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2006年3月15日 (水)

F機関とINA誕生、日印友情

DSC01183_t あまりの寒さに3時ごろ目が覚めてしまったので、近くのコンビニに入って、朝食を買ったり、本を立ち読みして体を温める。
 5時近くには、関越自動車道に到着したものの、はっ、とあることを思い出し、川越まで戻る。朝食として、コンビニで買った「大きなコロッケパン」を食べる。学生時代、金が無いときにはこのパンか、「コーンマヨネーズパン」であった。

 9時過ぎ、某病院の駐車場に車をとめ、お見舞いにいく。個人情報保護法の悪影響であろう、身分を明かし、病室を教えてくれるまでの手間がかかる。
 東京電力を退社し、独立の道を探っていたころに知り合った友人のお見舞。輸入雑貨店を開業し、社員も6名になったものの、膵臓の病気が見つかり、長期入院中。会社も整理し、奥さんともうまくいっていないとのことであった。私より3歳年上で、いつも若々しいというか20代前半のようなファッションが印象的であったが、病室の彼は完全におじさん状態になっていた。もうしばらくしたら社会復帰できるとのことだったので、バカ話をし、病院の食堂で一緒に昼食(ランチセットで、ロールパン2個と豆腐ハンバーグ)を食べた。

DSC01185_t 関越自動車道にのり、柏崎に戻る。目に痛いぐらいに白く眩しい雪山に思わず目をとられ、車がフラつく・・・・危険である。
 湯沢あたりはまだ雪があったが、柏崎市内まで戻るとすっかり雪が少なくなっていた。

 18時から某所で飲み会。2次会になると思いきや、23時まで1次会の場所で飲んでいたので珍しく1次会で解散。

 4月12日から行くインド訪問まで、あと1ヶ月を切った。
 インド人と日本人との友情として、面白いのがF機関である。

 昭和16年9月、日米交渉が行き詰まりをみせ、アメリカ、イギリスとの開戦が避けられない状況になっていた。
f  ときの大本営参謀、藤原岩市陸軍少佐は、マレー半島に駐在する英印軍の中核を占めるインド兵を口説き落とし、大東亜共栄圏の確立のためにも、将来のインド独立軍の基盤にせよ、との命を受けた。
 当時、インドはイギリスの植民地。グレート・ブリテンのキングがインド帝国のエンペラーを兼任したので、当時のインドは「ザ・ブリティッシュ・エンパイア」(the British Empire)。イギリスはインドのことを「大英帝国の最も輝かしい宝石」と呼び、「エンパイア・ルート」(インドへの道)、スエズ運河を重視した。ちなみに、大英帝国を厳密に言えば、「ザ・ブリティッシュ・カマンウェルス」(the British Commonwealth)。
 藤原岩市陸軍少佐を中心として、この作戦を行ったのが藤原機関、通称F機関である。
 まず藤原少佐は、ビハリ・ボースと同様、インド独立を願うインド独立連盟(IIL)に参加し、当時、バンコクに亡命していたプリタム・シンに会いに行き、こう訴えた。

 「日本はアジアの解放を願い、インド独立を支援したい。
 決して領土的野心は持っていない!」

fp  誠意あるこの訴えにプリタム・シンは感激し、日本軍のマレー・シンガポール作戦にインド独立旗を掲げてF機関とともに参加。日本軍は英印軍をなぎ倒し、破竹の勢いでマレー半島を南下していった。
 当時、英印軍の70%はインド兵。
 藤原少佐は、投降してきたインド兵達と一緒にインド料理を手づかみで食べるなど、彼らを人種や身分で差別せず、平等に扱った。こうした藤原少佐の思いが、インド兵たちの心をつかみ、信頼を得ていったのである。藤原少佐は

 「この戦争が長年、欧米に支配されてきたアジアの
 独立の絶好の機会であり、インド投降兵を組織して、
 インド国民軍を創設すべきなのだ」

とプリタム・シンとともに熱心に説き、一個大隊を連れて投獄したのが、モハン・シン大尉であった。
*写真は、モハン・シンと藤原少佐の運命的な握手シーン

5man

 シンガポールのイギリス軍が降伏した昭和17年2月15日には、インド投降兵は5万人にものぼった。日本のインド独立全面支援と捕虜解放を伝える藤原少佐の名演説に、競馬場ファラパークに集った五万のインド投降兵は、総立ちとなって狂喜歓呼した。
 ここにイギリスへの忠誠を捨て、インド独立を目指すインド国民軍(INA)が誕生。F機関13名で5万人のインド兵を組織するまでに到ったのである。
 INA誕生に際しての条件は、次のようなものであった。

