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2006年4月26日 (水)

右翼団体?利権?:ポーランドと日露戦争

 2時就寝。

 5時起床、経営者モーニングセミナーの日であるが、別件があり、愛車で某所で移動。今日の講演は、「日本食はなぜ良いのか」というテーマだったので、是非お聞きしたかった。市内外、県外からも経営者や文化人が来て、毎週水曜日、50分ほどの講演を聞かせて頂く。大変貴重な時間と思っている。

Dsc01705 8時過ぎに自宅に戻る。来客1件。お客さんにコーヒーを出しながら、卵、醤油、納豆、ねぎを小どんぶりに入れて、高速の納豆飯朝食。
 10時から市役所での会議。12時過ぎまでじっくりと話し合い。

 12時30分から14時まで現場立会い。自宅に戻ってから、web会議、来客、と慌しく、その後、市役所など市内まわりをし、気付いたら18時過ぎであった。

F1000001_10 春の野山の楽しみといえばウド(独活)である。「動く」が訛ったことからウドと呼ばれると言われているが、実は語源は不明である。「独活」という表記だけであれば、『出雲風土記』(733年)に「独活」の文字はあるが、我が国最古の本草書である『本草和名』(918年)には、漢名「独活」(ドッカツ)に対し、 和名「宇止」(ウド)、「都知多良」(ツチタラ)とある。
 また、よく言われる「独活の大木」は、独活の茎が小さく若芽の時は食べられるが、大きくなると2~3メートルまでになるものの、柔らかく木材として弱くて使えない、ことから役立ずな者を意味するようになった。
 その独活をもらったので、葉の部分を天麩羅にしての夕食。やはり塩が合う。

  昨日の「柏崎トルコ文化村問題」毎日新聞報道を受け、電話、メールなどでご意見を頂戴した。激励もあったが、特にメールでは以下のようなご批判があった。

1.「政争の具」に使っているが、誰が黒幕なのか。
         (どこから金をもらっているのか)
2.マスコミに売り込んだお陰で、
       柏崎の評判が下がったではないか。

 「政争の具」は最初からあった反応であるが、市長の政治行動を指摘・批判することがすべて「政争の具」というのであれば、議員は何もできないことになる。純粋に問題点を指摘しているだけである。しかも、情報公開を請求するまでは、水面下のことであった
 まして、黒幕うんぬん、金銭の授受など、よく考えてもらえれば、私にそのような構図は無い(どこをどう切っても利権構造は成り立たない)ことが分かるうえ、本ブログでも公開している私の行動様式からご理解頂けると思う。
 中には、右翼団体や宗教団体からの指示などという憶測もあった。ご想像するのは自由であるが、私が問題点として指摘した部分は無視され、「なぜ指摘しているのか」というところに変なストーリーを作ってくるのは、こちらが理解に苦しむ。街宣右翼団体を連れて、市役所に乗り込むなどともあったが、いつから私がそんな大物?になったのかも分からない。
 「マスコミに売り込んだ」とはよく言われるが、別にこちらがお金などを用意して、無理に記事にしてくれと頼んだわけでもない。冷静に考えて頂ければ分かるが、マスコミも価値がない、ガセネタと思えば記事にはしない。記者にとってみても記者名を表記している記事であり、自分自身の進退がかかる。
 「柏崎の評判が下がった」という点も同様に、マスコミによる周知が柏崎の評判を下げたのではなく、柏崎トルコ文化村に関する杜撰な対応が、評判を下げることになったのである。これを隠しておくべきであったということであれば、隠蔽体質と言われても仕方がない。実際、いまだこの件で議会の召集(召集権は市長にある)はないうえ、公式な議事録が残る場所での追及の場は無い。

Poland 亡くなった父が、私の名前に「欧」をつけることを思い立ったのが、当時勤務していた会社の技術関係で訪れたポーランド。生前、父はポーランド人の人の良さを話していたが、感覚的にはよく分からず、普通に聞き流す程度であった。
 しかし、ふとしたことから、平成5年から9年まで駐ポーランド大使をされた兵藤長雄氏の記事が目にとまり、その理由が分かった。
 兵藤氏が外務省に入った際、ロシア語の勉強のため、イギリス陸軍の諜報将校養成コースに行くことになった。そこで出会った、ポーランド人の陸軍将校。その方は大変親切に兵藤氏に接してくれたそうで、あるとき何故そのように親切にしてくれるのかを聞いたそうである。
 その将校の話によれば、お父様が日露戦争に従軍し、日本の松山捕虜収容所で過ごした経験を息子である将校に語り、

 「日本人に出会ったら、
   できるだけ親切にし、恩返しをしてほしい」

 「我々は一国(ロシア:旧ソ連)を挟んで隣国だ」

と常々話していたという。

 日露戦争では、当時ロシアの支配下にあったポーランド人も挑発され、ロシア軍として従軍したが、地下のポーランド独立運動組織が「敵の敵は味方」として日本軍への投降を奨励、大量のポーランド人が捕虜となった。

W 明治37年7月、来日した独立運動の闘士ユゼフ・ピウスッキ(1867~1935)は、ポーランド人捕虜を厚遇するよう要請し、日本政府はこれを受け入れた。(この来日で当時、東大生で外務省の嘱託をしていた広田弘毅と親しくなる)
 そのポーランド人捕虜の収容所があった愛媛県松山市では、市民あげて捕虜たちを歓迎し、親身に接した。
 外出は自由。もちろん買い物も自由で、お金があれば家や家具を買う事もでき、日本政府から生活費も支給された。道後温泉に入浴することもでき、松山市内の大きな商店街・大街道は捕虜でにぎわい、ロシア語の看板まであった。
 松山市だけではなく、伊予鉄道と伊予市も親睦を深めるため、海水浴に招待した。これだけの自由があれば、もちろんのこと、松山市の日本人女性と恋に落ちた捕虜もいた。
 そして、日本海海戦で日本がロシアのバルチック艦隊を撃滅したと聞いたとき、ポーランド人捕虜は全員で「萬歳」を叫んだという。
 松山市民をはじめとする日本人が、敵味方を越えた素晴らしい親睦をしたこと、またその恩を息子の世代まで伝えたポーランド人の心意気が分かるエピソードである。

 日露戦争から13年が経過した1918年11月、第一次世界大戦の停戦協定によりポーランドに独立が認められ、ピウスッキが初代大統領に就任。ピウスッキは、「日本こそ独立ポーランドの盟友である」と、日露戦争で活躍した51人の日本軍指揮官に「武勲勲章(Virtuti Militavi)」を贈った。

 同様に、徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所での日本人の心ある捕虜への扱いを描いた、映画「バルトの楽園」が今年の6月に公開になる。

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