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2006年5月

2006年5月31日 (水)

長岡の歴史を伝える会:櫻井よしこ氏講演

 2時、愛車のなかで仮眠。6時、起床し、柏崎まで戻る。8時から現場の立会い。コンビニで、納豆巻き3本、牛乳等を購入し、ブランチ。12時から市内まわり。会社関係の月末の支払いなど。14時から17時まで再度、立会い。

F1000002_9 18時30分から、長岡市立劇場ホールにて、「長岡の歴史を伝える会設立記念講演会」、主催は長岡の歴史を創造した人々・その思想と歴史を伝える会。特別講演は、「櫻井よしこさん 長岡を語る!!」として、長岡高校出身のジャーナリスト櫻井よしこ氏。関係者の皆さんのご努力、櫻井氏のネームバリューで会場は熱気に包まれた。
 開会についての挨拶で、代表者である澤先生からは「山本五十六新発見遺品」カンパが3000万円を超えたとの報告があった。凄まじいパワーである。
 櫻井氏からの講演のなかで、公立図書館での図書貸し出し率の全国トップは長岡市であることも紹介された。戊辰戦争で賊軍になったことが、「長岡が長岡とは何ぞや」という意識を生み、学ぶ態度が定着したのではないかという。
 以下、講演内容について、最新の著書『この国をなぜ、愛せないのか』から引用をしつつ、ご紹介する。


 過去の歴史については、戦後60年が過ぎたいま、
非常に多くの新しい事実が公開されている。民主主義
諸国の情報公開原則による新事実の公表、旧ソ連崩壊
による共産主義体制の秘密情報の流出、それらに
基づいた意欲的な研究者らによる研究。私たちは
こうしたものから、かつて予想もしなかった驚くべき
歴史の真実を知りつつある。新たな光を当てられて
世に出てきた新事実によって、世界の歴史は、いま
大幅な書き換えが必要な時代に入っているのだ。
 たとえばユン・チアン氏が夫のジョン・ハリデイ氏
と共著で世に問うた 『マオ 誰も知らなかった毛沢東』
(土屋京子訳、講談社)である。



 十数年の精力的な調査を経て善かれた同書には、
1928年の張作霖爆殺事件が日本軍の仕業ではなく、
スターリンの命令でナウム・エイティンゴン (のち
にトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍
の仕業に見せかけたという驚くべきことがソ連情報機関
の資料を引用して善かれている (上巻301ページ)。

三井田注:
5shoku当時の大陸の状況は以下であった。
・奉天軍
 張作霖
 日本が支援

Kk・国民党
 蒋介石
 欧米が支援

 これまでは、張作霖の扱いに困った
関東軍が暗殺したとされており、張作霖の息子が
反日にまわり、国民党軍と結託した。
 この事が満州事変へとつながっていく。

Cy共産党
 毛沢東
 ソ連が支援

 また、1937年、中国側がひき起こした盧溝橋事件
が、近衛文麿内閣も国民党の蒋介石政権も全面的対立
を望まなかったにもかかわらず、

三井田注:
 支那事変をあくまで「戦争」をせず、双方とも「事変」で
 処理したかったことからも読み取れる。

なぜ日中全面戦争に拡大していったかについても驚く
べき新事実が記述されている。私たち日本人は、それは
本国政府の指示を無視して暴走した関東軍のせいだと
繰り返し教えられてきた。だが『マオ』には、戦争拡大
は毛沢東や周恩来の中国共産党が、蒋介石の下に
送り込んでいた張治中(ちょうじちゅう)というスパイが
仕掛けたこと
だと書かれている。張は周恩来の指示に
よって蒋介石に対して忠誠を装い、出世し、当時南京
上海防衛隊司令官という重責に就いていた。その立場で、
蒋介石の指示に反して慮溝橋から1000kmも離れた
上海にまで戦火を広げ、

三井田注:
 盧溝橋事件から第2次上海事変まで1000kmも
離れた箇所にも関わらず、いっきに広がり一ヶ月で
全面的な戦争に拡大していく。これまでは、盧溝橋事件
により、大陸内すべてに反日感情が広がったとされて
いた。
 盧溝橋事件についても、共産党側が仕掛けたこと

が定説になりつつある。国民党と日本軍の戦闘を拡大
させ、奥地、奥地へと引きずり込み、双方を消耗させる
共産党の思惑通りであった。

日中両国を全面戦争に引きずり込んだ経緯が、第19章
に時系列で生々しく書き込まれている。戦争を拡大した
のは日本軍よりも、中国共産党であり、それを背後から
支配していたソ連共産党、コミンテルンだったという
ことだ。これらこそ、すべて日本が悪いという東京裁判
史観を根本から変える有力な新情報だ。
 また、京都大学の中西輝政教授が『諸君!』誌で詳しく
連載しておられるが、米国で1995年から開示されて
きたVENONA文書

三井田注:
 米国が傍受、解読してきたアメリカ共産党とソ連
 コミンテルンの秘密活動の暗号通信文

によると、当時、ソ連共産党の力が米国共産党に広く
深く及んでいたことも明らかだ。そのような状況下で、
日本が絶対に承服することのできない条件を突きつけ、
日本を対米開戦へと追いつめていったあのハル・ノート
が財務次官補であったD・ホワイトによって書かれた
こと、彼はコミンテルンの指示下、「雪」作戦と
名づけられた情報工作
を通して彼らの影響を受けていた
ことも、今では明らかにされている。
 こうした基本構図を学んだブッシュ米大統領は、
2005年、ラトビアの首都リガを訪れ、演説した。
そしてこのリガ演説で、

ヤルタ協定は米国が犯した
   重大な歴史的誤り

だったという強烈なメッセージを世界に投げかけた。
言うまでもなくヤルタ協定では、米英ソ三国によって
戦後の国際社会の基本的な枠組みが決められた。
同協定締結を熱心に望んだ米大統領、F・ルーズベルト
は、対日戦争が1947年頃まで続くと予想していた。
ルーズベルトは国務省を排除し、軍部の意見に耳を傾け、
ソ連を対日戦争に引き込むことが、日本に勝利するには
ぜひ必要だと考えていた。そのために、ソ連に過剰な
譲歩をし、共産主義の本質を見逃した、それが戦後の
国際社会の直面した深刻な対立と軋轢につながったと、
ブッシュ大統領は言っているのである。
 リガ演説は、ブッシュ政権が『歴史の見直し』をして
いることを示すもので、日本にもはかり知れない深い
影響を及ぼす。敗戦国ゆえに犯罪国家とされた日本の
過去の歴史における立場を、公正かつ公平な目で見つめ
直すことにつながる新しい歴史認識を模索する姿勢が、
はじめて米国に生まれつつあるのだ。
 どれほど衝撃的であろうと、それが事実であると
信ずるに足る情報ならば受け入れて、新事実に基づいて
歴史を見直す作業は、本来ならば、誰よりも先に日本人
が行なわなければならない。なぜなら、そのような知的
作業を経てはじめて、日本は、

 一方的に戦争を引きおこした
                           邪悪な国

という不当かつ不名誉な烙印を返上することが
できるからだ。


F1000007_2 講演会終了後、長岡在住の某氏と「ラーメン処 潤」長岡上除店(0258-47-4888)に行くことになった。某氏は本ブログを見てくれており、先週の土曜日に書いた「鬼あぶら」に是非、挑戦してみたいとのことであった。自分としては、無難に「ラーメン 580円」「煮玉子 100円」に餃子3個とライス、漬物がつく「セット 320円」の満腹コース。某氏は案の定、汁を飲みきることはできなかった。

 22時、かなりの満腹のなか、柏崎の自宅に戻る。

2006年5月30日 (火)

「君が代」不起立問題

F1000009_1 酔っている勢いで、納豆グッズ関係の整理とともに、何種類か試食。2時就寝。
 6時起床。古本でやっと手に入れた満州関係の本3冊をもって、2時間ほどの長風呂。
 ハムと卵、マヨネーズ、刻んだピクルスのサンドイッチで朝食。食べようとしたところ、ちょうど甥っ子が遊びにきたので、一緒に食べる。

F1000010_1 午前は会社の月末処理関係。
 12時過ぎ、サンドイッチを作ったためにでたパンの耳を使って、昼食を作る。パンの耳をビニール袋に入れて、オリーブオイル、パルメザン・チーズ、塩、ホワイトペッパー。良く混ざるように、ビニール袋の口を縛り、袋を激しくシェイク。パンの耳に味が染み込んだところで、オーブントースターに並べ、カリカリになるまで両面を焼き、完成。

F1000001_18  14時、15時、18時と来客。
 19時、妹の嫁ぎ先から頂いた黒鯛の頭を塩焼きにし、さばいたときにでてきたラッキー感のある卵も塩焼きにする。地の鯛で大変な美味であり、特に卵は食感が楽しめた。

 21時、長岡市に移動し、東京から来ている取引先の会社の懇親会2次会に参加。

 昨日の新聞報道などでも取り上げられていたが、いよいよ、新潟県内でも、国歌斉唱の際、校長の職務命令に背いて処分を受ける教師がでてきた。


平成18年5月26日「新潟日報」

君が代不起立で初の教諭処分

 県教育委員会が25日、入学式などの君が代斉唱時に校長の職務命令に従わず起立しなかったとして、高校教諭4人程度を「戒告」の懲戒処分としたことが、関係者の話で分かった。君が代斉唱時の不起立を理由に教諭が処分されるのは本県では初めて。
 関係者によると、県教委は今春の入学式などの君が代斉唱時の起立状況を調査。立たなかった教諭を職務命令違反だとして、今回の処分に踏み切った。県教委は取材に対し「今の段階では何も言えない」としている。


平成18年5月27日「朝日新聞」

 県教委、「君が代」不起立で処分

 県教育委員会は26日、今年春の卒業式と入学式で「君が代」斉唱の時に起立しなかった高校教諭4人を、「校長が繰り返し指示したにもかかわらず、不起立だった」として上司の職務上の命令に従う義務違反などを理由に、25日付で戒告処分にしたと発表した。「君が代」斉唱の時に起立しなかった教職員に対し、県教委が懲戒処分をするのは初めて。
 戒告処分を受けたのは旧新潟市内の高校の男性教諭2人、旧長岡市内の高校の男性教諭1人、旧柏崎市内の高校の男性教諭1人の計4人。
 26日、県教委の敦井栄一委員長は「当該教員に対してはこれまでも粘り強く、校長から国歌斉唱の際は起立するよう職務命令を発していたにもかかわらず、不起立であったことは誠に遺憾」とのコメントを発表した。
 県教委は昨年3月17日に初めて、県立高校長らに「不起立教職員に対する指導」の文書を通知した。「起立しない教職員は以前は百人台。最近は減り、把握できるようになった」と、初の文書通知に踏み切った。
 同22日、2回目の通知を出した。卒業式で起立しなかった教員に、入学式の斉唱時には起立することと、入学式でも起立しなければ県教委に報告せざるをえない状況であると伝えるように指示した上、その教員の名前の報告を求めた。
 昨年4月1日の3回目の通知では、入学式で起立しなかった教員を校長が個別に呼んで指導することを求め、また、その教員の名前を報告するように求めていた。
 今回処分を決めた4人以外にも起立しなかった教職員はいる。県教委は今後、事実確認の上、口頭注意などを検討中だ。
 今回の処分に対し、県公立高校教職員組合の斉藤進執行委員長は、国旗国歌法の国会審議での指摘を踏まえ、「『君が代』にどのような思いを抱くかは国民一人ひとりの内心の問題。自己の思想・信条に基づき『不起立』とした教諭への処分は、憲法が保障する『思想・信条の自由』を侵害する」との抗議声明を発表した。


 教師自身の『思想・信条の自由』というが、「職務」としての国歌斉唱がイヤなら公務員を辞め、私立の学校、塾にでも就職すべきではないかと思う。

flag また、生徒にとっても、このような教師の態度は迷惑なことであろう。国旗が掲揚され、国歌が演奏される際、起立、脱帽するといった態度が国際的な常識であり、マナーである。そのことを生徒にもキチンと教えないと、いずれ生徒が世界にでたとき恥ずかしい思いをすることになる。

Thai タイ王国では、毎日8時と18時に公共施設、公園、広場、テレビやラジオで国歌が流され、直立不動の姿勢をとらなければ不敬罪となる。
 映画館でも、映画の上映前、国王の紹介とともに「国王賛歌」が流れた際には、その場で直立不動が義務であり、かつて日本の学生2名が座ったままであったところ、不敬罪として1日拘留され、日本大使館から迎えにきてもらったという。
 ちなみに、国旗の赤は国民と国家、青は中央にあることからタイ王室、白は仏教への信仰として白い象をあらわす。

2006年5月29日 (月)

沖縄が唯一の地上戦?占守島の戦い

F1000001_17 6時起床。愛犬の抜け毛がひどくなってきたので、1時間ほどかけて丁寧にブラッシング。
 先日、岩手県で買ってきた納豆を中心に大粒納豆を数種類ブレンドした納豆、目玉焼き、赤味噌を使ったほうれん草の味噌汁で朝食。

F1000003_7 9時から柏崎準倫理法人会のK事務長、K幹事とともに6月20日の講演会のチラシをもって、高柳町から各商店、公共施設、会社をまわる。
 高柳町の天然酵母のパン屋「麦麦ベイク」(電話:025-741-3032)でK幹事がパンを数種類購入。「じゃがいもパン」を頂く。じゃがいもが練りこんであり、風味が良い。

F1000006_3 各箇所をまわっているうちに、12時になったので、老舗のラーメン屋「盛来軒」(電話:0257-22-2181)で昼食をとることになり、「岩海苔ラーメン 770円」を注文。
 自家製太麺とさっぱりスープが懐かしさを醸し出している。このお店の「ソフトクリーム 280円」はスタンドに刺した状態でだしてくれるので、子供の頃は憧れであった。さすがにこの年で注文するわけにはいかずラーメンのみ。

 14時まで各箇所をまわり、14時30分から事務所で打ち合わせ。16時、上越地域からの来客。商売の話であったが、だんだん政治の話まで広がり、1時間ほど話し込む。

F1000008_2 18時から、某氏と某所で「飲み飲み」。
 来年の統一地方選挙を含め、今後1年間を決めるような、充実の話合い。
 話が充実し、生ビール5杯、芋焼酎ロック1杯で切り上げる。

 最近、事務所ではなく、自宅の留守番電話に色々とご批判のメッセージが入るようになった。事務所側の電話を公開しているのに、意味をつけてのことか、自宅の電話の方にである。
 ある女性の声でのご批判は、本ブログも読んで頂いているようで、憲法改正に関するものであった。先日の成人式で9条を守るといったビラを配っていることについて、私が批判したことへの反論が主な内容。録音できるメッセージの長さをフルに使っての、改憲したら「若い息子が戦場に行く」「沖縄の唯一の苦しみを分からないの?」といった主張であった。
 一方的にメッセージをお入れ頂いたが、本ブログを見て頂いているようなので、この場でご回答したいと思う。

 改憲したら即、戦争で、かつ兵役もない日本で若い世代の男性から次々に戦争に行くなどとは、論理がかなり飛躍している。現代の戦争は兵器を使ってのドンパチだけではなく、情報戦や経済戦も意味する。それを横に置き、さらに1000歩ほど譲って、ドンパチの戦争になったとしても、訓練をしていない民間人と自衛官は一緒ではない。

syumu この時点で、反論をもらう段階になろうが、もう一つ指摘しておきたいのが、沖縄が唯一の本土戦という点である。
 沖縄が日本本土として、戦場になったのは事実であるが、これだけではない。北方も戦場となり、民間人も被害にあっている。
 ここであえて例をあげるのが、民間人の避難が成功しつつも、最大の戦闘となった、北千島の占守島(しゅむしゅとう)である。
 日本が戦闘を終結したのが昭和20年(1945年)8月15日、しかしその3日後である同年8月18日、日ソ中立条約(有効期間は1946年4月11日まで)を一方的に破り、武装解除を進めていたこの占守島に対し、まさに火事場泥棒のソ連が侵攻してきた。
 8月18日未明、対岸のソ連パトロカ岬から砲撃が始まる。同時にソ連の艦からの射撃による援護を受けながら、ソ連軍が上陸を開始。武装解除をしていた日本軍は、急遽、体裁を整え、速射砲と大隊砲、陸海軍の航空隊所属の僅かな戦闘機によって迎え撃ち、十分な武装がないため、壮絶な体当たりを敢行する機もあった。日本軍兵士は、ノモンハン事件やガダルカナル島の生き残りが多く、戦闘のプロである上、士気が高かった。
 当時、島には日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、従業員2500名のうち400名は女子工員。8月15日以降、内地へ送り返すこととなっていたが、いきなりのソ連軍の攻撃を受けて内地に戻れずにいた。参謀長らは

 「このままでは必ずソ連軍に陵辱される」

と400名の女子工員を20隻の独航船に乗せ、濃い霧に覆われた中を出航させた。日本軍は、高射砲を一斉に射撃して守り、5日後、北海道に全員無事戻ることができたのである。
Ikeda  ソ連軍は甚大の被害を出しながらも、18日6時までに四嶺山まで侵攻。そこで、迎え撃ったのが、池田末男中佐率いる戦車第11連隊。「十一」をなぞらえて「士魂部隊」と呼ばれており、池田末男中佐は「戦車隊の神様」と呼ばれていた。満州では戦車学校の校長を務め、そのときの生徒の一人に後の作家・司馬遼太郎がいた。その人柄、そしていかに部下に慕われていたのかは、昭和の軍人に厳しい視線の司馬遼太郎をもってしても、その著書『街道をゆく29』「占守島」には好意的に書かれている。

 池田末男中佐は、直ちに戦闘準備を下令するとともに、こう訓示した。

「諸子よ、状況はすでに見る通りである。
 われわれは大詔を奉じ、家郷に帰る日を胸に
       ひたすら終戦業務に努めてきた。
 しかしながら事ここに到った。
     もはや降魔の剣を振うほかはない。
 そこであえて皆に問う。
 諸子はいま、赤穂浪士となり、
   恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、
 あるいは白虎隊となり、
  玉砕をもって民族の防波堤となり、
      後世の歴史に問わんとするか。
 赤穂浪士たらんとするものは一歩前に出よ。
 白虎隊たらんとするものは手を挙げよ」

 喚声と共に全将兵が手を挙げ、池田戦車隊の壮絶な玉砕戦が始まったのである。
 池田中佐は突撃における最後の連絡をこう行った。

 「戦車第十一連隊将兵は四嶺山のふもとにあり、
  士気ますます壮健なり。
  五時五十分、池田連隊は直ちに敵に突入する。
  祖国の弥栄(いやさか)を祈る!」

 その池田中佐をはじめ、多くの戦死者を出しながらもソ連軍を追い落とす勢いで日本軍は盛り返した。戦後に発表された数字は、日本側、ソ連側での違いはあれど、日本の被害より、ソ連側が受けた被害は甚大であった。

*日本側資料 日本軍死傷者500名~600名、700名
       ソ連側約3000名
*ソ連側資料 日本側死傷者約1018名、ソ連側約1567名

 しかし、日本はポツダム宣言を遵守しようと、休戦を持ちかけ21日になって戦闘行為が停止される。戦闘行為で勝っていながらの停戦に日本兵は涙を飲み、さらには再度の武装解除をしたところで、生き残った日本兵はシベリアへ送られ、極寒のなか抑留された。
 司馬遼太郎曰く、この戦闘は無駄ではなかったのか、ということであるが、ソ連による北海道の占領を事実上阻止したと私は思う。
 沖縄のことも語り継ぐべきであろうが、また同時に解決していない北方領土を考える意味でもこういった歴史も語り継ぐべきであろう。

*戦車第11連隊の慰霊碑は、愛知県豊橋市にある。また陸上自衛隊真駒内駐屯地の第11戦車大隊は「士魂」旗を掲げている。

2006年5月28日 (日)

