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2006年2月 2日 (木)

帝國陸軍三式戦闘機「飛燕」

DSC00585 3時就寝。7時起床、昨日、家族が作った残りもの?や小粒納豆で朝食。出産のため、妹と甥っ子が同居しているが、母も妹も甥っ子の残したものを食べるので、さらに残ったものをこちらで片付ける。

 今日一日、インドへ訪問する議員団のホームページや自民党柏崎支部の広報誌を作ろうと思っていたものの、電話や来客で仕事進まず。計画通りにはいかないものである。

DSC00593 昼食は、甥っ子の分と一緒に生ラーメンを作る。チャーシューもほうれん草も無かったので、支那竹とハムで貧相なラーメンになってしまった。

 夕方、TSUTAYAに行き、『ヒトラー 最期の12日間』 『東京裁判(上)』『東京裁判(下)』などを借る。パソコンで見ながら作業をしようと思うが、途中、途中で手が止まり、結局、作業効率が下がる。

DSC00599 22時、納豆月見うどん、パンプキンスープで夕食。

h2 昭和初期、戦中、戦後すぐの納豆のラベルを骨董屋さんをはじめ、色々なところで探していたが、偶然に大日本帝国陸軍三式戦闘機「飛燕」の5銭切手を見つけた。田形先生の愛機であり、先日読んだ碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』でも、この日本で唯一の液冷エンジン、時速600kmの高速と流線的な美しさをもつ戦闘機がいかに苦労して生まれたかが分かったので、即購入。次回、チャンネル桜の事務所に行ったとき、田形先生に渡そうと思う。

h 田形先生は、昭和19年10月12日、台湾・台中飛行場にて、部下、真戸原軍曹とともに、2機の「飛燕」でグラマン「F6Fヘルキャット」36機を迎え撃った。
 当時、田形先生は第4小隊長で准尉。年は28歳、操縦歴9年、飛行時間4000時間を超え、戦隊長からは

「伎倆成熟の域に達し、
  いかなる任務に服せしむもさしつかえなし」

の「操縦伎倆証明書」も書かれていた。
 以下が、その戦闘の模様である。


 いよいよ敵機が近くまで迫ってきたとき、私のもっとも得意とした、ひと口でいえば360度旋回の90度ぐらいしか回らない間に敵を前方にのめらせ、エンジンの余力を生かした急上昇反転によって、たちまち攻守が入れかわった。
 急激な態勢の変化におどろいて攻撃目標を失った敵機が、フラフラと前方に飛び出してきた。敵機との距離50メートル、絶好の攻撃態勢となった。すかさず一連射を加えると、あっけなく火を噴いて墜落して行った。説明すると長いようだが、あらたに包囲されてからわずか一分たらずの短い時間だった。
 僚機の真戸原軍曹も、懸命に危機を脱しようとしていた。私は急反転降下で、後ろから僚機を攻撃中の敵3機に牽制射撃を加えて救援した。これで真戸原機を追っていた敵5機は、バラバラになって急降下退避して行った。
 これで28機になったが、戦闘開始からすでに15分、飛行時計の針は十時を指していた。連続の死闘で胸が苦しくなり、全身に疲労を感じてきた。
 こうして、緒戦からこれまでは有利に戦ってきた。36機の大編隊が私たちわずか2機に8機も撃墜破され、簡単に撃墜できる相手でないことを悟ったようだ。敵も急激に態勢を撃え、このままさらに長時間戦えば、いずれこちらが不利になる。有利な点といえば飛燕はグラマンより40キロも優速であり、しかもわれわれ2機は呼吸がピッタリ合って一身同体のように戦えることだ。さらに友軍上空であるという精神的な余裕があったことも見逃せない。


 田形竹尾著『空戦 飛燕対グラマン―戦闘機操縦十年の記録』より

 このあと、田形、真戸原の両機はさらに十分ちかくも戦闘をつづけ、撃墜、撃破一機ずつの戦果を加え、結局グラマン戦闘機6機撃墜、5機を撃破し、勝利をおさめたが、両機とも被弾して不時着。パイロットは生還したが機体は大破するというすさまじい戦いであった。
 大破した愛機・飛燕に手をかけ、田形先生は心からこう言ったそうである。

 「飛燕よ、よく戦ってくれた。
             ありがとう」

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