柏崎村開拓団、太古洞開拓団跡地、公墓にて慰霊
6時起床。あまりの天気の良さに、ホテル周辺を散策する。
7時、豆乳や饅頭を中心にした朝食。温かい豆乳に砂糖を入れて飲むのが普通らしいが、やはり豆乳はそのままがベストである。健康食として注目されている依蘭の料理らしく、「ちょろぎの酢漬け」があった。
8時、ホテルを出発する。依蘭県の中心地に行き、団長の弟さんが経営する市場を見学させてもらう。
市場というものの、これまで屋外で行商をしている人たちを集めた、ショッピングモールの形式をとっており、入った途端、売り手と買い手の物凄い活気、そして物の量で圧倒される。
天候に左右される屋外で、不衛生に販売している人たちを集めることによって、売る側も安定した商売ができ、また買う側も安心して買えるようになったという。
肉も鶏や豚がシメたそのままがぶら下がっており、目の前でさばいていた。
肉屋さんの中に、惣菜を専門に扱う店があり、それこそ豚であれば、顔から尻尾まですべての部分を調理し、売っていた。耳などは沖縄料理でミミガーとして食べたことがあるが、豚の尻尾や鼻の料理を見るのは初めて。好奇心から豚の鼻の燻製を5元で購入。コリコリとした歯ざわりとゼラチン質で、上質の豚足といった感じであった。
バスごと船に乗り込み、松花江を渡る。
松花江はアムール川最大の支流で、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流し、日本海にでる。満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー)」、「天の河」の意味。
松花江を渡ると清河鎮という街。満州柏崎村開拓団にとっては、この街にあるレストランで外食するのが、ご馳走だったという。
朝鮮人の方が多いとのことで、食堂を見ても、朝鮮料理のお店が多い。
パトカーの先導により、満州柏崎村開拓団跡地に向かう。
満州柏崎村開拓団、正式名称は第11次梹榔(ひょうろう)柏崎村開拓団は、旧満州国黒江省(現・黒龍省)通河県管轄にあった。
大東亜戦争の真っ最中の昭和16年、柏崎市、柏崎商工会議所も共同し、満州開拓規制同盟会を結成。
昭和17年4月4日、第11次梹榔柏崎村開拓団の先遣隊29名が満州に渡った。
昭和18年7月16日、小熊啓太郎団長が急死。準市葬を行う。
7月31日、分骨をし、再び、満州柏崎村の地に渡る。
そして、昭和20年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破り、対日宣戦布告して、満州全土に侵攻。
昭和20年時点の満州には、日本人が300万人。うち死亡者、約50万人。
新潟県の開拓団員は9361名、義勇隊員3290名。
満州開拓団数は881団、戸数約10万6000戸、人数約30万人、うち死亡数は7万8500人(元厚生省調査)である。
満州国三江省通河県
<第11次梹榔柏崎村開拓団>
・団 長:
初代:小熊啓太郎氏
(昭和18年7月6日 現地で病死・45歳)
入団戸数予定60戸
2代目:前田義三郎氏(9月 帰柏)
3代目:佐々木桐樹医師
坂爪団員団長代理内地帰還。
・渡満日:
昭和17年(1942年)4月4日、先遣隊29名が柏崎駅を出発。
・入植記念日:昭和17年4月15日
小熊団長曰く、「風景は内地の赤倉地方に似たり」
・先遣隊家族:
昭和17年5月15日、第二次先遣隊団員に、家族を含め
20余名が柏崎駅を出発。今回の慰霊の旅の巻口団長のご尊父
巻口栄一氏も入植して間も無く家族を迎える。
以下家族、巻口7名、樋口2名、渡辺3名、江口3名の家族が
第二次先遣隊として渡満した。
・入植式:
昭和17年6月8日、入植式は本隊を迎えて挙行。
<1>柏崎村の概略構成
面 積:南北18キロ、総面積34平方キロ。
小古洞川が縦貫する。
位 置:松花江沿いの依蘭街の対岸に近い八浪河と
西方に大古洞河の中間に入植。小古洞開拓団
から柏崎村開拓団の岬部落まで15キロ。
距 離:清河鎮(清河鎮は松花江の沿岸)から梹榔地区
まで28km弱。通河県所在地から清河鎮まで60km。
集 落:本部部落・16戸、76名、神明部落・11戸、51名
八坂部落・7戸、34名、鏡部落・11戸、45名、この他
岬部落を小古洞開拓団から払い下げ5部落となる。
総戸数は45戸。人員数合計206名。
