)をはじめ、歴代のインドの指導者は蓮光寺を参拝している。

2006年2月15日 (水)

コマネチ強要?地方議員年金

 結局、徹夜をし5時過ぎに資料作成終了。6時から経営者モーニングセミナーであったが、申し訳なく欠席させてもらう。7時から10時まで仮眠。

 10時過ぎ、来客。髪の毛もボサボサで目も真っ赤の状態で玄関にでてしまい、恥ずかいばかり。話が終わったところで、ご飯を瓶詰めのナメタケでかっこんでブランチ。2件の打ち合わせ。

DSC00679  21時、親子丼、まいたけの味噌汁、冬菜のおひたし、引き割り納豆で夕食。ちょうど、東條由布子さんからお電話があり、皇室典範のことなどをお話した。現在、東條さんはインドのインパールに遺骨収集に行くべく、関係各所と計画をつめているとのことであった。大東亜戦争の最高責任者(A級戦犯ではなく)であるお爺様・東条英機元首相のこともあるのであろう。日程さえ合えば、いつでもボランティアでのお手伝いしますとお伝えした。インパールだけでなく、アジアの各所に英霊の遺骨がまだ残っている。

_2  高鳥修一衆議院議員の秘書から先日の自民党新潟県支部青年局大会で、杉村タイゾー衆議院議員と撮った写真が送られきた。感謝。当日、多くの人が握手しながら、「頑張って下さい!」と言っていたなか、私は

「杉村先生!コマネチしましょう、コマネチ」

と訳の分からないリクエスト。案の定、写真を見たら、コマネチをしていたのは私だけであった。

「チャン、チャカチャンチャン、チャチャチャチャンチャン~
 チャン、チャカチャンチャン、チャチャチャチャンチャン~
 触れ合いのつも~りで、コマネチ誘ってみたらぁ~
 結局ぅー独りでやってましたぁ~
 チックショー
小梅太夫風にムーンウォークをしながら・・

 昨日、事務所に来られた方から議員年金のことについて質問を受けた。国会議員の議員年金はあまり意味のないような改革になってしまったが、それに対し、地方議員はどうかというと、年金の払い込みを毎月4~5万円ほどをし、議員勤続10年を超えてはじめて受給資格がでてくる。もちろん、国会議員のような国庫負担割合の大きいものではない。実際に現在の地方議員の年金制度は破綻寸前の財政状況であり、この平成の大合併で市町村議会で在任特例を使い、村議や町議は市議などの議員年金の資格を得て、引退というご高齢の議員が多いため、破綻までさらに加速している。
 私の立場は払い込み損となるであろう世代である。
 全国若手市議会議員の会のメンバーが集まったときも、盛んに話題となる。
 知事や市長などの首長には退職金もあるが、議員は選挙に落ちたらそこまで。
 このまま中途半端な状況にしていると、若い世代も政治の場にでてこず、それこそ生活保障を得るために汚職に走る人間もでてくる。地方議員は自分が選挙に落ちても支持者とのお付き合いは続く上、何かと出費が多いのは紛れもない事実であろう。地方議員の年金問題は、地方自治の制度設計、そして地方議員のあり方そのものを考える必要があると思う。
 そもそもの地方議員の年金制度は、「議員の生活保障」という目的で設置されている。完全に廃止した場合には、単純化すれば、お金に余裕のある人や世襲が主となり、多種多様な人材が議員になることはなくなる。仮にお金に余裕がなく議員になった場合、生活のために副職や汚職に走る可能性が増えるであろう。
 世界の地方議会はどうであるかといえば、条件をなしに全部の議会、全部の議員を対象にしている国は世界でただ1つ、日本だけである。アメリカやスウェーデン、ドイツ等では、大きな自治体で議長や常任委員会委員長など常勤性や責任の重い職務についた議員にだけをスポット的に導入している。
 個人的には地方議員年金を廃止しても良いものの、その分、議員定数を減らし、減額した予算を他の議員の普段の活動費にあて、十分な政治活動ができるようにすべきと思う。

 議員の活動はそれぞれであり、イデオロギーも含め、ある程度バラエティにとんでいる事はその自治体にとってプラスになるであろう。もちろん、全議員が一緒の方向を向くのも、ときには必要になろう。
 私の場合は、次のように考えている。「地方分権の時代」は言葉こそ美しいものの、実際には自治体間競争のスタートである。その自治体がいかに情報発信能力をもち、全国や世界に通じるブランド力をもつのか否かが、「勝ち組」になるかの瀬戸際と考える。
 現在の自分の活動として、国の在り方も考える「草莽崛起」の地方議員という志のほか、全国各地に行き、国会議員や官僚、他の自治体の議員や多くの人とのネットワークを構築する活動をしているのは、その点を考慮しての事である。自分が政治の世界から降りた場合でも、次にバトンタッチできるようにもしておくべきとも考えている。
 自分自身の悩みどころは、その活動の資金は現在の議員報酬(手取り30万円、うち冠婚葬祭等への出費、印刷代などの事務費、次回選挙資金の積み立て、交通費など)では不足するため、結局、商売もやりながらの活動となり、政治に没頭する時間が相殺されてしまっていることだ。
 議員年金、議員報酬、議員活動、地方分権、これが次世代の政治家がでてくるかどうかのキーワードになると思う。

2006年2月14日 (火)

軽巡洋艦 矢矧(やはぎ)

F1000002

 1時過ぎ、酔っぱらいのお約束でラーメンでシメることに。某ラーメン店に入り、生搾りグレープフルーツサワーとつけ麺。またも太るモトである。2時に自宅に戻り、風呂に入って3時過ぎに就寝。

 寝坊し、9時起床。朝食とる間もなく、そのまま電話での小売業開業についての相談業務。

DSC00677 14時、妹が買ってきた鶏の竜田揚げパン、チーズフランスパンをもらってブランチ。
 2月議会での一般質問のため、地域の防犯活動をされている方やボランティア活動をされている方に電話でお話を聞く。こういうときに限って、複数の携帯電話や会社の電話が鳴ってしまう。日頃の行いが悪いのであろうか。
 「日本で一番安全な街」となるためには、海上自衛隊の誘致はもとより、子供も安全も重要である。子供を持つ親だけではなく、お年寄りから中学生、高校生、大学生にも小さな子供を見守るという意識をもつ施策もしくは事業が必要であろう。

 夕方から夜にかけて来客が多々あり、バレンタインの日ということで、ありがたくもチョコを頂戴した。
 本来であれば、今日は柏崎準倫理法人会の役員研修会であったが、資料を作らなければならないので欠席させてもらう。

DSC00678 21時、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、チキンシチュー(ブロッコリー多め)、キムチ納豆、なめ茸、かつおの塩辛、甥っ子が残したウインナーでの冷蔵庫内の余り物で夕食。
 食後もひたすら調査と資料作り。
 そういえば、16日に上越市倫理法人会で行う予定の講演の資料作成をすっかり忘れていた・・・・・。

 映画『男たちの大和/YAMATO』の勢いが未だ衰えず、ロングランも決まり、観客動員数340万人、興業収入も42億円を突破したそうだ。世界40カ国計100社からオファーや、ベルリン国際映画祭のフィルムマーケットへの出品もあるとのこと。さらに、角川春樹氏のインタビュー記事によれば、こんな現象もあるという。

『知人から、こんな話も聞いた。
 京都の映画館でのこと。上映前、茶髪、ピアスの十代の少年たちがポップコーンをほおばりながら大声でしゃべっていた。「困ったなあ」と思っていたが、映画が始まるとシーンとなり、中盤あたりから嗚咽(おえつ)が漏れてきた。終わった後、少年たちは座席の下に落ちていたポップコーンのかすとゴミを拾って帰っていった。
(中略)
 この映画には二つのメッセージを込めた。ひとつは『生きている勇気と意味』。それに『日本人としての誇りと自覚』。それが日本の若い人たちの魂のスイッチを押した。きちんと受け止めてもらえたことに感謝し、感動しているんです』

平成18年1月29日『中日新聞』「人語り」 記者・鈴木裕一氏

DSC00596 以前にも書いたが、「戦艦 大和」だけではなく、一緒に運命を共にした艦もこの映画で描いてほしかったところだ。台詞の上では、「7000名の命を預かっている。無駄死にさせるわけにはいかない」があるので、「戦艦 大和」の3000余名だけでは映像的に不足してしまう。
 「戦艦 大和」の最後となった菊水一号作戦は、沖縄までたどり着き、生き残った艦は陸岸に乗り上げ(座礁状態)砲台となり、全弾を射ち尽くすまで陸上戦闘、さらに生き残った将兵は上陸して敵陣に斬りこむという、まさに特攻作戦であった。_1そのため、46センチ主砲をもつ「戦艦 大和」を護り抜き、必ず沖縄まで連れて行こうと、「阿賀野」型の新鋭艦であった「軽巡洋艦 矢矧(やはぎ)」が旗艦として同行している。
*写真は同じスケールのプラモデルで、奥から「戦艦 大和」「軽巡洋艦 矢矧」「駆逐艦 雪風」

yahagi 左の写真は、昭和20年4月7日 14時05分、爆弾56発、魚雷17本、機銃弾9970発以上を浴びた「軽巡洋艦 矢矧」が沈没するところである。
 この写真を見ていると将兵、そして「軽巡洋艦 矢矧」の断末魔の叫びが聞こえるような感じがし、胸に迫り来るものがある。この18分後の14時23分、北緯30度43分、東経128度04分に「戦艦 大和」が沈没した。
 「矢矧」の名は、その後、海上保安庁にて「やはぎ級 巡視船」として引き継がれた。