東部体育協会大運動会

Dsc02237 1時、就寝。6時、起床。頼まれていたプレゼン資料をパワーポイントで作成するも、手書きの文字の原稿がよく読めず、朝から依頼者に確認の電話を入れながら作業を行う。
 8時、中粒80gの納豆とオウレンの天麩羅、米麹の赤味噌を使った大根と油揚げの味噌汁で朝食。

Dsc02238 9時、柏崎小学校の運動場に行き、運動会の準備。今日は、31回目となる地区の運動会であり、審判係りである。
 10時から開会式。ラジオ体操に変わる新しい準備体操を行ったが、運動としては十分であったが、恒例であったラジオ体操が無くなってしまうと、何だか物足りない感じであった。

Dsc02276 一気に350mlのビールを飲み干して走る「グイ飲みレース」など和気藹々と競技は進み、12時となったので、一度、運動場を離れ、手伝いのため、「風の陣」の会場に向かう。
 あいにくの雨で、中止になったイベントや競技があり、人もまばらであった。ボランティアの数名はやることなく、時間がもったいない、といった声があった。雨で仕事が無くなったことに起因しているので、中止を決断した段階で、調整すべきであったと思われる。スタッフ弁当をもらい、昼食。

Dsc02240 13時過ぎに運動会にまた戻り、リレーなどの競技に参加。昼食前あたりから、オトーサン世代はビールなどのアルコールを摂取してしまうので、午後からの競技はメロメロとなる。毎年恒例で頂戴するOさん自家製のビーフジャーキーをつまみに、自分でもビールを飲んでしまったので、走りはイマイチになった。

 15時過ぎに大会が終了。我が町内はこれまで3年連続、優勝してきたが今回は2位であった。町内の打ち上げには失礼させてもらい、「風の陣」の後片付けを手伝いに会場に再度向かう。
 会場に行くまでの途中や会場内では、色々な方面からご批判の声を頂いた。そもそも「風の陣」のスタートは「風」や「海」がテーマであったが、フリーマーケットやバザールなど複合的なイベントになってきており、規模は拡大していくものの、予算が減っていく状態で、軸がブレてきたのも事実と思う。
 昨年は3日間で12万人、今年は雨に降られたが、実行委員長をはじめ、関係していた皆さんの努力もあり、なんとか持ち直して約7万人。日程的にも、各地区の運動会やその他のイベントと重なり、地元の人の参加が少ないことも影響があったと思われる。今後、柏崎市全体で「ある程度」のイベント日程の調整、観光戦略の練り直しが必要であろう。

Dsc02278 20時、一旦自宅に戻り、残っていた弁当に黒豆納豆をかけて夕食。その後、某所での懇親会に参加。23時、自宅に戻り、シャワーを浴びて、就寝。

2006年5月27日 (土)

かしわざき風の陣2006:海軍記念日

Dsc02230 5時、起床。干し納豆と梅干のおにぎりをほお張りながら、書類関係の整理など。
 9時、市内外の方を「かしわざき風の陣2006」へ案内する。今回、自衛隊関係は、陸上自衛隊海上自衛隊に協力をしてもらい、陸上自衛隊においてはカレーの配食や装備品展示、ハマーへの試乗など。海上自衛隊は、護衛艦「みねゆき」、「はまゆき」(同型艦)の2隻を使っての一般公開、体験航海、電灯艦飾(護衛艦ライトアップ)である。特に体験航海は、3倍以上の申し込みがあり、当日もキャンセル待ちの方は数十名いらっしゃった。
 柏崎への海上自衛隊誘致を訴えているだけに、より多くの人が海上自衛隊に接したかと思うと感無量であった。
 さらには、今日は海軍記念日でもある。
*明治38年(1905年)5月27日の日本海海戦における日本海軍の勝利を記念して、戦前に制定された。


*リンク先:海上自衛隊ホームページ

Dsc02224 12時過ぎに一度、自宅に戻り、甥っ子と一緒に、「うれっ子」(電話:0257-22-4648)の「チャーシューつけめん 大盛り」。これまでは普通盛りであったが、2歳を過ぎた甥っ子も多く食べるようになってきたので、一緒に食べるときには大盛りにすることにした。

Dsc02227 午後からK嬢に送ってもらい、「かしわざき風の陣2006」の会場風景の撮影を行う。
 小さな子用の海上自衛隊の制服が試着できるコーナーがあり、女性自衛官が応対していた。2歳か3歳ぐらいの子が敬礼する姿は見ているだけでも可愛い。午前中だけでも100名以上の利用があったそうだ。
Dsc02232 毎年、参加してもらっている十日町市の災害救助犬も大人気で、自衛隊の皆さんも熱心に見学していた。是非、多くの方から見てもらい、支援をしてもらいたい活動である。

 今回の撮影分は、チャンネル桜の「柏崎市アワー」の冒頭で使えればと思う。先週の満州柏崎村と合わせての1時間番組で企画したい。

F1000003_6 ある程度、撮影をしたところで、新潟市に移動。17時から、自民党新潟県支部で自民党青年部の会議に出席。
 移動でのスピード違反取り締まりなど、とにかく印象に残る打ち合わせとなった。今年9月の総裁選以後、来年の統一地方選、参議選に向けて、青年部としての活動が活発化する。

Dsc02233 会議終了後、長岡市に移動。大変申し訳ないながらも遅刻してしまい、「バーデン・バーデン」での結婚パーティに出席。
 Fさん夫妻の結婚パーティで、多くの方が祝福のために参加されており、Fさんの人脈の広さもあって、大変な盛り上がりとなった。
 お手本とさせてもらうようなご家庭を築かれることと思う。

Dsc02235 パーティ終了後、柏崎まではK夫妻に送ってもらうことになった。食事もあまりとらず、ビールの一気飲みばかりであったので、ラーメンでも食べようということになり、「ラーメン処 潤」長岡上除店(0258-47-4888)へ。「岩のりらーめん 740円」に「煮玉子 100円」、そして酔った勢いとはいえ、調子に乗って、背脂が地獄のようにふりかけられる「鬼あぶら」を選択。食べ切ったものの、胃もたれしてしまう。

 23時、自宅に戻り、風呂に入る。

2006年5月24日 (水)

岩手県釜石市、朝鮮人強制連行の神話

Dsc02086 資料整理などで結局、徹夜となった。7時過ぎ、母が昨日、スーパーで買った半額サービスの「生鮨セット」と納豆1パックで朝食。
 出張の準備をしていなかったので、あわてて着替えなどを詰め込む。愛機のノートパソコンが壊れたままであったことを思い出し、メールなどの仕事はあきらめ、本を大量に持参することにした。

 8時50分過ぎ、柏崎駅に集合し、建設企業常任委員会の視察に出発。
 柏崎駅を9時にでる北越1号、長岡駅で上越新幹線「MAXとき」に乗り換え、大宮駅で東北新幹線「やまびこ49号」に乗り換える。
Dsc02087 途中、さすがにお腹がすいたので、駅弁で昼食をとろうということになり、「日光 強(こわ)めし 1100円」(宇都宮駅 松廼家)を購入。
 バラエティ豊かなメニューで、不躾ながら本を読みながら食べるのにちょうど良い。

Dsc02095 「よくおでったなす、花巻へ」と書いてある新花巻駅に到着。宮沢賢治らしいオブジェが駅周辺に設置してあった。40分の待ち合わせのうえ、在来線に乗り換え、16時36分に釜石駅に到着。
 宿泊先である釜石ベイシティホテルに入ったのが17時過ぎ、今日一日、移動で終わってしまった。

Dsc02098 夕食まで時間があるので、食通の今井議員と街中のスーパーなどを散策。地元のスーパーや商店街を見ると、その土地の食文化が分かる。
 商店街は、廃れ気味ではあったが、日用品をはじめとする地元のお店は懸命に頑張っているようであった。
Dsc02099 商店街の一角に、学生が毎日でも立ち寄りそうな、たこ焼き屋さんがあった。ついフラフラと入ってみると、たこ焼き1個30円という値段。その安さはもとより、こういったスタイルのお店が好きなので、たこ焼きを6個購入。
 味は普通といった感じであるが、店内の内装といい、看板といい、なかなか味わいあるお店であった。

Dsc02101 地元のスーパーに入って、納豆をはじめ、鮮魚コーナーを見てみると、「地もの 生食用しらす 265円」が半額の132円になっていた。思わず、「ポン酢 132円」も購入し、レジで箸をもらって、商店街のベンチで食べてみた。総額、265円の生しらす、周りからの冷たい視線のなか、食べてみると、生臭くもなく、トロリと広がる海の香りが絶品であった。

Dsc02103 またしばらく歩いていると地元の魚屋さんがあり、店内を覗かせてもらうと「ミンクくじら 329g」で756円。
 これも思わず、購入。さらにはお店の方に醤油をお借りできないかとお願いすると、とても良い方で根生姜があるから、それも擂ってくれるとのこと。ありがたく、ご好意に甘え、おろした根生姜入りの醤油をもらった。
 久々のくじらは獣肉とも魚肉にもない、何とも言えない旨みがあり、またも周りの冷たい視線をよそにベンチに座って食べたが、満足であった。

Dsc02104_1 18時過ぎにホテルのロビーに集合し、全員で夕食にでかける。事前にリサーチしておいたお店、「いかすみ」(電話:0193-24-2655)に行き、適宜、注文することになった。
 他の委員会メンバーは空腹であり、「いかめし」など、とにかく腹にたまるもの、という方針での注文であったが、ここまでに「生しらす」「ミンクくじら」を食べてしまった私としては、すでにお腹は膨れ気味。好きな数品を重点的に注文することにした。
Dsc02109 東北地方に来て、外せないのは大好物でもある「ホヤ」。人によって好き嫌いがはっきり分かれるが、この独特の風味が癖になってしまった。
 ちなみに「ホヤ」は、現在、世界にいる生物のなかで、唯一、体内でセルロースを生成することができる。

Dsc02113 夕食後、委員長から釜石名物という「呑ん兵衛横丁」に行ってみようという提案があり、お供することに。
 視察にでるのは良いが、いつも各地でかなりお金を使ってしまう。結局は自分の好奇心が原因でもある。

Dsc02114 入ったお店は、カウンター5席ほどだけの小さなお店。ママは、70歳近くになったいまでも毎日カウンターに立っているという。ビールを飲みながら、突き出しのバイ(貝)をつまみに話を聞くと、「呑ん兵衛横丁」はその昔、製鉄業が栄えた頃、仕事がえりに寄る男たちでいっぱいだったという。

 戦後の釜石の歴史を聞いたところで、なぜか「アンタ、独身?はよ結婚しなさい」という話の流れになり、2時間ほど貴重な?お話を頂きながら飲んだ。23時にホテルに帰る。

 釜石市は、新日鉄の製鉄業で発展してきた街である。それが故、大東亜戦争の最中にも製鉄所を狙い、海上のアメリカ海軍艦隊から艦砲射撃を受け、600名を超える住民が亡くなり、街は壊滅状態になった。
 その際、朝鮮人の方が何名か亡くなっており、日本政府、新日鉄を相手に強制連行・強制労働の責任を追及し、謝罪と補償を求め、裁判を行った。
 1997年9月18日、日本製鉄元徴用工遺族11名が提訴していた日鉄釜石裁判は、新日鉄と自主交渉によって和解解決となったが、国は認めていない。それも当たり前のことで、これまで言われてきた国による「強制連行が実在しない」ことが在日の方からも証言されている。

 日韓併合は、1910年(明治43年)8月22日。この頃から日本で一旗あげようと日本に渡ってくる朝鮮人が激増し、その対処に困った政府は昭和10年まで朝鮮人の日本への渡航を制限していた。

*法務省編『在留外国人統計』1974年
 昭和20年9月1日までに、日本に来た朝鮮人は8万3030人。うち、昭和10年までに渡来したのが4万4612人(53.7%)

 昭和11年から昭和15年には、日本国内の働き手不足から、民間あっせん業者が自由に募集し、日本への渡航を行っていた。
 昭和16年には、働き手不足が深刻な問題になり、昭和17年2月から昭和19年8月まで、官斡旋に変わったが、民間あっせん業者が朝鮮総督府に必要な人員を申告、朝鮮総督府自らが募集をかけるという方法をとっている。これについても、強制連行、強制労働ではなく、賃金も支払われ、日本に渡った後も参政権も授与された。当時の帝国議会に、朝鮮人議員が議席を有していることからも証明できる。
 逆に日本人は、昭和13年4月1日には国家総動員法が公布され、昭和14年7月8日には国民徴用令がだされ、国家が必要と認めた際には、工場労働などの労働に従事しなければいけない義務があった。
 大東亜戦争末期の昭和19年9月からは、国家総動員法が同じ日本である朝鮮にも適用され、終戦までに2000人程度の朝鮮人が徴用された。

 この徴用が強制連行、強制労働であるという主張が、この裁判。
 当時の朝鮮人は日本国籍を持ち、権利・義務も日本人と同等である。当然、国民の義務としての徴用であっただけで、強制連行ではない。もし、この部分を強制連行、強制労働などして、国に賠償金を求めると言えば、昭和13年から終戦までに徴用された日本人が賠償金を求めるだろう。
 強制連行については、昭和34年7月13日の「朝日新聞」にこんな記事がでている。
 


昭和34年7月13日『朝日新聞』

 大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表
 戦時徴用は245人 

 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。
 これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は245人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。

一、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。
  残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった。

一、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している物は犯罪者を除き、自由意思によって在留したものである。


2006年5月23日 (火)

講演:まちづくりとエネルギー

Dsc02084 2時就寝。7時、起床。
 野沢菜と干し納豆を具にしたおにぎりを、朝食、昼食用として4個作る。 最近は皿とおにぎりの形状、海苔の巻き方で芸術?を楽しむ。
 おにぎりをほおばりながら、ひたすらブログへの書き込みとメールの返事等。

 9時、13時に来客。17時から電話で販売ルートに関する打ち合わせ。

   19時からエネルギーホールにて、福島県を拠点に地域を興しをされている、東北ジャイロ流通研究所所長・小柳剛照氏による「まちづくりとエネルギー ~視点を変えれば進路が見える」講演会に出席。

主催:地域共生を考える柏崎刈羽の会(柏崎エネルギーフォーラム、柏崎青年会議所柏崎青年工業クラブ、荒浜21フォーラム、刈羽エネルギー懇談会)

協力:東北原子力懇談会東北電力・柏崎営業所東京電力・柏崎刈羽原子力発電所


【講師プロフィール】
Dsc02085東北ジャイロ流通研究所 所長
小柳 剛照(こやなぎ よしてる)
昭和23年 群山市生まれ
(経歴)
昭和46年 東北大学卒業。福島県職員となる。
平成5年 店づくり、まちづくりに取り組みたく、福島県職員を退職。
平成8~17年 福島県産業振興センターで、小売店、商店街活性化を支援。
平成17年 東北ジャイロ流通研究所設立。
(現在)
東北ジャイロ流通研究所所長
福島県地域興しマイスター:福島県知事委嘱
中心市街地商業活性化アドバイザー(協議会):中小企業基盤整備機構登録
シニアアドバイザーセンター専門相談員:福島県商工会連合会委嘱
過疎を逆手にとる会(略称:かそさか)福島県本部長
(講演歴)
約1100回。自治体、婦人会、商業団体、農業団体などの依頼で北海道から九州まで訪問。商店街活性化、まちづくり、婦人活動など、テーマは多岐にわたる。
(著作の一部)
「プロ販売員を育てる10通の手紙」(織研新聞社)
「元気が出る店づくり」(福島県商店街振興組合連合会・タカラ印刷)
「街はよみがえる」(原町市商店連合会)
「消費者の視点から 店づくり・まちづくり提言」(福島県商店街振興組合連合会)
「小さい店が大きく光る 今日から始める繁盛店づくり」(福島県小売商業支援センター)
(新聞・雑誌・その他のメディア)
月刊『商業界』に『経営逆手塾』連載中。
『フィットネスビジネス』に『Service』連載中。
読売新聞福島県版に『まちづくり元気通信』平成9~15年連載。通算254回。
平成6~8年 福島テレビ『サタデーふくしま』コメンテーター。
平成9年 ラジオ福島『かっとびワイド』火曜日パーソナリティ。
ラジオ福島『日産ラジオナビ』出演中。



1.これからのエネルギー事情
■「2020年プロジェクト=未来の地球地図」
 NIC(米国情報評議会)発行の文書が、2020年のエネルギー事情を予測。
■エネルギーは無限ではない。
・20世紀の発展は、エネルギー消費によってもたらされた。
・社会評論家パッカードの警鐘。
・”二重のムダ”に苦悩する日本。
■ゼロ成長下の町づくり、企業活性化を考える
・大きなまち、大きな会社でなく、たくましいまち、強い会社を目指す。
・Ⅴ字成長ではなく、ルート型維持を目指す。
■江戸に学ぶ
・地球の利子で暮らしていた江戸時代。Sustainable town
*江戸の奉行は、南と北合わせて290人(同心240人、与力50人)、江戸の人口は120万人。
★江戸は経済成長がないのに、なぜ260年も平和な時代が続いたのか。
★江戸には「下水道」、「馬車」、「歩道と車道の区分」がなかった。

2.まちづくりの針路
■なぜ「まちづくり」がうまくいかないか
・常識にとらわれていないか。都会のまねをしていないか。
■「心の過疎」を吹き飛ばせ
・人口が少ないこと、高齢化率が高いのはダメなことだろうか。
 ダメ、ダメと言ってしまうダメ眼鏡を外せ。
■ナンバーワンを目指さず、オンリーワンを目指す
・「日本一」は素晴らしいけど、抜かれたらそれっきり。
■住民のホンネをつかむ
・“建て前”の町づくりはうまくいかない
・“主役は住民”とはどういうことか
<事例>
「利用されなかった図書館」
    → あるだけでいい図書館?
「ダラスのゴキブリコンテスト」
    → 賞金1000ドルのゴキブリ駆除
京都市「ルール違反ゴミをなくすには」
    → 鳥居を置いた
オランダ「スキポール空港のトイレ」
    → 小便器の中心に蝿を書いた。
■活性化を進めるのは、よそ者、若者、バカ者
・「閑さや…」の蝉は何ゼミか
・若者は地位とお金がないから、何でもできる
・先進地視察の正しいやり方
  → 情熱、人を惹きつける魅力を見てくる。
★大分県の由布市・由布院温泉は、お客様をどのように迎えているのか。

3.活性化を推進するまちづくりに学ぶ
■「価格」の意味を理解する。=「満足」
■価格<満足が、「リピーター」と「口コミ」をつくる
■まちづくり事例に学ぶ
『長野県小布施町』
 ・葛飾北斎・まちなみ修景・絶品の栗菓子、乗おこわ
『青森市』
・コンパクトシティ
『静岡市呉服町名店街』
・一店逸品運動
『長野県小川村』
・「小川の庄」のおやき
『高知県馬路村』
・ゆず製品で地産知商
★まちづくりも企業の活性化も、「ニーズ」に応える以上に、「ウォンツ」をつくることが重要。ウォンツの創造を考えること。

4.これからのまちづくりとエネルギー
■自立できるまちを目指す
・消費に頼るまちづくりは、食糧不足、エネルギー不足に弱い。
【食糧自給率】
全国平均40%、岩手県102%、東京1%
■省エネまちづくり、省エネ企業、省エネライフの薦め
■ナマケモノに学ぶ
Namake ・エネルギー消費量が少ない。
・細い木にぶら下がれるので、外敵に襲われない。
・排泄は木の下におりて穴を掘り、用を足したら枯れ葉で覆う。こうして木の葉からいただいた栄養の半分を、木に返して、木との共生を果たす。
・それぞれが自分の木で暮らすので、縄張り争いが起きない。だから、みんな共存できる。
■江戸時代に戻ることはできないけど、学ぶべき。



