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2006年2月26日 (日)

市内NPO、「戦艦 大和」が残した技術

 4時就寝。8時起床、各種資料の整理。

 昨日、今日と高柳町でイベントが開催されており、是非、行ってみたかったが、整理していない資料や予算資料の読み込みや雑務が多くあるために行けず。残念。

DSC01042 12時、広島で買った味噌を使ってなめこと大根の味噌汁。なめ茸と小粒納豆でご飯をかっこんでのブランチ。
 なめ茸の薬臭いような人工的な味付けが昔はイヤで仕方なかったが、最近はどうしたことか、懐かしさのように感じてしまう。ドクターペッパーが好きになったのと同じ感覚である。

DSC01043 13時30分から柏崎市市民プラザで「なんかやろうねっか・地域を支えるのは○○世代」。主催は、市民NPOスペシャル実行委員会、後援が柏崎市、みるみるつながる市民ネットワーク。
 まず、柏崎市内の地域の課題、話題の提供ということで4団体からの報告があった。


障がい児編・・・・NPO法人トライネット
  心身に障がいのある子どもたちの放課後支援、障がい者のデイサービス、ヘルパー派遣を展開中。さらに障がいのある人もない人も「困った時はお互い様」地域生活の応援隊として活動中。

高齢者編・・柏刈助け合い
              ちょこっと(NPO法人申請中)

 健常者も障がいがある方も、高齢者も「皆平等に安心して暮らせる町」を基本理念に活動しています。柏刈地域に住んでいる私たちが、外出支援などお互いに助け合っているのです。

環境編・・協同組合ニューエネルギーリサーチ
 新エネルギーの普及・啓発活動を目的に、(協)ニューエネルギーリサーチは平成11年3月に発足。設立直後に廃食用油のディーゼル燃料化のリサイクルプラントを独自開発。続いて平成13年度にNEDOの採択を受けて風の丘に480キロWの大型風力発電施設を設置した。この風力発電施設は公募により「ぶんぶんカゼラ」の名称が付けられ、柏崎のシンボルになっている。風力発電施設の悩みは雷。ゴロゴロとくるともう落ちている。

こども編・・比角地区子ども育成会
 比角地区各町内子ども会と育成団体の連絡調整や、健全育成の推進と子ども達の居場所を作りを地域全体で作り出すことを目的にした「放課後クラブ」を開設し、活動を展開中。


DSC01044 報告のあった4団体を含め、市内の市民活動7団体のプロモーションビデオも映写されたたのち、じょんのびタイム(アトラクション)として、比角りずみっこクラブさんの踊りであった。
 小さな女の子が一所懸命踊る姿はひたすら可愛い。またこのような事を言って、「アチラ」方面の人間だと勘違いされそうな予感である。
 最後は、茶話会として意見交換が行われた。今回のような試みは2回目とのことである。柏崎市には色々な活動をしている方がおり、それぞれにレベルも高い。こういった機会を設けることによって、各団体間の連携がよりうまくいき、柏崎がもっと住みやすい街になることを願ってやまない。
 自分でも何かやりたいことはないか、と片付けを手伝いながら聞かれた。ある程度時間ができる身分になったときには、「柏崎の歴史をつなぐ会」とでもいったものをやり、「柏崎検定」を創設し、是非、地元を愛する子供を育てたいものである。

DSC01046 23時、スーパーの閉店間際で半額になった生寿司セットと200円の鰤のあらが入ったパックで作った「ぶり大根」で夕食。
 大根の下ゆでが中途半端になってしまったのか、ちょっと味のしみ込みが悪かった。明日の朝にはもっと美味しくなっていることであろう。