2006年2月13日 (月)

講演会企画「伝説の男」田形竹尾

DSC00676  5時就寝。9時起床、某社の試作品昆布納豆で朝食。昆布納豆は旨味成分も増え、非常に美味しい組み合わせであるが、昆布の量や発酵の邪魔となる塩分の問題が残る。今回の昆布納豆は昆布の量は適量であったように思う。

 午後から来客。女の子の赤ちゃんを見ることができ、心が和む。

F1000001 19時から某所で、飲みながらイベント関係の打ち合わせ。今まで拡大の方向でイベントを実施し、またその動員客数も伸びてきているものの、反面、運営のための予算は激減し、またスポンサーからの収入も伸び悩んでいる。ここ数年間は、ボランティアとして事務方を請け負った人間がポケットマネーで運営費を補填する状況が続いたので、もちろんのことながら次の世代が育たず、事務方の受け手もいない。ここは【決断】のときであろう。

 2次会として南町のスナックにタクシーで移動。お約束でカラオケを歌う番になったので、年齢層も考慮し、時代劇『江戸を斬るII』の主題歌、西郷輝彦「ねがい」をリクエストするもDAMにはなかった。そこで、ウケ願いで同じく時代劇の『新五捕物帳』から、主題歌の杉良太郎「江戸の黒豹」を歌う。案の定、最初は引かれるものの多少のウケあり。2曲目は、秋篠宮妃紀子殿下のご懐妊をお祝いして『愛国行進曲』。『愛国行進曲』は、作詞:森川 幸雄、作曲:瀬戸口藤吉(著作権はすでに消滅)。個人的には、2番の歌詞がお気に入りである。

「起(た)て一系の大君(おおきみ)を
 光と永久(とわ)に戴(いただき)きて
 臣民われら皆共に
 御稜威(みいつ)に副(そ)わん大使命
 往(ゆ)け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
 四海の人を導きて 正しき平和うち建てん
 理想は花と咲き薫る」

tf 御年90歳、「伝説の男」田形竹尾先生をお迎えしての講演会企画を4月に準備している。詳細な日程は、まだ決まっていないものの、あとは先生の体調が良いことを願うのと会場の都合である。
 チャンネル桜へ収録や打ち合わせに行った際、時間を見つけては田形先生に支那事変、大東亜戦争、そして戦後のお話をお聞きする。准尉という戦場の最前線の立場であったにもかかわらず、パイロットとしての技量が認められたゆえ、戦局がよく見える情報にも接している貴重な戦争体験者である。
 我が柏崎市との関係でいえば、「世界の撃墜王」
樫出勇氏との関係もあり、当日はそのお話もして頂こうと思う。

 樫出勇氏はまだご存命であり、東海の某市にお住まいである。田形先生から間を取りもってもらったが、お越し頂くのは困難とのことだった。


tt  【案内文(案)】

 先の大戦から61年。平和な日々を暮らすいま、先人は何を思って戦ったのでしょうか。現在も歴史教育でくり返し教えられる日本の侵略戦争、戦争犯罪、また隣国から外交手段として言われる大虐殺、従軍慰安婦は本当にあったのでしょうか。日本はアジア各国を植民地にしようと開戦したのでしょうか。我々、そして次の世代に「戦争」を伝え、 「真の平和」を考えるためにも、御年90歳を迎える生き証人たる講師をお迎えしての講演会を企画いたしました。
 講師は、30万人を超える虐殺を日本が行ったとされる「南京大虐殺」の現地にもおり、またビルマ開放戦線での現地人による歓迎、インド独立運動の志士、ビハリ・ボースチャンドラ・ボースとも交友があった方でございます。また、ご自身も愛機「飛燕」で知られる超A級のパイロット。
hien 終戦間際には、特別攻撃隊の教官を務め、志願する若者を涙をもって見送り、ご自身も出撃予定であったものの、終戦を迎えました。
「あとを頼む」とニッコリ笑って出撃した方の想い、戦場に若者をおくる苦悩、じっくり2時間のご講演を頂きます。

*日本を無差別爆撃し多くの民間人を狙った「超空の要塞」B29。
 このB29を26機撃墜した、当市北条出身の「世界の撃墜王」樫出勇氏と講師は同い年、同期の桜であります。


2006年2月12日 (日)

近藤もとひこ代議士新春のつどい

 3時就寝。8時起床、長風呂に入り、『セキュリタリアン』『日本の風』のバックナンバーを読む。

 9時過ぎ、大粒納豆、瓶詰めのなめ茸でご飯をかっこんでいると電話があり、某町内の要望があるので来てほしいとのこと。デジカメをもって現地にいくものの、現在の市政に関する要望をお聞きしたに終わった。またその際、「皇室典範改正」について話題になった。「女性天皇は良いが、女系天皇は反対」との自分の考えを言ったが、受け入れてはもらえず。「オメさん、若いのに、古いねぇ~」と怒られてしまった。しかし、世界で唯一の2600年を超える男系維持、戦争に負けても維持した国体こそが日本のらしさでもあり、世界の尊敬を受けるのである。

DSC00671 13時30分から、柏崎市市民プラザにて、近藤もとひこ衆議院議員の「新春のつどい」。来賓の挨拶は、三富県議東山県議西川県議、柏崎市・会田市長。そして最後に紹介があったのが、2007年の参議院選挙に出馬を表明している塚田一郎氏であった。これまで2回の挑戦であったが、いずれも苦杯を喫している。元アナウンサーの志保夫人のご出身から柏崎に縁の深い方でもあり、今回こそは国政へ行ってもらい、柏崎のためにも働いてもらえればと思う。
DSC00672 総会終了後は、たる酒で乾杯したのちの懇親会。会場内に同世代はほとんどいないが、父や祖父の知り合いの方もおり、酒を注いで挨拶をしてまわる。もちろん、ご返杯も多く、またも胃袋は酒でいっぱい。

DSC00675 18時過ぎ、自宅に戻るも大量の酒による酔いで仕事にならないので仮眠する。21時に起き、母と妹夫婦が行った「鮨 鶴八」(電話 0257-21-3231)のお土産で夕食。
 あとはひたすら事務仕事。

2006年2月11日 (土)

建国記念日、自民党柏崎支部新年総会

 2時、就寝。7時、起床。この3日間、家を空けていた分の郵便物や新聞の整理。

F1000006 9時、母が作ってくれた鱈の粕汁、納豆ご飯で朝食。寒い朝に、舌が火傷するぐらいの鱈の粕汁は贅沢な感じがする。内臓からあったまるようで、全身汗だくになってしまった。

 10時から13時まで、某社との打ち合わせ。

DSC00667 14時から柏崎市産業文化会館にて、自民党柏崎支部新年総会。国会斉唱ののち、支部長である柏崎市議・丸山議員の挨拶から始まる。来賓からの挨拶は、東山県議、西川県議、柏崎経済人会長、柏崎市・会田市長DSC00669刈羽村・品田村長近藤もとひこ衆議院議員、田中なおき参議院議員。
 柏崎で自民党の党員は激減している。そのことについてのコメントはなかったが、柏崎刈羽地区で支持者の多いDSC00668社民党自衛隊を違憲とし、また9月に行われる自民党総裁選挙にも注目が集まっているなか、党員、党友を増やすチャンスではないかと思う。

 総会終了後は、お約束の懇親会である。
DSC00670 端のテーブルからビールや酒、ウーロン茶を注いでまわり、色々なご意見を頂戴する。もちろん、ご返杯も多く受け、大量の酒が胃袋に入る。体にはこのうえなく悪い。

 一段落ついたところで、近藤もとひこ衆議院議員に皇室典範についてお考えを伺う。代議士とは、「男系」「女系」で皇室典範の改正については違う考えであることは分かったが、議論が拙速過ぎるという点では一緒であった。
 17時30分、萬歳三唱で終了。大量の料理が余り、もったいないことこの上ない。

 18時に自宅に戻るが、酔いがあり、仕事にならないので21時まで仮眠。その後、ブログやメールなどの事務仕事。
 

2006年2月10日 (金)

昭和天皇、終戦の「ご聖断」

F1000002 3時就寝。8時起床。カプセルホテルのサウナで酒を抜き、9時過ぎにホテルをでる。ホテル近くの「富士そば」で、「コロッケそば」の朝食。お約束で、コロッケを丼の底に沈めてから、かけ蕎麦状態で食べ、最後に汁を吸ったモロモロのコロッケを頬張る。

F1000003 急遽、講演会の依頼に関する打ち合わせが入り、世田谷に移動。実験中という納豆入りバジルチーズパン、まるごと里芋が入ったパンを昼食に頂く。小粒納豆とチーズ、バジルはなかなか良い組み合わせ。しかし、里芋はパンに合わないのではないかと思う・・・・・。バター醤油あたりで味付けすれば別であろうが。

