「日本世論の会」柏崎支部設立記念講演会
2時、就寝。7時、起床。あいにくの雨天、かつもの凄い風である。今日の講演会の動員に確実に響くであろうが、前向きにこれも試練と捉える。
長風呂に入って、身支度をしたのち、家をでる。まず講演会用のパンフレットなどを印刷屋さんに取りにいき、会場の準備。ある程度したところで、12時近くに長岡駅の改札に行けるよう愛車で柏崎をでる。
12時、三輪氏、田形先生と長岡駅の改札で合流。そのまま「小嶋屋 長岡喜多町店」(電話:0258-25-9338)に行き、昼食。へぎそばを普通の付け汁に加え、鴨つけ汁でも食べて頂く。三輪氏の田形先生も蕎麦は嫌いではないとのこと。自分でも朝食を食べていなかったので、5人前があっという間に空になった。
柏崎に戻り、会場の柏崎市市民プラザに講師のお二人をご案内する。外は激しい雨に加え、強風。車のドアも風にもっていかれそうになるほどである。
14時をちょっと過ぎたところで「『日本世論の会』柏崎支部 設立記念講演会」「当日チラシ」(pdf形式) がスタート。
この悪天候のなか、100名近くの方にお越し頂き、感謝の気持ちでいっぱいであった。柏崎市内だけではなく、上越市、十日町市、新潟市など他の自治体からもお越し頂き、また地元の県議、市議をはじめ、声をかけた他の自治体の議員にも数名お越し頂いた。
私からの趣旨説明、支部長である丸山議員からのご挨拶ののち、「日本世論の会」三輪和雄会長による基調講演である。
「愛国心」からはじまり、この9月の自民党総裁選の結果によっては、隣国の言うことに屈する骨抜きの国家となるのか、それとも凜とした国家になることができるのか、瀬戸際であると熱い語り口で話され、会場を圧倒。40分の予定が1時間となったものの、会場では頷く人が多かった。
*この模様は収録したので、後日チャンネル桜で放送。
大東亜戦争に関して4分間ほどにまとめた映像を見たのち、いよいよ田形先生による、特別講演「誇りある日本へ 祖国を滅ぼしてなるものか」である。
直立不動のまま、約1時間40分。お歳のこともあり、多少、同じ事をおっしゃる部分もあったが、堂々と南京大虐殺がなかったこと、軍規が厳しく強姦などできる状況ではなかったこと、お母さんとの約束、戦友、特攻に送った生徒との約束をお話され、会場の涙を誘っていた。
「あとを頼む」と出撃した特攻隊員たちの想いに応える
特攻待機命令を受けて
-田形さんは、六十年前の8月14日に特攻待機命令を受けられたそうですね。
田形 「陸軍准尉田形竹尾は誠第2特別攻撃隊隊長を命ず。出撃の時刻は後刻示す」。たったこれだけの命令ですが、その瞬間はそれまで生きてきた29年間よりも長く感じました。大地が裂けてものすごいカで引き込まれるような、全身の血が逆流するような衝撃を重けました。
ただ、その一瞬が過ぎると、死の悲しみも苦しみもない、地位や名誉も欲しくない、なんの執着もない心境になり、心に安らぎが訪れたんです。今考えても、特攻命令を受けてから終戦で命令を解除されるまでの24時間が、89年の人生の中でいちばん幸せな時間でした。
心身ともに健全な私が、堂々と祖国日本を護るために誇りと勇気を持って、悠久三千年の日本の歴史の中に死んで、そして歴史とともに生きていく、これ以上の幸せはありません。
私は、台湾の屏東で昭和19年5月から、特攻要員の教官として、学徒兵と少年飛行兵の教育を担当しました。しかし、観念的に特攻隊員の気持ちを理解していただけで、実際に自分が特攻待機命令を受けて初めて教え子たちの心境に達することができたんです。私は昭和11年の熊谷陸軍飛行学校入校以来、十年間戦闘機を操縦し、中国、ロシア、イギリス、アメリカの勇敢な戦士たちを相手に実戦を重ねてきました。ところが、わずか一年ほどしか乗っていない学生たちに圧力のようなものを感じていたんです。彼らは四か月
の教育が終わると特攻命令を受けて死ぬことを自覚していました。その覚悟の違いからくる心境の差が、圧力を感じさせていたんでしょう。
-その心境の差はどこから生じるのでしょうか。
