沖縄が唯一の地上戦?占守島の戦い
6時起床。愛犬の抜け毛がひどくなってきたので、1時間ほどかけて丁寧にブラッシング。
先日、岩手県で買ってきた納豆を中心に大粒納豆を数種類ブレンドした納豆、目玉焼き、赤味噌を使ったほうれん草の味噌汁で朝食。
9時から柏崎準倫理法人会のK事務長、K幹事とともに6月20日の講演会のチラシをもって、高柳町から各商店、公共施設、会社をまわる。
高柳町の天然酵母のパン屋「麦麦ベイク」(電話:025-741-3032)でK幹事がパンを数種類購入。「じゃがいもパン」を頂く。じゃがいもが練りこんであり、風味が良い。
各箇所をまわっているうちに、12時になったので、老舗のラーメン屋「盛来軒」(電話:0257-22-2181)で昼食をとることになり、「岩海苔ラーメン 770円」を注文。
自家製太麺とさっぱりスープが懐かしさを醸し出している。このお店の「ソフトクリーム 280円」はスタンドに刺した状態でだしてくれるので、子供の頃は憧れであった。さすがにこの年で注文するわけにはいかずラーメンのみ。
14時まで各箇所をまわり、14時30分から事務所で打ち合わせ。16時、上越地域からの来客。商売の話であったが、だんだん政治の話まで広がり、1時間ほど話し込む。
18時から、某氏と某所で「飲み飲み」。
来年の統一地方選挙を含め、今後1年間を決めるような、充実の話合い。
話が充実し、生ビール5杯、芋焼酎ロック1杯で切り上げる。
最近、事務所ではなく、自宅の留守番電話に色々とご批判のメッセージが入るようになった。事務所側の電話を公開しているのに、意味をつけてのことか、自宅の電話の方にである。
ある女性の声でのご批判は、本ブログも読んで頂いているようで、憲法改正に関するものであった。先日の成人式で9条を守るといったビラを配っていることについて、私が批判したことへの反論が主な内容。録音できるメッセージの長さをフルに使っての、改憲したら「若い息子が戦場に行く」「沖縄の唯一の苦しみを分からないの?」といった主張であった。
一方的にメッセージをお入れ頂いたが、本ブログを見て頂いているようなので、この場でご回答したいと思う。
改憲したら即、戦争で、かつ兵役もない日本で若い世代の男性から次々に戦争に行くなどとは、論理がかなり飛躍している。現代の戦争は兵器を使ってのドンパチだけではなく、情報戦や経済戦も意味する。それを横に置き、さらに1000歩ほど譲って、ドンパチの戦争になったとしても、訓練をしていない民間人と自衛官は一緒ではない。
この時点で、反論をもらう段階になろうが、もう一つ指摘しておきたいのが、沖縄が唯一の本土戦という点である。
沖縄が日本本土として、戦場になったのは事実であるが、これだけではない。北方も戦場となり、民間人も被害にあっている。
ここであえて例をあげるのが、民間人の避難が成功しつつも、最大の戦闘となった、北千島の占守島(しゅむしゅとう)である。
日本が戦闘を終結したのが昭和20年(1945年)8月15日、しかしその3日後である同年8月18日、日ソ中立条約(有効期間は1946年4月11日まで)を一方的に破り、武装解除を進めていたこの占守島に対し、まさに火事場泥棒のソ連が侵攻してきた。
8月18日未明、対岸のソ連パトロカ岬から砲撃が始まる。同時にソ連の艦からの射撃による援護を受けながら、ソ連軍が上陸を開始。武装解除をしていた日本軍は、急遽、体裁を整え、速射砲と大隊砲、陸海軍の航空隊所属の僅かな戦闘機によって迎え撃ち、十分な武装がないため、壮絶な体当たりを敢行する機もあった。日本軍兵士は、ノモンハン事件やガダルカナル島の生き残りが多く、戦闘のプロである上、士気が高かった。
当時、島には日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、従業員2500名のうち400名は女子工員。8月15日以降、内地へ送り返すこととなっていたが、いきなりのソ連軍の攻撃を受けて内地に戻れずにいた。参謀長らは
「このままでは必ずソ連軍に陵辱される」
と400名の女子工員を20隻の独航船に乗せ、濃い霧に覆われた中を出航させた。日本軍は、高射砲を一斉に射撃して守り、5日後、北海道に全員無事戻ることができたのである。
ソ連軍は甚大の被害を出しながらも、18日6時までに四嶺山まで侵攻。そこで、迎え撃ったのが、池田末男中佐率いる戦車第11連隊。「十一」をなぞらえて「士魂部隊」と呼ばれており、池田末男中佐は「戦車隊の神様」と呼ばれていた。満州では戦車学校の校長を務め、そのときの生徒の一人に後の作家・司馬遼太郎がいた。その人柄、そしていかに部下に慕われていたのかは、昭和の軍人に厳しい視線の司馬遼太郎をもってしても、その著書『街道をゆく29』「占守島」には好意的に書かれている。
池田末男中佐は、直ちに戦闘準備を下令するとともに、こう訓示した。
