名越二荒之講演、ある議員のネット上?
柏崎トルコ文化村の件について触れた先日5日の市長記者会見について、別の地元紙は以下のように伝えている。
平成18年4月7日『越後タイムス』
トルコ共和国大使も納得
旧トルコ文化村譲渡先公募で会田市長が経緯を説明
会田市長は5日の定例記者会見で、旧トルコ文化村譲渡の問題で、トルコ共和国への対応について抗議のメールがきていることから、改めてトルコ大使館とのやりとりの経線を説明理解を求めた。
製造業1社、ホテル業2社が応募
会田市長は昨年6月23日と、今年2月28日、さらに3月30日に、トルコ大使館を訪問している。昨年6月23日の訪問では、トルコ大使に対し、届かなかった二通の手紙への返答が遅れたことを謝罪し、市の考え方を説明したという。トルコ大使は理解を示したが、在日トルコ商工会議所の役員が、「なんとか維持できないか」との希望を示したので、具体的な提案を期待したが、結局提案はなかった。
今年1月31日のトルコ大使からの手紙に応え、2月28日にもう一度考え方を説明。大使は「疑問が解決した」と述べたという。公募締め切り後の3月30日、さらに大使館を訪問して、公募状況を説明大使は「旧トルコ文化村は柏崎市民のものであり、市政の問題。トルコとして市政に干渉することはない」「トルコ村の現状を見て、何かやることはできないと判断。公募しないことにした」などと話し、トルコ共和国への配慮に対し感謝の意を表したという。
会田市長は、今回の経緯説明について、「ある議員のネット上に『市長がトルコ共和国に非礼を働いている』などの書き込みがあり、市に対する抗議のメールが全国から40件もあった。事実と異なっているので説明した」と述べ、一部に誤解や意図的な歪曲があると指摘した。
応募状況は、市内1社、県内2社で、業種は製造業1社、ホテル業2社であり、計画としては「新事業のテスト、国際事業化検証拠点、食と運動と癒しによる心身の健康をキーワードとしたテーマパーク」「地中海ワールド、または地中海リゾート」「健康スパランド」の三つであることも示された。入札価格は最高が一億四千万円、最低が一億二千万円だという。5日には選定審査会が開かれ、書類審査による一次審査が行われた。
担当課への取材では抗議メールは50件と答えていたが、その後、減少したのであろうか、40件だそうである。またある議員のネット上と書かれているが、「ある議員のネット上」とはインターネットの仕組みはもとより、責任所在をどう考えているのか、まったく理解できない。記者会見をする前に、その「ある議員」に聞き取りをしたり、話合いはしないのであろうか。ちなみに、これまで私には市長サイドからの接触はない。
また、「事実と異なる」とはどういったことであろうか。
上記に引用した記事をよく読めば、今回の記者会見の矛盾が分かる。昨年の6月23日の訪問で、「トルコ大使に対し、届かなかった二通の手紙への返答が遅れたことを謝罪し、市の考え方を説明」「在日トルコ商工会議所から具体的な提案を期待したが、結局提案はなかった」とある。であれば、今年1月31日の駐日トルコ大使からの書簡にある、
「2005年4月6日付けの私の書簡に関して、
在日トルコ商工会議所によるトルコ文化村の活動継続
の要望と経論についてのお返事または暫定由なご回答を、
今日までいただいておりませんことにご配慮慮いただきたく」
の文面はどう説明するのであろうか。昨年6月23日で提案はなく、そこでトルコ大使館との話合いが決着した、ということであれば、今年1月31日の書簡は存在しないはずである。これを「意図的な歪曲」とでも言うのであろうか。しかも、「友好」を本来業務とする駐日トルコ大使の強い怒り、
「本件に関しては、日本人らしからぬ
注意力と几帳面さを欠いた行為である
と思わざるをえません。」
「I must admit that I find this rather
unusual knowing Japanese carefulness
and punctuality.」
はどう説明するのであろうか。また「誰かの陰謀で・・・」とするのか。
3月30日、トルコ大使館で駐日トルコ大使が、「柏崎市政の問題、トルコとして干渉する気はない」とおっしゃるのは当たり前である。
この問題は、まだまだ後を引く。
2時就寝。6時に起床し、昨日の会計の処理など。思った以上に田形先生の著書やDVDを買ってもらい、ご協力いただいた皆さんのありがたさをしみじみ感じる。
8時、駅前のホテルまで田形先生をお迎えに行き、長岡駅まで車でお送りする。長岡駅構内で一緒に朝食をとりながら、新幹線待ち。昨日の講演で話し足りなかったことをお聞きする。話が盛り上がってしまい、長話となってしまった。