F1000002_7

 21時、自宅に戻り、揚げ春巻き、オニオンサラダで夕食。

2006年5月22日 (月)

満州国、満州帝国、新五色旗と五色旗

 2時、自宅に戻り、就寝。8時起床。納豆汁で軽い朝食ののち、事務所の整理。電話が相次ぎ、満州や柏崎トルコ文化村に関することであった。

Dsc02081 妹から差し入れでもらったサラダマックのグリルチキンサンドを、甥っ子と一緒に食べて、昼食。あまりファースト・フードは食べないが、ハンバーガーならモス・バーガー、メキシコ料理ならタコベルがお気に入り。家の近くにタコベルができることを夢見ている。

F1000001_15 16時、18時から2件の打ち合わせ。自宅に戻ると母が餃子を作っていたので、夕食にさせてもらう。蒸し焼きにしたあと、最後に胡麻油をまわし入れ、ぱりぱりとした焼き餃子にする。
 食事を食べながら、祖母のことについて母と相談。最近、独りでいさせることが困難になってきた。人は誰も年をとるのであるから仕方はない。

Sin 昭和7年、清朝の始祖が王朝を固めた記念日である3月1日、満州国政府は建国宣言を行った。
 国名は「満州国」、国、体は「民本主義」(政治は市民の利福のために、市民の意向によって行わなければならないとする。日本で言えば、大正デモクラシーの根幹的思想となった)、国首は「執政」溥儀、国旗は「新五色旗」、首都は「長春」(後に新京と改称)、元号は「大同」と発表した。

出典:IPA「教育用画像素材集サイト」

5shoku 国旗は「新五色旗」であるが、「新」というからには、「旧」もあり、こちらは、赤が漢民族、黄は満州民族、青は蒙古民族、白は回教徒、黒はチベット民族を表す。
Tintao  この「旧五色旗」は、満州国建国以前には、奉天軍の張作霖(ちょうさくりん)が掲げており、「新五色旗」が満州国で掲げられるようになってからも、昭和12年の中華民国臨時政府、昭和13年の中華民国維新政府、昭和15年の第二次新民会旗が掲げていた。

*写真は、昭和13年1月23日、青島治安維持会本部

Ka  蒋介石が掲げていたのが、「青天白日旗」。赤は自由と独立のために流した血、青は青天の下の正義、白は太陽で友愛を表す。現在は、台湾の国旗となっている。
 支那事変で日本が戦ったのは、この旗に対してである。

Ouchou しかし、蒋介石と決別した汪兆銘が、昭和15年に南京に政権を樹立すると、これまで維新政府が掲げていた「旧五色旗」を下げ、「青天白日旗」を掲げた。そのため、今日、歴史資料などで当時の写真を見ても、汪兆銘の南京政府なのか、蒋介石の重慶政府なのか判別しにくい理由のひとつとなっている。

*汪兆銘は日本からの抗議に対しても、「青天白日旗」に黄色を少し追加するなどして、「青天白日旗」にこだわった。一政府の元首としての汪兆銘のしたたかさはここにある。

 また、旗だけでなく、満州も厳密に分けて考えなければならない。一口に満州と言っても、時期によって「満州国」「満州帝国」の違いがある。冒頭述べたように、満州国として、溥儀が執政につき建国されたが、大同3年(昭和9年)2月20日、溥儀の皇帝への即位を発表。同年3月1日には、元号を「康徳」とし、溥儀が皇帝として即位。満州国は帝制、満州帝国へ移行した。
Ryu  溥儀は清朝の再興(復辟)と捕らえており、清朝歴代の皇帝が祖宗の心霊に即位を報告する儀式の服「龍袍」を着用し、即位式を行った。このことからも、溥儀がいかに真剣に清朝の復活を満州国に期待していたのかが分かる。

2006年5月21日 (日)

出雲井先生:日本の神話と昭和天皇

 1時就寝。7時起床、先週の週刊誌を大量に持ち込み2時間ほどの長風呂。

F1000002_6  9時、ちょっと贅沢に黒豆納豆を使った納豆汁、甘塩のたらこで朝食。今週は、中国の東北料理を毎日たらふく食べたので、胃も体も重い。しばらくはできる限りシンプルな食事にしようと思って、いざ用意してみると、いつもの食事と変わらない。和食のシンプルさをあらためて感じる。

 12時過ぎまでメールやブログへの書き込み。昼食抜きで愛車で新潟市に向かう。

Dsc02075 14時から新潟万代市民会館で、出雲井晶先生の講演「日本の神話と昭和天皇」(主催:出雲井晶『日本の神話』伝承の会新潟支部、後援:新潟市教育委員会、新潟県神社庁、産経新聞新潟支局)。
 自民党の政経文化セミナーも同じく新潟市で開催の予定であったが、こちらが先であったため、多少後ろめたさを感じつつも、講演会会場に入る。

Aki *いずもい あき:作家・日本画家、北海道生まれ。特に日本神話を題材とした文筆活動を意欲的に展開。著書には『春の皇后』『花かげの詩』『小さき生命のために』『昭和天皇』『にっぽんのかみさまのおはなし』『教科書が教えない神武天皇』など多数。近刊に『誰も教えてくれなかった日本神話』(講談社)。画家としてパリ・ル・サロン展など入選多数。内閣総理大臣賞、美術協会大賞などを受賞。「日本の神話伝承館」館長。

 ちょっとした小話としては、日本神話を知っているつもりではあるが、大きな視点から見るような機会はなかったので、是非、聞きたかった講演。
 GHQによる占領期間中、教科書での神話伝承が消滅した証左であろう。

ミラン・クンデラ:国民の記憶を失わせるのは簡単である!
 「その国民の図書、その歴史を消し去った上で、
   誰かに新しい本を書かせ、新しい歴史を発明することだ」

 講演会は、主催者である内山支部長の挨拶、そして神話の朗読から始まった。朗読するのは、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)。


 天地(あめつち)初めて発(おこ)りし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬし)。次に高御産巣日神(たかみむすび)。次に神産巣日神(かみむすび)。此の三柱(みはしら)の神は、並独神(みなひとりがみ)と成り坐(ま)して隠身(かくりみ)なりき。

 次に国稚(わか)く浮きし脂の如くして、九羅下那洲多陀用弊流時(くらげただよえるとき)、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)。次に天之常立神(あめのとこたち)。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、独神と成り坐して、隠身なりき。

 上の件(くだり)の五柱の神は別天神。


 出雲井先生からは、

・国土を生む神話をもつのは日本のみ
・「太陽=日」の子だから彦(日子:ひこ)。女の子なら「姫」(日女:ひめ)
・『魏志倭人伝』によれば、日本人はお互いすれ違うときに拍手を打って、拝み合っていた。
・ポーランドのワルシャワ大学日本学科教授で「古事記」「日本書紀」のポーランド語訳も出されているヴイェスワフ・コタンスキー博士:
 「地球上に、日本神話に書かれてある大宇宙観、真理を超えるものは未だ発見されていない」
・アーノルド・トインビー:
「12、13歳頃までに、その国の神話を教えられていない国民は、例外なしに滅んでいる」

など、約2時間にわたる講演をいただき、クライマックスは大東亜戦争終戦における昭和天皇のご聖断であった。
 終戦の翌年である昭和21年、正月に昭和天皇が詠まれた歌

 ふりつもる深雪(みゆき)に耐えて色かえぬ
             松ぞ雄々しき人もかくあれ

には、占領軍による苦難(雪)にも耐え、日本人であることも忘れない(色をかえず)想いが込められている。
 講演会終了後、出雲井先生にご挨拶をさせていただき、会場を後にした。

F1000001_14 17時過ぎ、新潟市の某氏と食事をしながら雑談。米国産牛肉の輸入の話題を電話でしてから会ったので、なぜか牛丼の「すき家 新潟中央店」(お客様窓口:0120-498-007)へ。「ねぎたま牛丼セット(並) 520円」。卵の黄身と白身を分離する器具がついてきたが、貧乏性なので、そのまま全卵をのせて食べる。

 19時近く、自宅に戻り、そのまま町内の成年会理事会に出席。来週の運動会、6月の米山登山などについて打ち合わせ。

 22時、一回自宅に戻ったのち、長岡に移動。東京から来た方が長岡にお泊りとのことで、2次会からでも顔をだしてほしいとのことだった。23時過ぎから、長岡の某スナックでの2次会に参加。

2006年5月20日 (土)

「大東亜戦争」と「太平洋戦争」

 1時起床。引き続き、郵便物やFAXの整理、ブログの書き込み。途中、納豆ご飯などかっこみながら、9時まで続ける。

 9時から弔問。11時に自宅に戻り、チーズパンをかじりながら、15時までブログへの書き込み。

F1000001_13 所用で長岡へ。22時に自宅に戻り、3割引で買った刺身セットと母が作った筍ご飯、そして久々の自作料理・卵ばくだん煮で夕食。
 油揚げに卵を入れ、醤油、みりん、砂糖、酒で甘辛く煮るだけの料理であるが、油揚げを噛みしめたときのジュワーに続く、卵の淡白な味わいが良い。本当は干瓢で袋をとじればいいのだが、ちょっと手抜きをして爪楊枝で袋をとじる。
 食後、来週の予定や選挙関係での電話が相次ぐ。

Sensen  今回の「満州柏崎村開拓団慰霊の旅」のみならず、色々な場面で「大東亜戦争(Greater East Asian War)」の呼称について、話題になる。戦後の世代は、ほぼ「太平洋戦争(Pacific War)」である。
 いつも「三井田君、大東亜戦争なんて呼び方は古いよ」「軍国主義につながる」といったご批判をうける。
 しかし、「太平洋戦争(Pacific War)」は、世界史の上で二つの戦争を意味するのである。

 一つは、1879年(明治12年)から1883年(明治16年)の5年間にわたり、太平洋沿岸の硝石採掘権を、チリとボリビア、ペルー連合軍が争った「太平洋戦争(Pacific War:Guerra del Pacifico)」である。

 もう一つが、1941年(昭和16年)12月8日にはじまり、1945年(昭和20年)9月2日で終結するアメリカ側から見た対日戦争の「太平洋戦争(Pacific War)」である。
 本来であれば、アメリカも「第2次太平洋戦争」などと区分けすれば良かったのであろう。

 では、アリューシャン列島からマダガスカルまで地球のほぼ半分の地域で日本が行った戦争といえば、「大東亜戦争(Greater East Asian War)」と呼ぶしかないのである。
 日本で「大東亜戦争」の呼称が禁止となった期間は、アメリカの占領下であった昭和20年から昭和27年。その間には、「神道指令」(昭和20年12月15日)もあり、日本の国是であった「八紘一宇」(『八紘』は四方と四隅で世界、『宇』は家を意味する。人類皆兄弟。THE WHOLE WORLD,UNDER ONE ROOF)などの言葉やラジオ体操、武道が禁止された。
 その他、言論、出版に関するGHQの規制や圧力は以下のようなものであった。

Ra1.新聞・ラジオへの検閲指令
  (昭和20年9月10日)
2.通信社、新聞社への発行停止処分
  (昭和20年9月14日~19日)
3.「太平洋戦争史」(GHQ指導)新聞連載
  (昭和20年12月8日~17日)
 と出版(昭和21年4月5日)
4.「真相はかうだ」(GHQ指導)ラジオ放送
  
(昭和20年12月9日から10週間)と出版(昭和21年8月)
*写真をご覧頂ければ分かるが、聯(連)合国最高司令部民間情報教育局編とある。
5.CCD(民間検閲支援隊)を全国4箇所に設置

 日本人に大東亜戦争の罪悪感を植えつける「WGIP(War Gilt Information Program)」を基本方針に、GHQによる日本人の精神的武装解除が行われた。
 現に今でも、「日本は無条件降伏した」と教え、そしてそう思っている人も多く、ポツダム宣言による「有条件降伏」であったことがあまり理解されていない。日本軍、戦闘については「無条件降伏」であった。
 日本が昭和27年に独立主権を回復したこと、そして「日本の自存自衛」「アジアの解放」を信じ、多くの尊い命を失った戦争でもあり、その実態を伝えるためにも「大東亜戦争(Greater East Asian War)」の呼称を使うべきと思っている。

*GHQによる占領政策
3R
 復讐(Revenge)、改組(Reform)、
 日本の組織組み替え復活(Revive)
5D
 武装解除(Disarmament)
 軍国主義の排除(Demilitalization)
 工業生産力の破壊(Disindustrialization)
 中心勢力の解体(Decentralization)
   財閥解体、警察も国家警察も地方警察とに分解する。
 民主化(Democratization)
   日本の歴史的・民族的な思想や教育を排除
3S
 セックスの解放、スクリーン、精力をスポーツに転ずる

2006年5月19日 (金)

日本への帰国

 5時起床、5時30分ホテルを出発し、8時過ぎにハルピン空港へ。

 出国手続きの際、カウンター受付のつっけんどんな態度の女性から、カメラの三脚について、どうしても「梱包せよ」との指示があり、ちゃっかり15元とられてしまった。

Dsc02061_t 出発ロビーでの待ち時間、あまった「元」で棒のアイスクリーム(4元)を買って食べてみた。持ったときから形状がおかしいと思っていたが、袋からだしてみる、一度溶けてしまった再冷凍をしたような有様だった。味的にも「・・・・・」だったため、非常にもったいないものの、トイレに流してしまった。中国では入国時に両替した半分の金額までしか再両替できない上、手数料がかかる。「元」を残さず、資料となるVCDをもっと買っておけば良かったと反省する。

F1000040 中国南方航空CZ615にて一路、日本へ向かう。飛行機のなかでは、団長の巻口さんと隣の席であったため、機内食をつまみにビールを飲みながら、開拓団、ソ連参戦後に関する貴重なお話をお聞きすることができた。これまでも何度かお聞きしていたが、現地で距離を実感しただけに、身に染み込んだ。

Dsc02064_t 11時15分に新潟空港に到着。着いた途端、携帯電話のメール着信、留守番電話の登録の通知があり、日本に帰ってきたと実感する。
 日本への再入国となるが、待ち時間にあたりを見回していると、こんな張り紙があった。

 「あなたは、現在、麻薬、大麻、あへん
 若しくは覚せい剤などの規制薬物又は銃砲、
 刀剣類若しくは火薬類を所持していますか?」

 こんな事を自己申告する人間などいないと思う・・・。

Dsc02067_t 全員が揃ったところで、池田先生ら太古洞開拓団関係者との別れのご挨拶をし、出発の際と同じ空港3Fのレストラン「シルバースカイ」で反省会。「天ぷらそば」を食べながら、集合写真や改めての反省会などについて話合う。

 12時過ぎ、バスで柏崎に向かい、14時40分、柏崎市役所に到着。産業振興部長、観光交流課長に出迎えてもらった。皆さんにご挨拶をしてから、自宅に戻る。

 母や祖母にお土産を渡し、いない間に届いた郵便物、FAXの整理。かなりの分量で取り掛かるのが億劫に感じる。

F1000041

 19時、秋刀魚2匹で夕食。中国では毎日食べすぎの状態であったので、今日から量を減らして食べることにする。
 秋刀魚のはらわたをまぶした身を口に運ぶたびに日本人に生まれたことを感謝する。

 21時から仮眠。

2006年5月18日 (木)

ハルビン:ユダヤ人と日本人、抗日烈士

F1000032_t  6時起床、7時に朝食。饅頭や豆乳を中心にしたメニューで、特に地鶏の蒸した卵、そして漬け込んで塩辛く味をつけた塩卵が美味であった。油条(ヨウティヤオ)や饅頭をほおばっては、塩卵をちょっと口に運ぶ。

 8時、バスで出発し、強い向かい風のなか14時過ぎにハルビンに戻る。バスの運転手さんに聞いてみたところ、この2日間の移動距離は917kmだそうである。ハルビン-五大連池間が約400km、五大連池-二龍山開拓団跡地間が約60km。

Dsc02040_t 14時過ぎ、餃子専門店の「東方餃子王」にて昼食。
 かなり人気のお店のようで、チェーン展開もし、今年中には新潟市にも出店する予定であるという。
 新潟市で成功するのか否か、注視したい。

F1000034_t 揚げたというよりは、多めの油のなかで片面ずつ泳がせた感じの揚げ餃子。海老、豚、ニラ、それぞれを中心にしたもの3種類を食べる。海老のプリプリ感、豚肉の濃厚さも捨てがたかったが、やはりニラが美味であった。ちなみに、ニラの餃子は庶民の味ということで、高級な餃子専門店では扱わないという。
F1000035_t 水餃子は、豚とラードを包んだもの、セロリと香菜を刻んで入れたものの2種類。水餃子にセロリとは意外であったが、歯ごたえが面白く、香菜との相性も抜群であった。また豚とラードは、噛んだ瞬間にかなり熱い肉汁が口の中に広がり、よくできた小籠包のようであった。

Dsc02042_t 16時から18時までフリータイムとなったので、安重根が伊藤博文を暗殺した旧ハルピン駅の記念プレートを探しにいく。しかし、タクシーの運転手と言葉が通じず、なんとか漢字での筆談を用いて、旧ハルビン駅の近くまで移動(20元)。
 探すも、伊藤博文暗殺現場跡を見つけることができず、ウロウロしていると、「抗日」の文字がある記念塔の前にでた。人伝えでは、伊藤博文を暗殺した安重根(朝鮮)の名もあると聞いていたが、9・18中国自衛戦争の説明と、「東北抗日賢愛国自衛戦争烈士記念塔」の文字があった。この近くに「東北抗日記念館」もあると聞いていたので、歩いて探し回る。
 その記念館には、日本人からは売国奴と罵られながらも、日本軍へ向けて反戦放送を行ったエスペランティストの長谷川テル(緑川英子)や中国軍の伝染病の治療に当たった佐々木源吾医師の展示があるとのことで、是非、見てみたかったのだが、結局、見つからず。
 帰りの道路事情を考え、再びタクシーを捕まえて、ホテルの方まで戻る。宿泊は、昨日と同じく、ハルビングロリア花園酒店。陽気な運転手で英語や漢字での筆談(前を見ないので危なかった)をしながら戻り、到着したもののメーター表示の料金は気にせず、料金は9元でいいと言い出したので、お言葉に甘えることにした。よく考えれば、筆談で見たい施設を列挙し、この運転手に案内してもらえばよかったと反省。

Y 他にも見たい施設が色々とあったが、時間の関係上どうしてもみることができなかった。トルコイスラム寺院、ユダヤ教会、旧関東軍特務機関の本部建物などである。特にユダヤ関係では、日本人が「八紘一宇」「人種差別撤廃」の精神に基づき、いかにユダヤ人を救ったのか、この目で見たかったのである。(写真は昭和13年3月、オトポールからハルビン駅に到着したユダヤ難民)
Hitler  昭和11年(1936年)11月、日本はドイツと「日独防共協定」を締結した。しかし、ドイツ国内ではユダヤ人への迫害がはじまった。ポーランドやソ連(シベリアにユダヤ自治州ビロビジャンを設定)以外、ユダヤ人がヨーロッパ各地に逃亡しようにも容易には受け入れてはくれず、アジアを目指した。アジアの中では青島、上海、そしてハルビンがユダヤ人集団居住地になったのである。
 ハルビンにいたユダヤ人のなかでも病院を経営していたカウフマン博士はユダヤ人の昭和12年12月26日から3日間、ハルビンで「第一回極東ユダヤ人大会」を開き、ユダヤ人の団結や権利をアピールしていた。「人種差別撤廃」の精神に基づき、ドイツとの関係もあることながら、その大会に理解を示したのが、実は関東軍であった。
Hi 年が変わって、昭和13年3月、数千人のユダヤ人がソ連領であるオトポールに逃亡してきたものの、飢餓と寒さにふるえていた。これを知ったカウフマン博士は、関東軍ハルビン特務機関長、樋口季一郎少将に相談をする。
 樋口少将は、