<2>関拓団退避時の状況
昭和20年(1945年)8月 現在戸数45戸
人員合計178名。(内訳 男63名、女115名)
<3>大古洞下伊那在満国民学校で集団生活。
昭和20年8月、4カ団 大古洞(長野県)、小古洞(長野県)
漂河(佐賀県)、柏崎(新潟県)の開拓団が集結し、ソ連の
暴挙から身の守備を固め、越冬のため共同行動をとる。
柏崎村関拓団家族は4月30日までに死没者数40名。
残る人員138名。
3月15日、残った138名は慌しく分散。
(広川、磯野2家族8名は別行動をとる)
<4>集団生活解散
昭和21年(1946年)3月10日、食料配給が打ち切りとなり、
集団に見切りを告げられる。松花江の氷解を前に解散。
残留組と離別。ハルビンに向けて避難する組33家族98名
は命の保全もない死を覚悟した出発。
ハルビン組は300kmに命をかけ強硬な出発。
通河県所在地を経由、道中の散々たる逃避行語りがたし、
子どもを途中で捨て、親を現地人に預け、飢えで死ぬ者、
家族の分散、落伍者を残して辿りついた者は69名。
<5>残留組は開拓団現地へ戻り営農
わずかな種籾その他を貰い、前柏崎村関拓現地の神明
(水田)部落跡で生き延び策をとって現地へ戻り帰農。
先々当てのない不安のなか残留組10家族36名は共動
をとる。清水2名(男)のほかは中国人、朝鮮人の妻となる。
巻口5名、曳地6名(病弱の夫を抱える)、植木3名、
与口4名、高木4名、広川5名、磯野2名、広川2名、
与口1名ほか。
<6>死没者
ハルピンに辿るまでと収容所の死没数55名、
大古洞死没数40名、合計死没者95名の他、
把握されないほどの死亡者であった。
<7>生存帰還者
応召団員(シベリヤで捕虜)、置き去り家族、孤児、
一時帰国者、引揚げ者を含め、およそ約2割足らずの
生き残りが帰国して全国に散らばった。
柏崎村開拓団跡にて、日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えし、全員で読経をしての慰霊祭を執り行った。
広大な土地を開拓しようとした努力、そしてソ連軍による悲劇。とにかく、安らかにお眠り頂くようお祈りをした。
また日本から持ってきた、原酒造さん、石塚酒造さんの酒をじっくりと染み込ませるよう辺りに撒き、日本の味を懐かしんでもらった。
ここに満州柏崎村があったことを残すために、記念植樹を行なった。
できれば桜、桜がダメなら松か何か日本らしさをと思っていたが、やはり事情が事情であり、環境の問題もあるので、仕方なくモミの木である。ただ、植樹を許してくれたことには感謝する次第。
参加者全員で、少しずつ砂を盛り、柏崎から持ってきた水を最後にかけた。ここに柏崎村があったことを後世に伝えるためにも、枯れることなく、グングンと育ってほしい。
続いて、柏崎村開拓団が一冬を越した太古洞開拓団跡地、及び太大古洞下伊那在満国民学校跡地に向かう。
現地は柏崎村と同様、広大な土地である。
ここでは、大古洞(長野県)、小古洞(長野県)、漂河(佐賀県)、柏崎(新潟県)の4開拓団が集団で越冬した。
統率したのは、召集を免れた教諭・教諭・前川貞之助氏(明治36生)と助産婦・沢田アヨ子氏。二人は責任を持たれ、医薬品のないなか、義務感で献身に各家族に尽くされたという。
日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えする。
昭和20年8月8日以降、ソ連軍から逃げる際には履物もなく、裸足で逃げた苦痛があったため、せめて天国では履物を履いてほしいとの思いから、巻口団長が新品のサンダルをお供えされていた。
全員で黙祷を捧げ、慰霊祭を執り行った。現在、学校跡地は新しい小学校が建てられ、多くの子供たちがおり、お経を読むことは差し控えてほしいとのことで黙祷である。
太古洞開拓団で、このここで越冬した筒井氏からご挨拶があり、柏崎開拓団についても触れられていた。
「柏崎開拓団の人達は、校舎の屋根にある真中の煙突の左下あたりの教室が割り当てられておりました。当時12歳の私にとって、柏崎の方々は、美人が多く陽気で、避難生活の苦しさを、例えば暗いランプの下で即興的な歌や演劇で楽しませてくれる大切な人々でした」
慰霊祭ののち、昼食をとるため、再度、松花江を渡り、依蘭県の中心地に戻る。