 1.INAとILLは不可分の協力体制とする。
 2.日本軍はINAに参加するインド人捕虜を釈放する
 3.INAと日本軍は同盟関係の友軍とする

   戦後、イギリス政府がインド人の兵士に年金を支給したが、
   その際、日本の左翼陣営より、日本の傀儡軍隊であった
   インド人兵士に年金を払えという活動があったそうである。
   しかし、あくまでINAは独立した同盟関係の軍であるため、
   その批判は的をはずしている。
  4.(ドイツへ亡命中の)チャンドラ・ボース
             一日も早くアジアに招くこと

 藤原少佐は、「マレーの虎」山下泰文司令官にもモハン・シン大尉を紹介し、全面支援を約束した山下司令官は当時のお金で1万円を支援金として与えた。
 また、モハン・シン大尉の組織能力、そして教養は卓越しており、陸軍省の富永恭次中将と参謀本部の田中新一中将が引見した際に、こう語ったという。

「私は新渡戸稲造の『武士道』 という英文の本を
 読んだことがあります。その中に三種の神器の
 ことが書いてありました。
 剣は勇気を、玉は慈愛を、鏡は正明を表わす
 もので、日本精神はこの三つの神器に
 象徴されていると承知しています。
 そして開戦以来日本軍の戦いぶりを見ていると
 勇武があり、慈愛があり、公明正大な軍隊
 であることを知りました。
 我々インド国民も元来、愛と正義と信仰を尊ぶ
 国民性を持っており、共通性があります」

 F機関の成功により、F機関自身が岩畔豪雄大佐を長とする250名規模「岩畔機関」に改組された。
 一方、プリタム・シンは飛行機事故で死去。
 モハン・シンはINA司令官となり、INAと日本軍が一緒にインドへ進撃すれば、一気にインド独立の道に向かうと、武力闘争の宣言を声高らかに行った。
 しかし、日本軍参謀本部としては、INAをそのままインドに進出させてしまった場合、寝返ってしまう可能性があることや、INAを日本軍の補助的な部隊にしたいという野心があったのである。
 それを見抜いたモハン・シンは、日本軍参謀本部に猛反対をする。F機関、山下泰文司令官との出会いにより、日本人の素晴らしさが分かっていただけに、現地の状態も分からず、遠く日本の安全な地から命令だけをする日本軍参謀本部に不信感をもったのである。
 日本軍参謀本部との間に立たされたのは、IILのビハリ・ボースと機関長の岩畔大佐。特にモハン・シンはビハリ・ボースを「日本の国籍をとった傀儡」とまで罵倒し、IILとINAの関係は悪化、軍紀は乱れ、解散の危機に追い込まれる。
 ここで、ビハリ・ボースは、かつて諸葛孔明が「泣いて馬謖(ばしょく)を斬った」ように、モハン・シンINA司令官の地位を剥奪、マラッカ海峡のウビン島に流刑した。
_3  モハン・シンは戦後、インドに帰国し、政界の重鎮となるが、F機関の機関長、藤原少佐との友情は忘れず、昭和57年、二人は感動の再会をした。
 インドと日本との歴史が語られるなかでは、無名に近い二人であるが、この二人がいなければ、いまのインドと日本の関係は無い、と言っても過言ではない。
 このことから学べるのは、日本軍の犯した組織運営方法のミスをはじめ、リーダーの【決断】であろう。

 「大東亜戦争は我々に
    平和の尊さを教えたが
 生きるための教訓も
     また数多く残している」

 モハン・シンが流刑されてから、7ヶ月後の昭和18年5月、イギリスの弾圧を逃れるためドイツにいたチャンドラ・ボースは、ドイツ軍のUボートから日本海軍の潜水艦に移り、日本に到着する。これにより、IIL、INAは一気に甦り、東條英機首相からインド独立支援の約束をとりつけるや、シンガポールに乗り込み、INA総司令官として、また自由インド仮政府主席として、イギリス、アメリカに対し、宣戦布告した。
 この後、「大東亜会議」へオブザーバ参加し、そして大東亜戦争3大愚戦の一つであり、またインド独立戦争とも言われるインパール作戦へと続いていくのである。

*参考、写真:名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館 第4巻 大東亜戦争その後』

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