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2006年2月 4日 (土)

【決断】「空母 飛龍」とともに山口多聞

DSC00605 7時、起床。母になめこと挽き割り納豆の味噌汁を作ってもらったので、たっぷり2杯を飲む。いくらフーフーしても熱いままで、胃にもしみる感じ。甥っ子に飲ませようにも、熱すぎて飲ませることができず。
 9時から某所で節分会で豆をまく役目であったが、不幸があったのでキャンセル。午前中は、弔問。

DSC00606 昼は、納豆ご飯にしようとするものの、甥っ子が食べたがり、上に乗せた納豆だけをとって食べられてしまった。甥っ子は2歳になるが、毎日納豆を欠かさない。もし、自分の子だったら、毎日納豆を食べさせ、その納豆の銘柄を記録してみよう。

DSC00609 午後はひたすらメールや企画書つくり。4月に行う田形先生の講演会の企画も大方煮詰まった。20時、手作り餃子、解凍した秋刀魚を塩焼き、ビールでテレビを見ながらの夕食。『エンタの神様』を見たなかで、桜塚やっくんのスケ番恐子ネタがケーシー高峰なみの観客とのやりとりで面白く、いとうあさこのウクレレでのネタもツボにハマった。彼女には是非、牧伸二のウクレレ漫談を継いでほしい。

_1  2月18日から21日まで広島に行くことになったので、いまから楽しみである。1/10「戦艦 大和」がある呉市の「大和ミュージアム」や江田島など、見たいものが数多くある。
 なかでも、江田島の海上自衛隊第一術科学館参考館にある山口多聞中将の家族に宛てた遺書など、是非、本物を見てみたい。
 先日、チャンネル桜スタッフのS嬢が、亡くなった御祖父様の話を聞こうと、御祖父様と一緒に大東亜戦争を闘ったご存命の戦友の方に会ったそうだ。その方は、ミッドウェー海戦を闘ったときの話をされ、山口多聞少将、加来止夫艦長が敬礼をしながら「空母 飛龍」とともに海に沈んでいくところを見ていたという。

 大東亜戦争における3大愚戦として、「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル島」「インパール作戦」が挙げられることが多い。
 「ミッドウェー海戦」は、昭和17年6月5日。ハワイの奇襲攻撃に成功した日本海軍として、そして本土への爆撃を止めるため、ミッドウェーに空母を含むアメリカ太平洋艦隊をおびきだし、壊滅させたいという目的から立案された。昭和17年4月18日には、アメリカ軍の爆撃機(空母に載せてやってくる)により東京が空襲されており、それによる危機感もあった。つまり 「ミッドウェー海戦」は、太平洋の制海権を奪うための作戦であったのである。
 当時、この作戦には反対意見も多々あったが、山本五十六連合艦隊司令長官はこの作戦が実行できないなら連合艦隊司令長官の座を降りるとまで言い、強引に実行。
 ハーバード大学に学んだ、アメリカ通の山本五十六司連合艦隊司令長官としては、国力に勝るアメリカとの戦争は避けるべきとしていたが、開戦した以上、一大打撃を与えて、和平交渉にもっていく構想をもっていた。山口多聞少将は、プリンストン大学に学び、山本五十六の秘蔵っ子でもあった。
 日本海軍は、南雲忠一中将指揮する「空母 赤城」、「空母 加賀」、「空母 蒼龍」、「空母 飛龍」で進撃。アメリカ軍はこれを早くから日本の暗号電文を解読し、ミッドウェーに来ることを知っていたため、「空母 エンタープライズ」「空母 ホーネット」「空母 ヨークタウン」で出撃。
 まず日本海軍が、第一次攻撃として、ミッドウェー島に対して爆弾を搭載(爆装)した戦闘機で攻撃。すでに暗号を解読していたため、ミッドウェー島からアメリカ陸軍機が発進して迎撃。果敢な攻撃をかけるも、高性能の零戦と熟練の日本海軍パイロットの組み合わせには到底かなわず、大半が撃ち落とされていた。しかし、暗号を読まれていたことにより、アメリカ軍も対応をとったので、日本海軍も十分な爆撃をすることができず、第一次攻撃隊の隊長から、