田形 決死隊と特攻隊の違いです。決死隊は、通常の航空作戦に参加するときの心境です。死ぬ覚悟はできていますが、いつどこで死ぬかはわからない。そして、目的達成後には生還できるようになっています。したがって、生きることへの執着を捨てきれていません。
一方、特攻隊は、特攻命令を受けた時点で生還の可能性はゼロ。目的達成と同時に死ぬことが決まっているわけです。つまり、いつどこで死ぬかがはっきりしていますので、悟りの次元がまったく違うんです。
私は、隊員たちが寝静まった三角兵舎を巡回したときに、はっきりその違いを感じました。通常作戦は決死隊ですから、出撃前の晩は気が高ぶり、熟睡はしていても殺気がみなぎっています。ところが、特攻隊の彼らからは全く殺気を感じないんです。これが悟りを開いた戦士の姿だと思いました。遺書も、決死隊のときと特攻命令を受けたときのものは全然違います。普段は彼女にラブレターも書けない彼らが、悟りの心境に達すると、驚くほどの名文を書きます。
特攻隊員を育てた日本の母
-そのような崇高な精神を持つ特攻隊員の生まれた背景には何があったのでしょうか。
田形 世界の識者をして、世界史上でも稀に見る崇高な精神と言わしめる特攻の精神は、「国家社会に奉仕することが国民の最高の道徳である」ということを示してくれています。
こうした特攻隊員に共通して言えることは、みな親孝行できょうだい思いで気持ちが温かいんです。だからこそ、祖国と日本人のためにみずからの命を犠牲にすることができるんです。
よく「お国のために」と言われますが、そこには、祖国と両親や家族、故郷が全部つながっているんです。特攻隊員を育てたのは、学校でも軍隊でも軍国主義でもありません。この他社への献身的犠牲の極地ともいえる崇高な精神を生み出したのは、悠久三千年の日本の精神文化と、日本の心を持った母親です。
私の母もそうでした。母は、祖母(姑)に献身的に尽くした人でした。ですから祖母は臨終の際に、実の娘の手を握らずに私の母の手を握って「お世話になりました」と息を引き取りました。そんな母から、「お国のために役に立つ人になりなさい」という教育を受けました。
戦後になって、陸海軍の特攻慰霊祭を行ったときに、多くの特攻隊員の母親に会って男反しを伺いましたが、地域や学歴、貧富の区別なく、日本の母親はみな「お国のために役に立つ人になりなさい」と他者への犠牲的奉仕の精神の大切さを教えられていました。
日本再建の使命を持って
-終戦の詔勅によって特攻待機命令を解除されたときはどのように感じられましたか。
田形 戦いに敗れたからと自決しては、「あとを頼む」と出撃した戦友に申し訳ないと思いました。しかし、どうすれば戦友として、教官として責任がとれるのか、生かされた使命は何かということを涙ながらに考えました。そして、「一般の作戦、特攻教官、特攻隊長の三つを体験したのは陸海軍でも数少なく、貴重な体験をさせていただいた。そのために自分は生かきれたのだ」と思いました。だから、まず一番に特攻を顕彰し、後世に伝えていかなくてはいけないと思い、三つの誓いを立てました。特攻に関する講演活動をすること、本を書くこと、映画をつくることです。
占領後、アメリカが弱体化政策を行うことはすでにわかっていました。民主主義の名のもとに敗戦国の弱体化を進め、属国化するというのが当時の強国の常套手段でしたから。
「どんなに惨めでも敗戦日本にたくましく生きて誓いを果たし、戦友が喜んでくれる日本を再建したい。戦争は終わっていない、今からがほんとうの戦争だ」という覚悟が決まりました。
しかし私は、戦闘機の操縦と戦争しか知らない軍人ですから、日本が独立を回復するまでに勉強をしなければいけないと、各界の著名人に救えを請うて行脚しました。
-映画「戦場にかける橋」にも出演されていた日本人初のハリウッドスター・早川雪舟氏に大きな影響を受けられたそうですね。
田形 映画監督で愛国者の渡辺邦男先生のご紹介で、昭和25年に「上野静養軒」で6時間ほどお話をさせていただきました。たいへんな愛国者で勇気と自信をいただきました。早川先生は、「もっと大東亜戦争に対して誇りを持たなければいけない。武力戦には敗れたが、植民地解放の戦いという戦争目的は立派に達成した。これは永遠に世界の歴史、植民地の歴史に一ページを飾る大変な事件だから、日本人はもっと誇りを持っていい」と言われました。