飲食店の店頭には、赤い飾りと青い飾りがある。青い飾りは回教徒用の飲食店であり、豚肉を一切扱っていない。
回教徒は、イスラム教を信仰する中国の少数民族で、中国の少数民族中で最も多い人口である。回族の「回」は回教(イスラム教)を示し、回教徒を穆斯林(ムスリン)と呼んでいる。回教徒は豚の肉を食べず、羊や牛の肉を主食としている。
回教徒ではないので、豚肉を扱う「金鼎軒食府」にて昼食をとることに。
中国四大料理といえば、北京料理、四川料理、上海料理、広東料理。東北地方の料理は入っていないが、餃子だけは美味しいと中国国内でも有名という。確かにモッチリとした皮と肉汁があふれでて美味しい。
餃子は縁起の良い食べ物とされており、餃子の発音が、交子(子供が授かるという意味)と同じで「子宝に恵まれる」「子孫繁栄」、もしくはその形が昔のお金に似ているからと「お金に困らないように」とも言われる。
ちなみに、中国国内では、四大料理とは言わずに八大料理として、山東料理、四川料理、広東料理、福建料理、江蘇料理、浙江料理、湖南料理、安徽料理と分類しているそうである。
牛の腸を輪切りにして煮込んである料理には、その味もさることながら、料理法に驚かされた。
食後、方正県に移動。ここには、1963年、中国政府が建立した、中国国内で唯一の日本人公墓がある。
1984年には、この公墓のとなりに、麻山事件の被害者たちの公墓も建立された。
麻山事件は、黒龍江省麻山地区でソ連軍戦車部隊と蜂起した中国人によって前後をはさまれて身動きがとれなくなり、四百数十名が集団自決した事件である。
中日友好園林の門をくぐると正面に、「和平友好」と書いてある記念碑があった。長野県日中友好協会、信濃教育会、長野県開拓自光会と書いてあり、1995年9月17日に建立されたもの。開拓団や義勇軍を日本で一番多く送り出したのが長野県であった。
その先には、少し大きめの「中日友好往来記念」と書いてある記念碑があった。
裏にまわって、見てみると「山梨県日中平和友好会」とあり、1999年8月に建立されたものであった。
そのまま奥に進むと、麻山事件の公墓と日本人公墓が並んでいた。
お墓の後ろには丸い石の蓋がかかった碑があり、ここに日本に逃げ帰る途中、寒さや飢えなどのため命を落とした婦人、子供たち5千余人の遺骨が納められている。
東亜戦争の戦況が悪化してきた昭和19年2月。世界に誇った関東軍の精鋭主力部隊は南方戦線に移動し、しだいに関東軍の戦力は手薄になった。
まして、ソ連とは不可侵条約を締結していたこともあり、武器も最低限のものであった。
2月 第14師団(チチハル→パラオ諸島)
第29師団(遼陽→グァム島)
第27師団(錦州→中国北部)
6月 第9師団(牡丹江→台湾)
第28師団(ハルビン→宮古島)
第68師団(公主嶺→レイテ島)
7月 第1師団(孫呉→レイテ島)
第8師団(緩陽→ルソン島)
第10師団(佳木斯→ルソン島)
戦車第2師団(勃利→ルソン島)
第24師団(林口→沖縄)
10月 第23師団(ハイラル→ルソン島)
12月 第12師団(東寧→台湾)
ちなみに第14師団は、パラオ諸島に移動した後、主力をパラオ本島、歩兵第2連隊をペリリュー島、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備し、米軍と徹底交戦。ペリリュー島では、原住民を本島に避難させ、補給も途絶え、食糧もない中、日本軍1万2000名に対し、米軍4万2000名での徹底抗戦。73日間にもわたる死闘し、昭和19年11月24日、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」をパラオ本部に打電。残ったものも古式に則った割腹自決し玉砕。アンガウル島も続いて玉砕した。
ニミッツ提督は自身の回想録『太平洋海戦史』で、この戦闘の激しさについて、こう書いている。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
話を満州に戻せば、南方戦線への移動など、関東軍のこうした状況下へ、いきなり侵攻し、しかも民間人をも狙ったのである。軍人同士が戦うのが「戦争のルール」。民間人を守り切れなかった関東軍の責任もあるが、大きな視点で見れば、ソ連軍の残虐行為、国際法違反の何ものでもない。
日本から持ってきた御菓子や酒、花などをお供えし、全員で読経をしての慰霊祭を執り行った。