F1000005 東京から柏崎に移動。インドに進出した企業に関するJETROの資料を読む。インドへの企業進出もさることながら、インド企業の日本への誘致、取引先としてのインドに興味が沸く。
 18時、自宅に戻る。
 妹と母で作った、「変わり揚げ」と大粒納豆ご飯で夕食。粗挽きウインナー、プロセスチーズのスティック、いんげん、人参を春巻きで巻いて、揚げたもので、酒のつまみにもよく、ついビールも飲む。甥っ子が「おじちゃん、ウマウマ」と寄ってきたので、食べさせるも、人参ははずされてしまった。

 ある方からのお葉書が届いており、皇室典範の改正に対することもさることながら、天皇には先の大戦の責任もあるので、もう皇室には好意はないとのことであった。
 しかしながら、大東亜戦争終結においては天皇陛下による「ご聖断」が大きかった。
 昭和20年8月14日の御前会議、陛下はこう言われたという。

「(ポツダム宣言を受諾せず、そのまま戦争を続行したいとする)反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えはこの前言ったことに変わりはない。
 私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。
 国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれた物とは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。
 陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることも良くわかる。 国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持も良くわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。
 この上戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私として忍びない。
 この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおき難いことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
 私は、明治天皇が三国干渉のときの苦しい御心持ちをしのび、堪えがたきを堪え、 忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。
 これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。私も国民とともに努力する。
 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、私は心配に堪えない。
 この際、私のできることはなんでもする。
 国民は今なにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることが良ければ、いつでもマイクの前に立つ。
 陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。
 内閣では至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。」

        半藤一利著『日本のいちばん長い日』より

 この陛下の「ご聖断」ののち、ポツダム宣言を受諾し、国民に周知されることが決定される。
 しかし、陸軍の一部には、クーデターによって玉音放送を中止させ、「本土決戦内閣」を樹立しようという動きがあった。そのため、「玉音放送」の録音版を奪取しようとNHKへ乗り込む「8・15事件」、「宮城事件」が起こるのである。また、これとほぼ同時刻に陸軍大臣 阿南惟幾が「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書を残し、割腹自殺をしている。
 なお、この事件については、昭和42年(1967年)東宝で映画化されている。

 ちなみに、開戦前の1941年9月6日の御前会議においても、発言しないことが通例となっていた昭和天皇が、対米戦争やむなしの草案を見て、

 「この草案は、戦争が主で外交が従ではないか」

と軍部を非難。明治天皇がお作りになった以下の和歌をもって、平和愛好の意思を表した。

 「四方の海 みな同朋(はらから)と
     思う世に など波風の 立ちさわぐらん」

(四方の海はみな兄弟と思うこの世に
    
なぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。)

「大東亜戦争終結ノ詔書」

[Windows Media Player]形式。
プレイボタン(一番左)を押すと始まります。
*Windows Media Playerは無料でダウンロードできます。


大東亜戦争終結ノ詔書(昭和20年8月14日)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ


現代語訳:
 私は、深く世界情勢と大日本帝国の現状とを考慮して、非常の措置によって事態を収拾しようと考え、ここに、忠良なるあなた方国民に告げる。
 私は、アメリカ・イギリス・支那・ソビエト連邦に対してその共同(ポツダム宣言の意味)を受諾することを、大日本帝国政府に通告させた。
 そもそも、国民の平和と安寧を図り、世界との共栄を喜びとすることは、代々の天皇の遺範であつて、私も常々心にとどめて来たことである。先に、アメリカとイギリスの二カ国に対して宣戦したのも、ただ大日本帝国の存続と東アジアの安定とを願ってのことであり、(ポツダム宣言に書かれているような)他国の主権を排除したり、領土を侵したりというようなことは、もとより私の考えていたことではない。しかしながら、戦争が始ってから既に4年を経過して、我が国の陸海軍の将兵の勇戦、多数の官僚の励精、一億の国民の奉公、いづれもが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢は我々にとって有利ではない。さらに、敵は新たに残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用して何の罪もない市民を頻りに殺傷し、惨害が及んだ所は誠に測り知れない程になっている。それでもなお戦争を継続しようとすれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明までも破壊してしまうだろう。そのようになったら、私はどのようにして、億兆もの赤子(国民)を守り、代々の天皇に謝罪すればよいだろうか。これが、私が帝国政府に対し共同宣言に応じるようにさせた理由である。
 私は、大日本帝国とともに終始東アジアの(欧米列強からの)解放に協力して来た諸国に対し、遺憾の意を表さざるを得ない。大日本帝国の国民であって、戦場で戦死し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた人々やその遺族に想いを巡らすと、我が身が引き裂かれる思いである。また、戦傷を負い、災禍を被り、職を失った人々の再起については、私が深く心配している所である。思うに、今後帝国が受けるであろう苦難は、非常に大変なものである。あなた方国民の(降伏に対する)無念の気持も、私はよく理解している。しかし私は、事態の趨勢に従ひ、堪へ難いのを堪へ、忍び難いのを忍んで、将来の為に平和への道を選ぼうと思う。
 私はここに、国体(天皇を中心とした国の形)を守り通すことができ、忠良なあなた方国民の忠誠を信頼し、常にあなた方国民と共にある。もし激情のままに無用の混乱を引き起こしたり、あるいは同胞と分裂して争う等をして時局を乱し、その為に大道を誤り、世界の信用を失うようなことは、私が最も強く戒めることである。国民皆が子孫に至るまでも、神州(日本)の不滅を固く信じ、(国民それぞれに課せられた)責任の重さと長い道程を自覚し、総力を将来の建設に傾け、道義を重んじ志操を堅くし、必ず国体の精華を発揚し、世界の発展に遅れることのないよう努めるべきである。あなた方国民は、どうか私の意思を理解して欲しい。

2006年2月 9日 (木)

内閣府へ皇室典範改正反対署名、チャンネル桜番組収録、安倍官房長官

 2時からTBSでやっていた『ガンダムSEED』をみるものの、ストーリーをあまり把握できず、3時就寝。

DSC00636  8時起床。シャワーを浴びてから、ホテルをでる。知人の美容院で髪の毛のチェックとトリートメント?をしてもらう。髪の毛がやたらサラサラしたのはいいが、ぺっちゃりとした頭になってしまった。コンビニで「焼きたらこ」のおにぎりと野菜ジュースで朝食。

_1  11時10分、内閣府に行き、東京都議・古賀俊昭議員、千葉県船橋市議・中村みのる議員、東京都杉並区議・松浦芳子議員、東京都武蔵村山市議・天目石要一郎議員、草莽会の方と待ち合わせ。小泉首相宛の皇室典範改悪反対署名を届ける。チャンネル桜、共同通信、フジテレビの取材があった。
 秋篠宮妃紀子殿下のご懐妊により、小泉首相は今国会内での皇室典範改正の提出を見送るという発言を昨日の国会で行ったが、国民の声として今回の声は届ける必要がある。

皇室典範改正への反対ビラ

 職員の方に個人的な事としてお話を聞くと、内閣府には色々な人が陳情や要望に訪れるものの、話合いで済まないような格好や態度も多いという。詳細は書かないが、教育の立場にいる方々がそういった活動をすることが、教育問題の根本原因の一つではないかと思う。

DSC00642 北方領土に関する署名が内閣府の玄関に置いてあった。去る2月7日は「北方領土の日」であったが、毎年首相が行う表明が今年はなかった。一体、政府は領土問題をどう考えているのか。いつまでも弱腰な外交では世界からの信用もなくなるであろう。

*樺太で起こった悲劇「9人の乙女」
 映画『氷雪の門』の上映禁止

DSC00644  12時15分、タクシーで渋谷に移動。「全国若手市議会議員の会」会長の愛媛県松山市議・菊池伸英議員、事務局長の香川県坂出市議の植條敬介議員、理事の大分県大分市議・三浦由紀議員と「こどもの城」1階にある「レストラン アンファン」(電話:03-3797-5695)で、打ち合わせをしながら昼食。「ビーフカレーセット 880円」を選択。

_66 14時からチャンネル桜にて、水島総社長が司会となる『人間の杜』の番組収録。今日は「全国若手市議会議員の会」を取り上げてもらった。会長、事務局長をメインに話してもらうために、脇役に徹する。他のメンバーからは、色白で顔が大きいので一番目立つ、と嬉しいのか悲しいのか分からないコメントがつく。
 放送は、2月13日(月)19時からとなった。

DSC00647 番組終了後、16時、「全国国若手市議会議員の会」の最高執行会議である副会長会を行う。最高執行会議なのに、会議室がなく、ジョナサン渋谷宮益坂店で実施。少し悲しい思い。菊池会長、植條事務局長、三浦理事に、宮城県仙台市議・岡本章子議員、千葉県市川市議・高橋亮平議員、静岡県大垣市議・丸山新吾議員が合流。

DSC00649DSC00651 せっかくなので、「緑野菜ミックス 388円」を飲み、「かぼちゃタルト 388円」を食べながら、議論白熱。
 部会を立ち上げ、7月に愛媛県松山市で開催される総会で報告することになっているものの、まだ部会の集まりを1回ももっていないとのことだったので、私の方で報告までできる「インド外交部会」を提案した。
 地方自治体は国を通すことなく、友好都市を締結できるが、これからのアジア全体を考えるにつけ、インドとの付き合いが大切になるという思いを込め提案したものの、全会一致にならず、北信越ブロックでの研究、総会での報告となった。