「諸子よ、状況はすでに見る通りである。
われわれは大詔を奉じ、家郷に帰る日を胸に
ひたすら終戦業務に努めてきた。
しかしながら事ここに到った。
もはや降魔の剣を振うほかはない。
そこであえて皆に問う。
諸子はいま、赤穂浪士となり、
恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、
あるいは白虎隊となり、
玉砕をもって民族の防波堤となり、
後世の歴史に問わんとするか。
赤穂浪士たらんとするものは一歩前に出よ。
白虎隊たらんとするものは手を挙げよ」
喚声と共に全将兵が手を挙げ、池田戦車隊の壮絶な玉砕戦が始まったのである。
池田中佐は突撃における最後の連絡をこう行った。
「戦車第十一連隊将兵は四嶺山のふもとにあり、
士気ますます壮健なり。
五時五十分、池田連隊は直ちに敵に突入する。
祖国の弥栄(いやさか)を祈る!」
その池田中佐をはじめ、多くの戦死者を出しながらもソ連軍を追い落とす勢いで日本軍は盛り返した。戦後に発表された数字は、日本側、ソ連側での違いはあれど、日本の被害より、ソ連側が受けた被害は甚大であった。
*日本側資料 日本軍死傷者500名~600名、700名
ソ連側約3000名
*ソ連側資料 日本側死傷者約1018名、ソ連側約1567名
しかし、日本はポツダム宣言を遵守しようと、休戦を持ちかけ21日になって戦闘行為が停止される。戦闘行為で勝っていながらの停戦に日本兵は涙を飲み、さらには再度の武装解除をしたところで、生き残った日本兵はシベリアへ送られ、極寒のなか抑留された。
司馬遼太郎曰く、この戦闘は無駄ではなかったのか、ということであるが、ソ連による北海道の占領を事実上阻止したと私は思う。
沖縄のことも語り継ぐべきであろうが、また同時に解決していない北方領土を考える意味でもこういった歴史も語り継ぐべきであろう。
*戦車第11連隊の慰霊碑は、愛知県豊橋市にある。また陸上自衛隊真駒内駐屯地の第11戦車大隊は「士魂」旗を掲げている。
« 東部体育協会大運動会 | トップページ | 「君が代」不起立問題 »
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 台湾スイーツ「豆花」台湾カフェ「騒豆花」視察(2019.04.18)
- 2019_柏崎市議会議員選挙応援演説(佐藤ひろたか候補@勝願寺)(2019.04.19)
- 追悼『ルパン三世』作者モンキー・パンチ氏(2019.04.20)
- 三井田たかお総決起大会~元気がでる大講演会(2019.03.08)
- 2019三井田たかお政策動画(地域経済の活性化、交流人口増大について)(2019.03.09)
コメント
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: 沖縄が唯一の地上戦?占守島の戦い:
» 韓国と中国は"なぜ"反日か? [韓国は『なぜ』反日か?]
日本人として知っておかねばならない事がここに書いてあります。 [続きを読む]
お初です。
掲示板にもカキコしましたけど、こんな話もいずれ書いてください。楽しみにしてます。
http://youtube.com/watch?v=eiuqkDeWRYs
投稿: 桜花 | 2006年5月31日 (水) 22時13分
桜花さん、コメント、ご紹介ありがとうございます。
まだ本編を見たことはありませんが、松本零士氏の作品ということもあり、是非、探して拝見してみます。
「桜花」についても、いずれ書きたいと思います。
投稿: 三井田孝欧 | 2006年6月12日 (月) 07時54分
こんにちは、議会が始まりお忙しいことと思います。桜花さん紹介の松本零士作品って昔々に小学館から出ていた「戦場マンガシリーズ」がアニメ化されたのですか?見たいような辛いような、久しぶりに古いコミック引っ張り出して読み返しました。 ずれたお話で悪いのですが、召集されてから訓練して戦場へ行くまでの期間はどのくらいなんでしょう。短期間で普通の人が戦えるようになるのかと思っていました。特に自分に置き換えて考えると1年かけても役に立つかどうか?で、陸軍などは着替えやら飯盒やら武器やら全部背負って走ったりしたんでしょうね?する自信ないです。
投稿: くまぐま | 2006年6月14日 (水) 12時52分
くまぐまさん、コメントありがとうございます。
召集されてから戦場に行くまでですが、職種や部隊によっても違いますが、戦争末期となると数ヶ月のオーダーで戦場にでることになり、特に戦闘機は離陸するのがやっとという状態があったそうです。そういった観点からも、戦争を語ること自体を右翼だ、軍国主義だ云々だといわずに、正面から受け止め、多くの犠牲をだした戦争からの教訓を学ぶべきと思います。
投稿: 三井田孝欧 | 2006年6月17日 (土) 11時17分