その後、英国の歴史哲学者・トインビー教授や、タイやフィリピンの首相が同様の発言をされていますが、占領中に早川先生に聞いていましたので、さらに男気をいただきました。
-特攻精神を後世に伝える一助として『永遠の飛燕』(現在絶版)、『日本への遺書』(日新報道)など三冊を出版されていますね。
田形 当初、山岡荘八先生に特攻の本を書いていただきたいとお願いに行ったんです。先生は従軍記者として知覧と鹿屋の特攻基地から飛び立った特攻隊員を見送ったという経験をお持ちでしたので、ぜひお願いしたいとお話ししました。すると先生は、「私は戦闘の経験もないし、特攻命令を受けたこともない。客観的にしかわからない私が書けば”山岡特攻”になってしまう。崇高な日本の歴史と精神の象徴である特攻は書けない。協力は惜しまないので、君が勉強して書きなさい」と言われたのです。それで私は決心し、体験を書きました。山岡先生から何度も原稿に赤字を入れていただいて出版することができました。
-特攻映画についてはいかがだったのでしょうか。
田形 美空ひばりさんなどを育てられた映画監督の渡辺邦男先生にご指導をいただいてきましたが、故人となられ、映画製作はまだ実現していません。
しかし、6年前の平成11年、英霊の導きによって、偶然、映画監督であり、テレビ番組制作プロデューサーでもある水島総先生とご縁をいただき、フジテレビの協力で特攻証言ビデオ『特攻 国破れても国は滅びず』を制作しました。
そして、平成15年8月15日に、水島先生のご尽力で日本の歴史・伝統文化を土台にした放送局・日本文化チャンネル桜を設立・開局しました。私も相談役として参加させていただいており、皆様のご協力をお願いしたいと思っているんです。
特攻隊員の想いを受け継ぐ
-今年で終戦60周年を迎えますが、現在の日本の実情をどのように思われますか。
田形 現在、政治や経済の混迷、社会の不安や精神の腐敗が広がっています。これらは、六十年前に大東亜戦争に敗れたときの日本弱体化占領政策や東京裁判史観などによって、日本人の誇り、気概、自信、責任などが失われていることに起因しています。私は特攻隊員たちの真の姿を伝えることで現状を少しでも打破していきたいと思っています。
-特攻隊員は次世代にどのような想いを託されたのでしょうか。
田形 彼らは個人的なことはいっきい言わずにっこり笑って出撃しました。そこには「私たちは特攻隊として日本を護るために死んでいきます。生き残った人たちが世界から信頼される立派な日本を再建してくれると信じています」という願いが込められていました。彼らは無言のまま戦後を見つめ、われわれを見守ってきましたが、はたして現在はどうでしょうか。特攻隊員が散華したのは、昨今の混乱した日本をつくるためではありません。美しい日本、世界から尊敬されるような道義国家日本をつくってくれると信じて出撃していったのです。
国民一人ひとりが英霊に安心してもらえる国民となり、誇りある国づくりに尽力していきたいものです。そのためにも、神様、仏様、そして戦友に生かされている私は、命ある限り特攻隊の真実と崇高なその精神を後世に語り継いでいきたいと思っています。
多くの人に田形先生の著書をお買い上げ頂き、サインが終わったところで、懇親会の会場である「割烹 乃佐和」(電話:0257-22-4177)に移動。
樫出勇氏に関わる方も出席していたので、大東亜戦争自体はもちろんのこと、戦闘機に関する話題も豊富で、テスト飛行を含め、旧帝国陸軍戦闘機ほとんどの種類を乗った田形先生も嬉しそうであった。
20時、田形先生を柏崎駅前のホテルにお送りし、三輪氏を長岡駅までお送りした。
そのまま柏崎に帰り、車を置いたところで、町内成年会総会の懇親会から参加。さらには、市役所前の「ちーちゃん」で2次会となり、ワインをガブ飲み。
24時前になんとか自宅に戻る。
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