_2 先週、広島に行っている際に地元新聞で見つけた記事をスクラップしておいた。なかでも「戦艦 大和」に関する以下の記事は興味深かった。

*写真は、昭和19年10月22日 ブルネイ湾出撃シーン。
 手前から「戦艦 長門」「戦艦 武蔵」「戦艦 大和」


平成18年2月19日『中国日報』

 今を読む ノンフィクション作家 迫 勝則
 繁栄生んだ技術の伝承

 不沈の戦艦大和

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の一階に、
「呉の歴史」展示コーナーがある。
 先日そこを訪れたとき、若いカップルが、アメリカ軍の
空爆を受ける呉市街の様子に見入っていた。VTRの放映が終わり、
やがて二人は、顔を見合わせただけで、その場を立ち去った。
すさまじい空襲が、はるか速い国の上空ではなく、いま自分
たちが住んでいる街の上空で起きていたことが、かなりショック
だったように見えた。

 いま日本中にそこはかと流れる空気がある。それは、あの戦争
について事実をしっかりと受け止めたいという思いである。
その風潮は、映画「男たちの大和/YAMATO」のヒットを生み、
呉の「大和ミュージアム」への予想を超える人波へとつながって
いる。
 過去の戦争に思いをはせるとき、呉空爆の後、アメリカ軍は
なぜ広島の地に原爆を投下したのだろうか、という素朴な疑問
が浮かぶ。広島はその当事者でありながら、そのことについて、
あまり多くが語られていない。広島・呉地域には、当時、巨大な
軍事産業が存在していた。その始まりは、1894年に開戦した
日清戦争。天皇直属の軍最高統帥機関である大本営が
広島市に置かれた。広島市には、比治山陸軍兵器庫など、
次々と軍の施設が築かれていった。
 アメリカ軍が人類初の原爆投下の地に広島を選んだ理由は、
そこが日本産業の技術力の最先端をいく地域だったからである。
 呉の海軍工廠で戦艦大和の建造が始まったのは、
昭和12年11月のことだった。翌年4月、マツダの創業者である
松田重次郎は、陸軍省兵器局に呼び出された。「翌年4月までに
歩兵銃月産2000挺を製造するに必要な措置を講ずべし」。
これにより東洋工業(現マツダ)は、三輪トラックの生産を中断し、
兵器工場へと変身することになった。
 そもそも松田重次郎が、軍部から厚い信頼を得るようになった
のは、同社が耐熱効果に優れた軍艦用コルク板の開発に成功
したからである。その後、卓越した技術力と熱心な仕事ぶりが
評価され、機械ものの発注を受けるようになった。
 私自身、その会社で32年間働いた。戦争であれ何であれ、
かつて自分が勤めていた会社が、兵器を製造していた事実を
知るにつけ、どこか悲しい心情を禁じ得なかった。
 しかし、私たちは「負の遺産」だけでなく、当時、関西随一を
誇った兵器工場の「正の遺産」も忘れてはいけない。

 例えば、その一つが金属を削って磨く研削・研磨技術。この
技術は、後に日本一の精度を誇る精密機械の製造、世界初
のロータリーエンジン実用化へとつながっていった。
 この技術伝承の成果は、マツダだけではない。戦後、海軍
工廠の設備を利用して大型タンカーや客船の建造に乗り出した
石川島播磨重工業。軍艦建造に使われた砥石(といし)の技術
をベースに、世界有数の半導体製造装置メーカーに成長した
ディスコ。かつて軍需で生計を立てた多くの企業が、その後、
非軍事産業に転換し、日本の復興を支えることになった。
 「今日の繁栄は多くの犠牲者のうえに成り立っている」という
のは、後世に生きる人たちの言い回しである。戦後、私たちに
未曾有の豊かさをもたらしてくれた幾多の技術が、戦艦などを
造るプロセスのなかで生まれたことは紛れのない事実である。
 その優れた技術力で、当時世界最強とうたわれた戦艦大和
は、アメリカ軍の激しい集中砲火を浴びて、三千名余りの
乗組員とともに東シナ海の海底に沈んだ。
 いま映画や展示を通して私たちの心のなかに再浮上した
戦艦大和。その悲しい物語のなかに、私は一筋の光明を見る。
それは、「人間を豊かにする技術の象徴としての戦艦大和は
永遠に沈まない」ということだった。

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