「第一次攻撃隊ノ攻撃ハ不十分、
       第二次攻撃ノ要アリトミトム」

との報告が入る。
 ここで参謀たちは、「近海に空母なし」と判断。当時、アメリカ軍がレーダーがあるのに対し、日本はまだ目視による索敵(敵を探すこと)が主であったこともあり、発見するには到らず。さらに悪いことに、「重巡洋艦 利根」から索敵のため発進するはずの4号偵察機も発進が遅れていた。(理由としては、飛行機を射出する機械が故障した、あるいは対潜哨戒機の発進を優先させたからといわれている)
 日本海軍の空母にあった戦闘機には、山本五十六連合艦隊司令長官の指示で、対空母を想定し、魚雷を積んで(雷装)いたが、「空母なし」と判断したことで、第二次攻撃隊の戦闘機を地上爆撃のための爆弾に積み替える(爆装)よう指示した。
 しかし、「空母 飛龍」の艦橋で指揮をとる山口多聞少将は、

 「したたかなアメリカのことだ。空母は必ずいる。」

と再考を促すが、南雲忠一中将の考えは変わらず、雷装から爆装に変えた戦闘機が発艦。そこで日4号偵察機より、アメリカ軍を発見、

 「後方ニ空母ヲ伴ウ」

の一報が入る。アメリカ軍も日本海軍の位置を特定する前に空母3隻より150機あまりの戦闘機を準備できた部隊から次々と発進させていた。
 ここで、重要な【決断】があった。
 山口多聞少将は、「地上爆撃用の爆弾でも空母の甲板を破壊すれば発艦できなくなるのですぐに攻撃すべし」と考え、

 「直チニ発艦ノ要有ト認ム」

と進言したが、南雲忠一中将は第二次攻撃隊を再び爆装から雷装への付け替えを指示。第二次攻撃隊の戦闘機を格納庫へ戻すと同時に、第一次攻撃隊が上空へ戻ってきており、被弾や燃料切れの戦闘機も収容しなければならなかった。このことによって、日本海軍の空母の艦上は、てんやわんやの大混乱。貴重な時間も費やされていた。格納庫内には爆弾や魚雷が乱雑に置かれ、一つでも爆発したら誘爆し、大爆発に到るという危険な状態。
 そこへ、アメリカ軍空母からの魚雷、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の爆撃があり、「空母 赤城」「空母 加賀」「空母 蒼龍」の甲板に閃光が走ったと思うや、戦闘機が次々と誘爆をおこし、炎上。精鋭空母3隻、それだけか神業的技量をもったベテランの零戦パイロットを失う。攻撃を受けたとき、あと5分で第二次攻撃隊を発進できるところであった。もし、アメリカ軍機が飛来するのが5分遅かったとしたら・・・・これが後に言われる「ミッドウェー運命の5分間」であるが、山口多聞少将曰く

「5分ではなく、その2時間前(爆装と雷装の入れ替え)
                に勝利のチャンスを失っている」

である。
 雲の下に位置したことから、急降下爆撃を逃れ、残ったのは「空母 飛龍」。山本長官率いる「戦艦 大和」をはじめとした主力部隊はミッドウェー島の遥か北西800海里を東に進んでいた。
*個人的には、「戦艦 大和」を旗艦とするこの主力部隊を近くにおいて置かなかったことが最大のミス、これまでの勝利に酔ってしまった気の緩みと思う。
 山口多聞少将は、

  「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」

と電文を撃ち、

 「体当たりのつもりでいってくれ。
 貴様らだけを死なせはしない、俺も必ず後から行く」

と訓示。第一攻撃隊を出撃させ、見事、「空母 ヨークタウン」を大破させた。しかし、信じられないスピードで、アメリカ軍は消火し、大きく空いた穴も修復。第二次攻撃を出撃させるも、他の空母だと思い、再度「空母 ヨークタウン」を攻撃してしまう。
enjou-hiryuu そして、アメリカ軍の反撃。「空母 エンタープライズ」から発進した爆撃機24機に急襲され、「空母 飛龍」は大破炎上する。
*写真は「空母 鳳翔(ほうしょう)」の索敵機が撮影した「空母 飛龍」の炎上、漂流する最後の姿。ちなみに、終戦まで残った日本海軍の空母は「空母 鳳翔」「空母 隼鷹」(終戦時、中破)「空母 葛城」」(終戦時、中破)。
 