12時、新潟市のクロスパルにいがたに移動。13時から名越二荒之助先生の講演:日本・日本人ってこんなに素晴らしい、「世界に生きる日本の心」「当日チラシ」(pdf形式) である。
主催は、新潟市議会の佐々木かおる議員を中心にした、志源塾の皆さん。
会場には、若い世代からご年配の方まで揃い、販売のため用意していた本も売り切れてきたようであった。
名越先生の講演は、フィンランドの「東郷ビール」から話がはじまり、これに呼応するかたちで企画した
「ビールは東郷、酒は乃木で行こう言うてですねぇ~。那須の乃木清水で酒を作りましたよぉ~。このデザインは僕書きましたぁ~」
と「乃木之誉」、そして最近オランダで発売された「明治維新ビール」の紹介となった。
そして、名越先生の講演の名物、「日の丸」三兄弟からはじまる、国旗や軍旗などの紹介がはじまった。
まず最初はバングラデッシュの国旗。ベンガル人の国という意味であるが、ベンガル人で日本が忘れてはならない偉人が、タゴール、チャンドラ・ボース、そしてパール博士であるとのご説明。
そしてパラオ共和国の国旗。昭和天皇がお隠れになったときのパラオの人々の提灯行列の写真などをご紹介。日本統治時代を懐かしむ現地の人の顔や声などは貴重な資料であった。
ちなみに、名越先生の名前の由来となった「二荒之神社」がパラオにもあり、パラオにいた宇都宮の連隊が作ったという。
韓国。この国旗、大極旗の考案者とされるのが、朝鮮王朝末期の政治家・朴泳孝(パギョンヒョ)。朝鮮半島の近代化を目指して、クーデターを起こすも失敗し、日本に二度、亡命した政治家である。日韓併合後は貴族院議員を務めたので、日本の政治家でもある。韓国の国旗が初めて掲げられたのは、日本の神戸であった。
言わずとしれた、旭日旗。旧大日本帝国陸海軍の旗であったと同時に、現在でも海上自衛隊をはじめ、自衛隊旗となっている。この旭日旗から、色々な民族に「太陽信仰」があるのではないか、との問いかけがはじまる。
モンゴルの騎馬隊の旗であり、昭和13年8月に『世界知識』表紙にも、描かれている。
日本の「日の丸」も現在の白地に赤ではなく、この旗と同じデザインの時期があったことも、戦国時代の資料からご説明。
そして余談として、オスロのコンチキ博物館にあるヘイエルダールが実験航海に使用した船に「日の丸」と同じデザインがあったことも紹介。
ここからは、太陽信仰、そして独立や民族にかける歴史が刻まれた国旗の紹介となった。
スペインからの独立の印であるフィリピンの国旗。赤は独立のために大地に流した血を意味するため、戦争の際にはこの旗を逆さにして、戦闘にのぞむ。
今年5月、慰霊のため現地に向かうが、柏崎村もあった旧満州国の旗。「五族共和」を願い、赤が日本人、青が朝鮮人、白が漢人、黒が蒙古人、そして黄色が満洲人を示す。満州事変からたった6ヶ月で国を作り上げたことは、特筆的。名越先生曰く、
「アメリカのイラク復興も、
かつての日本を見習えーと言えばいいんですよぉ。
満州は六ヶ月できたゆうてぇ~」
である。
民族独立を願い戦った、インドネシアの「郷土防衛義勇軍(PETA)」の大団旗。イスラム教のシンボルである星と月、緑に加えたのが、日本の旭日旗とされている。PETAの設立には日本人が大きく関わっており、50年間歌い続けられているPETAのマーチの日本語訳は以下である。
「アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり
己を捨てて全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄
清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄
清き東洋に幸あれ」
旭日つながりとして、現在、インドに亡命しているダライ・ラマしか掲げていない、いや掲げられないのが、チベットの国旗。
ここにも旭日が描かれており、太陽信仰と国旗の関わりについてを紹介。
国旗ではないが、日本人が忘れてはならない旗として「Z旗」の紹介。名越先生曰く、日露戦争は「皇国興廃この一戦にあり」としてこの「Z旗」を揚げて戦う気概があったのに、いまの日本人にはその気概がないとのこと。他国に、自分の国の教科書を書き換えろと言われて、書き換えてしまう点がもっとも醜い点という。
最後は、会場にいる人も参加し、紹介のあった旗をもっての記念撮影。
私はモンゴルの騎馬隊の旗を持たせてもらった。