_1 副会長会終了後、永田町に移動。
 帝京平成大学教授で、次の参議院選挙全国区出馬予定の米田建三先生の勉強会に参加。柏崎への海上自衛隊誘致の話をはじめ、政府機関とのパイプ役のお願いである。また、安倍晋三官房長官もいらっしゃったので、ご挨拶をする。自衛隊が原子力発電所を守る意義、「若手市議会議員の会」が今後出すであろう要望など、もっと長時間お話したかったが、国会が開会中であり、またお疲れのご様子だったので控える。

_2 小泉チルドレンと言われているものの、皇室典範改正への反対運動など、保守らしい活躍をされている自民党・赤池誠章衆議院議員と懇談。柏崎のお隣の選挙区である6区の高鳥修一衆議院議員や「落下傘候補」ならぬ「おっかさん候補」であった稲田朋美衆議院議員とともに、保守勢力として頑張って頂きたいと思う。

_3 勉強会終了後、米田先生と打ち合わせ。参議院全国区への出馬であるため、色々な準備が必要である。
 勝手ながら、米田先生には選挙に勝ってもらい、国政に復帰し、柏崎への海上自衛隊誘致の話をもっと前に進めたい思いもある。

DSC00664DSC00660  ひたすら喋っていたので、お腹もすき、「鮨匠 澄川」での格安虎河豚コースで生ビール。定番の河豚鍋のなかの河豚は、骨の間にある肉を歯でこぞけとるように、下品に食べた方が美味しいように思う。
DSC00657DSC00658 河豚刺しはもちろん箸ではじっこからググゥーと一気にとって食べる。あまりに多く取りすぎ、顰蹙も買う。河豚の皮と野菜の和え物は歯ごたえも良かったが、海苔の香りが強く、河豚の風味を殺している感じで残念であった。

DSC00666  23時過ぎ、お店をでたのち、若い世代の秘書グループと待ち合わせをし、タクシーでJR大塚駅付近に移動。「居酒家 土間土間」で気楽な飲み飲み。「炙りしめさば 515円」「ピートロの唐揚げ 399円」「夢心地クリームチーズ 399円」など。店名の「土間土間」にかけて、お店のスタッフに『ドナドナ』を歌ってドン引きされる。

 2時前に解散。酔った勢いで池袋駅近くまで歩き、カプセルホテルに宿泊する。

2006年2月 8日 (水)

世界に好影響を与える国

 結局徹夜をし、眠い目をこすりながら5時40分に柏崎準倫理法人会、経営者モーニングセミナーに出席。講師は昨日と同じ、神奈川県倫理法人会事務長であり、株式会社タスク・フォースの社長。テーマは「ガンと宣告されて」。前立腺ガンの宣告を受けての生活など、経験者としての実感がこもったお話であった。ただ、移動の時間もあり、大変申し訳ないながら、途中で退席させてもらう。

DSC00635 東京都内に移動し、13時から某社にて打ち合わせ。かなり突っ込んだ会議になり、途中、先方の女性社員の方にもらったチーズベーグル、ミックスサンドイッチを食べ、18時まで。帰り道、ふらりと寄った雑貨店にあった、「のりたま」の携帯クリーナーを思わず購入。こういうギミックに弱い。

 19時、無線LANが使える大塚ステーションホテルにチェックイン。便利な位置にあり、無線LANが魅力で泊まるが、部屋の煙草臭さだけは不満である。

DSC00633 DSC00634  23時、ホテル近くのスーパーでシーフードサラダ、子持ちニシンの塩焼きを購入し、夕食。都内に来て、なんでわざわざ魚介類を食べているのか、自分でも食べ終わってから不思議に思う。

 「靖國神社を参拝する地方議員の会」のメンバーとしても、首相による靖國神社の参拝は是非行うべきと思っている。靖國神社への参拝は、あくまで日本の自国の文化であり、世界の国々でも当たり前に行う戦没者への慰霊である。これを韓国、中国が内政干渉のように外交カードにしてくることを取り上げ、「アジアから日本が孤立」などと囃し立てるマスコミが、日本国内にあることは悲しいことと思う。
 そんななか、興味深い調査結果が発表された。


平成18年2月6日『産経新聞』産経抄

 小泉純一郎首相が靖國神社参拝をやめないかぎり日本は世界で孤立する、と誰かが言っていた。ばかげたことを…と思ってはいたが、米国の大学などがBBC(英放送協会)の依頼で行った三十三カ国四万人に対する世論調査によると、世界に好影響を与えていると一番に評価された国は日本だった。

 ▼先週末に発表されたこの調査では、三十一の国で日本の影響力について肯定的評価が否定的評価を上回り、うち二十カ国で肯定派が過半数を占めた。回答国全体でも日本肯定派の平均は55%、否定派は18%で、孤立どころか相当な人気である。

 ▼日本否定派が半数を超えた二カ国が中国と韓国だったのはいわずもがなか。留意すべきなのは日本肯定派が一番多かったのがインドネシア(85%)、次いでフィリピン(79%)と、ともに東南アジアの国だったことだろう。

 ▼中国は靖國参拝非難の際に「アジア人民の感情を傷つけた」といった常套(じょうとう)句を使うが、そういうプロパガンダは情報統制下の国内ではともかく国際社会ではもはや通用しないということだ。東南アジアの国々にとっては、目の前にある中国の覇権主義の脅威の方が切実と映る。

 ▼日本への高い評価の背景には、政府開発援助も含んだ経済的貢献度の高さもあろう。だがそれ以上に、巨大市場を背景にした経済的膨張に加え、軍事力増強を進める中国に対抗し、ものをいえる力を備える国はアジアでは日本をおいてない、という期待もあるはずだ。

 ▼友好という建前で大国の横暴に目をつぶることでは、世界の平和と安定は得られない。人気者の座にこだわるわけではないが、せっかくうれしい結果が出たのだから、政府も国民も期待に応えるべく毅然(きぜん)とした姿勢を貫かねばならない。


 昨日は、フィリピンについて少し書いたが、フィリピン独立の運動のなかには、独立の志士と日本人女性との愛の物語もあり、またインドネシアは大東亜戦争終結後、日本兵2000名が思い焦がれる祖国・日本への想いを捨て、現地に残り、1000名の犠牲をだしつつもインドネシア独立のために戦った。そんなことも影響しているかのような結果である。
 ちなみに、インドネシア独立の宣言文の日付は、日本の「皇紀」を使っている。独立は昭和20年8月17日であるが、「皇紀」で昭和20年は「2605年」。宣言文は、「17-8-‘05」と記載されており、いまでも人気観光地のバリ島などでは、「皇紀」のカレンダーが売られている。
 フィリピン、インドネシアと日本の話も今後、ブログに書きたいと思う。
 さらにちなみで言えば、皇紀2600年7月(昭和15年7月)、’00に日本帝国海軍に採用された戦闘機が「零式艦上戦闘機」である。

2006年2月 7日 (火)

フィリピンと東亜共栄圏

DSC00624 7時起床。昨夜早く寝てしまったのでメールが溜まっており、朝からちょっとブルー。夕方までつめて仕事をするため、干し納豆と昆布の佃煮を混ぜた具のおにぎりを作成。これと白菜と油揚げの味噌汁。

 10時30分から初夏のイベントに関する打ち合わせを事務所で行う。予算額は縮小するものの、来客者数には期待をされているので、大変難しい状況である。

 今日は「北方領土の日」。このブログでも今後も引き続き、北方領土自体の事はもとより、大東亜戦争のドサクサまぐれに侵略をしたソ連について書いていこうと思う。

_1 昼食もおにぎりと若布と豆腐の味噌汁。自家製の味噌や買いためておいた各地の味噌も無くなったので、長岡の柳醸造さんの無添加味噌を使ってみる。袋には味噌が呼吸するための孔があったので、この点が気に入り買ったもの。実際に使ってみると、風味もよく、なかなか美味い味噌ですっかり気に入ってしまった。モロきゅうに使ってもうまそうだ。

 13時から市内にて集金や会社関係の手続き。今度始めるインターネット販売事業には、宅配業者との調整や飾り箱の作成などもあり、市内をウロウロ。

 17時30分、シーユース雷音に移動し、柏崎準倫理法人会のイブニング・セミナーの準備。今回のセミナーは、神奈川県倫理法人会事務長であり、創業18年目を迎えるIT会社株式会社タスク・フォースの社長を講師にお迎えし、「禅と倫理」をテーマの講演。
DSC00628  18時30分からセミナー開始。
 バブル崩壊のおり、泣く泣く社員のクビを切ったご経験から、黒字経営を続ける意志をもった、常に売り上げの60%を人件費に充てているという実務的なお話しから、坐禅などについてもお話された。
 また、社長室はオープンで会社の入り口にあり、社員とのコミュニケーションを大切にされているとのこと。
 ご紹介のあった心に残っている詩や言葉は以下であった。