 「ポーランドもソ連も彼らの通過を許している。
  『五族協和』『万民安居楽業』を呼号する
  満州国が放置することはできない」

とし、満州国外交部を説得。
 そして樋口少将は大連の満鉄本社に打診。ときの満鉄総裁である松岡洋右も即、応諾し、ハルビンまでの特別列車を走らせ、無料でユダヤ人を搬送した。
 のちに首相となる関東軍参謀長・東條英機のもとには、外交ルートを通じてドイツからの強い抗議が届いており、樋口少将は呼び出されるが、こう言って説得したという。

 「諸民族の融和が日本の国是であり、
  そもそも日本はドイツとの盟友ではあるが
  属国ではない

 昭和15年、リトアニア領事代理であった杉原千畝(すぎはらちうね)が、ビザを発行し、多くのユダヤ人を救ったことは有名になったが、このハルビンでのユダヤ人救出の話はあまり知られてはいない。今回のハルビンでの自由時間に、その歴史の掘り起こしもしたかったのであるが、何分にも時間が足りなかった。
 ちなみに、樋口少将は昭和17年8月1日、北部軍司令官に着任。アッツ島(初の玉砕)、キスカ島撤退(戦史上、稀にみる完全撤退劇)、そして敗戦後の占守島(しゅむしゅとう)、樺太におけるソ連軍との戦闘を指揮した。

*救出したユダヤ人が2万人との説があるが、当時のオトポールは人口五千人の村であること、そして樋口少将直筆の報告書(防衛庁戦史資料室)には、「満州里からの報告では幾千人」とあるため、数千人が事実と思われる。

*樋口季一郎、石原莞爾は陸軍士官学校時代の同期で気心が知れており、理想国家「満州国」への熱い想いは一緒であった。


*名著『流氷の海』の著者である相良俊輔氏は、死後、樋口季一郎少将が眠る妙輪寺大磯・妙大寺(神奈川県・大磯駅近く)の近くに葬ってほしいとし、1979年8月に亡くなった際、2m離れた位置にお墓が作られた。

Dsc02068  ホテル近くに戻ってから、再度、買い物へ。中央書店にて、日本帝国軍揚秘、「食人魔窟」731部隊、東京大裁判(1)(2)、南京大虐殺(上)(下)、日本侵略史、日本甲級戦犯罪行録、原子弾爆炸秘聞、「日帝性暴力受害者」慰安婦奴のVCDをそれぞれ10元、末代皇帝溥儀のVCDを20元で購入。日本がどう描かれているのか、見るのが楽しみである。また溥儀については、現在の中国人から見た視点が興味深い。

Dsc02045_t  18時過ぎから、「日月譚 南山店」にてお別れの宴会。羊肉のしゃぶしゃぶを中心に、白酒の乾杯が続く。さすがに連日の暴飲暴食があり、またビールが冷えていないこともあって、冷え冷えになっていたコーラを飲む。
 宴会の部屋にカラオケがあり、日本側からは『昴』『北国の春』など。中国側を代表しても一曲歌ってもらったが、台湾の基降港が望郷の地であるという歌であり、複雑な感じであった。ツアーコンダクターさんのお話によれば、以前、軍歌を歌って、中国人側ではなく、日本人参加者内で問題になったことがあるという。
Dsc02047_t 太古洞開拓団の慰霊のため、柏崎開拓団とは別行動をとり、佳木斯(じゃむす)に行っていた池田先生のグループと合流したため、池田先生から五頂山における関東軍の三日間の戦いの紹介と慰霊の報告があった。
Dsc02046_t 一般に満州へのソ連侵攻とともに、すべての関東軍が民間人を捨てたと言われているが、勇敢に戦った部隊もある。それが五頂山を死守しようとした850名の勇敢なる兵士である。ソ連軍は3000~4000名、さらには最新鋭火器をもつのに対し、こちらは大した武器もない。このソ連軍を相手に3日間の壮絶な戦いをしたのである。3日間で戦死者は約半分の400名。その時点で撤退を余儀なくされるが、この3日間のソ連軍の足止めによって、逃げることができた開拓団員も多い。
*詳細については、池田先生と連絡をとりながら調査したい。
 軍事上、部隊半数の死者がでることは「全滅」を意味する。また、深い傷を負った兵が一名でれば、そこに少なくとも一名ないし、二名の手をとられる。この部隊の負傷を負った兵士はどうしたかと言えば、戦友に迷惑をかけまいと自決をしたのである。
 池田先生からは、こういった軍人がいたことも歴史に残してほしいとの要望もあった。次回、中国黒龍江省を訪れるときには、佳木斯(じゃむす)まで足をのばし、是非、戦地を訪れて、慰霊を行いたい。

Dsc02060 21時過ぎ、一度ホテルに戻り、諸先輩とともに夜の街にでる。
 毛沢東のマトリョーシカを買ったり、プラプラ歩いていると、何人かの画家の方が肖像画を描いてくれる商売をやっていた。白黒20元、カラー30元とのことで、せっかくだからとカラーで肖像画を描いてもらうことにし、諸先輩も描いてもらうことになった。
 ある方曰く、「こんで葬式用の写真撮らなくてよくなったてぇ~」。
Dsc02077 夜の寒風吹きすさぶなか、約40分で完成。最後にコートフィルムが20元というので、仕方なく追加で支払い、計50元で完成。

 23時過ぎ、ホテルに戻る。

2006年5月16日 (火)

満州開拓団病院跡地、他

 3時近くまで、英語の通じる回教徒のお店でビールを飲みながら、名前のよく分からない羊の煮込み料理を食べる(80元)。
 料理の写真をデジカメで撮っていたら、盛んに「消せ、消せ」といったことを言うので、仕方なく目の前で削除する。3時過ぎにホテルに戻り、就寝。

Dsc02010_t 6時、起床。ホテルの窓からスターリン公園を見ると、多くの人たちが太極拳をやっている姿が見えた。
 さすがに、連日の暴飲暴食で胃が疲れているようで朝食を抜く。

 9時、ホテル出発。今日はハルビン市内の見学である。

Dsc01952_t 最初は、花園小学校跡。2002年に建て替えられたそうで当時の面影はない。かつては日本人学校として使われ、ソ連の侵攻とともに、日本人収容所となり、満州全土から逃げのびた開拓団員、少年義勇軍が集まった。
 今回の慰霊の旅に参加された刈羽のSさんは、満州にいた頃、この小学校に通っていたという。Sさんのお父さんは、二龍山開拓団の団長であった。
 さらに、時速120キロで大連-ハルビン間を疾走し、世界最高水準の性能と高速を誇っていた、満鉄の超特急「アジア号」にも乗車した想い出があるという。

Dsc01955_t 続いて、満州開拓少年義勇隊の新香坊訓練所跡、本部跡を見学した。現在は、何も残っておらず、広大なその土地は大学の農業関係の実験施設となっており、遠くで見るばかり。
Dsc01957_t 満州開拓団病院跡。いまでも周辺の畑を掘ると日本人の遺骨らしきものが多くでてくるという。

Dsc02078 東北三省の4大古刹のひとつであり、多くの開拓民が避難した極楽寺。1924年に建設されたそうで、中国寺院の伝統的な建築のなかに、五百羅漢、地獄絵図、千手観音などの像がある。

Dsc01964_t昼食。バナナに卵黄をつけ、さらに小麦粉をまぶして揚げたもの。ビロビロのきし麺のような麺で、スープが牛肉や牛骨でダシをとって、かなり辛い味付けにしたもの。ムセながら食べる。

Dsc01973_tソフィア聖堂。ハルピンがロシアの支配下にあった1903年、東シベリア第4歩兵師団のために建設された、ギリシャ正教の教会。現在の聖堂は、1923年から9年間で建て替えされたもの。極東地区最大のギリシャ正教の教会という。中に入ってみると、ロシア、満州など古い時代のハルピンの歴史がされており、入り口でもその写真集を売っていたため、購入。299元という高価な額で驚いたが、手製の値段札シールをめくると「定価:120元」の文字がでてきた。しかし、ハルピン駅で暗殺された伊藤博文をはじめ、満州時代の町並みなど貴重な資料であるため、気持ちを切り替える。

Dsc02070 ハルピンで一番の繁華街、中央大街。本屋さんにて、日本の高校にあたる貴重な資料なので、気持ちを切り替える。高等中学校の必修科目「中国近現代史選択科目「世界近現代史」(上)(下)、8年級生用「歴史」の計5冊の教科書を購入(計38.52元)。「世界近現代史)」(上)では、日本が黒船によって開国まで至ったことが写真で説明されており、本文では徳川家康による日本の特色と武士道が書かれている。「世界近現代史)」(下)、の1ページは、レーニン、ロシア革命、ガンジー、そしてトルコのケマル・アタチュルクであった。トルコ共和国の近代化について多くのページを割いている。8年級生用「歴史」は、全136ページに5単元が設定されており、うち第4単元が26ページに渡って「抗日戦争」が、1931年9月8日の「918事変」(日本でいう満州事変)にはじまり、日本の敗戦に終わり、最後には中国の一部であるとの台湾の説明、抗日唱歌の説明と歌の練習がついている。南京大虐殺については、日本兵が生きたままの中国人を埋めているというキャプションのついた写真が掲載され、100人切りも事実として掲載されている。しかし、この写真、本当に生き埋めにする写真なのかアヤシさ満載である。
Dsc01986_t 百貨店の入り口で「母の日」プレゼントには美容整形、といったキャンペーンが行われていた。

夕食はホテル3Fにて、黒龍江省人民政府の趙副会長を迎えての宴会。やたらと白酒(パイチュウ)の本当の乾杯が続く。

昨日と同じく、ハルピングロリア花園酒店に宿泊

23時就寝。

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2006年5月15日 (月)

柏崎村開拓団、太古洞開拓団跡地、公墓にて慰霊

Dsc01822_t 6時起床。あまりの天気の良さに、ホテル周辺を散策する。
 7時、豆乳や饅頭を中心にした朝食。温かい豆乳に砂糖を入れて飲むのが普通らしいが、やはり豆乳はそのままがベストである。健康食として注目されている依蘭の料理らしく、「ちょろぎの酢漬け」があった。

Dsc01830_t 8時、ホテルを出発する。依蘭県の中心地に行き、団長の弟さんが経営する市場を見学させてもらう。
 市場というものの、これまで屋外で行商をしている人たちを集めた、ショッピングモールの形式をとっており、入った途端、売り手と買い手の物凄い活気、そして物の量で圧倒される。
Dsc01823_t 天候に左右される屋外で、不衛生に販売している人たちを集めることによって、売る側も安定した商売ができ、また買う側も安心して買えるようになったという。
 肉も鶏や豚がシメたそのままがぶら下がっており、目の前でさばいていた。
Dsc01832_t 肉屋さんの中に、惣菜を専門に扱う店があり、それこそ豚であれば、顔から尻尾まですべての部分を調理し、売っていた。耳などは沖縄料理でミミガーとして食べたことがあるが、豚の尻尾や鼻の料理を見るのは初めて。好奇心から豚の鼻の燻製を5元で購入。コリコリとした歯ざわりとゼラチン質で、上質の豚足といった感じであった。

Dsc01837_t バスごと船に乗り込み、松花江を渡る。
 松花江はアムール川最大の支流で、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流し、日本海にでる。満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー)」、「天の河」の意味。
Dsc01841_t 松花江を渡ると清河鎮という街。満州柏崎村開拓団にとっては、この街にあるレストランで外食するのが、ご馳走だったという。
 朝鮮人の方が多いとのことで、食堂を見ても、朝鮮料理のお店が多い。

Dsc01846_t パトカーの先導により、満州柏崎村開拓団跡地に向かう。
 満州柏崎村開拓団、正式名称は第11次梹榔(ひょうろう)柏崎村開拓団は、旧満州国黒江省(現・黒龍省)通河県管轄にあった。

Dsc01842_t 大東亜戦争の真っ最中の昭和16年、柏崎市、柏崎商工会議所も共同し、満州開拓規制同盟会を結成。
 昭和17年4月4日、第11次梹榔柏崎村開拓団の先遣隊29名が満州に渡った。
 昭和18年7月16日、小熊啓太郎団長が急死。準市葬を行う。
 7月31日、分骨をし、再び、満州柏崎村の地に渡る。

Dsc01851_t そして、昭和20年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破り、対日宣戦布告して、満州全土に侵攻。
 昭和20年時点の満州には、日本人が300万人。うち死亡者、約50万人。
Dsc01850_t 新潟県の開拓団員は9361名、義勇隊員3290名。
 満州開拓団数は881団、戸数約10万6000戸、人数約30万人、うち死亡数は7万8500人(元厚生省調査)である。


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 満州国三江省通河県
 <第11次梹榔柏崎村開拓団>

・団 長:
  初代:小熊啓太郎氏
  (昭和18年7月6日 現地で病死・45歳)
  入団戸数予定60戸
 2代目:前田義三郎氏(9月 帰柏)
 3代目:佐々木桐樹医師
      坂爪団員団長代理内地帰還。
・渡満日:
 
昭和17年(1942年)4月4日、先遣隊29名が柏崎駅を出発。
・入植記念日:昭和17年4月15日
 小熊団長曰く、「風景は内地の赤倉地方に似たり」
・先遣隊家族:
 昭和17年5月15日、第二次先遣隊団員に、家族を含め
20余名が柏崎駅を出発。今回の慰霊の旅の巻口団長のご尊父
巻口栄一氏も入植して間も無く家族を迎える。
 以下家族、巻口7名、樋口2名、渡辺3名、江口3名の家族が
第二次先遣隊として渡満した。
・入植式:
 昭和17年6月8日、入植式は本隊を迎えて挙行。

<1>柏崎村の概略構成                             
面 積:南北18キロ、総面積34平方キロ。
     小古洞川が縦貫する。
位 置:松花江沿いの依蘭街の対岸に近い八浪河と
     西方に大古洞河の中間に入植。小古洞開拓団
     から柏崎村開拓団の岬部落まで15キロ。
距 離:清河鎮(清河鎮は松花江の沿岸)から梹榔地区
     まで28km弱。通河県所在地から清河鎮まで60km。
集 落:本部部落・16戸、76名、神明部落・11戸、51名
    八坂部落・7戸、34名、鏡部落・11戸、45名、この他
    岬部落を小古洞開拓団から払い下げ5部落となる。
    総戸数は45戸。人員数合計206名。
<2>関拓団退避時の状況
 昭和20年(1945年)8月 現在戸数45戸 
 人員合計178名。(内訳 男63名、女115名)
<3>大古洞下伊那在満国民学校で集団生活。
 昭和20年8月、4カ団 大古洞(長野県)、小古洞(長野県)
 漂河(佐賀県)、柏崎(新潟県)の開拓団が集結し、ソ連の
 暴挙から身の守備を固め、越冬のため共同行動をとる。
 柏崎村関拓団家族は4月30日までに死没者数40名。
 残る人員138名。
 3月15日、残った138名は慌しく分散。
  (広川、磯野2家族8名は別行動をとる)
<4>集団生活解散
 昭和21年(1946年)3月10日、食料配給が打ち切りとなり、
集団に見切りを告げられる。松花江の氷解を前に解散。
残留組と離別。ハルビンに向けて避難する組33家族98名
は命の保全もない死を覚悟した出発。
 ハルビン組は300kmに命をかけ強硬な出発。
 通河県所在地を経由、道中の散々たる逃避行語りがたし、
子どもを途中で捨て、親を現地人に預け、飢えで死ぬ者、
家族の分散、落伍者を残して辿りついた者は69名。
<5>残留組は開拓団現地へ戻り営農
 わずかな種籾その他を貰い、前柏崎村関拓現地の神明
(水田)部落跡で生き延び策をとって現地へ戻り帰農。
 先々当てのない不安のなか残留組10家族36名は共動
をとる。清水2名(男)のほかは中国人、朝鮮人の妻となる。
 巻口5名、曳地6名(病弱の夫を抱える)、植木3名、
 与口4名、高木4名、広川5名、磯野2名、広川2名、
 与口1名ほか。
<6>死没者
 ハルピンに辿るまでと収容所の死没数55名、
 大古洞死没数40名、合計死没者95名の他、
 把握されないほどの死亡者であった。
<7>生存帰還者
 応召団員(シベリヤで捕虜)、置き去り家族、孤児、
 一時帰国者、引揚げ者を含め、およそ約2割足らずの
 生き残りが帰国して全国に散らばった。


Dsc01853_t 柏崎村開拓団跡にて、日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えし、全員で読経をしての慰霊祭を執り行った。
 広大な土地を開拓しようとした努力、そしてソ連軍による悲劇。とにかく、安らかにお眠り頂くようお祈りをした。
 また日本から持ってきた、原酒造さん、石塚酒造さんの酒をじっくりと染み込ませるよう辺りに撒き、日本の味を懐かしんでもらった。

Dsc01861_t ここに満州柏崎村があったことを残すために、記念植樹を行なった。
 できれば桜、桜がダメなら松か何か日本らしさをと思っていたが、やはり事情が事情であり、環境の問題もあるので、仕方なくモミの木である。ただ、植樹を許してくれたことには感謝する次第。
 参加者全員で、少しずつ砂を盛り、柏崎から持ってきた水を最後にかけた。ここに柏崎村があったことを後世に伝えるためにも、枯れることなく、グングンと育ってほしい。

Dsc01869_t 続いて、柏崎村開拓団が一冬を越した太古洞開拓団跡地、及び太大古洞下伊那在満国民学校跡地に向かう。
 現地は柏崎村と同様、広大な土地である。
 ここでは、大古洞(長野県)、小古洞(長野県)、漂河(佐賀県)、柏崎(新潟県)の4開拓団が集団で越冬した。
Dsc01871_t 統率したのは、召集を免れた教諭・教諭・前川貞之助氏(明治36生)と助産婦・沢田アヨ子氏。二人は責任を持たれ、医薬品のないなか、義務感で献身に各家族に尽くされたという。
 日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えする。
 昭和20年8月8日以降、ソ連軍から逃げる際には履物もなく、裸足で逃げた苦痛があったため、せめて天国では履物を履いてほしいとの思いから、巻口団長が新品のサンダルをお供えされていた。
Dsc01872_t 全員で黙祷を捧げ、慰霊祭を執り行った。現在、学校跡地は新しい小学校が建てられ、多くの子供たちがおり、お経を読むことは差し控えてほしいとのことで黙祷である。
 太古洞開拓団で、このここで越冬した筒井氏からご挨拶があり、柏崎開拓団についても触れられていた。

Sk 「柏崎開拓団の人達は、校舎の屋根にある真中の煙突の左下あたりの教室が割り当てられておりました。当時12歳の私にとって、柏崎の方々は、美人が多く陽気で、避難生活の苦しさを、例えば暗いランプの下で即興的な歌や演劇で楽しませてくれる大切な人々でした」

Dsc01873_t 慰霊祭ののち、昼食をとるため、再度、松花江を渡り、依蘭県の中心地に戻る。
 飲食店の店頭には、赤い飾りと青い飾りがある。青い飾りは回教徒用の飲食店であり、豚肉を一切扱っていない。
Dsc01874_t 回教徒は、イスラム教を信仰する中国の少数民族で、中国の少数民族中で最も多い人口である。回族の「回」は回教(イスラム教)を示し、回教徒を穆斯林(ムスリン)と呼んでいる。回教徒は豚の肉を食べず、羊や牛の肉を主食としている。
 回教徒ではないので、豚肉を扱う「金鼎軒食府」にて昼食をとることに。