これまでに参拝にきた国会議員は、加藤紘一衆議院議員だけとのこと。是非、小泉首相、いや次期首相にはこの地を参拝してもらいたいところである。
続いて、植樹を行った。柏崎だけではなく、すでに日本から多くの団体や個人が訪れているようで、お墓のまわりは植樹された木でいっぱいであった。
1995年、日本に帰ってきた中国残留日本人孤児の方や一部の日中友好団体などにより建立された、中国内では唯一の「中国養父母公墓」もある。
こちらも御菓子や酒、花などをお供えし、お参りをさせてもらった。
この「中国養父母公墓」にも是非、首相の参拝という話をしていたら、参加者のある方から日本が靖國参拝をやめないと難しいのではないか、というご意見を頂いた。
個人的には、靖國神社も、この中国にある日本人公墓も、そして養父母に御礼を述べる意味で中国養父母公墓も参拝すれば良いと思う。もっと大らかな視点で、慰霊すべきであり、この行為にイデオロギーや政治を持ち込むことが自体がおかしいのではないか。
中日友好園林のなかには、立正佼成会が2002年8月15日に建立した、「日中友好 世界平和」の碑もある。
他の碑が「中日友好」と書かれているなか、唯一「日中友好」となっており、かつ「世界平和」まで書かれている。これぐらいの大らかさがほしいものだ。
紀念陳列館もあり、方正県で稲作指導に当たった岩手県沢内村の篤農家・藤原長作氏に関することが紹介されていた。
藤原氏による寒冷地における稲作技術指導により、黒竜江省の稲作農家の収量は飛躍的に向上し、地元農民はもとより、黒竜江省の稲作の発展に大きな貢献を果たした。
藤原長作氏は1998年8月17日に亡くなったが、その遺志に従い、遺骨の半分がこの「中日友好園林」に安置されている。
中日友好園林を後にし、いまだに開拓団が建てた家が一部残るという、伊官通という地区に寄ってもらった。
この地区に限らず、多くの地区で鶏が放し飼いになっており、メス数匹に対して、雄雄しいオスが闊歩している。オスらしい振る舞いで、近くに寄って写真を撮ろうとすると、背伸びをし、今にも突っついてくるようなポーズで威嚇をしてくる。なかなか面白い。
地区のなかを歩きまわってみたものの、完全に60年前の建物と分かるものはなく、一部残っているものがあった程度。
歩いている途中で、遠くからはち切れんばかりの笑顔で一所懸命に「おいで、おいで」をする中年女性がいた。一緒にいたYさん、Sさんが近寄ってみると、いきなりの日本語。そして、Yさんが「日本語お上手ですね」というと、「だって、私、心も日本人だもん」と話されたとのこと。時間がなく、じっくりお話をすることができなかったが、再度、訪れたときにはじっくりとお話をお聞きしたいものである。
ハルピンへ移動。21時過ぎにやっと宿泊先のハルピングロリア花園酒店に到着。
本日までの2日間での車の移動は、817km。かなりの強行スケジュール。しかし、巻口団長をはじめ、ご年配の皆さんは元気にしている。若いときの鍛え方が違うのではないかと思う。
ホテルは松花江に面し、1957年の松花江が氾濫した際の歴史を残す「防洪記念塔」がある。松花江よりの公園の名前は「スターリン公園」。
ホテルではブロードバンドが整備されており、インターネットが使えるが、案の定ネット規制がかかっており、ウィキペディアをはじめ、チャンネル桜、大紀元時報などアクセス制限され見えなくなっている。
ホテルの装飾品で、金魚を利用したものがあった。2階から1階にかけて、天井から透明なボウルが連なって吊ってあり、それぞれに金魚が2~3匹。水が2階から、流しそうめんのように注がれ、循環しているようになっている。餌はさておき、水蘚などの掃除などはどうしているのか、人事ながら心配になる。
22時から夕食。遅くなっての食事なので、あまり食欲もないが、ロシア風の田舎料理というトウモロコシと豆、豚肉などを一緒に煮た料理が口に合い、多めに食べてしまった。素朴ながらも力強い味わいで、何だか、力がでる感じがする。
寒いところの民族はこうやってエネルギーを補給するんだな、と勝手に感心した。
他の方に一番人気があったのは、塩味の炒飯であった。
24時近くまで一度仮眠し、その後、夜街の探索にでる。
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