建設企業常任委員会、日露戦争とトルコ
3時起床。1時間ほど風呂に入り、8時頃までメールや雑誌整理。
9時30分過ぎ、市役所に移動し、10時から建設企業常任委員会。
先日の「賠償金」問題については、冒頭に都市整備部長からの陳謝があり、表記については訂正するという事になったが、引き当て金の不均衡(本庁:5千円、西山町事務所10万円、高柳町事務所30万円)については、そのままでいくという。「間違いを認めていながら、今回の予算はそのままでいいんですか?」と何回ものやりとりだが平行線のまま。
12時30分過ぎ、市役所の売店に行くものの、おにぎり等がなく、「カップヌードル・シーフード 130円」と長岡から一週間に一度来ているパン屋さんで、「チャパタサンド塩カルビ 370円」を購入し、昼食。栄養的に寂しい・・・・。
午後から若干の審議と討論、採決。色々と意見を付しての賛成とした。
15時から19時まで相談業務。新潟県内の他の地区から柏崎にくる若者からの相談であった。インターネットでの検索で本ブログやmiida.netを知ってくれたそうで、時代の変化を実感する。
長岡の某店に行き、バレンタインデーのチョコのお返しとして、今だに渡していなかったホワイトデーの贈り物を数点購入。
空腹で食品売り場を回ってしまったので、余計なものを買いそうになるものの、なんとか我慢。
閉店間際の「小嶋屋総本店」に入っての夕食。
メニューを広げるが、蕎麦好きなので、どれにしようか悩んでしまう。太いネギが浮いた「鴨なんつけ汁」とざる蕎麦、いやいや蕎麦だけをたぐるのも捨てがたい・・・。結局、「天ざるそば 1350円」 を注文。
生山葵とキチンとした鮫皮のおろしもついてきた。ただ、美味しい蕎麦に山葵はいらないと思っているので、すり下ろした山葵をそのまま箸でつかみ、口にほおばって、鼻に抜ける清涼を楽しむ。
22時過ぎ、自宅に戻り、議会資料の整理などを行う。
いまから101年前、明治38年(1905年)5月27日、国際信号旗として本来は『私は、引き船がほしい(I require a tug.)』の意味を表すZ旗を、『最後の決戦』との意味をこめ旗艦である「戦艦 三笠」に揚げ、東郷平八郎連合艦隊司令長官はこう訓示した。
五月晴れで視界良好なものの、風速20mを超える強風のなかの出撃。海軍名参謀・秋山真之は「この強風こそ【神風】」として、大本営への全艦出撃の打電の最後にこうつけ加えた。
「敵艦見ゆとの警報に接し、
連合艦隊は直に出動
之を撃沈滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」
そして、もてる技術を駆使し、当時「世界最強」と言われていたロシア・バルチック艦隊に打ち勝ったのが「日本海海戦」であり、日露戦争のハイライトである。
ロシア・バルチック艦隊は主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、無事に帰投できたのは、たった3隻の小艦艇だけであった。
対する日本側の損害は、わずか水雷艇3隻のみ。
人的損害は、ロシアが戦死者4545名、捕虜6106名であったが、日本の戦死者は116名のみであった。
日露戦争は日本の大勝利に終わるが、これは日本の勝利という意味だけではなく、歴史的に重大な意義をもっていた。
当時、トルコをはじめ、エジプト、フィンランドなど、欧米列強、白人種の植民地もしくは、ロシア帝国の脅威にさらされていた諸国は、この「日本の大勝利」に歓喜したのである。
つまり、「白人種国家」を「有色人種国家」がはじめて、打ち破った戦争であった。
アジアの小国である日本が、軍事大国ロシアに勝ったというニュースは、全世界を駆けめぐり、当時、ロンドンに留学していた「中国の国父」孫文はこんな経験をしている。
日露戦争当時のイギリスは、日本を唯一の同盟国として日英同盟を結んでいたが、日本の勝利を信じる人はほとんどいなかった。バルチック艦隊を東郷艦隊が撃破したとの報を受けた孫文は驚き、同盟国であるイギリスのロンドン市民はさぞかし喜ぶと思いきや、まるでお通夜のようにシーンとしていたという。本来であれば、同盟国である日本の勝利に沸くはずであるが、有色人種の日本が、同じ白人種であるロシアに勝ってしまったことに重大な意味を感じていたのである。白人より下等だと思う黄色い有色人種、アジア人が世界で台頭するのではないか、という危機感「黄禍論」(Yellow peril)が根強かったことの証明であろう。
対して、日本の国民はどうであったかと言えば、勝利に沸き上がっていたものの、ポーツマス条約でロシアからの賠償金をとれなかったことに対し、日比谷公園を焼き討ちし、戒厳令が敷かれる事態にまで発展。交渉にあたった全権大使である小村寿太郎を非難した。
現在の歴史教科書のなかで、「日露戦争は(国民には関係なく)政府が侵略のために始めた戦争」との意味合いで記述しているものもあるが、実際には、日露戦争に勝ち、自分の生活が良くなることを国民が願っていたことが伺える。
この日露戦争に大いなる影響を受けた国の一つがトルコ共和国である。
当時のトルコ、オスマン帝国は、凍り付かない港を求め、黒海、地中海を狙うロシア南下政策に悩まされていた。クリミア半島が占領され、1877年の露土戦争では、ロシアの勝利により、庄野真代氏の『飛んでイスタンブール』で有名になったイスタンブル(トルコ語では最後の音節は長母音化されない)を失う。
*イスタンブルはボスポラス海峡を挟んで
アジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがる珍しい都市。
つまり、トルコと日本の共通の敵はロシアであった。
日露戦争時にもトルコは、ロシア黒海艦隊の足を止めるため、ボスポラス海峡封鎖などの協力をしている。
日露戦争での日本の勝利に、トルコ国内は自国のことのように熱狂し、その年に生まれた子供に、「トーゴー」や「ノギ」など日本軍人の名前をつけた。いまでも、トルコ国内に行くと、「トーゴー」などの文字があるのはこのためである。
トルコ共和国の国父ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk、1881年~1938年)もその熱狂を味わった一人で、
「まず国の憲法を作らなければ
近代国家とは言えない。
日本には既に立派な憲法
(大日本帝国憲法)がある。
見習わなければならない。」
と明治憲法を意識し、日露戦争での「日本の勝利」に感化された。
そして、トルコを共和制へと移行させ、初代大統領となり、トルコの近代化を推進。1934年には、父なるトルコ人(国父)という「アタテュルク」の称号を贈られた。
柏崎トルコ文化村には、トルコ政府から国父ケマル・アタテュルクの像が贈られ、いまも眼下に広がる日本海を指差して建っている。
*柏崎トルコ文化村が開園した1996年7月には、トルコ共和国からカフラマン文化大臣が開所式に出席している。
*日本海海戦の日である5月27日は、のちに「海軍記念日」とされた。伝統墨守の海上自衛隊でも、基地祭などの祝祭イベントはこの日を中心に設定している。
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