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2006年2月16日 (木)

講演会、チャンドラ・ボースの遺骨

 2時就寝。4時30分に起床し、愛車のプリちゃん(メス)で上越市に移動。

_1  6時から直江津駅前のホテル・ハイマートにて、上越市倫理法人会の経営者モーニングセミナーにて講演。講演のタイトルは、「納豆、そして日本の歴史」。自己紹介から入り、会社の紹介、その後は納豆の栄養、歴史について。納豆の効能を日本人は経験的に知っていた話を例にだし、いかに先人が食を工夫し、知恵をしぼってうまく食材を使っていたか、日本人はもっと誇りをもっていいと主張。韓国、中国、インド、タイなどのアジアの納豆シリーズにいき、【インドネシアの納豆】テンペの話。テンペを紹介するとともに、お約束のインドネシア独立の話から、大東亜戦争、そしてアジアの歴史と日本を語る。最後に、政治家になった理由を亡父との想い出からお話し、終了。

DSC00690 講演ののち、出席された経営者の方々との朝食会。色々とお話していたところ、なんとインドネシア独立を描いた映画『ムルデカ17805』を自主上映された社長さんがいらっしゃった。人の出会いとは分からないものである。
この「17805」はインドネシア独立の
      皇紀2605年8月17日を表す。

 4月に行う予定の田形先生の講演会についても、チラシを配ったところ、多くの方から是非聞きたいとのことであった。ありがたい限りである。

 10時過ぎ、自宅に戻る。届いた平成18年2月15日付『防衛ホーム』を読んでいたら、先日行った「第2回中越地震チャリティコンサート」の記事がでていた。当日のビデオや中越大震災のビデオを素材に、早く「柏崎アワー」の構成をしなければならない。
 「紹介記事」PDFファイル。第12音楽隊の皆さんには感謝である。

DSC00692 14時からエネルギーホールにて、今年5月14日から行く満州柏崎村訪問団の打ち合わせ。太古洞開拓関係者であり、ソ連の侵攻後の満州の歴史などを調べていらっしゃる東京都調布市・池田医院の池田精孝先生がお見えになり、お話を聞く。
 長崎に原爆が落ちたのを確認したかのように、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州に侵攻。満州を守っていたはずの関東軍は武装解除し、早々に撤退。幼い我が子を抱えた母親は逃避行できないとあきらめ、我が子の首に手をかける、我が子を川に沈める、山に置き去りにしてくる、子供のために支那人、朝鮮人の妻になった者。なんとか後から逃れてきたものの、見捨てられた幼い子供達を見つけ、自分の荷物を捨て子供を負ぶって逃亡し、途中で餓死した方など、涙無くしては聞けない悲劇があった。
 ただ「平和、平和」と叫び、日本が悪いと外国にお詫びしようという平和教育などは無意味である。こういった歴史を埋もれさせず、きちんと教えていくことが本当の平和教育であろう。

DSC00696  17時、大粒納豆、刻みキムチ、醤油煮昆布の納豆ご飯で昼食。
 19時から柏崎準倫理法人会の役員会&懇親会であったが、仕事が終わらず欠席。
 20時過ぎ、今日、満州柏崎村の件で初めてお会いした元刈羽村議からお電話を頂戴した。若い市会議員が柏崎にいると聞いていたので、どうせ旧・社会党系()のような人間だろうと思っていたものの、私の「大東亜戦争」発言で安心したとのことであった。
*旧・社会党、社民党が柏崎に多いことから

 明日の午前中から都内で打ち合わせがあるので、23時40分の高速バスで東京に向かう。

 4月に地方議員数百名とともにインドに行く訪問団の団長を、東京都杉並区の山田宏区長にお願いすることになった。
 なぜ杉並区かと言えば、インド独立の志士「偉大なる指導者」チャンドラ・ボースの遺骨が、杉並区の蓮光寺に納められているからである。
_2  チャンドラ・ボースは、日本の敗戦のあと、インド独立運動続行のためにはソ連の力を借りるしかない、との思いをもつ。
 昭和20年8月18日、ソ連へ向かおうと機体の点検もそこそこに台北の松山飛行場から大連に向かう途中、エンジンの故障により飛行機が炎上、墜落し、全身火だるまとなった。急遽、病院に運び込まれたチャンドラ・ボースはラーマン副官にこう遺言したという。