「岩もあり 木の根もあれど さらさらと
 たださらさらと 水の流れる」

 「畏天慎独」

DSC00629 20時過ぎ、自宅に戻り、夕食。馬刺し、鶏の炊き込みご飯、らっきょ、油揚げと大根の味噌汁。馬刺しには赤味噌とおろしニンニク、七味唐辛子を混ぜたものをつける。ビールが飲みたくなるが、作らなければならない資料があるので、飲まず。食後はひたすらパソコンで作業。

 篠宮妃紀子殿下がご懐妊という吉報あり。誠にめでたい。
 親王のご誕生の可能性もあり、小泉首相には今国会内での皇室典範改正の提出を見送る決断をしてほしい。

 本ブログがアジア、(先方曰く)太平洋戦争に関するブログ?と思われ、昨日、某出版社の担当者からメールで問い合わせがあった。特にアジア専門、大東亜戦争専門というわけではないが、私の思いとしては、近現代、しかも歴史認識でモメることが多い大東亜戦争について、陰ばかり教えることは本当の国際感覚を見失うと考えるからである。アジア各国を訪れた際、先方が日本を大切にしてくれていても、当の日本人が無知だったとしたら失礼にあたる。だからといって光の部分のみでもマズイと思うが、まずは感動的な光の部分からと思っている。

co-asia この写真は、平成7年(1995年)6月から8月にかけて、フィリピンの首都・マニラのレストランや街角に飾られた、日本人にとっては感動的なポスターである。
 上部には「東亜共栄圏:EAST ASIA CO-PROSPERITY」と書かれ、富士山、朝日とともに日本帝国海軍の軍人が旭日旗を掲げている。その下に民族衣装を着たアジア各国の青年が描かれている。つまり、アジアの開放という大義をもった大東亜戦争という認識をもってくれているのである。
 さらに、このポスターの解説文は、明るくこう書かれている。

pp 「Waving schoolchildren represent the future,doves on the wing represent freedom,as Philippines celebrates its long-awaited Independence Day,On June 12.」
待望久しかったフィリピンの6月12日の独立記念日にあたって、未来を担った青年学生たちの心は躍っている。彼らは自由な翼をもって、未来に羽ばたかんとしている。

*参考、写真:ASEANセンター、名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館 第4巻 大東亜戦争その後』

2006年2月 6日 (月)

自衛隊反対に戻る、社民党

 3時就寝。5時起床、今日の8時までにメール送信しなければならない案件があったのを思い出し、慌てて作業し、7時に無事送信。8時くらいから雪かきや甥っ子の相手をしていたら、来客があり14時まで食事もとれず。市役所や市内を仕事の関係でウロウロ。

F1000001 17時からの打ち合わせの予定が先方の都合でいきなり空いてしまったので、甥っ子と一緒に「フォンジェ」に行って遊ぶ。電車が好きな甥っ子は電車ゲームから離れない。高校生や中学生もゲームコーナーには多くおり、プリクラなどを楽しんでいた。何人かの女の子は、ほぼパンツ丸見えのような短いスカートで、大股広げてベンチに座っており、つい目に入ってしまうものの、見ているこっちが心配に思ってしまう。

DSC00621 19時から商工会議所大研修室にて、柏崎青年会議所の2月例会。今回の例会はテーマ「時代は貯蓄から投資へ」としての講師例会。講師は、元丸福証券社員の間島豊氏である。基本的な投資と投機のちがいから、業界の用語など。残念ながら、先約の予定が20時から入っていたので、途中までしか聞けず。
 株には以前にハマったが、常に気になってしまい、仕事が手につかなくなる性格なので、自分には不向きと思う。

*参考サイト
 株マップ.COMYahoo!ファイナンスストックナビ

DSC00622 20時から某所で、某政治懇談会。よく考えたら今日初めての食事であった。喉もまだ痛いので、今日は風邪薬を飲み、そのまま空きっ腹で生ビールを5杯。シメに焼き餃子を食べたものの、すっかり悪酔した。
 23時、自宅に戻り、就寝。

 社民党は、「自衛隊は違憲」として、非武装の日本を目指すという。

cc ちなみに、非武装中立主義の人が必ず語るコスタリカは、常備の軍の設置を禁止しているだけで、非常事態には徴兵制まで規定されている。しかも、安全保障はアメリカに頼り、かつ国家警備隊、地方警備隊へも莫大な国家予算を投じている。


平成18年2月2日『読売新聞』
社民党、「自衛隊は違憲」党宣言で方針転換へ
 社民党は2日午前の常任幹事会で、自衛隊を「現状、明らかに違憲状態にある」と明記した「社民党宣言案」を了承した。
 同党は1994年の社会党時代に、それまでの自衛隊違憲論から合憲論に転換したが、今回再び違憲論に方針転換する形だ。
 宣言案は12日の党大会で採択される。
 宣言案では、違憲状態にあるとした自衛隊を「縮小を図り、国境警備、災害救助、国際協力などの任務別組織に改編・解消
して非武装の日本を目指す」とした。
 社民党が、違憲としていた自衛隊を合憲と認めたのは、自民党、新党さきがけと連立政権を組んだ社会党時代の94年7月。同党出身の村山首相が「自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものである」と国会で答弁した。
 今回再び、自衛隊を違憲とする理由について、社民党は「自衛隊はイラクやインド洋に派遣されるなど、94年当時と比較して大きく変質し、必要最小限度の実力組織の枠を踏み越えている」と説明している。
 同党の方針転換の背景には、自民党や民主党との違いを鮮明にし、党勢の退潮傾向に歯止めをかける狙いもあるようだ。
 ただ、基本政策の頻繁な変更を疑問視する声も上がりそうだ。


 まったくの時代錯誤ではないかと思う。
 外部からの脅威に対して、戦争をしないために自衛隊があり、抑止力となっている。軍事バランスが崩れている状態が一番戦争になりやすいのは、歴史を見れば分かることだ。
 もちろん日本国内の災害時、阪神淡路大震災、我が県の中越大震災で分かるように、自衛隊のような「自己完結性」を持つ組織が必要なのはよく分かっているはずである。
 阪神淡路大震災のとき、組織としての機能にも問題があったと思うが、村山首相の自衛隊派遣への【決断】がもっと早ければ、二次災害に巻き込まれた1000名の方をどれだけ救えたことか。自衛隊の本格的災害派遣を決定したのは、なんと地震の3日後であった。平成7年1月20日の衆議院本会議での村山首相の答弁は以下である。

 「しかし、今から振り返って考えてみますると、
  何分初めての経験でもございますし、
  早朝の出来事でもございますから・・・・」

*基本的に、災害時の自衛隊派遣要請は、被災地の自治体の首長の求めに応じて知事が行う。兵庫県知事が自衛隊に出動要請したのは10時であった。知事いわく「早急に応援を要請しなくてはと考えていたが、決断に踏み切るだけの詳しい情報がなかった」という。自衛隊側からは、8時10分に要請の督促をしたが、知事は【決断】できずにいた。

 さらに言わせてもらえば、社会党時代の村山首相の方針を見直すなら、「日本は国策としてアジアの植民地化を進めた」という、かの悪名高き村山談話を先に撤回してもらいたい。

 素朴な疑問であるが、自衛隊の存在に反対する人は、有事の際はどうするのか。座して死を待つのであろうか。
 こういった動きがあると聞くと、ある演説を思い出す。
 それは、昭和32年2月、防衛大学の第1回卒業式にて、吉田茂首相が行った演説である。

「君達は自衛隊在職中、
 決して国民から感謝されたり、
 歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
 きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。
 御苦労だと思う。
 しかし、自衛隊が国民から歓迎され、
 ちやほやされる事態とは、
 外国から攻撃されて国家存亡の時とか、
 災害派遣の時とか、
 国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
 言葉を換えれば、
 君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。
 
どうか、耐えてもらいたい

2006年2月 5日 (日)

刈羽郡自民党:沈没前の萬歳三唱「空母 瑞鶴」

 8時、起床。しんしんと降ったパウダー状の雪が積もっている。車をだすため、雪かきをするが、あまりにも軽い雪なので、逆に疲れる感じ。雪かきをしたのち、ゆっくりと1時間ほど風呂に入ってから、身支度。

DSC00610_t 10時30分から刈羽郡自民党と三富佳一県議の後援組織「三山会」の合同新年会の予定であったので、市民プラザに行ったところ、どうも人間が少ない。よくよく考えたら会場が産業文化会館であったことを思い出し、あわてて移動。人間、思いこみは怖いものである。まさにミッドウェー海戦における、「米海軍、空母はこない」という思い込み一緒。
 会場では既に総会が新年会がはじまっており、琴の優雅な調べのなか、頭を下げつつ、来賓席へ。520名の出席者。
DSC00611_t 来賓として、泉田知事がいらっしゃったので、是非、今回はゆっくりと海上自衛隊誘致の話をしたかったものの途中で退席されてしまった。しかし、お隣、刈羽村の品田宏夫村長、刈羽村議、合併前の西山町議、高柳町議の諸先輩には、挨拶とともに海上自衛隊誘致や歴史教科書問題、そして皇室典範改正への反対のお話をさせてもらう。
DSC00612_tDSC00613_t 注いではご返杯を受け続け、13時40分ごろに散会。朝食もとらなかったのに、約2時間、ひたすらビールと日本酒を飲み続けたおかげで、お腹いっぱいとなる。少し食べた方が良いかと思い、酢豚とレーズンバターのフランスパンを少々食べる。会場には大量の料理が余っており、もったいない限り。