旗から世界の話を広げていき、最近「反日運動」で血気盛んな中国に話しが移る。南京大虐殺とともに、中国側が主張し、実際に処刑されたのが、100人切りをやったとされる向井少尉と野田少尉。
最後の最後まで、中国との友好を願った向井少尉の感動の遺書が紹介された。
「我は天地神明に誓ひ
捕虜住民を殺害せることは全然なし
南京虐殺等の罪は全然ありません
死は天命なりと思ひ
日本男子として立派に中国の土になります
然れども 魂は大八州(おおやしま=日本)に帰ります
我が死をもって中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り
日華親善 東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです
中国の奮闘を祈る 日本の敢闘を祈る
天皇陛下萬歳
日本萬歳 中国萬歳
死して護国の鬼となります」
向井少尉の無念に会場でも共感する方が多く、涙を拭く方もおられた。
郷土・新潟県に関する歴史秘話ということで、斉藤博大使が紹介された。
斉藤大使は長岡出身で、昭和9年から昭和14年まで駐米大使を務められ、多くのアメリカ人に愛された。現在の外務省内でも、「斉藤の前に斉藤なく、斉藤のあとに斉藤なく」とも言われているそうである。
アメリカ人に愛されたといっても、ただ友好を唱えたのではなく、昭和10年には、
「日本の朝鮮併合をアメリカは批判するが、
アメリカも太平洋を越え、アジアに手をだすため、
先にハワイを奪い取ったではないか」
などの痛烈なアメリカ批判をし、その心意気とフェアな精神が評価されたとのことで、フランクリン・ルーズベルトは夫婦揃っての親密な付き合いをしている。
その証拠に、日米間の緊張感が高まっていた昭和14年、客死した斉藤大使の亡骸を、「巡洋艦 アストリア」で日本まで送っている。しかも、横須賀では海軍葬を行った。斉藤大使のお墓は、現在多磨霊園にある。
また、アメリカのアナポリス海軍兵学校のなかには、斉藤博記念塔があり、それだけ重要視された人物であったことが伺える。
続いて、新潟県佐渡出身の軍人として、今でも台湾で歌われている「台湾軍の歌」の作曲者でもあった本間雅晴中将の紹介。本間中将は、戦後、「バターン死の行進」の責任者として処刑された。富士子夫人が証人として戦犯裁判に出廷した際に証言した言葉は、敵国の裁判官、弁護人、そして傍聴人の涙も誘った。
「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。
わたしは夫、本間に感謝しています。
娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。
息子には、日本の忠臣である
お父さんのような人になれと教えます。
わたしが、本間に関して証言することは、
ただそれだけです・・・・・・・・・・・」
最後に「戦艦 大和」の主砲音を聞き、質疑応答、終了となった。
続いての懇親会は、新潟グランドホテルの「中国料理レストラン 慶楽」 にて行われた。
席が名越先生の隣だったこともあり、新潟県として見た場合はどんな歴史秘話があるのか、というテーマで意見交換。まず石油を例にとって、旧・西山町で日本石油が立ち上がった頃のアジアの国々(独立主権国家はタイと日本のみ)と新潟県人の暮らしについて語ったが、柏崎は柏崎県であったこともあり、まるっきり今の新潟県の括りでは考えづらいことに行き当たってしまった。今後、さらに研究してみたい。
懇親会が終了したのち、新潟駅近くの「笑笑」で、調査活動に協力してもらっているK氏と御礼もかねての「飲み飲み」。すでに満腹であったので、軽くつまむ程度になった。
23時過ぎ、酔いもあったので、新潟駅近くのビジネスホテルに宿泊。
« 「日本世論の会」柏崎支部設立記念講演会 | トップページ | 柏崎トルコ文化村:議員への説明、西川前市長出版記念 »
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 台湾スイーツ「豆花」台湾カフェ「騒豆花」視察(2019.04.18)
- 2019_柏崎市議会議員選挙応援演説(佐藤ひろたか候補@勝願寺)(2019.04.19)
- 追悼『ルパン三世』作者モンキー・パンチ氏(2019.04.20)
- 三井田たかお総決起大会~元気がでる大講演会(2019.03.08)
- 2019三井田たかお政策動画(地域経済の活性化、交流人口増大について)(2019.03.09)
« 「日本世論の会」柏崎支部設立記念講演会 | トップページ | 柏崎トルコ文化村:議員への説明、西川前市長出版記念 »
コメント