Dsc01887_t 中国四大料理といえば、北京料理、四川料理、上海料理、広東料理。東北地方の料理は入っていないが、餃子だけは美味しいと中国国内でも有名という。確かにモッチリとした皮と肉汁があふれでて美味しい。
 餃子は縁起の良い食べ物とされており、餃子の発音が、交子(子供が授かるという意味)と同じで「子宝に恵まれる」「子孫繁栄」、もしくはその形が昔のお金に似ているからと「お金に困らないように」とも言われる。
Dsc01883_t ちなみに、中国国内では、四大料理とは言わずに八大料理として、山東料理、四川料理、広東料理、福建料理、江蘇料理、浙江料理、湖南料理、安徽料理と分類しているそうである。
 牛の腸を輪切りにして煮込んである料理には、その味もさることながら、料理法に驚かされた。

Dsc01891_t 食後、方正県に移動。ここには、1963年、中国政府が建立した、中国国内で唯一の日本人公墓がある。
 1984年には、この公墓のとなりに、麻山事件の被害者たちの公墓も建立された。
 麻山事件は、黒龍江省麻山地区でソ連軍戦車部隊と蜂起した中国人によって前後をはさまれて身動きがとれなくなり、四百数十名が集団自決した事件である。

Dsc01893_t 中日友好園林の門をくぐると正面に、「和平友好」と書いてある記念碑があった。長野県日中友好協会、信濃教育会、長野県開拓自光会と書いてあり、1995年9月17日に建立されたもの。開拓団や義勇軍を日本で一番多く送り出したのが長野県であった。

Dsc01894_t その先には、少し大きめの「中日友好往来記念」と書いてある記念碑があった。
 裏にまわって、見てみると「山梨県日中平和友好会」とあり、1999年8月に建立されたものであった。

Dsc01906_t そのまま奥に進むと、麻山事件の公墓と日本人公墓が並んでいた。
 お墓の後ろには丸い石の蓋がかかった碑があり、ここに日本に逃げ帰る途中、寒さや飢えなどのため命を落とした婦人、子供たち5千余人の遺骨が納められている。
Dsc01900_t_1 東亜戦争の戦況が悪化してきた昭和19年2月。世界に誇った関東軍の精鋭主力部隊は南方戦線に移動し、しだいに関東軍の戦力は手薄になった。
 まして、ソ連とは不可侵条約を締結していたこともあり、武器も最低限のものであった。

2月 第14師団(チチハル→パラオ諸島)
   第29師団(遼陽→グァム島)
   第27師団(錦州→中国北部)
6月 第9師団(牡丹江→台湾)
   第28師団(ハルビン→宮古島)
   第68師団(公主嶺→レイテ島)
7月 第1師団(孫呉→レイテ島)
   第8師団(緩陽→ルソン島)
   第10師団(佳木斯→ルソン島)
   戦車第2師団(勃利→ルソン島)
   第24師団(林口→沖縄)
10月 第23師団(ハイラル→ルソン島)
12月 第12師団(東寧→台湾)

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 ちなみに第14師団は、パラオ諸島に移動した後、主力をパラオ本島、歩兵第2連隊をペリリュー島、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備し、米軍と徹底交戦。ペリリュー島では、原住民を本島に避難させ、補給も途絶え、食糧もない中、日本軍1万2000名に対し、米軍4万2000名での徹底抗戦。73日間にもわたる死闘し、昭和19年11月24日、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」をパラオ本部に打電。残ったものも古式に則った割腹自決し玉砕。アンガウル島も続いて玉砕した。
  ニミッツ提督は自身の回想録『太平洋海戦史』で、この戦闘の激しさについて、こう書いている。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」


 話を満州に戻せば、南方戦線への移動など、関東軍のこうした状況下へ、いきなり侵攻し、しかも民間人をも狙ったのである。軍人同士が戦うのが「戦争のルール」。民間人を守り切れなかった関東軍の責任もあるが、大きな視点で見れば、ソ連軍の残虐行為、国際法違反の何ものでもない。

Dsc01907_t 日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えし、全員で読経をしての慰霊祭を執り行った。
 これまでに参拝にきた国会議員は、加藤紘一衆議院議員だけとのこと。是非、小泉首相、いや次期首相にはこの地を参拝してもらいたいところである。
Dsc01898_t 続いて、植樹を行った。柏崎だけではなく、すでに日本から多くの団体や個人が訪れているようで、お墓のまわりは植樹された木でいっぱいであった。

Dsc01910_t 1995年、日本に帰ってきた中国残留日本人孤児の方や一部の日中友好団体などにより建立された、中国内では唯一の「中国養父母公墓」もある。
 こちらも御菓子や酒、花などをお供えし、お参りをさせてもらった。
 この「中国養父母公墓」にも是非、首相の参拝という話をしていたら、参加者のある方から日本が靖國参拝をやめないと難しいのではないか、というご意見を頂いた。
 個人的には、靖國神社も、この中国にある日本人公墓も、そして養父母に御礼を述べる意味で中国養父母公墓も参拝すれば良いと思う。もっと大らかな視点で、慰霊すべきであり、この行為にイデオロギーや政治を持ち込むことが自体がおかしいのではないか。

Dsc01911_t 中日友好園林のなかには、立正佼成会が2002年8月15日に建立した、「日中友好 世界平和」の碑もある。
 他の碑が「中日友好」と書かれているなか、唯一「日中友好」となっており、かつ「世界平和」まで書かれている。これぐらいの大らかさがほしいものだ。

Dsc01918_t 紀念陳列館もあり、方正県で稲作指導に当たった岩手県沢内村の篤農家・藤原長作氏に関することが紹介されていた。
 藤原氏による寒冷地における稲作技術指導により、黒竜江省の稲作農家の収量は飛躍的に向上し、地元農民はもとより、黒竜江省の稲作の発展に大きな貢献を果たした。
 藤原長作氏は1998年8月17日に亡くなったが、その遺志に従い、遺骨の半分がこの「中日友好園林」に安置されている。

Dsc01867_t 中日友好園林を後にし、いまだに開拓団が建てた家が一部残るという、伊官通という地区に寄ってもらった。
 この地区に限らず、多くの地区で鶏が放し飼いになっており、メス数匹に対して、雄雄しいオスが闊歩している。オスらしい振る舞いで、近くに寄って写真を撮ろうとすると、背伸びをし、今にも突っついてくるようなポーズで威嚇をしてくる。なかなか面白い。
Dsc01927_t 地区のなかを歩きまわってみたものの、完全に60年前の建物と分かるものはなく、一部残っているものがあった程度。
 歩いている途中で、遠くからはち切れんばかりの笑顔で一所懸命に「おいで、おいで」をする中年女性がいた。一緒にいたYさん、Sさんが近寄ってみると、いきなりの日本語。そして、Yさんが「日本語お上手ですね」というと、「だって、私、心も日本人だもん」と話されたとのこと。時間がなく、じっくりお話をすることができなかったが、再度、訪れたときにはじっくりとお話をお聞きしたいものである。

Dsc02017_t ハルピンへ移動。21時過ぎにやっと宿泊先のハルピングロリア花園酒店に到着。
 本日までの2日間での車の移動は、817km。かなりの強行スケジュール。しかし、巻口団長をはじめ、ご年配の皆さんは元気にしている。若いときの鍛え方が違うのではないかと思う。

Dsc02014_t ホテルは松花江に面し、1957年の松花江が氾濫した際の歴史を残す「防洪記念塔」がある。松花江よりの公園の名前は「スターリン公園」。
 ホテルではブロードバンドが整備されており、インターネットが使えるが、案の定ネット規制がかかっており、ウィキペディアをはじめ、チャンネル桜大紀元時報などアクセス制限され見えなくなっている

Dsc01933_t ホテルの装飾品で、金魚を利用したものがあった。2階から1階にかけて、天井から透明なボウルが連なって吊ってあり、それぞれに金魚が2~3匹。水が2階から、流しそうめんのように注がれ、循環しているようになっている。餌はさておき、水蘚などの掃除などはどうしているのか、人事ながら心配になる。

Dsc01944_t 22時から夕食。遅くなっての食事なので、あまり食欲もないが、ロシア風の田舎料理というトウモロコシと豆、豚肉などを一緒に煮た料理が口に合い、多めに食べてしまった。素朴ながらも力強い味わいで、何だか、力がでる感じがする。
Dsc01948_t_1 寒いところの民族はこうやってエネルギーを補給するんだな、と勝手に感心した。
 他の方に一番人気があったのは、塩味の炒飯であった。

 24時近くまで一度仮眠し、その後、夜街の探索にでる。

2006年5月14日 (日)

いざ、旧満州の地へ

Dsc01769_t 結局、徹夜し、朝方にやっと荷造りができる状況になった。
 9時30分、市役所に向かい、参加者が全員集合して、ご挨拶。荷物を載せ。バスで一路、新潟空港まで向かう。今回の旅は慰霊であり、事務局はかなりの大荷物となっている。
Dsc01770_t 11時、新潟空港3Fのレストラン「シルバースカイ」にて、「松花堂ご膳 1800円」 を食べながらの結団式。
 今回の慰霊の旅には、市長をはじめとする市当局の他に、柏崎商工会議所の専務理事も参加する。
1_6 なぜ、柏崎商工会議所からも参加するのかといえば、満州柏崎村開拓事業は、国策に基づいた、柏崎市及び柏崎商工会議所共同の大事業であったからである。
2_2 昭和17年4月4日、満州柏崎村開拓農民第一次先遣隊29名の壮行式が、現在も西本町に残っている旧公会堂で行われた。
*この写真の向かって左側に、「五族協和」を示す五色の国旗が掲揚されている。
mansyuu 以後、「王道楽土」を目指し、5月15日に第二次団員家族35名、本隊12名が6月8日に出発し、翌年の現地には総勢207名となっていた。

「五族協和」:
 
満州、日本、朝鮮、蒙古、漢(支那)の五族が協力する平和な国。
 満州国旗の黄色は満洲人、赤が日本人、青が朝鮮人、白が漢人、黒が蒙古人をあらわす。
「王道楽土」:
 
覇道ではない、アジア的理想政治国家(楽土)を建設する

 また、今回の慰霊の旅には、我々、柏崎満州開拓団の他に、長野県の太古洞開拓団の方も一緒に向かう。

Dsc01771_t 新潟空港のロビーでは、観光客のため『佐渡おけさ』の講習会をやっていた。空港の待ち時間をもてあます人や出迎えの方の多くが真剣に見入っていた。
 県外の人に、柏崎を説明する際、有名な『佐渡おけさ』は有効であり、3番を歌って説明する。

 「ハァー 佐渡と柏崎は 竿さしゃ 届くヨ
 アリァアリァアリァサ 橋をかけたや 船橋を」

Dsc01773_t 12時過ぎ、中国南方航空CZ616で、一路、ハルピン空港に向かう。
 羽根のすぐ横の席になってしまったが、今回の飛行機は羽根にジェットエンジン4機がついたジャンボ機ではなく、後方に2機のジェットエンジンがある機(マクダネル・ダグラスMD-90)で、爆音に悩まされなく、助かった。
F1000006_2 水平飛行になった途端、昼食の機内食がでる。さっき食べたばかりであるが、残すことが嫌いなので、苦しいながらも何とか食べる。
 小袋に漬物が入っており、漬物をぼりぼり齧っては、ご飯を口に放り込む。
Dsc02063 機内食を食べ終え、ふと座席前の緊急時避難シートを見ると、きわどい写真が目についた。
 避難手順を説明する写真で、ミニスカートをはいた女性の股が、微妙な見え具合なのである。早くもハニー・トラップにかかった感があった。
*写真をクリックすると大きくなります。

Dsc01775_t 1時間の時差があるので、時計を1時間戻す。15時30分ハルビン空港に到着。
 ハルビン(哈爾浜)市は、黒龍江省の省都で、8市区、4県級市、7県を抱える941万人の都市で、新潟市との友好都市を締結している。市の名前は「白鳥」を意味する満州語「ハルウェン」に由来する。また、中国では、日本と違い上から「省-市-県」の関係である。
Dsc01774_t 入国審査を終え、トイレに入ってみたところ、面白い表記があった。日本でも、「急ぐともここ静かに手をそえて外へもらすな松茸の露」といったシャレ心ある注意事項がたまに書いてあるが、中国にも同様であった。
 空港をでるとライラックの花が綺麗に咲いていた。
Dsc01780_t 今回の受け入れを担当してくれた黒龍江省人民政府外事弁公室の徐さんと張さん。随時、説明もしてもらう。
 早速、中国国内では一番古いハルビンビールを頂戴した。現在の日本で主流となっているプルタブ方式ではなく、懐かしのカチョンと引っ張る栓。味は軽い感じのビールである。
Dsc01781_t ハルビン空港から市内までの高速道路はハルビン工業大学が作り、収入は大学となるそうである。
 今日はハルビン市内を通過するだけであったが、これでもかと言わんばかりに人があふれ、活気があった。
Dsc01782_t ハルビン市内を抜け、ひたすら高速道路を走る。途中、ガソリンの補給とともに、トイレタイムとなったが、トイレは「厠所」と表記してあった。漢字のありがたみを実感する。
 空港到着から約5時間半、21時に依蘭(いらん)県に入る。

Dsc01817_t 宿泊先の、五国城賓館ホテルに到着。ホテルの名前にもなっている「五国城」は、ここから東にむけて5つの城があるその最初という意味とのこと。
 ホテルの部屋に荷物だけ置いて、早速、依蘭県副県長である趙氏との歓迎の夕食会となった。
Dsc01785_t 趙氏から歓迎のご挨拶もあり、和気藹々と懇談しながらの夕食。途中、団長から「共産党には入らないよ」との発言もあり、徐さんがそれに応酬したが、議論は議論として話が進んだ。
 ただ単に「友好」と言って、相手に都合の良いことばかり言うのは本当の「友好」ではないであろう。お互いに言いたいこと言ってからが本当の「友好」である。毛沢東は、田中角栄元首相にこんな事を言っている。

 「もう喧嘩は済みましたか。
  喧嘩しなくちゃ駄目ですよ。
  喧嘩して、はじめて仲良くなるのですよ」

Dsc01791_t 依蘭県は、古くから満州族が住む地で、清室祖宗発祥の地。北宋の最後の皇帝、徽宗が皇太子とともに捉えられ、その身を置かれたのが五国城(靖康の変 1127年)。ホテルの近くには、幽閉された井戸があるというが団体行動のため、見学することができないとのこと。ちなみに、中国の格言である「井戸に座って空を見る」とは、ここからきている。
Dsc01803_t 料理は、田舎料理とのことで、タンポポや山菜、薬草類を使ったものが多く、黒龍江省のなかでもお金に余裕のある層は、こういった料理をわざわざ食べにくるという。
 個人的に一番気に入ったのは、スライスした乾豆腐に挽肉と豆の味噌をのっけて食べる料理であった。また、飲み物も「山ほおづき」のジュースが名産とのことで、苦味と甘みの絶妙なバランスが良く、商品名「葒菇娘」がこれまた良い感じである。
Dsc01816_t 23時近く、夕食会が終え、部屋に戻る。
 ホテルは国営なものの、ブロードバンドなどの設備もなく、インターネットも使えない。外線でのダイヤルアップ接続も考えたが、モデムの相性が悪く、AT追加信号も試みたができず、結局あきらめてしまった。
 洗面所は、トイレの便器とシャワー室がセットになっており、もちろんの事ながら湯船はない。シャワーを浴びて寝ようと思ったものの、お湯がでず、水もポチャリ、ポチャリで、まるで精神的な拷問を受けているような感じであった。

Dsc01807_t いまだ中国国内で大人気という「おしん」を見ながら、24時近くに就寝。

2006年5月13日 (土)

田形竹尾氏、卒寿の祝い。靖國神社にて

 4時、愛車まで戻り、シートを倒して仮眠。9時、起床。近くの公衆便所で顔を洗い、歯を磨いて、靖國神社に向かう。

Dsc01757 今日は、田形竹尾先生の卒寿の祝い。靖國神社の昇殿参拝をしてから、講演会、懇親会となる。
 11時集合、12時に昇殿参拝であったが、講演会をはじめ、懇親会の会場準備の手伝いが長引き、残念ながら田形先生と一緒に昇殿参拝できず。
Dsc01760 12時30分から講演会。会場には200名を超える多くの皆さんが集まり、加瀬英明先生をはじめ、多くの著名人の方がお祝いの言葉をお話になった。田形先生の交友の広さはもとより、これほど全国から参加される方が多いことに驚いた。

Dsc01763 高橋史朗先生、チャンネル桜の水島社長の講演の後、昼食を兼ねた懇親会となった。事務局側のお手伝いをしていたため、会場内にいることはできなかったが、是非、お祝いのスピーチということだったので、マイクを持ち、

 「生ける武神として、
  あと10年、いや20年、30年と
    その貴重な生のお話を
      後世にお伝え頂ければと思います」

と結んだ。
 田形先生には、本当に長生きをしてもらいたい。

Dsc01764 15時過ぎ、お祝いの会も解散となったので、静岡県浜松市の新村和弘議員と一緒にラーメンでも食べようかという事になり、靖國神社周辺をウロウロすると、「元祖醤麺 じょんのび」(電話:03-5213-0103)というお店を見つけた。

 靖國神社周辺で、「じょんのび」とは嬉しいではないか、とほくそ笑みながらお店に入ると、確かに高柳町の「じょんのび村」ポスターが大きく貼ってある。
Dsc01766 しかも、向かい合っている2つの木製のカウンターには、それぞれ番号ではなく、地名がついており、これがまた柏崎刈羽周辺の地域の名前。
 「柏崎」もあったので、もちろんそこへ座る。
 ラーメンは、お店に入る前の券売機で買った「味玉らーめん 750円」 。
Dsc01768 まずスープを飲んでみると、動物系と魚介系のダブルのダシ、そしてちょっと多めの脂。今風の受けるスープといった感じである。スープより印象に残るのが麺。モチモチの食感が心地よい。
 このお店、2005年7月オープンとのこと。是非、一度、経営者にお話を聞きたいものである。

 ラーメンで満腹になり、「じょんのび」で嬉しい気持ちになってから、関越自動車道を飛ばし、自宅に向かう。

 21時過ぎ、自宅に戻る。大粒納豆とご飯、ほうれん草の味噌汁で夕食をとり、ひたすら事務処理を行う。明日から出かけられるよう、できる限り期限があるものを優先し、処理。

2006年5月12日 (金)

戦争責任者とA級戦犯

F1000003_5 2時就寝。7時起床、昨日、妹からもらった柏崎で釣れた鯵を塩焼きにし、大粒納豆、油揚げと若布の味噌汁で朝食。
 朝食に焼き魚を食べると、何だか力が沸いてくるような気がする。今度は、鰯のぬか漬けなどを焼いて、ご飯をワシワシと食べてみたい。

F1000004_2 来週から旧満州柏崎村に行くため、午前中はできる限り処理しようと雑務。14時過ぎまで、チーズパンをかじりながら、作業を行う。
 読まなければならない本も多数あり、落ち着いて本を読む時間がほしい。

 15時から福祉に関する地区懇談会があり、できれば傍聴してみたいと思っていたが、突然の来客が2件あり、途中からも参加できず。

Dsc01752 17時、愛車で小千谷ICから高速道路にのり、東京に向かう。21時、杉並区高円寺に到着。愛車を駐車場にとめて、焼き鳥屋「鶏舎」(03-3223-5222)での懇親会に途中から参加する。
 政治だけに関わらず、様々な分野、そして各層の年代が集まっての懇親会であり、貴重な時間である。
Tou  東條英機元首相のお孫さんである東條由布子さんも途中から参加され、さらにアツイ時間となった。東條由布子さんは、常々、

 「祖父は敗戦の責任があるのだから、
  その責任を取って死刑になるのは当然」

と言う。ただし、東京裁判でいうA級戦犯(平和に対する罪)などではないという。戦争責任者ではあるが、A級戦犯ではない、まさに正論である。

Toujo  東條さんから面白い写真を頂戴した。
 昭和17年に東條家に出入りする方々の子供を招待して食事会を行ったときの写真である。東條英機元首相が子供好きであり、東條家では、毎年こういった会を催していたという。
 また戦況が悪化してきた昭和18年、マレーシアから貴重なゴムが入手できた際にも、全国の子供が遊べるようゴムまりを生産する分を確保してから、海軍、陸軍で配分するよう指示したという。