_1 14時から同会場で、かしわざき語り部の会さんによる『おらほの昔ばなし あったてんがのぉ』。鯖3本のお話など海岸側に残る話から山側まで豊富な地元言葉での語りが心地よく、酒の酔いもあり、途中、10分ほど意識を失い、申し訳ない・・・・・。
 最後の方で、「その手は桑名の焼き蛤」の三重県桑名市との関係(『柏崎日記』『桑名日記』)で、3月4日に演劇を行うことなどのお話があった。松平定信や生田万、戊辰戦争など柏崎の歴史を語り継がなければという意見もでていたが、まったく同感である。司馬遼太郎の『峠』あたりがベースの知識には必要であろうという意見も同感であった。中学校での必読書にしても良いのではないかと思う。

DSC00617_tDSC00618_t 16時、酒で腹はいっぱいなものの、食事をとらなくてはと思ったので、「らーめんヒグマ 柏崎店」(電話:0257-32-7222)にて「白味噌チャーシュー麺 850円」。大量の酒を飲んでいるからか、しょっぱさが美味しい。無塩のおろし生にんにくが卓上にあったので、大量に投入。オヤジ・モードである。モチモチ感のある麺なので、すぐにのびそうと思い、一気に食べる。 

 ありがたいことに、昨日のブログに書いた「山口多聞中将」を見てくれた方が新年会にいらっしゃった。お話をしているなかで、本当に「萬歳三唱」をしていたのか、という話題になった。
 実は、日本帝国海軍の記録写真がアメリカ海軍のサイトで色々と公開されている。そのなかに、総員退艦前の「萬歳三唱」の写真がしっかりある。「空母 瑞鶴」の沈没寸前の写真である。
_2  「空母 瑞鶴」は、珊瑚海海戦で多くの艦載機を失ったため、ミッドウェー海戦には参加していなが、真珠湾攻撃をはじめ、ガダルカナル島への上陸、撤退を支援。しかし、1944年10月25日、エンガノ岬沖海戦にて沈没した。
*写真は『日本の軍艦』より
 以下の2枚の写真がそのときの模様である。

  日章旗を下げ、総員甲板にて、最敬礼

  総員甲板にて、「萬歳三唱」

 この写真を見ていると何ともいえない気分になる。

 また、1960年の映画『太平洋の嵐』では、ミッドウェー海戦を山口多聞少将を中心に描かれている。名優・三船敏郎が山口多聞少将を演じている。

2006年2月 4日 (土)

【決断】「空母 飛龍」とともに山口多聞

DSC00605 7時、起床。母になめこと挽き割り納豆の味噌汁を作ってもらったので、たっぷり2杯を飲む。いくらフーフーしても熱いままで、胃にもしみる感じ。甥っ子に飲ませようにも、熱すぎて飲ませることができず。
 9時から某所で節分会で豆をまく役目であったが、不幸があったのでキャンセル。午前中は、弔問。

DSC00606 昼は、納豆ご飯にしようとするものの、甥っ子が食べたがり、上に乗せた納豆だけをとって食べられてしまった。甥っ子は2歳になるが、毎日納豆を欠かさない。もし、自分の子だったら、毎日納豆を食べさせ、その納豆の銘柄を記録してみよう。

DSC00609 午後はひたすらメールや企画書つくり。4月に行う田形先生の講演会の企画も大方煮詰まった。20時、手作り餃子、解凍した秋刀魚を塩焼き、ビールでテレビを見ながらの夕食。『エンタの神様』を見たなかで、桜塚やっくんのスケ番恐子ネタがケーシー高峰なみの観客とのやりとりで面白く、いとうあさこのウクレレでのネタもツボにハマった。彼女には是非、牧伸二のウクレレ漫談を継いでほしい。

_1  2月18日から21日まで広島に行くことになったので、いまから楽しみである。1/10「戦艦 大和」がある呉市の「大和ミュージアム」や江田島など、見たいものが数多くある。
 なかでも、江田島の海上自衛隊第一術科学館参考館にある山口多聞中将の家族に宛てた遺書など、是非、本物を見てみたい。
 先日、チャンネル桜スタッフのS嬢が、亡くなった御祖父様の話を聞こうと、御祖父様と一緒に大東亜戦争を闘ったご存命の戦友の方に会ったそうだ。その方は、ミッドウェー海戦を闘ったときの話をされ、山口多聞少将、加来止夫艦長が敬礼をしながら「空母 飛龍」とともに海に沈んでいくところを見ていたという。

 大東亜戦争における3大愚戦として、「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル島」「インパール作戦」が挙げられることが多い。
 「ミッドウェー海戦」は、昭和17年6月5日。ハワイの奇襲攻撃に成功した日本海軍として、そして本土への爆撃を止めるため、ミッドウェーに空母を含むアメリカ太平洋艦隊をおびきだし、壊滅させたいという目的から立案された。昭和17年4月18日には、アメリカ軍の爆撃機(空母に載せてやってくる)により東京が空襲されており、それによる危機感もあった。つまり 「ミッドウェー海戦」は、太平洋の制海権を奪うための作戦であったのである。
 当時、この作戦には反対意見も多々あったが、山本五十六連合艦隊司令長官はこの作戦が実行できないなら連合艦隊司令長官の座を降りるとまで言い、強引に実行。
 ハーバード大学に学んだ、アメリカ通の山本五十六司連合艦隊司令長官としては、国力に勝るアメリカとの戦争は避けるべきとしていたが、開戦した以上、一大打撃を与えて、和平交渉にもっていく構想をもっていた。山口多聞少将は、プリンストン大学に学び、山本五十六の秘蔵っ子でもあった。
 日本海軍は、南雲忠一中将指揮する「空母 赤城」、「空母 加賀」、「空母 蒼龍」、「空母 飛龍」で進撃。アメリカ軍はこれを早くから日本の暗号電文を解読し、ミッドウェーに来ることを知っていたため、「空母 エンタープライズ」「空母 ホーネット」「空母 ヨークタウン」で出撃。
 まず日本海軍が、第一次攻撃として、ミッドウェー島に対して爆弾を搭載(爆装)した戦闘機で攻撃。すでに暗号を解読していたため、ミッドウェー島からアメリカ陸軍機が発進して迎撃。果敢な攻撃をかけるも、高性能の零戦と熟練の日本海軍パイロットの組み合わせには到底かなわず、大半が撃ち落とされていた。しかし、暗号を読まれていたことにより、アメリカ軍も対応をとったので、日本海軍も十分な爆撃をすることができず、第一次攻撃隊の隊長から、

「第一次攻撃隊ノ攻撃ハ不十分、
       第二次攻撃ノ要アリトミトム」

との報告が入る。
 ここで参謀たちは、「近海に空母なし」と判断。当時、アメリカ軍がレーダーがあるのに対し、日本はまだ目視による索敵(敵を探すこと)が主であったこともあり、発見するには到らず。さらに悪いことに、「重巡洋艦 利根」から索敵のため発進するはずの4号偵察機も発進が遅れていた。(理由としては、飛行機を射出する機械が故障した、あるいは対潜哨戒機の発進を優先させたからといわれている)
 日本海軍の空母にあった戦闘機には、山本五十六連合艦隊司令長官の指示で、対空母を想定し、魚雷を積んで(雷装)いたが、「空母なし」と判断したことで、第二次攻撃隊の戦闘機を地上爆撃のための爆弾に積み替える(爆装)よう指示した。
 しかし、「空母 飛龍」の艦橋で指揮をとる山口多聞少将は、

 「したたかなアメリカのことだ。空母は必ずいる。」

と再考を促すが、南雲忠一中将の考えは変わらず、雷装から爆装に変えた戦闘機が発艦。そこで日4号偵察機より、アメリカ軍を発見、

 「後方ニ空母ヲ伴ウ」

の一報が入る。アメリカ軍も日本海軍の位置を特定する前に空母3隻より150機あまりの戦闘機を準備できた部隊から次々と発進させていた。
 ここで、重要な【決断】があった。
 山口多聞少将は、「地上爆撃用の爆弾でも空母の甲板を破壊すれば発艦できなくなるのですぐに攻撃すべし」と考え、

 「直チニ発艦ノ要有ト認ム」

と進言したが、南雲忠一中将は第二次攻撃隊を再び爆装から雷装への付け替えを指示。第二次攻撃隊の戦闘機を格納庫へ戻すと同時に、第一次攻撃隊が上空へ戻ってきており、被弾や燃料切れの戦闘機も収容しなければならなかった。このことによって、日本海軍の空母の艦上は、てんやわんやの大混乱。貴重な時間も費やされていた。格納庫内には爆弾や魚雷が乱雑に置かれ、一つでも爆発したら誘爆し、大爆発に到るという危険な状態。
 そこへ、アメリカ軍空母からの魚雷、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の爆撃があり、「空母 赤城」「空母 加賀」「空母 蒼龍」の甲板に閃光が走ったと思うや、戦闘機が次々と誘爆をおこし、炎上。精鋭空母3隻、それだけか神業的技量をもったベテランの零戦パイロットを失う。攻撃を受けたとき、あと5分で第二次攻撃隊を発進できるところであった。もし、アメリカ軍機が飛来するのが5分遅かったとしたら・・・・これが後に言われる「ミッドウェー運命の5分間」であるが、山口多聞少将曰く