 「私の死も近い、私は一生を祖国の独立の捧げて今死ぬ。
 インド国民に独立の戦いを続けるよう伝えてもらいたい。」

*写真は、台北に降り立ったチャンドラ・ボース最後の姿。
 名越二荒之助編『昭和の戦争記念館 第4巻 大東亜戦争その後』

 遺体は火葬され、秘密裏に東京に運ばれた。しかし、どのお寺も政治的な配慮から遺骨の安置を断る。そんななか、杉並区、蓮光寺の望月教栄住職が引き受け、今日に至っている。蓮光寺では、毎年の命日8月18日に欠かさず慰霊祭が行われている。

 数研社『世界史事典』をはじめ、多くの世界史では、チャンドラ・ボースはインド国民軍(INA)を率いて、米英に宣戦布告、ビルマより進出して独立戦争を仕掛けるが敗北、連合国に降伏、といった説明がされることが多い。しかし、実際にはチャンドラ・ボースは最後まで降伏せず、ビルマより進出したインド独立戦争は、日本軍も多くの犠牲をだし、大東亜戦争の3大愚戦(ミッドウェー海戦、ガダルカナル島)にも数えられるインパール作戦であった。
 インパール作戦については、後日書きたい。

 チャンドラ・ボースの遺骨をインドに返還するべく、インド独立に関わった元日本兵やチャンドラ・ボース・アカデミーと蓮光寺の方々が、戦後、外務大臣にネタジの遺骨返還に対する協力の要請を重ねている。
 平成2年4月10日、海部首相のインド訪問の際、遺骨返還の請願に対しインド政府からの返電が届き、また実際にアカデミーの方々自らがインドを訪問し、遺骨返還について話し合ったが、いまだ遺骨返還には至っていない。
 これは、インドの内政情勢や米ソ冷戦下における日本とインドの関係があった。
 チャンドラ・ボースのライバルの政治家であったネール一族が政権与党にいる間、チャンドラ・ボースのことは評価されず、またイギリスからの圧力もあり、学校の歴史教育で教えられることはなかった。
 しかし冷戦も終結し、インド国内においても、それまで政権を独占してきたガンジー・ネールの国民会議派と対立関係にあり、チャンドラ・ボースを支持するインド人民党(BJP)が平成8年の総選挙で第一党となった。
 インド独立50周年、チャンドラ・ボース生誕100周年にあたる平成9年には、チャンドラ・ボースを再評価する動きがはじまり、「カルカッタ空港」は、「ネタジ・スバス(チャンドラ・ボース)空港」(The international Netaji Subhash Airport)と改称、インド国会議事堂内にはチャンドラ・ボースの銅像が建立され、彼の誕生日(1月23日)は国の祝日と定められた。
 平成10年には、インド人民党のバジパイ首相を中心とした連立内閣が発足し、チャンドラ・ボースがインド独立の英雄として、歴史教育でも光を当てられることになった。
る。
 これ以外にも小さな出来事としては、インド独立20周年の昭和42年、日本国内でビハリ・ボースや孫文に協力し、チャンドラ・ボースも支えた頭山満が、彼に贈った日本刀がインドへ返還され、インド国内でチャンドラ・ボースの再評価が進むとともに感動をよんでいる。また元インド国民軍へ年金が支給が開始され、国会議事堂にチャンドラ・ボースの写真が掲げられた。
 また平成3年には、インド文民に与えられる最高位の名誉「インドの宝石」がチャンドラ・ボースにおくられた。

 とここまで書いておきながら、実態としてまだ遺骨は返還されていない。それは、彼の遺族をはじめ、出身地であるベンガル地方の人間がチャンドラ・ボースの死を認めていないからである。一部には、ベトナム戦争で指導していたとか、そんな噂もあるほどであり、それだけ尊敬されている。未だにチャンドラ・ボース死亡調査委員会がある。
 ただ、現実的にはバジパイ首相(平成13年12月9日)をはじめ、歴代のインドの指導者は蓮光寺を参拝している。

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