 懇親会は盛り上がり、アクの強い?メンバーが残って、そのまま2次会に突入。

2006年5月11日 (木)

アメリカ人による対日戦批判(2)

 1時就寝。7時起床。小粒納豆、生卵をご飯にかけ、一気にかっこんで、打ち合わせのため長岡にでかける。途中、某店でヒレカツのランチを食べつつ、13時まで。
 柏崎に戻ってからも打ち合わせ及び議事録作成。途中の合間を見ては、ブログやメールの返事を書く。

F1000001_12 18時30分から柏崎商工会議所で、柏崎準倫理法人会の役員会。ほっかほっか亭の「おろしさば竜田弁当 480円」「白菜キムチ 100円」を食べながらの打ち合わせ。大根おろしの袋を開ける際、勢いあまって、大根おろしをブチまけてしまった。

F1000002_5 6月20日(火)に実施する倫理経営講演会の詳細をつめていく。今回の講演者として、埼玉県の浦和西倫理法人会会長で、有限会社クニタケ 代表取締役の國武建明氏をお迎えすることになった。國武氏は、現在さいたま市近隣地域にて、チーズケーキ専門店4店舗を経営するやり手経営者である。レストランの開店から閉店、そしてチーズケーキ店の繁盛までの話を含めて、お話してもらう予定。

 21時過ぎ、自宅に戻ると電話の留守番録音メモがあり、どうしても今日中に会いたいとのメッセージで電話番号も吹き込んであった。折り返し指定の番号にかけてみると、初老の男性の方でそんな電話していない、とのことだった。勘違いなのか、悪戯なのか、いずれにしても人騒がせである。


1994年4月『kakusin』

ワシントンの遺訓に背いた太平洋戦争
             -アメリカ人による対日戦批判-
 特定の国に常習的に好悪の感情を抱いてはならぬとの戒めに背いて、ルーズベルトは英国に特別の好意を持ち、ドイツを憎み、日本を巻き込んだ。    名越二荒之助

ワシントンの遺訓に背いた第二次大戦

 しかし結局、アメリカは、極東における日本のモンロー主義を認めることなく、対日戦争の道を選択しました。

名越:
2_1  その悲劇の選択をしたのがフランクリン・ルーズベルト大統領だとして、同大統領を批判する人は多いですね。陸軍参謀本部の政戦略班に勤務したウェデマイア大将も、その一人です。彼は『回想録』(妹尾佐大男訳、読売新聞社) の中で、初代大統領ワシントンの「訣別の辞」を引用して、ルーズベルトを批判している。その「訣別の辞」とは次のようなものです。

1_5 「国家政策を実施するに当って、最も大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い反感を抱き、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことがあってはならないということである。そして、その代りに、すべての国に対して公正かつ友好的な感情を持つことが、何より重要である。他国に対して常習的に好悪の感情を抱く国は、多少なりとも既にその相手国の奴隷となっているのである。これは、その国が他国に対して抱く好悪の感情のとりことなることであって、この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益ともに見失わせるに充分である。」

 ワシントンは国民から大統領に三選することを要請されたのに、敢えて断り、「訣別の辞」を残して去ったのです。「訣別の辞」はもっと長文のもので、アメリカ人の間でよく知られています。ウェデマイアはこの言葉を引用して、当時、「アメリカ国民がワシントンの遺訓を守ろうとしていたことは明らかだった。それはアメリカ国民が、ルーズベルトの参戦しないという選挙公約を支持していたこと、そして(チャーチル英国首相の強引な要求に踊らされて)ヨーロッパ戦線にアメリカ軍を派遣することによって起る悲惨な結果を警告していたチャールズ・リンドバーク大佐などの意見を支持していたこと、この二点から考えても明瞭であった」と指摘しています。

 にもかかわらずルーズベルトはワシントンの遺訓を無視して、戦争に突き進んでしまった・・・・。

名越:
 ワシントンは特定の国に好悪の感情を持つことを戒めているのに、ルーズベルトはイギリスに対して特別の好意を持ち、ドイツを憎み、日本を巻き込んでしまった。ソ連を友人と錯覚して、厖大な援助を与えた。そして日独を無条件降伏に追い込み、その後にヒトラーよりも始末に困るソ連と中共の大侵略を許してしまった。実に愚かな戦争をしてしまった、とウェデマイアは指摘するのです。

愛国者たちのルーズベルト批判

 戦争指導の中枢にいた将軍の言だけに重みがありますね。

名越:
 ウェデマイアはチャーチルも痛烈に批判しています。「チャーチルは由緒ある家柄に生れ、イギリスの伝統を受けついだにも拘らず、彼の祖先たちの英知と政治家としての能力を欠いていたということは実に奇怪な事である。チャーチルは三百年以上にわたってイギリスの一貫した政策目標であったヨーロッパ大陸の勢力均衡を再建しようとはせずに、ドイツの破壊を企図し、そのため結局ソ連にヨーロッパ支配の機会を与えてしまった。チャーチルは彼の祖先の金言を無視して、自分の感情で自分の理性を支配するような愚行を犯してしまった」と。
 また、「まえがき」で、「我々はこの大戦を、世界支配の跳躍台に利用しょうとしたスターリンの謀略と、正しい軍事的解決策には決して従おうとしなかったブルドッグのようなチャーチルの頑固さとも、戦わねばならなかった」と書いています。
 ウェデマイアはチャーチルを叱っているのです。つまり、チャーチルはその著『第二次大戦』の序文の中でイギリスを二流国に転落させた責任にも触れず、第二次大戦を惨めな結果に終らせたルーズベルトの責任も追及せずに、「我々はなお平和、安全保障を得る事ができず、更に我々が克服してきた危険な状態より、更に一層険悪な状態に現在おかれているという事実によって、人類はその悲劇の極に達している」と他人事のように述べているだけだ、と非常に厳しく批判しているわけです。

 なるほど米英は戦争には勝ったが、共産主義の本質とスターリンの謀略が見通せなかった。目先のことしか分らない頑固者のチャーチルと、幼児性の抜けきらないルーズベルトとを相手にして、ウェデマイアなどは苦労したわけですね。

名越:
 共和党の元大統領であったフーバーやタフト上院議員などの愛国者も、

「1.アメリカがヨーロッパ戦争に介入しなければ、
   アメリカの手で恒久的な世界平和がもたらされるであろう
   として、ルーズベルトの政策に反対

 2.アメリカがソ連を援助すれば、
   共産主義を世界中にまきちらすことになる。
   独ソ両国を戦わせて両国が弱ったところで
   仲裁に入るべきだ。

にもかかわらずルーズベルトはソ連を本格的に援助している」。

と批判しました。それはアジアについても言えます。アメリカが蒋介石への援助を中止し、日・蒋間の仲裁をせめて半年早くやっておれば、アジアは安定し、日米戦争は起らず、中共政権は出現しませんでした。

 しかしルーズベルトはドイツと日本が憎くてならず、イギリスを助けるために悪魔(スターリン)とも手を結んだわけですね。

名越:
 昭和15年にアメリカ大統領選挙がありました。その時ルーズベルトは僅差ながら当選して三選しました。(ルーズベルトは昭和19年にも立候補して当選し、実は四選までしている)それまでのアメリカ史にないことが起ったのです。せめてあの時、共和党のウィルキーが勝っていたら、その後の歴史は違った展開になっていたでしょうね。

2006年5月10日 (水)

アメリカ人による対日戦批判(1)

 2時就寝。7時起床、先日現場立会いした会社との調整のため、朝食をとる暇もなく、長岡市へ。12時過ぎ、コンビニで納豆巻き3本買い、ブランチ。13時自宅に戻る。

F1000008_t 16時過ぎ、東京からE氏がお越しになったので、某焼肉店で夕食をとりながら、焼肉コンロよりも熱い内容の懇談。
 本当に、あまりにも熱い語りをしてしまったため、10分ほど遅刻してしまったが、19時から「かしわざき風の陣2006」の実行委員会に出席。
 今年は出張や町内の行事と重なり、例年通りの手伝いはできないので、ホームページなど時間に関係のない仕事を受けもった。
 海上自衛隊の護衛艦が2隻、陸上自衛隊の自衛隊カレー、ハマーの試乗体験など、自衛隊関係のイベントも盛り込んであるので、是非、多くの方に訪れてもらいたい。
F1000009_t 会議終了後、実行委員会のメンバーになっている新潟産業大学新潟工科大学の学生4人と台湾料理「昇龍軒」にて飲み飲み。さすがの若さで食べる量が違った。

 24時近く、自宅に戻ると名越先生から手紙が届いていた。新潟の歴史秘話掘り起こし番組の企画の件であった。長岡の斉藤大使をはじめ、佐渡の本間中将など感動的な秘話が新潟県内には数多くある。
 また、ビルマのバー・モウが亡命したのは六日町・塩沢町、蒋介石が軍事の勉強をしたのは上越(高田)。アジアと新潟という観点でも企画をつめてみたい。

 名越先生がお書きになった、アメリカの対日戦争(太平洋戦争)が正しかったのか、否かの資料があったので、2回に分けてご紹介したいと思う。


1994年4月『kakusin』

ワシントンの遺訓に背いた太平洋戦争
             -アメリカ人による対日戦批判-
 特定の国に常習的に好悪の感情を抱いてはならぬとの戒めに背いて、ルーズベルトは英国に特別の好意を持ち、ドイツを憎み、日本を巻き込んだ。     名越二荒之助

「豆殻で豆を煮る」戦後の日本人

 未だに多くの日本人は、大東亜戦争が侵略戦争だったとの東京裁判流の一方的史観に執着していますが、それでも近年はその見直しが様々に行われています。他方、アメリカの太平洋戦争論といえば、日本を侵略国家として一方的に断罪する史観一色のように思われがちですが、本当にそうなのかどうか。もっと別の見方もあると聞いています。歴史は多面的に見なければと思うので、きょうはアメリカ人による太平洋戦争批判をお伺いしたいと思います。

名越:
 戦後ずっと私の心を離れない詩があります。それは中国の三国時代、魏の国の曹植(192-232)の詩です。これは「七歩の詩」として有名な話です。魏の王・曹操が死んで、長男の文帝が位に即きますが、取巻き連中にそそのかされて、三男の曹植との仲がうまくゆかなくなりました。或る時、兄の文帝が弟の曹植を呼んで、七歩歩く間に詩を作れ、それができないと殺すと脅します。詩才に恵まれた曹植は、直ちに詩作しました。
 「豆を煮て以て羹を作(な)し、まめがらを漉して以て汁となす。まめがらは釜の下に在りて燃え、豆は釜の中に在りて泣く。本是同根より生ぜしに、相煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる」
 もともと同じ根から生えた豆の木であるのに、釜の中に豆を入れ、下から豆がらで煮て、その豆を味噌にして食べられてしまう。兄弟喧嘩をして喜ぶのは誰かを指摘し、兄弟相争うことの愚かさを訴えたのです。この「七歩の詩」によって文帝は自分の愚かさを恥じ、弟を許しますが、曹植は不遇のうちに早死してしまいました。

 その詩が戦後ずっと心を離れないとおっしゃるからには、なにか御自身の体験と関係がありそうですね。

名越:
 そうです。敗戦後ソ連に抑留された日本人は(私もその一人ですが・・)、ソ連の政治部員にそそのかされて日本人同士で「階級闘争」を始めました。日本人が日本人を吊し上げたのです。反ソ分子、作業サボ、憲兵、警察、特務機関の前職者等を密告し、摘発して、集団で威嚇したわけです。

 沢山出されている「ソ連抑留記」によれば、「反動は白樺の肥やしにしろ」と脅して、「ソ同盟強化の生産競争」をやったらしいですね。

名越:
 私は「極反動」として吊し上げられながら、「まるで曹植の〝七歩の詩″ではないか。豆殻で豆を煮て、その豆を食べているのはソ連ではないか」と、何度も思いました。

 それは戦後の日本内地の状況にもあてはまるところがありますね。

名越:
 そうそう、そこが問題なのです。日本に勝った連合国は、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、自分のことは棚に上げて日本を犯罪国家として裁きました。国際法に違反する東京裁判の判決を受け入れたのは占領下の日本人としてはやむを得なかったかも知れませんが、独立回復後も東京裁判史観に拘束されつづけて今日に至っているのはどういうわけでしょうか。
 戦争は日本と米英との間で行われたのだから、戦争の責任は、日本側にあったか、米・英側にあったかで論議すべきなのに、頭から責任は日本側にあるということを前提にしている。細川首相の例の、「私自身は、侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」という発言もそうです。その上で責任追及の鉾先を日本国内のいずれかの個人あるいは集団に向けているわけですね。「戦争の責任は天皇にある」とか、「いや当時の指導者、軍人にある」とかいって、同胞同士の喧嘩を未だに続けている。これでは曹植の「七歩の詩」と同じではありませんか。

「忠臣蔵」を想わせる
     『アメリカ人の鏡・日本』

 コップの中の嵐というか、蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争いというか、嘆かわしいことですね。

名越:
 私は最近、驚くべき本を古本屋で見つけました。原題は 『Mirror For Americans:Japan』(アメリカ人の鏡・日本)ですが、日本では『アメリカの反省』と題して、昭和28年6月に文藝春秋社から出版されています。
著者はヘレン・ミアズ女史(Miss Helen Mears)、翻訳は原百代氏。女史は戦後日本に関する著書でホートン・ミフリン社の文学賞を受賞した人で、終戦直後、かつての大東亜共栄圏の国々を取材して、昭和23年に本書を脱稿している。内容は、アメリカが日本に戦争を仕掛けたとしてアメリカを痛烈に批判し、アメリカ人に反省を促すというものです。

 アメリカから見れば太平洋戦争、日本から見れば大東亜戦争。この日米戦争はアメリカから仕掛けたという内容の本を、終戦直後の時点でアメリカ人が書いているのですか。

名越:
 日本が真珠湾を奇襲したところだけ切り取ってみれば、日本が仕掛けたことになります。しかし長期的視野から見れば、アメリカが巧妙に日本を追い込んでいったんです。私はこの本を読みながら、「忠臣蔵」を想い起しました。もし「忠臣蔵」の物語が、赤穂浪士の吉良邸討入りの場面から突然始まったら、四十七士は武士にあるまじき乱暴狼籍を働いた犯罪者集団として観客(あるいは読者) の目に映る。それはそうでしょう。就寝中の老人に対して予告もせずに土足で踏み込んで首をはぬるんですから・・・。事実、犯罪者として全員切腹させられましたが、その原因や背景や経緯を演じてゆけば、観客(読者)は討入の場面で溜飲を下げ、拍手するんです。

 「忠臣蔵」を見るように大東亜戦争を見よということですね。

名越:
 ルーズベルト大統領はさしずめ吉長上野介ということになる。ミアズ女史は「忠臣蔵」にたとえているわけではありませんが、日米戦争が勃発するように日本を追い込んでいったアメリカの責任を追及し、戦後は占領政策によって日本を閉鎖してしまったアメリカの反省を述べているんです。

 なるほど、赤穂浪士をあそこまで追い込んだ吉良上野介や幕府の責任も問わなければなりませんね。

名越:
 「忠臣蔵」の場合は、あらためて幕府や吉良の批判を行うまでもなく、芝居や映画を通じて国民的規模で批判は終っています。これから日本に近松門左衛門のような大作家が現れ、「昭和忠臣蔵」あるいは「アジア忠臣蔵」を書いて翻訳し、世界各国で上演すれば、真珠湾奇襲の場面で拍手するのではありますまいか。

 ところで、その本の原題にある「アメリカ人の鏡・日本」というのはどういう意味ですか。

名越:
 本の巻末にジョージ・ケレイ氏の紹介文が載っています。その一節を引きますと、

「本書は我々の征服した敵に対する我々の尊大な態度を、根砥から動揺させるものである。著者ミアズ女史はこの作品の中で言っている。『一八五三年に我がペルリ提督は、日本の孤立政策を破壊し、その門戸を開放せしめた。以来未だ一世紀にも満たぬのに、我がマッカーサー将軍は、日本本土に入り込み、その門戸を再び閉鎖した。・・・・いってみれば、日本は善悪ともに我がアメリカの姿を写し出す鏡ではないのか。そして我々アメリカ国民は、己の姿を正さずして、鏡面の影像を正そうと試みているのではないか』と。」

 痛烈なアメリカ批判ですね。

名越:
 訳者の原氏によれば、「この本はアメリカ人の鏡であると共に、日本悪玉論に染め上げられた敗戦後の日本人にとっても鏡ではないか、日本人にこそ早く読んでもらいたい」と思って、訳書の出版をCIE(占領軍の民間情報教育局)に懇願したけれども、どうしても許可が貰えず、独立後の昭和28年にやっと刊行されたんです。

本来のモンロー宣言とアダムスの戒め

 やはり占領下は言論出版の自由はなかったんですね。どんな内容なのか、いよいよ聞きたくなります。

名越:
 全部で415頁。それが二段組になっており、厖大な量です。全貌を伝えることは至難ですが、巻頭に第六代大統領ジョン・クインシー・アダムス (1767-1848年)の言葉が掲げられています。ジョン・クインシー・アダムスは第二代大統領ジョン・アダムスの長男で、第五代モンロー大統領の時、国務長官としてモンロー宣言を起草した人物です。アメリカの外交政策を特徴づけた有名なこのモンロー・ドクトリンは、次第に拡張解釈されて、アメリカ大陸への干渉は許さないがヨーロッパやアジアにはロを出すようになりました。しかし本来の精神は次のようなものだったのです。

A 「西欧世界の争いは、既に痼疾(こしつ)化した旧勢力と台頭途上にある新権力との闘争であった。自由と独立の旗が風に翻るところ、また将来その旗が掲げられるところには、いかなる場所であれ、そこにアメリカの心があり、アメリカの祈りと祝福があるのだ」

「自由と独立があるところに、アメリカの祈りと祝福がある」というのは、「万邦ヲシテ各 其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク堵二安ンゼシムル」(昭和15年9月27日、日独伊三国条約締結の詔書)という「八紘一宇」の精神に通ずるものがあります。あの当時、「八紘一宇」を日本は外交文書で「UniverSal Brotherfood 世界皆兄弟」と翻訳していました。蒋介石も、昭和20年8月15日に重慶から全回にラジオ放送した有名な演説(日本では「怨に報ゆるに徳を以てせよ」の言葉で知られる。実際にはこの語はなく、「旧悪を思わず人に善をなす」と言った)の中で、「今後人類は国土と人種の如何を論ぜず、いよいよ緊密に連合し、一家の如き親密な関係を作り待る」と述べています。

 世界を家族のような関係にするとか、世界皆兄弟だとか、各国の自由と独立を尊重するとか、これらは人類普遍の理想です。

名越:
 ここで思い出すのは、昭和16年8月14日にルーズベルトとチャーチルが会談して発表した共同宣言です。一般に「大西洋憲章」と呼ばれ、後に連合諸国が批准しました。第二次世界大戦および戦後世界の指導原則を謳ったものですが、その第三条に、「すべての国民は各自に通する政体を選択する権利を尊重し、強奪された主権と自治が回復されることを希望する」とあります。これは昭和18年11月6日に東京で採択された「大東亜共同宣言」と共通しています。較べてみれば、日本を中心にアジアの盟邦諸国が署名した共同宣言の方がもっと行き届いた内容になっています。「大東亜各国は相互に自主独立を尊重し」とか、「伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し」とか、「人種的差別を撤廃し普
く文化を交流し」とか、大西洋憲章よりも具体性があります。