「5分ではなく、その2時間前(爆装と雷装の入れ替え)
                に勝利のチャンスを失っている」

である。
 雲の下に位置したことから、急降下爆撃を逃れ、残ったのは「空母 飛龍」。山本長官率いる「戦艦 大和」をはじめとした主力部隊はミッドウェー島の遥か北西800海里を東に進んでいた。
*個人的には、「戦艦 大和」を旗艦とするこの主力部隊を近くにおいて置かなかったことが最大のミス、これまでの勝利に酔ってしまった気の緩みと思う。
 山口多聞少将は、

  「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」

と電文を撃ち、

 「体当たりのつもりでいってくれ。
 貴様らだけを死なせはしない、俺も必ず後から行く」

と訓示。第一攻撃隊を出撃させ、見事、「空母 ヨークタウン」を大破させた。しかし、信じられないスピードで、アメリカ軍は消火し、大きく空いた穴も修復。第二次攻撃を出撃させるも、他の空母だと思い、再度「空母 ヨークタウン」を攻撃してしまう。
enjou-hiryuu そして、アメリカ軍の反撃。「空母 エンタープライズ」から発進した爆撃機24機に急襲され、「空母 飛龍」は大破炎上する。
*写真は「空母 鳳翔(ほうしょう)」の索敵機が撮影した「空母 飛龍」の炎上、漂流する最後の姿。ちなみに、終戦まで残った日本海軍の空母は「空母 鳳翔」「空母 隼鷹」(終戦時、中破)「空母 葛城」」(終戦時、中破)。
 
消化ポンプも作動せずに消火の望みは絶望的な状況になったところで、残った兵は甲板に集まるよう指示がでた。そして、加来艦長から次のような訓示があった。

 「再度の襲撃にも武運を長らえて、ただ1艦孤軍奮闘し、その戦果は極めて大なるものがある。今は武運拙く敵襲により被弾したが、小官の不徳の致すところ、これもまた天命であると思う。生き残った君たちは内地に帰り、日本海軍を再建し、願わくば今日の雪辱を果たして貰いたい。陛下の御船を沈めた責任は私が取る。皆の武運長久を祈る。総員退艦。予は艦と運命を共にする名誉を有す。他はすべて許さず。総員の退去を命ず。」

 山口少将は、

「我等皇国に生まれ、たまたまあいがたき会心の一戦に、いささか本分を尽くし得たるを喜ぶ。いざ宮城を遥拝して、陛下の萬歳を唱えまつらん。」

と訓示ののち、帽子を脱いで最敬礼し、皇居に向かっての萬歳三唱の音頭をとった。暗いミッドウェーの海に響く、「バンザァーイ」の声。ラッパ手が『君が代』を吹き、「空母 飛龍」に掲げられていた日章旗、少将旗が降ろされた。主席参謀である伊藤清六中佐は、山口少将に、

 「何か、お形見を」

と言い、山口少将は戦闘帽を渡した。総員が退艦し、山口少将は、

 「元気でなぁ~」

と声の限り、叫んだという。そして、「空母 飛龍」の艦橋に加来艦長とともに残り、敬礼しながら海中に消えていった。

 日本海軍は、このミッドウェー海戦において、主力空母4隻、飛行機322機と熟練パイロット108名を含む3057名を失う。これが大東亜戦争における実質的な日本帝国海軍の敗北である。
 ちなみに、この空母の喪失により、「戦艦 大和」「戦艦 武蔵」に注ぐ、大和型戦艦の3番艦は急遽、装甲空母への改装が決定され、「空母 信濃」となった。
 また、アニメンタリー「決断」では、ミッドウェー海戦が第二話、第三話で描かれている。
 戦史を書くと、「戦争をしたがっている」と勘違いされることも多い。しかし、多くの犠牲者をともなった戦争だけに、どんな決断をし、どんな結果となったのか、組織の在り方なども含めてこれほどの勉強材料はないうえ、しっかりと学ぶことが鎮魂にもなると思うのである。

 S嬢の御祖父様の戦友は、「空母 飛龍」とともに敬礼しながら沈んでいく山口少将を目の当たりにしたのである。
 江田島の海上自衛隊第一術科学館参考館には、山口少将の資料がある。また、奇跡の艦「駆逐艦 雪風」の舵輪もある。早く見てみたいものだ。

 ちなみに、山口多聞中将(戦中は少将)は愛妻家であった。最初の奥さんを病死で亡くされ、後妻の孝子さんが先妻の子3人を育てていた。孝子さんへのラブレターを頻繁にだしていたが、検閲なく手紙を出せるときには、感謝も込め、ラブレターの最後に以下のような言葉を添えていた。

  「貴女だけの多聞より」
  「私だけのもの 孝子様へ」
  「寝ても覚めても貴女の事ばかり
           考えている多聞より」
  「私の私の孝子さんへ」

「ミッドウェー運命の5分」真相とも言える説もある。

2006年2月 3日 (金)

国民健康保険税の値上げ

DSC00601

 2時就寝。9時、遅めの起床。鮭フレークと揚げた納豆のスナックをご飯に混ぜて、おにぎりにしてみる。歯ごたえも楽しく、悪くない。ただ、普通の納豆ならよく食べる甥っ子は、揚げた納豆のスナックが固いらしく、ぺっと出してしまった。

DSC00603  13時30分から自民党柏崎支部で自民党役員総会。酒なしの席で自民党所属の県議、市議が集まる機会は少ないので、駅周辺整備や県予算の今後について議論。ただ一点、市役所を移動させたいという意見には、中央地区の人間として反対意見を述べた。「地方分権の時代」、本来であれば、もっと国会議員、県会議員、市会議員が連携しなければと思う。

DSC00604  19時からエネルギーホールにて、「柏崎世論の会」の勉強会。 始まるまでの待ち時間の間に、セブンイレブンの「恵方巻」を食べる。従兄弟がセブンイレブンでバイトをしており、販売のノルマがあるとのことで、家族全員と知人数名分をまとめ買い。きちんと南南東を向いて、一気に頬張る。
 勉強会では、今回の皇室典範改正の問題を話し合う。女性天皇、女系天皇の違いが分からないというレベルではない人の集まりなので、「弓削の道鏡」や宮家の現状まで議論が深まる。2月9日には、内閣府に行き、地方議員の仲間とともに、「皇室典範改悪反対」署名を届けることも報告。

F1000001 21時過ぎ、自宅に戻る途中でスーパーで半額になっていた刺身(鮪、鯛)、地元、久我商店さんの豆腐を購入。湯豆腐にして、豆腐を突きながら、刺身でビール500mlを3本飲む。

 23時、『正論』『諸君』『論座』『世界』などをベットで読みながら就寝。

 2月議会では、国民健康保険税の値上げについての議論もある。
 国民健康保険税の仕組みは以下の通り。
 国民健康保険税(以下、国保税)の算定は、まず各自治体が被保険者(国保加入者)にいくら保険税として課税するのか、医療総額としていくらぐらいかかるのかという想定のもと、大まかな賦課総額を決定する。
 その賦課総額を被保険者で負担するが、所得や資産の多い人と少ない人がまるっきり同じでは成り立たないので、所得や資産に応じた負担分【応能】と、平均的に負担する【応益】の割合をほぼ50:50に設定している。

 国保税負担(100)=「A:応能」50%+「B:応益」50%

 「A:応能」負担分は、所得に応じて賦課する【所得割】、資産に応じて賦課する【資産割】がある。
 「B:応益」負担分は、被保険者一人当たり均等に賦課する【均等割】、1世帯当たり均等に賦課する【平等割】がある。
 応能、応益それぞれの割合は各自治体で定めることができる。
 柏崎市の場合は、「A:応能」は【所得割】のみ、「B:応益」は【均等割】【平等割】を設定している。

  国保税負担(100)=「A:応能【所得】」50%
                +「B:応益【均等】【平等】」50%

 本来は、国保税は国保税のなかで会計を行うため、特別会計となっている。ただ、柏崎市の場合は、個人負担を軽減するために、一般会計から一人あたり9000円を繰り入れていた。

 平成18年に予定されている国保税の改正は、

 【所得】 7.3%から8.9%
 【均等】 20300円から24900円
 【平等】 23500円から27400円

となるうえ、一般会計からの繰り入れを廃止する案となっている。
 現在の国保税の単年度収支は毎年度赤字。さらに、今年は租税特別措置法改正で若干収入増は伸びるものの、それ以上に一般会計からの繰り入れを廃止することが影響する。被保険者の数の予想も若干、減少するものの、医療費自体が増加する予想があり、いまの税率では、2006年度末は大幅赤字が見込まれる。
 今回の改定でも、2年分の緩和措置として基金を1億378万8千円を取り崩している。

2006年2月 2日 (木)

帝國陸軍三式戦闘機「飛燕」

DSC00585 3時就寝。7時起床、昨日、家族が作った残りもの?や小粒納豆で朝食。出産のため、妹と甥っ子が同居しているが、母も妹も甥っ子の残したものを食べるので、さらに残ったものをこちらで片付ける。

