満州国、満州帝国、新五色旗と五色旗
2時、自宅に戻り、就寝。8時起床。納豆汁で軽い朝食ののち、事務所の整理。電話が相次ぎ、満州や柏崎トルコ文化村に関することであった。
妹から差し入れでもらったサラダマックのグリルチキンサンドを、甥っ子と一緒に食べて、昼食。あまりファースト・フードは食べないが、ハンバーガーならモス・バーガー、メキシコ料理ならタコベルがお気に入り。家の近くにタコベルができることを夢見ている。
16時、18時から2件の打ち合わせ。自宅に戻ると母が餃子を作っていたので、夕食にさせてもらう。蒸し焼きにしたあと、最後に胡麻油をまわし入れ、ぱりぱりとした焼き餃子にする。
食事を食べながら、祖母のことについて母と相談。最近、独りでいさせることが困難になってきた。人は誰も年をとるのであるから仕方はない。
昭和7年、清朝の始祖が王朝を固めた記念日である3月1日、満州国政府は建国宣言を行った。
国名は「満州国」、国、体は「民本主義」(政治は市民の利福のために、市民の意向によって行わなければならないとする。日本で言えば、大正デモクラシーの根幹的思想となった)、国首は「執政」溥儀、国旗は「新五色旗」、首都は「長春」(後に新京と改称)、元号は「大同」と発表した。
国旗は「新五色旗」であるが、「新」というからには、「旧」もあり、こちらは、赤が漢民族、黄は満州民族、青は蒙古民族、白は回教徒、黒はチベット民族を表す。
この「旧五色旗」は、満州国建国以前には、奉天軍の張作霖(ちょうさくりん)が掲げており、「新五色旗」が満州国で掲げられるようになってからも、昭和12年の中華民国臨時政府、昭和13年の中華民国維新政府、昭和15年の第二次新民会旗が掲げていた。
*写真は、昭和13年1月23日、青島治安維持会本部
蒋介石が掲げていたのが、「青天白日旗」。赤は自由と独立のために流した血、青は青天の下の正義、白は太陽で友愛を表す。現在は、台湾の国旗となっている。
支那事変で日本が戦ったのは、この旗に対してである。
しかし、蒋介石と決別した汪兆銘が、昭和15年に南京に政権を樹立すると、これまで維新政府が掲げていた「旧五色旗」を下げ、「青天白日旗」を掲げた。そのため、今日、歴史資料などで当時の写真を見ても、汪兆銘の南京政府なのか、蒋介石の重慶政府なのか判別しにくい理由のひとつとなっている。
*汪兆銘は日本からの抗議に対しても、「青天白日旗」に黄色を少し追加するなどして、「青天白日旗」にこだわった。一政府の元首としての汪兆銘のしたたかさはここにある。
また、旗だけでなく、満州も厳密に分けて考えなければならない。一口に満州と言っても、時期によって「満州国」と「満州帝国」の違いがある。冒頭述べたように、満州国として、溥儀が執政につき建国されたが、大同3年(昭和9年)2月20日、溥儀の皇帝への即位を発表。同年3月1日には、元号を「康徳」とし、溥儀が皇帝として即位。満州国は帝制、満州帝国へ移行した。
溥儀は清朝の再興(復辟)と捕らえており、清朝歴代の皇帝が祖宗の心霊に即位を報告する儀式の服「龍袍」を着用し、即位式を行った。このことからも、溥儀がいかに真剣に清朝の復活を満州国に期待していたのかが分かる。
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いつも興味深く拝見しています。
本来こちらに書くべき内容ではないかもしれませんが、
ご意見をうかがえれば幸いです。
1,「戦争」と「事変」の違いは、宣戦布告の有無によるのでしょうか。
また戦闘の規模にも関係するのでしょうか。
2,この時代の中国大陸における一連の戦闘を「支那事変」と
呼ぶのは、当時の日本としては「戦争」をしているという
認識ではなかったからでしょうか。
3.もし2の通りだとすると「日中戦争」という呼び方も
「大東亜戦争→太平洋戦争」と同様、戦後に後付されたのでしょうか。
満州と直接関係なくてすみませんが、よろしくお願いします。
投稿: Y | 2006年5月23日 (火) 02時01分
Yさん、コメントありがとうございます。
順を追って、お返事したいと思います。
1.「戦争」(War)と「事変」(Incident)
実際の戦闘行為としては局所的なのか、全面的なのかの違いもありますが、おっしゃる通りに「宣戦布告」の有無により区別されます。
また、相手国及び第三国との外交関係においても、違いがあります。
2.「支那事変」の呼称と戦闘行為
当時の日本としては、「戦争」になってしまうと、第三国には戦時国際法の中立義務が生じ、国際的に孤立することになります。
対する蒋介石としては、国際的な孤立よりは、中立義務が生じる第三国、アメリカ、イギリスなどからの支援などは受けられなくなってしまうため、「戦争」とはしませんでした。
上記の理由において、双方の利害関係から「事変」でしたし、双方も停戦協定のための会談をもつなど、全面的な「戦争」を避け、解決の糸口を探していておりました。
もちろん、「戦争」ではありませんので、外交関係は継続してました。
ただ実際には、日本軍としては大本営まで設置しておりますので、軍隊としては「戦争」に近い認識であったかと思います。
*「日華事変」は後についた俗称
3.「日中戦争」という呼称について
歴史上、「日中戦争」は存在しません(この「中」が何を表すか不明)。
私がこれまで接してきた「日中戦争」の呼称としては、次の3種類があるのではないかと思います。
(1)満州事変からはじまる15年間を日中戦争
(2)満州事変から支那事変までを日中戦争
(3)支那事変を日中戦争
強制的ではないにせよ、戦後に言われた呼称で、歴史の本質を隠してしまうのではないか、と思います。「事変」と「戦争」は違いますし、単に「日中戦争」と言ってしまいますと、どの軍と日本軍が、どういった経緯から戦ったのか、分からなくなってしまいます。
詳細につきましては、後日、ブログに書きたいと思います。
投稿: 三井田孝欧 | 2006年5月23日 (火) 12時26分
わかりやすいご説明、ありがとうございます。
それにしても当時はまだ今のような「中国」はなく、また
外交上はあくまで「事変」だったにも関わらず、なぜ
「日中戦争」という呼称が浸透してしまったのでしょう?
政治的・思想的な意図があったのかもしれませんが、
「戦争」と「戦闘行為」を混同してしまったのも理由
のひとつかもしれませんね。
「戦争」については学ぶことも語ることもタブー視され
がちですが、そろそろ正面から向き合うことが必要では
ないかと思っています。それにはこの時代の歴史について
客観的・多角的に捉え直すことが重要かと。
というわけで今後もブログ、楽しみにしています。
頑張ってください。
投稿: Y | 2006年5月28日 (日) 18時33分
Yさん、ありがとうございます。
戦争から、表も裏もより多くの事を学ぶのが、戦没者への一番の鎮魂にもなると思っております。
良寛の辞世の句
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」
投稿: 三井田孝欧 | 2006年6月12日 (月) 07時50分