 だとすると日・米・英・蒋政権が戦った第二次世界大戦は、共通の理想を掲げながら敵味方に分れて血を流し合ったと言えなくもないですね。

名越:
 しかし決定的な違いが一つあります。日本にとって大東亜戦争は欧米諸国によって「強奪されたアジア諸民族の主権と自治を回復する」ことを目的とした戦争だったのに対して、米・英にとっては自分が強奪した植民地の利権を守るための戦争だったわけです。歴史がそのことを証明しています。日本は昭和18年にフィリピンとビルマに独立を与え、後れ馳せながらインドネシアに独立を約束しました。それに対して英・蘭は戦後、インド、ビルマ、インドネシアなどで植民地を再び奪い返す戦争を始めました。しかし奪還は失敗に終り、最後は独立を認めざるを得ませんでした。

 英・蘭の植民地奪還が実現しなかったのはなぜか、その点が大切なところですね。

名越:
 アダムスの文章に帰りますと、彼は、アメリカが怪物を退治するなどと称して海外へ武力進出することを次のように戒めています。
「アメリカは怪物を退治せんがために敢て国外へ進出しようとはしない。アメリカは声援と己が体験から来る親切な同情をもって大義を勧告するに止まるだろう。アメリカが一度自国以外の旗の下に荷担すれば、それがたとえ他国の独立の旗の下であるにしても、利益追求や陰謀や、自由の旗を横領し搾取する個人的な強欲や嫉妬や野心のあらゆる戦いに自国を巻き込む結果となり、抜き差しならぬ破目に陥る。やがてアメリカの額には、偽物の、即ち支配と権力の陰鬱な光を放つ帝国主義的王冠が載せられるようになるだろう。そしてアメリカは世界の独裁者になるかも知れない。だとすればアメリカはもはやアメリカ独自の精神の支配者ではなくなるであろう」(長文の要約)

 女史は、アダムスの文章を著書の冒頭に掲げて第二次世界大戦時のアメリカを批判し、反省を求めているわけですね。

名越:
 ミアズ女史の言いたいことは、アダムスの言葉をもじっていえば、こういうことになるでしょうか。「アメリカはアメリカの心を忘れて〝太平洋戦争″を戦った。日本を怪物に見立てて、敢えて国外に進出し、日本を敗北させ、日本の自由の旗を横領してしまった。かくしてアメリカは偽物の陰鬱な帝国主義的王冠をかぶることになった。アメリカはもはやアメリカ独自の精神の支配者ではなくなった。」

アジアに果した日本の役割

 ミアズ女史のような太平洋戦争論は例外なのではありませんか。

名越:
B いや。日本は満洲事変以来、国際的孤立の道を歩みはじめ、遂には国際連盟を脱退しますが、その頃、アジアで悪戦苦闘する日本に同情した諸外国の識者は多かったのです。例えばアメリカの中国通(在中国32年)のジャーナリストであるブロンソン・レーは、アメリカが領有したハワイと日本が独立させた満洲国とを対比しながら、「アメリカには、日本が満洲でとった政策を批判する資格はない」と痛烈に指摘しています。そしてさらにソ連と対比しながら、「軍国主義日本が世界の脅威になるというのは、ソ連の宣伝であり、本当の軍国主義国はソ連である。これまでアジアで果してきた日本の役割を忘れてはならない。支那やソ連に同情するあまり、日本を孤立化させ、発展を阻害してはならない。日本こそアジア安定の礎であり、共産主義の防波堤だ」と繰り返し述べています。(昭和11年刊『満洲国出現の合理性』田村幸策訳)
D  また、ジョン・トーランドの『大日本帝国の興亡』(ピュリッツァー賞) にも、同様の趣旨が書かれております。彼も公平な見方をしていますよ。「アメリカではモンロー主義の存在が許されるのに、なぜアジアに対して『門戸開放』の原則を強制しようとするのか? 日本が匪賊の政底する満洲に乗り出すことは、アメリカがカリブ海に武力介入するのと何ら変らないではないか?」と問い、イギリスやオランダのやってきたこととも対比して、彼らの手口を糾弾しています。

 このような痛烈なアメリカ批判の書に対して、アメリカ人はピュリッツァー賞を与えているのですから、その点は我々日本人も見習わなければなりませんね。

名越:
C もう一人挙げましょうか。オーストリアの貴族の出身で、クーデンホーフ・カレルギー伯。母が青山光子という日本人で、国際法学者として世界的な権威ですね。EC(欧州共同体)の理論的基礎を作った人として知られています。彼が四十歳くらいの時の論文が、みすず書房の『続・満洲事変』(現代史資料11)に翻訳掲載されているのをたまたま見つけたわけです。これは、アジアにおける日本の役割を高く評価し、日本を孤立に追い込むことの愚を痛烈に批判し、当時の米・英・蘭・仏などの責任を問うた大論文です。「日本は極東における西洋文明の選手であり、治安の巨巌(きょがん)である。ロシアのポルシェヴイズムと、支那の無政府状態との怒涛を破って立つ岸壁である。」というくだりなど、名訳(遠藤三郎)ですね。カレルギーは、アジアにおける日本の役割を理解し、極東のモンロー主義を認めるべきだ、それが国際連盟の面目以上に大事なことだ、と説いているのです。

2006年5月 9日 (火)

原子力発電所をアワープラントに

 2時就寝。7時、起床。資料を読みながら、2時間の長風呂。豆乳と納豆汁の汁物2品で水分補給をかねた朝食。

 10時から来客があるものの、この後の予定があるので、概略だけをお聞きし、あとはメールでご意見を頂戴することにした。

Dsc01747_t 11時前、市役所に移動し、11時から会派会議を行い、6月議会での追及項目や柏崎トルコ文化村の件などを話し合う。
 会派会議が長引き、「やぶ」(電話:0257-22-3482)の「カツ丼」を出前でとり、昼食。

 14時、自宅に戻る。プリンタの修理技術者やHDDレコーダーの修理技術者に来てもらい修理。その後、南魚沼市の牧野晶議員、前回の選挙で苦杯をなめた南魚沼市の塩谷氏が遊びにきてくれたので、熱い語らい。

 16時から2件、選挙関係での来客。来年の統一地方選挙についてである。

 横田めぐみさんの写真展「この笑顔ふたたび」が長岡市で開催されており、是非行きたかったが、気付いたときには17時近く。電話で問合せてみると、本日が最終日で、16時に終了とのこと。

Dsc01748_t 20時、タイのグリーンカレー「ゲーンキョワーン」を作る。ココナッツミルクとナムプラー(魚醤)が味のポイント。
 炊きたてのご飯にかけたが、やはりこういったスープ系のカレーには、タイ米のようなご飯が最適であり、炊くのではなく、煮てから煮汁を捨てるような米が合うのであろう。

 選挙関係の話では、いまさら原子力の賛否ではないであろうとの意見が多かった。
 福井県をはじめ、原子力の賛否を問う時代は過ぎ、原子力発電所を武器として、住みよい地域を作る時代である。プルサーマル問題もでてくるが、そのものよりも立地自治体としては交付金の問題など、県議会レベルで議論が必要なものがある。
 さらにその前に、原子力発電所という存在をどう捉えるのか、その意識の変化が必要となる。先日の原子力防災シンポジウムでお会いした橋本先生の主張こそ、いまの柏崎が必要なものと思う。


『原子力eye』2005年7月号

■地元の声・主張
マイプラントをアワープラントにするための提言
                 新潟大学 橋本哲夫

1_41.はじめに
 京都大学原子炉実験所から新潟大学へ赴任して以降,現在までの私の30年間は,新潟県柏崎刈羽地区に原子力発電所の建設が開始され世界最大規模にまで成長を続けるとともに,他方では施設周辺住民の原子力エネルギーや放射線への不安感が増大した時代とも重なっている。

2.地元住民の不安
 地元大学からの原子力関係学識者として,平成5年度より県知事を議長とする新潟県原子力発電所周辺監視評価会議委員に選任された。
 新潟県の委員会は年間2回開催され,委員の構成は26名で放射線・原子力や海洋の専門家は10名である。そのうち新潟県内在住者は4名であり,柏崎刈羽地区在住の専門家は皆無なのである。残りの委員はすべて県外の方々であり,遠く離れた関西や九州在住の方も委員を務められている。参加当初,原子力施設から放射性物質の放出はほとんどなく,環境や人体に影響がないとのお墨付きをそれ以前同様に毎回この委員会は出していた。 情報公開の開示の機運が出てくるとともに,住民からの質問事項に対する回答を議論することも加わってきた。特に,平成14年8月に(株)東京電力の自主点検不正が公表されたあと,地元住民からの質問事項に原子力発電所への不信感と不安感が増大した。その結果が大きく影響し,プルサーマル計画の事前了解は取り消しとなり,巻原子力発電所(東北電力)の建設も断念表明に至った。
 この不正発覚の4カ月後に,住民による「柏崎刈羽原子力発電所の透明性を確保する地域の会」が発足している。

3.原子力地方行政の実情
 原子力施設で働く人たちはマイプラント(自分の原子力施設)意識を高めて事故や不正報告を未然に防ぐ方策を模索しつつある。しかしながら,地域住民が現存する原子力発電施設をアワープラント(地域住民の原子力施設)としての誇りを持てないのは何故であろうか?
 最大の理由は,一部の専門家しか分からない原子力エネルギーや放射線関連の情報が,地域住民にとっての理解を超えているからだと考えられる。さらに,原子力エネルギー関連の簡単な説明をお茶飲み話で聞こうにも,地域に根を下ろした専門家がほとんどいない現状もある。数年前に,新潟県内在住の原子力学会会員が数名にすぎなく,原子力発電施設世界一の柏崎刈羽地区には1人もいない(東電職員を除く)のを知って驚いた。
Bb  図1に柏崎刈羽原子力発電所と周辺住民との関係を簡略化して示す。原子力発電所側と周辺住民側の公式の対応は,主として地域行政を行う県庁や市町村の役人を仲立ちとしている。しかし残念なことに,地域行政側には専門家と互角に対応できるような原子力エネルギーや放射線関係に精通した人はほとんどいない。何が生じようとも時間待ちの役人姿勢が跋扈している。そんな行政を住民は信頼していないし,悩み事の相談を持ちかける相手でないことを見抜いている。
 そこで行政側は,住民に対する責任逃れや専門家による権威付けをするための委員会を設ける。新潟県の場合,学識経験者や専門家を集めた委員会の1つが「周辺環境監視評価委員会」である。
 一方では,さらなる責任回避のため,何事も中央の役所にお伺いを立て自主的な判断力を無くした地域行政では,地域住民の不安感を払拭できないのは当然である。

4.マスメディアの報道
 図1にも示したように,原子力発電所施設と地域住民を結ぶ情報伝達は今日,大部分がマスメディアを通して行われている。しかしながら,わが国のマスメディア関係者は文化系出身の人たちが大勢であり,放射線や原子力エネルギーに対しては,必要以上の不安感や恐怖感を読者である住民側に抱かせる傾向が見られる。少なくとも原子力関連記事に携わる記者は,例えば本誌の記事などは丹念に読んで勉強すべきであり,放射線や原子力エネルギーの陰の面のみならず陽の面も報道すべきであると思う。陰の面のみを強調して原子力施設で働く人たちを意気消沈させるよりも,陽の面も報道することによりプライドを持って働く力(マイプラント意識)を鼓舞することが事故減少に結びつき,結果的には住民側を安心させる原動力となることを知ってほしい。これらの事項は,地域住民に読者や視聴者の多い地域マスメディア関係者に強く要望する次第である。

5.アワープラントへの提言
 原子炉施設周辺住民の不安感を和らげるため,地元に定住する原子力方面の専門家を増加させる何らかの方策を立てるよう各方面に要望したい。専門家の定住は地域住民と原子力発電所施設を結ぶだけでなく,原子力関連の問題を自分自身や家族の問題として考えるので,結果的には住民サイドにとっても安心感・信頼感の醸成の核となるであろう。実際には,図1下部の点線で結んだ丸の部分が柏崎刈羽地区には全面的に欠落しており,地元定住の専門家がいないのである。地元に定住する専門家を多くするためには,関連分野の専門家を多く抱える研究機関や原子力関連産業・企業・大学機関などの積極的な誘致が必要と考える。
 新潟県とは対照的に積極的な原子力行政を押し進めている福井県は,既に2センターと1研究所を設置しており,専門家や関係者を含めて140名余りが現在,原子力エネルギー関連の仕事に従事している。さらに福井大学とこれらの機関と県行政がタイアップして,平成16年度から福井大学に大学院独立専攻の「原子力・エネルギー安全工学専攻」が設置された。
 翻って新潟県には新潟大学・長岡技術科学大学,柏崎市には新潟工科大学と3つの理工系の大学を有しているにもかかわらず,原子力関係の学科や専攻がないのが実情である。この惨憺たる現状には,行政側同様に大学運営側にも責任があるだろう。
 新潟大学大学院でも,(株)東京電力からの寄付講座として地球温暖化地域学講座が本年7月から発足することになり,ようやく原子力専門家養成の一環が始まった。大学教官の場合,上級の専門家を育てるだけでなく,小中高の先生の原子力教育や再教育にも寄与できる強みがある。
 地域住民のアワープラント化を実現するためには,原子力エネルギーや放射能の知識を義務教育でも取り入れるよう,教育界で考えてもらうことも,原子力施設世界一の県や地域としては必要と考える

2006年5月 8日 (月)

JC例会:時代は貯蓄から投資へ

 2時就寝。8時、起床。1時間ほど風呂に入ったのち、大粒納豆で朝食。

 10時から18時まで現場立会い。途中、コンビニで買った納豆巻き2本とコーヒー風味豆乳で昼食。

Dsc01743_t 18時30分から柏崎商工会議所で、柏崎青年会議所の5月例会。今回は、丸福証券さんに講師の派遣をお願いし、「時代は貯蓄から投資へ」をテーマでご講演頂いた。
 質疑応答の時間、インドへの投資、インドに進出する企業への投資について、これから中流層が爆発的に増えるであろうことから質問してみた。講師の回答は、インドに投資しているのは日本のみであって、逆に他の諸外国は日本への投資をしているとのことであった。

Dsc01744_t 今例会の担当委員会である経営開発委員会による、ライブドア事件を通しての「株式分割」、「株式交換」、「粉飾決算」、「風説の流布」などを説明する寸劇が行われ、笑いを誘っていた。内容も分かりやすく、経営開発委員会の皆さんのご苦労がうかがえた。

 また、委員会対抗で野村證券バーチャルトレーディングを9月1日まで行うことになった。表彰式は9月6日。

Dsc01745_t 例会終了後、「莉世」(電話:0257-20-0061)にて、懇親会。
 23時過ぎ、自宅に戻る。

2006年5月 7日 (日)

木村茶道美術館とトルコ、公文書紛失事件

F1000006_t 5時起床。朝早く目覚めたので、昨日、購入した鯛のあらを塩焼きにし、それで鯛めしを作る。ご飯が炊き上がったところで、中落ちなどはほぐし、ご飯に混ぜる。頭は大好物なので一品料理として食べる。

 ここ数週間で読まなければならない本が多くでてきたので、午前中は読書。11時過ぎ、ここ数日、泊まってもらった母方の祖母を上越市まで車で送る。
F1000007_t 祖母と一緒に外にでることも少ないので、「小町うどん」でうどんを食べたり、ペットショップで子犬や子猫などを見たりする。
 上越市は2014年に北陸新幹線が通ることもさることながら、多くのお店が出店し、賑わいをみせている。道州制の議論のなかで、新潟県から分離独立し、信州と一緒になってもやっていける、と話す人の気持ちも分かる。

Dsc01734 14時、祖母を上越の家に送り届け、自宅への帰り道、木村茶道美術館(0257-23-8061)に行き、関連の資料を頂いてきた。木村茶道美術館は全国でも珍しい茶道専門の美術館であり、柏崎市の武器である。高価な茶器を見るだけではなく、その茶器を使ってお茶を頂くことができる。
 なぜ、木村茶道美術館の資料がほしかったのかといえば、宗へん流との関係があるかどうか知りたかったのである。北条生まれ、木村茶道美術館の創始者・木村重義翁は、江戸千家流。残念ながら、宗へん流との関係はなかった。
 宗へん流八代目の宗家は、明治時代にトルコ(当時オスマン帝国)に渡り、トルコ共和国の国父・ケマル・アタチュルクに日本語と日本精神論を士官学校で教えた、山田寅次郎、その人である。
 今後も調査し、茶道とトルコという意外な接点の歴史を掘り起こしできればと思っている。

 17時から某所で懇親会。懇親会の最中にも、柏崎トルコ文化村についての話題がでてきた。

 「たまたま、題材になってんのが、
  経営的に苦しかった柏崎トルコ文化村なだけで、
  手紙が2回連続こねーなんてないんじゃない」

という意見があった。もちろん、その点だけをとってみても不思議なのである。営業の手紙などと違い、相手は一国の大使である。「届かなかったみたいですー」で終わりにする問題ではない。当初は、「ただの書簡である」と盛んに市当局から説明があったが、公的な業務内で取得した書簡であれば、公文書扱いである。
 同じケースではないが、今後、どういったレベルの文書まで公開するのか、公文書扱いとするのかなどを含めて、『自治日報』で「公文書紛失事件と情報管理」というテーマでの記事があったので、以下にご紹介する。


平成18年2月21日『自治日報』

 <自治> 公文書紛失事件と情報管理
              公認会計士 廣田達人

 平成14年3月、環境省が「存在しない」と答えていた水俣病認定検討会文書が、内閣府の情報公開審査会の調査によって発見され、後れて開示するという文書紛失事件があった。この事件は、国や自治体に情報公開制度が普及し、また、行政情報化が推進される中、役所の情報管理のあり方について重要な示唆を与えている。同様の問題は、国や自治体の大半の機関において潜在していると思われることから、若干の事例検証を試みたい。
 問題となった文書は、昭和50年に当時の環境庁が設置した同検討会の会議資料であるが、平成13年、新聞記者が情報公開法に基づいて開示請求したのに対し、環境省は、その存在を確認することができず、不存在を理由に不開示としたものである。請求人は異議を申立て、同省が審査会に諮問、審査会の事務局職員が実地に書庫等に出向いたところ、該当文書が発見され、不開示取消しの審査会答申に基づいて同省がお詫びの釈明をしたうえで事後開示したものである。
 まず問題となるのが当該文書情報の性質である。同検討会は会合を重ね、52年、その成果は、「後天性水俣病の判断条件」 (環境保健部長通知)となって関係各部に知らされた。水俣病認定基準の変更・具体化という事案の性質から、行政運営上重要な情報であることば明らかであるが、さらには、水俣訴訟に関係して、平成10年には、大阪高裁の調査嘱託に対する回答の際に参照された情報でもある。
 しかしながら、同検討会の会議資料は、同等では「担当者メモ」と位置付けられ、当時の文書管理規程がいう管理すべき「文書」には該当しないと考えられ、また、執務室の移動や法施行準備などの際に廃棄されたという。しかし、審査会は、現行の水俣病認定の判断基準の検討経緯を示す文書であり、法がいう組織共用文書(法二条)に当る重要文書であるから、「文書管理上の問題があった」とした。
 今日の情報公開は、従来の決裁供覧済文事ではなく、組織共用文書を対象とする例が多い(法や多くの条例)。今回の答申によって、それは、文書の形式や管理実態ではなく、その利用状況に照らして判断されるようになりそうである。すなわち、組織共用文書とは、組織の意思決定や事務の執行に際して参照されうる情報であるともいえる。もっとも、情報公開にかかわらず、行政運営上もそうした考え方に基づく情報管理は必須である。特に人事異動が不可避の役所においては、組織的かつ継続的に適正な行政を確保するためのインフラだからである。情報公開という意外なかたちで、役所の情報管理の課題が浮き彫りとなったといえよう。
 次に文書の分類やタイトルである。書庫から発見された文書は、「水俣病に係る打合せ会議(一)」と題されたファイルであった。このファイルは、同省が「行政文書ファイル管理簿」(情報公開目録)を検索した際にはヒットしなかったものである。おそらくは管理簿に登載されていなかったか、若しくは、単に「打合せ会議」というタイトルから、同検討会の会議資料であることが判別しなかったのかもしれない。今回の事件が示唆するのは、文書の分類やタイトルは、四半世紀後の後任職員が活用することも想定した客観的なものでなければならないということである(事務執行はもちろん、情報公開や争訟での活用に備えて)。文書を作成した担当者の主観的なあいまいなタイトルでは、事後の検索に耐えない。四半世紀後の後任担当者が検索できる分類やタイトルを考え抜く必要があろう。
 最後に、自治体職員であれ、私企業の社員であれ、読者の皆さんも身の周辺を見ていただきたい。「個人的メモ」と決め付けた組織共用文書を机上で平積みにし、引き出しの中や足元にそれを抱え込み、情報の組織的管理を怠ってはいないか。貴重な情報の組織的活用、組織的蓄積を停止させてはいないか。今回の事件は、一官庁の問題ではなく、社会で活躍する組織人一般に対する警鐘なのである。