消化ポンプも作動せずに消火の望みは絶望的な状況になったところで、残った兵は甲板に集まるよう指示がでた。そして、加来艦長から次のような訓示があった。

 「再度の襲撃にも武運を長らえて、ただ1艦孤軍奮闘し、その戦果は極めて大なるものがある。今は武運拙く敵襲により被弾したが、小官の不徳の致すところ、これもまた天命であると思う。生き残った君たちは内地に帰り、日本海軍を再建し、願わくば今日の雪辱を果たして貰いたい。陛下の御船を沈めた責任は私が取る。皆の武運長久を祈る。総員退艦。予は艦と運命を共にする名誉を有す。他はすべて許さず。総員の退去を命ず。」

 山口少将は、

「我等皇国に生まれ、たまたまあいがたき会心の一戦に、いささか本分を尽くし得たるを喜ぶ。いざ宮城を遥拝して、陛下の萬歳を唱えまつらん。」

と訓示ののち、帽子を脱いで最敬礼し、皇居に向かっての萬歳三唱の音頭をとった。暗いミッドウェーの海に響く、「バンザァーイ」の声。ラッパ手が『君が代』を吹き、「空母 飛龍」に掲げられていた日章旗、少将旗が降ろされた。主席参謀である伊藤清六中佐は、山口少将に、

 「何か、お形見を」

と言い、山口少将は戦闘帽を渡した。総員が退艦し、山口少将は、

 「元気でなぁ~」

と声の限り、叫んだという。そして、「空母 飛龍」の艦橋に加来艦長とともに残り、敬礼しながら海中に消えていった。

 日本海軍は、このミッドウェー海戦において、主力空母4隻、飛行機322機と熟練パイロット108名を含む3057名を失う。これが大東亜戦争における実質的な日本帝国海軍の敗北である。
 ちなみに、この空母の喪失により、「戦艦 大和」「戦艦 武蔵」に注ぐ、大和型戦艦の3番艦は急遽、装甲空母への改装が決定され、「空母 信濃」となった。
 また、アニメンタリー「決断」では、ミッドウェー海戦が第二話、第三話で描かれている。
 戦史を書くと、「戦争をしたがっている」と勘違いされることも多い。しかし、多くの犠牲者をともなった戦争だけに、どんな決断をし、どんな結果となったのか、組織の在り方なども含めてこれほどの勉強材料はないうえ、しっかりと学ぶことが鎮魂にもなると思うのである。

 S嬢の御祖父様の戦友は、「空母 飛龍」とともに敬礼しながら沈んでいく山口少将を目の当たりにしたのである。
 江田島の海上自衛隊第一術科学館参考館には、山口少将の資料がある。また、奇跡の艦「駆逐艦 雪風」の舵輪もある。早く見てみたいものだ。

 ちなみに、山口多聞中将(戦中は少将)は愛妻家であった。最初の奥さんを病死で亡くされ、後妻の孝子さんが先妻の子3人を育てていた。孝子さんへのラブレターを頻繁にだしていたが、検閲なく手紙を出せるときには、感謝も込め、ラブレターの最後に以下のような言葉を添えていた。

  「貴女だけの多聞より」
  「私だけのもの 孝子様へ」
  「寝ても覚めても貴女の事ばかり
           考えている多聞より」
  「私の私の孝子さんへ」

「ミッドウェー運命の5分」真相とも言える説もある。

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コメント

山口中将の最後に関しては、機関室に閉じこめられ、退艦命令を受領し損ねた機関課員の証言として
①飛行甲板に上がってみるとそこには誰もおらず、艦橋にも人気はなかった
②傾斜が増してきたとき艦橋から拳銃が落ちてきた。

直接、山口中将のご遺体を確認した証言ではありませんが、最後に脱出した方々の証言です。

あと、細かいことですが間違いを指摘させて頂きます。
>ちなみに、終戦まで残った日本海軍の空母は「空母 鳳翔」のみ。

終戦時残存し、航行可能な空母は海軍空母では

鳳翔 隼鷹 葛城

以上三隻が残存し、戦後の復員輸送に活躍しております。
但し、終戦時戦闘航海可能であると言う意味では鳳翔一隻で正しいです。(他の二隻は中破)

 さはらさん。ご指摘ありがとうございます。
 早速、空母については修正・加筆しました。

 山口中将のご子息が個人的に遺品や関係資料を不定期に公開していらっしゃいます。
 なるべく近いうちにご連絡したのち、山口中将に関する証言資料を見せてもらい、ご子息にもお話を聞いてこようかと思います。
 また本ブログでご報告しますので、今後とも宜しくお願いいたします。

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