 今日一日、インドへ訪問する議員団のホームページや自民党柏崎支部の広報誌を作ろうと思っていたものの、電話や来客で仕事進まず。計画通りにはいかないものである。

DSC00593 昼食は、甥っ子の分と一緒に生ラーメンを作る。チャーシューもほうれん草も無かったので、支那竹とハムで貧相なラーメンになってしまった。

 夕方、TSUTAYAに行き、『ヒトラー 最期の12日間』 『東京裁判(上)』『東京裁判(下)』などを借る。パソコンで見ながら作業をしようと思うが、途中、途中で手が止まり、結局、作業効率が下がる。

DSC00599 22時、納豆月見うどん、パンプキンスープで夕食。

h2 昭和初期、戦中、戦後すぐの納豆のラベルを骨董屋さんをはじめ、色々なところで探していたが、偶然に大日本帝国陸軍三式戦闘機「飛燕」の5銭切手を見つけた。田形先生の愛機であり、先日読んだ碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』でも、この日本で唯一の液冷エンジン、時速600kmの高速と流線的な美しさをもつ戦闘機がいかに苦労して生まれたかが分かったので、即購入。次回、チャンネル桜の事務所に行ったとき、田形先生に渡そうと思う。

h 田形先生は、昭和19年10月12日、台湾・台中飛行場にて、部下、真戸原軍曹とともに、2機の「飛燕」でグラマン「F6Fヘルキャット」36機を迎え撃った。
 当時、田形先生は第4小隊長で准尉。年は28歳、操縦歴9年、飛行時間4000時間を超え、戦隊長からは

「伎倆成熟の域に達し、
  いかなる任務に服せしむもさしつかえなし」

の「操縦伎倆証明書」も書かれていた。
 以下が、その戦闘の模様である。


 いよいよ敵機が近くまで迫ってきたとき、私のもっとも得意とした、ひと口でいえば360度旋回の90度ぐらいしか回らない間に敵を前方にのめらせ、エンジンの余力を生かした急上昇反転によって、たちまち攻守が入れかわった。
 急激な態勢の変化におどろいて攻撃目標を失った敵機が、フラフラと前方に飛び出してきた。敵機との距離50メートル、絶好の攻撃態勢となった。すかさず一連射を加えると、あっけなく火を噴いて墜落して行った。説明すると長いようだが、あらたに包囲されてからわずか一分たらずの短い時間だった。
 僚機の真戸原軍曹も、懸命に危機を脱しようとしていた。私は急反転降下で、後ろから僚機を攻撃中の敵3機に牽制射撃を加えて救援した。これで真戸原機を追っていた敵5機は、バラバラになって急降下退避して行った。
 これで28機になったが、戦闘開始からすでに15分、飛行時計の針は十時を指していた。連続の死闘で胸が苦しくなり、全身に疲労を感じてきた。
 こうして、緒戦からこれまでは有利に戦ってきた。36機の大編隊が私たちわずか2機に8機も撃墜破され、簡単に撃墜できる相手でないことを悟ったようだ。敵も急激に態勢を撃え、このままさらに長時間戦えば、いずれこちらが不利になる。有利な点といえば飛燕はグラマンより40キロも優速であり、しかもわれわれ2機は呼吸がピッタリ合って一身同体のように戦えることだ。さらに友軍上空であるという精神的な余裕があったことも見逃せない。


 田形竹尾著『空戦 飛燕対グラマン―戦闘機操縦十年の記録』より

 このあと、田形、真戸原の両機はさらに十分ちかくも戦闘をつづけ、撃墜、撃破一機ずつの戦果を加え、結局グラマン戦闘機6機撃墜、5機を撃破し、勝利をおさめたが、両機とも被弾して不時着。パイロットは生還したが機体は大破するというすさまじい戦いであった。
 大破した愛機・飛燕に手をかけ、田形先生は心からこう言ったそうである。

 「飛燕よ、よく戦ってくれた。
             ありがとう」

2006年2月 1日 (水)

麻生太郎外相とインド:象のインディラ

 2時過ぎに開放され、車のなかで仮眠。毛布をもってくるのを忘れたので、酔いも覚める寒さであった。6時から柏崎で倫理法人会のモーニングセミナーであったが、酔いの抜けないこともあり、柏崎には戻らず欠席。

DSC00591 8時、自宅に戻り、鮭フレーク、中粒納豆、鰹節で納豆巻きを作り、朝食。今日はひたすら資料の作成。1月には、かなりの打ち合わせをこなしたものの、議事録をおこす時間がなく、切れっ端のメモを見ながら議事録を作成。

DSC00592 12時過ぎ、出産のために病院に行っている妹が帰ってきたので、一緒に「うれっ子」(電話:0257-22-4648)の「チャーシューメン」で昼食。3月1日に帝王切開という。3月になれば2人の叔父さんになってしまう。独身の三井田家・家長としては、またプレッシャーである。

DSC00586

 午後もひたすら議事録作り。体調が悪かったとはいえ、打ち合わせと同時か1日、2日で書かなかったことをことさら反省。細かい内容を思い出して書くのがなかなかやっかいである。20時、湯豆腐を中心にした夕食。

 また今日も麻生太郎大臣の発言がTVで取り上げられていた。
 4月にインドに行くので、インド関係の資料を見てるが、ここにも麻生大臣がでてくる。

 話は、大東亜戦争が激しくなった昭和18年までさかのぼる。
 この頃になると、本土防衛のための最終ラインが破られ、民家や民間施設をも含んだ無差別爆撃が始まる。
*民間人への無差別攻撃は戦争のルール違反
 東京の上野動物園では、ライオンをはじめ、動物が町へ逃げ出したら危険と判断し、子供たちの人気者であった動物を、それも可愛がった飼育係が殺さなければならず、涙の日々。毒殺される動物が多いなか、毒入りのエサも賢さから判断して食べず、注射もその大きな巨体に効かない象は、餓死させることになった。何も食べず、刻々と死に迫る象。しかし芸をすればエサをもらえると思った象は、人が近づくと、弱った巨体を残った力を振り絞って一所懸命に芸をする。それを為す術もなく、涙ながらに見つめる飼育係。結局、人気者の象三頭は次々と死ぬことになる。

 大東亜戦争が終わり、上野動物園は再開したが、象やライオンのいない動物園となっていた。大好きな動物が見られると楽しみにしていたのは子供である。なかでもまた大きな象を見られると期待していた台東区の子供たちは落胆の思いだったという。
 そして、台東区子供議会は「上野動物園に象がほしい」と決議し、直接、インドのネール首相に象への思いやお願いの作文、象を描いた図画1500点を集めて送ったのである。
 こうした子供達の象へのひたむきな思いを受け取ったインドのネール首相。普通の外交であれば、簡単なコメントを発表するだけのようなものだが、なんと象一頭を日本にプレゼントすると発表したのである。
 この頃は、サンフランシスコ講和条約もなく、日本が主権を回復せず、まだGHQによる占領下にあった時代。子供たちの思いがいかに強かったのかと、政府、インドの英断に驚くばかりである。

1 昭和24年、ネール首相は愛娘インディラ・ガンジーと同じ「インディラ」と名付けた象を日本に贈った。贈呈式には、都知事のみならず、吉田茂首相も参加。そして、この写真が、祖父である吉田茂首相に連れられ、象の「インディラ」に会いにきた少年、当時9歳の麻生太郎外相である。
 象の「インディラ」は昭和25年4月から、約半年間移動動物園の人気者として全国17都市を巡回。以来、34年間、日本の子供たちに夢を与えた「インディラ」であったが、昭和58年、老衰のため死亡(49歳)。まさに日本とインドの架け橋であった「インディラ」の死は、「象のインディラ物語」として全国のニュースや映画になり、涙を誘った。その骨格標本は国立科学博物館に展示されている。
_2 *写真は、昭和24年9月11日、象の「インディラ」にエサをやるネール首相と娘のインディラ・ガンジー

 日本人も「インディラ」の恩を忘れなかった。
 昭和40年から41年にかけ、インドは大飢饉におそわれ、多くのインド国民が困っていた。それに対し、台東区の区町会連合会はその年の3月定例会において、インド飢餓救援の募金を決定。集まった救援募金は総額で343万1403円にものぼったという。

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 まだ話は終わらない。
 「インディラ」死去のニュースを知ったネール元首相の娘、第3代インド首相となったインディラ・ガンジーは、昭和59年、再び日本に二頭の象をプレゼントしたのである。
*写真は、左からインディラ・ガンジー、ネール、チャンドラ・ボース
 二頭には、【希望】を意味する「アーシャ」、【慈悲】を意味する「ダヤー」と名付けられた。
 さらに平成13年、「日本国民への親善の印として贈呈したい」とのインド政府から申し出により、【昇る太陽】を意味する「スーリア」が寄贈された。
 現在、上野動物園では、「ダヤー」と「スーリア」の元気な姿を見ることができる。

 インディラ・ガンジーは、1984年、首相在任中に2人のシーク教徒の警護警官によって暗殺された。首相の後任に、長男ラジブ・ガンジーが就いたが、同じく1991年に暗殺され、インドでは「ガンジー家の悲劇」と言われている。

写真及び参考:
「日本・インド国交樹立50周年をお祝いする実行委員会」冊子より

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