2006年5月 6日 (土)

日独との戦争、誤りだった

 1時就寝。6時、起床。朝食もとらずに事務所の整理と業者さんとの作業。オフィス用品の廃棄処分やOA機器の産業廃棄物としての処分など。

F1000003_t 12時、甥っ子がきたので、「うれっ子」のつけめんを一緒に食べる。甥っ子も食べる量がだんだんと多くなり、その成長を感じる。

 午後から来客。来年の統一地方選挙に関することであった。次回の市議選は旧高柳町、旧西山町を入れた現在の柏崎市で、定数を3名減らして、30名での選挙となる。県議選は、いまだ選挙区問題でゆれているが、旧選挙区(合併前の柏崎市のみ)での選挙となった場合、定数2名。選挙活動の期間を考えれば、そろそろ候補者が動きはじめる時期である。

F1000004_t 19時、またもスーパーで安くなっていた秋刀魚2匹と、米山町でとれた蛸で夕食。基本的に肉よりも魚が好きなので、閉店間際のスーパーの鮮魚コーナーはありがたい限りである。蟹がではじめるこの時期には、蟹が大好物の蛸もウヨウヨしており、とれたての蛸をさっと湯がき、冷水にさらした蛸ぶつは歯ごたえが最高であった。
F1000005_t 秋刀魚はご飯と一緒でも美味しいが、蛸ぶつには酒である。あまり飲まないつもりが、蛸の美味さについつい飲んでしまい、残った仕事も片付けずに23時ごろに酔いがまわり寝てしまった。

 零戦のエース・パイロットで『大空のサムライ』の著者である故・坂井三郎氏と石原慎太郎東京都知事との対談集のスクラップを見つけた。そのなかで、坂井氏が電車に乗っていたところ、近くにいた若者同士の

 「えー日本とアメリカが戦争をしたんだ、
  で、どっちが勝ったの?

という会話を聞き、坂井氏が愕然とした(思わず次の駅で降りて、煙草を続けて2本吸ったという)ことが書いてあった。
 アメリカと日本が戦争をしたことにより、最終的に一番得をしたのが共産主義であろうが、そもそもアメリカのなかでも日本との戦争は本当に必要だったのかという議論がある。その議論についても、このブログのなかで少しずつ紹介していきたいと思う。


平成11年9月28日『産経新聞』

ブキャナン氏の著書、波紋呼ぶ
 「日独との戦争、誤りだった」
 紛争へ安易な介入戒め 孤立主義の根強さも

【ワシントン27日=土井達士】
 2000年の米大統領選に名乗りを上げている保守派の元テレビ・コメンテーター、パット・ブギャナン氏(60)が、最近刊行した米国の外交政策に関する著書「帝国でなく共和国を」で、「第二次大戦で米国がドイツや日本と戦ったのは戦略的に間違っていた」と主張したことが波紋を広げている。米国の世界紛争への安易な介入を戒めたものだが、米国の一部にある孤立主義の根強さをみせつけた。
 著書の中で特に問題だとされているが、「ナチス・ドイツは(英国侵攻に失敗した)1940年以降、米国にとっての脅威でなくなっていた」として、当時の欧州に米国は介入すべきでなかったとしたくだり。ナチスによるユダヤ人虐殺などを看過すべきだったともとれることから、「反ユダヤ主義だ」としてユダヤ人団体をはじめ各方面から激しい反発を受けている。
 一方、日本に関しては、当時の仏領インドシナに進駐した後、米国のルーズベルト大統領が極めて厳しい経済制裁を発動したことが、日本にとって「のど元をつかまれた」形になり、真珠湾攻撃を決意させたと指摘。開戦には米国の政策が大きな役割を果たしたとしている。
 ブキャナン氏は、日独が宣戦を布告した後に参戦したのは「正しいことだった」としているが、日独敗北の結果、旧ソ連に対する歯止めがなくなったことで、共産中国の誕生や、朝鮮、ベトナム両戦争での米軍の犠牲など「苦い結末を得た」ともしている。
 このような主張に対し、共和党から大統領選に出馬しているマケイン上院議員やドール前米赤十字社総裁らは、即座に「復員軍人の感情をどう考えているのか」などとブキャナン氏を激しく批判する声明を発表。しかしブキャナン氏は、「共和・民主両党にまん延している介入主義が、米国を再び危険な道に導く」としている。
 ブキャナン氏は、孤立主義と保護貿易が持論。共和党から出馬した92、96年の大統領選では、予備選で保守派票を集めて予想外に健闘し、本命候補を苦しめた。今回も共和党内で選挙活動を進めているが、近くロス・ペロー氏が率いる「改革党」にくら替えするとみられている。

2006年5月 5日 (金)

佐藤秀峰氏:『特攻の島』

Dsc01733_t 2時就寝、7時、起床。今日の朝食には「アルプスの少女ハイジ なっとうミニ4」を食べる。ミニサイズなので、4個一気にご飯にかける。それにしても、私の世代ならさておき、いまの子供の世代にも「アルプスの少女ハイジ」はウケるのであろうか。

 午前中はメールの返信でおわれる。ゴールデンウィークであるからか、本ブログをはじめアクセスがかなり増え、柏崎トルコ文化村問題に関しての激励やご批判のメールを多く頂戴する。

 11時過ぎ、母方の祖母がきたので、手打ちうどんを作る。足で踏んで作った生地の寝かし時間が足りないので、グルテンを活かしきったとは言えないが、良い小麦粉を使ったので、生醤油で食べても美味しいうどんになった。

 午後から19時まで、途中、来客があったものの、ひたすら事務所の整理や整理に必要なものの買出しなど。

F1000002_t 20時、K嬢から頂戴したビールを飲みながら、「PRIDE無差別級グランプリ2006 開幕戦」を見る。
 リングス時代から、その技術力の高さと気合の入り具合で、高阪剛選手のファンであっただけに、マーク・ハント選手との試合が一番の楽しみであった。試合を見ているうち、だんだんと熱が入り、独りで見ているのに「よしっ、腕極めろ!」などと叫んでしまった。打撃が専門のマーク・ハント選手にも打ち合いで臨み、いくら殴られても気力で前へ出続けるその姿に、ただただ感動であった。
 結果的には高阪選手が負けてしまったが、個人的には引退してもらいたくないと思う。

Tokkou  感動と言えば、海上保安庁の隊員の活躍を描いた『海猿』を見て感動し、海上保安庁を志願する若者も増えたという。
 原作は、漫画家・佐藤秀峰氏で、この『海猿』のほかに、『ブラックジャックによろしく』などの作品がある。そして、現在、『特攻の島』という海の特攻「回天」を題材にした作品を書いており、その第1巻を入手した。
 ページをひらくと、最初から「大東亜戦争末期」の文字があり、これだけでもこれまでの悲劇だけを描いた特攻漫画とは違うのかと期待がもてた。
 長髪の軍人(準主役級として登場)がいたかどうかは別として、当時の特攻隊員の苦悩と、祖国に対する思いを是非、今後も書いてほしいと思う(そういった展開になることも期待)。
*写真は、まさに出撃前の特攻隊員と見送る女性。

2006年5月 4日 (木)

トルコ風呂問題と「東郷さんを偲ぶ会」

 2時就寝。7時起床、昨日飲みすぎたので、納豆汁のみの朝食。午前中、親戚との談話。

 11時30分過ぎから市内某所でランチをとりながらの打ち合わせ。15時に事務所に戻り、ひたすら整理。

F1000001_t 19時、片付けがひと段落したところで、スーパーで買い物。秋刀魚が1匹50円だったので、思わず2匹を購入。旬である筍の土佐煮、ポテトサラダとともに、夕食。

 柏崎トルコ文化村問題の話をすると、たまにくる反応(主に年配者)が、「トルコ風呂」の話題。いわゆる特殊浴場系の話である。この呼称について、昭和59年(1984年)に元トルコ人留学生がこう訴えた。


昭和59年9月10日『読売新聞』

 トルコ風呂の改称を訴えるトルコ人
             N.サンジャクリ氏

 「私は自分の国のためなら死ぬことだってできますよ。その愛する祖国の名がいかがわしい風呂屋の名前になっているなんて・・・。」
 三年前、東大留学のため初来日。繁華街の一角でネオンに彩られる「トルコ」の文字に祖国を思い浮かべドアを開けたところ、肌もあらわな女性の出迎えを受け、その実態を知って従業員としばし激論。
 「目の前が真っ暗になり、本気で帰国を考えました。イスラム教の神様が最も嫌っているみだらな行為に、自分の国の名が。ああ、もうこの国には住めないと思いました」
 だが彼は一度は傷心の帰国をしたものの再び来日、トルコ風呂の改称を訴える決意をした。18日まで自費で滞在。きょう10日午後3時半から参議院会館第二会議室で、自国の文化と伝統を代表する本当のトルコ風呂「ハマーム」をスライドをまじえて紹介、日本人に日本語で理解を訴える。
 「サムライと桜の国、日本。心温かい国民性。三年前に日本留学が決定した時にはみんなが私を祝福してくれた」
 反ソ感情の強いトルコでは、過去にロシアを破った経験のある日本に対する感情には独特のものがある。今でも、日本の武勇伝は語り継がれ、学校の歴史、地理ではイギリスに割く時間よりも日本に割く時間の方が多いという。それだけに”トルコ風呂ショック”は心に深い傷あとを残した。
 「一生懸命訴えますよ。それでもこの不名誉な名称が変わらなかったら、トルコ人の対日感情は一変しますよ。それをどうするかは、日本人の皆さんの問題です。」


 この訴えをうけ、同じ年の12月19日に特殊浴場協会が「トルコ風呂」の名称を「ソープランド」に改称した。
  ちなみに日本初のトルコ風呂(ソープランド)は、昭和26年、東京・銀座6丁目にオープンした「東京温泉」である。個室の入浴料が当時の価格で300円(当時の物価は煙草の10本入りピースが40円)。ミス・トルコ(トルコ嬢)の美女たちが人気だったそうだが、トルコという名称をつけたことについて経営者・許斐文氏はこう答えている。


1973年5月14日号『週刊文春』

 「私たちは風呂好きの日本人に、
  トルコの王様のような気分を味わってもらおう
  というのでトルコ風呂と名付けただけなのですが・・・」


Lala  その翌年である昭和60年(1985年)は「日露戦勝八十年」にあたり、全国各地でその意義を考える祝賀行事が民間で開催された。
 中でも、千葉県・船橋市では若い世代の教師が中心になって「四海平和を願う会実行委員会」を結成され、5月26日、ららぽーと劇場(現在はない)で「東郷さんを偲ぶ会」が開かれた。
 日露戦争における日本の勝利を祝い、またその意義を伝えるため、なんと1500名以上もの人が集まり、当時の駐日トルコ大使であるヌルベル・ヌレシュ閣下も来賓として出席された。
 日本は国としてのイベントは実施せず、民間の心ある人が歴史を伝えようとこのようなイベントを開催していたが、そこに出席されたトルコ大使には頭が下がる思いである。
 トルコ大使は祝辞の冒頭、このトルコ風呂騒動に触れ、

 「日本の皆さん、
  『トルコ風呂』という呼称をやめて下さって
                   ありがとう」

と、まず場を和ませた。そして、次のように話されたという。

 「私は小学校時代、教科書で、
  東郷元帥は軍人としてだけでなく、人格的にも立派だと、
  教わりました。
  ロシアのバルチック艦隊を破った元帥は、長年ロシアと
  戦って勝てなかったトルコ人にとっても英雄です。
  あの時トルコも、ダーダネルス海峡を通過するロシアの
  黒海艦隊を牽制して、日本に協力したんです。
  先日、
江田島の幹部学校に招かれて講演しましたが、
  東郷元帥の遺髪がまつられていて、感激しました」

 いまから約20年前の昭和59年、昭和60年にも、トルコ共和国との関係を日本人が考えた時期があったのである。

2006年5月 3日 (水)

新成人フェスティバル2006

 1時就寝。7時、起床。今日から親類が家に来るので、大掃除。

Dsc01721_t 10時、スーツに着替えて、「新成人フェスティバル2006」の会場へ移動。駐車場から会場に入るまでの間、盛んにパンフレットを配る人がいたので、何かと思ったら、なんと!昨年、柏崎で発足したという「平和憲法を考える会」が9条の会の「憲法改悪反対」という護憲のパンフレットを配っていた。改憲か護憲かは別として、こういった目出度い場で政治活動をすることは控えてもらいたいところである。

Dsc01722_t 5分遅れで式が開会し、市長(感謝の気持ち、一所懸命、平和の3つの話)、議長(借金、連帯保証人)の挨拶ののち、立派な「成人の誓い」、閉会の挨拶で終了となった。正味25分。
 会場には、アルコールパッチテストがあり、これから多くの飲酒の場があることを思えば、ありがたい企画である。
Dsc01723_t ちなみに、なぜか禁煙のお薦め本もあった。
 アトラクションとして、日本海太鼓さんをはじめとする皆さんが新成人を楽しませていた。この心意気を感じてもらいたいと思う。

Dsc01724_t 昼、所用で長岡に移動。ジャスコ長岡店近くの某ラーメン屋さんで、餃子と坦坦つけ麺を食べる。
 このラーメン屋さん、忙しいのは分かるのだが、夫婦喧嘩が絶えないのである。餃子を焼く奥さん、麺類を作る旦那さんがぶつぶつと言い合っている。
Dsc01725_t これが調味料という人もいるかも知れないが、言い争いのなか、麺をズルズルとすするのは気分の良いものではない・・・・。
 次回は、カウンター席ではなく、座敷席に行こうと思う。

 午後から名古屋の親族が遊びにきたので、甥っ子、姪っ子とATVに乗って遊ぶ。

Dsc01728_t 18時、頂き物の牛肉を中心に料理を作り、ビール、焼酎を飲みながらの談話。予想以上に盛り上がり、飲み過ぎの感。

  

2006年5月 2日 (火)

議会インターネット中継

Dsc01718 1時就寝。風邪を引いたのか調子がイマイチ悪く、8時過ぎに起床。
 風邪対策として、葱を大量に入れた小粒納豆で納豆ご飯。

Dsc01716_1 10時から議会運営委員会に出席。今回のメインテーマは、議会のインターネット配信についてである。
 提案のなかの例として、年間約200万円で運営できるシステムがあった。これを高いと感じるか安いと感じるかは、導入後の利用による。年4回の市議会定例会はもとより、市長の記者会見、撮影した柏崎の風景・お祭り・イベントなど、市役所としても活用をしてもらいたいところである。
 議会からは以下のような内容で市長に予算要望をだすことで話がまとまった。
 市長の決断があれば、最短で9月議会には間に合うはずである。


(案)            議 第      号
               平成18年5月  日

柏崎市長 会 田  洋 様

               柏崎市議会議長 霜 田  彰

 市議会本会議のインターネット中継に関する要望

 当市議会では従前から、市民に身近な、より開かれた議会を目指し、議会運営の改革等を行ってきたところでありますが、今般、議会運営委員会等での協議の結果、市議会の審議状況をより迅速に市民等に提供する一つの手段としてインターネットによる市議会本会議の生中継及び録画中継を実施すべきとの結論に達しました。
 ついては、市財政厳しい中、恐縮に存じますが、次期定例会にインターネット中継のための補正予算を計上し、速やかに実施できるよう要望します。
                 記
1 要望事項
 (1)インターネット中継は、市議会中継のみならず、
    今後の市政における情報公開の面からは、
    大いに活用が見込まれるものであり、市役所
    全般において活用できるシステムを導入して
    いただきたい。
 (2)システム導入に当たっては、できるだけ担当
    職員の業務の増加とならないものにして
    いただきたい。
 (3)導入するシステムは、住民の視点から必要な
    機能を備えた見やすく利用しやすいものとして
    いただきたい。
 (4)多くの自治体で導入実績がある信頼の置ける
    業者を選定していただきたい。
                            以 上


 12時に市役所をでて、13時から長岡市の某所でランチをとりながらの打ち合わせ。今回も東京から新幹線でお越し頂いたが、柏崎への乗り換え時間もあり、最近はこちらから長岡まで出向くことが多くなっている。
 ミニ新幹線をはじめ、鉄道の高速化についての議論がここのところ議会であまり活発に議論されていない。しかし、北陸新幹線の2014年問題もあり、特別委員会でも設置して、真剣に今から取り組む必要があるのではないだろうか。車の時代とは言えども、観光はもとより、企業誘致の面からも鉄道は重要である。

Dsc01720

 思ったより長時間の打ち合わせとなり、18時過ぎに自宅に戻る。
 甘エビの刺身、帆立のひもの刺身を中心に夕食。
 食後はひたすら事務所の整理。

2006年5月 1日 (月)

柏崎トルコ文化村問題:毎日新聞訂正記事

Dsc01713 届いていた書籍類を読んでいるうちに4時を過ぎたので、そのまま仮眠。
 9時、起床。前日、スーパーで安くなっていた「鯖寿し」とインスタントの納豆汁で朝食。

Dsc01714 10時から現場の立会い。途中、祖母の昼食を作ったり、自分でも昼食をとるため、一回自宅に戻る。移動途中のコンビニで、つい気になり買った「ちーず入りコッペパン」、意外に好きになりそう・・・・。18時過ぎまで現場の立会いをするとともに、物の整理。

Dsc01715 納豆コロッケは数あれど、冷凍食品としてこれから製品化したいという人はいないであろうと思っていたが、世の中は広いものである。「冷凍 納豆コロッケ」の試作品。万人に受けるためか、ほとんどがノーマルのコロッケ味で、申し訳ない程度に納豆の粒が見える程度である。油の凄みに負けているような気もする。感想をメールで送りつつ、ありがたく夕食として頂戴したことも書き添えた。

 先日、柏崎市長からの抗議により、インターネット上から削除された毎日新聞の柏崎トルコ文化村問題に関する記事。その記事に関しての訂正文を遅ればせながら入手した。


平成18年4月28日『毎日新聞』夕刊

 25日夕刊「施設閉鎖の柏崎『トルコ村』 建国の父の銅像
『売るな』 大使館が抗議」の記事で、トルコ大使が新潟県柏崎
市長に送った文書で「慎重さに欠ける行為」と指摘したのは、
銅像を売ることではなく、大使が昨年4月に同市長に送った
トルコ村存続に希望する書簡への返事や回答がないことについて
でした。文書は銅像について触れておりません、見出しとともに
おわびして訂正します。


 訂正文の通りであり、先日27日の報告会で予想したそのままの内容であった。柏崎トルコ文化村問題を報道してくれたのはありがたく思っているが、このミスリードについては残念であった。

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