ハルビン:ユダヤ人と日本人、抗日烈士
6時起床、7時に朝食。饅頭や豆乳を中心にしたメニューで、特に地鶏の蒸した卵、そして漬け込んで塩辛く味をつけた塩卵が美味であった。油条(ヨウティヤオ)や饅頭をほおばっては、塩卵をちょっと口に運ぶ。
8時、バスで出発し、強い向かい風のなか14時過ぎにハルビンに戻る。バスの運転手さんに聞いてみたところ、この2日間の移動距離は917kmだそうである。ハルビン-五大連池間が約400km、五大連池-二龍山開拓団跡地間が約60km。
14時過ぎ、餃子専門店の「東方餃子王」にて昼食。
かなり人気のお店のようで、チェーン展開もし、今年中には新潟市にも出店する予定であるという。
新潟市で成功するのか否か、注視したい。
揚げたというよりは、多めの油のなかで片面ずつ泳がせた感じの揚げ餃子。海老、豚、ニラ、それぞれを中心にしたもの3種類を食べる。海老のプリプリ感、豚肉の濃厚さも捨てがたかったが、やはりニラが美味であった。ちなみに、ニラの餃子は庶民の味ということで、高級な餃子専門店では扱わないという。
水餃子は、豚とラードを包んだもの、セロリと香菜を刻んで入れたものの2種類。水餃子にセロリとは意外であったが、歯ごたえが面白く、香菜との相性も抜群であった。また豚とラードは、噛んだ瞬間にかなり熱い肉汁が口の中に広がり、よくできた小籠包のようであった。
16時から18時までフリータイムとなったので、安重根が伊藤博文を暗殺した旧ハルピン駅の記念プレートを探しにいく。しかし、タクシーの運転手と言葉が通じず、なんとか漢字での筆談を用いて、旧ハルビン駅の近くまで移動(20元)。
探すも、伊藤博文暗殺現場跡を見つけることができず、ウロウロしていると、「抗日」の文字がある記念塔の前にでた。人伝えでは、伊藤博文を暗殺した安重根(朝鮮)の名もあると聞いていたが、9・18中国自衛戦争の説明と、「東北抗日賢愛国自衛戦争烈士記念塔」の文字があった。この近くに「東北抗日記念館」もあると聞いていたので、歩いて探し回る。
その記念館には、日本人からは売国奴と罵られながらも、日本軍へ向けて反戦放送を行ったエスペランティストの長谷川テル(緑川英子)や中国軍の伝染病の治療に当たった佐々木源吾医師の展示があるとのことで、是非、見てみたかったのだが、結局、見つからず。
帰りの道路事情を考え、再びタクシーを捕まえて、ホテルの方まで戻る。宿泊は、昨日と同じく、ハルビングロリア花園酒店。陽気な運転手で英語や漢字での筆談(前を見ないので危なかった)をしながら戻り、到着したもののメーター表示の料金は気にせず、料金は9元でいいと言い出したので、お言葉に甘えることにした。よく考えれば、筆談で見たい施設を列挙し、この運転手に案内してもらえばよかったと反省。
他にも見たい施設が色々とあったが、時間の関係上どうしてもみることができなかった。トルコイスラム寺院、ユダヤ教会、旧関東軍特務機関の本部建物などである。特にユダヤ関係では、日本人が「八紘一宇」「人種差別撤廃」の精神に基づき、いかにユダヤ人を救ったのか、この目で見たかったのである。(写真は昭和13年3月、オトポールからハルビン駅に到着したユダヤ難民)
昭和11年(1936年)11月、日本はドイツと「日独防共協定」を締結した。しかし、ドイツ国内ではユダヤ人への迫害がはじまった。ポーランドやソ連(シベリアにユダヤ自治州ビロビジャンを設定)以外、ユダヤ人がヨーロッパ各地に逃亡しようにも容易には受け入れてはくれず、アジアを目指した。アジアの中では青島、上海、そしてハルビンがユダヤ人集団居住地になったのである。
ハルビンにいたユダヤ人のなかでも病院を経営していたカウフマン博士はユダヤ人の昭和12年12月26日から3日間、ハルビンで「第一回極東ユダヤ人大会」を開き、ユダヤ人の団結や権利をアピールしていた。「人種差別撤廃」の精神に基づき、ドイツとの関係もあることながら、その大会に理解を示したのが、実は関東軍であった。
年が変わって、昭和13年3月、数千人のユダヤ人がソ連領であるオトポールに逃亡してきたものの、飢餓と寒さにふるえていた。これを知ったカウフマン博士は、関東軍ハルビン特務機関長、樋口季一郎少将に相談をする。
樋口少将は、
「ポーランドもソ連も彼らの通過を許している。
『五族協和』『万民安居楽業』を呼号する
満州国が放置することはできない」
とし、満州国外交部を説得。
そして樋口少将は大連の満鉄本社に打診。ときの満鉄総裁である松岡洋右も即、応諾し、ハルビンまでの特別列車を走らせ、無料でユダヤ人を搬送した。
のちに首相となる関東軍参謀長・東條英機のもとには、外交ルートを通じてドイツからの強い抗議が届いており、樋口少将は呼び出されるが、こう言って説得したという。
「諸民族の融和が日本の国是であり、
そもそも日本はドイツとの盟友ではあるが
属国ではない」
昭和15年、リトアニア領事代理であった杉原千畝(すぎはらちうね)が、ビザを発行し、多くのユダヤ人を救ったことは有名になったが、このハルビンでのユダヤ人救出の話はあまり知られてはいない。今回のハルビンでの自由時間に、その歴史の掘り起こしもしたかったのであるが、何分にも時間が足りなかった。
ちなみに、樋口少将は昭和17年8月1日、北部軍司令官に着任。アッツ島(初の玉砕)、キスカ島撤退(戦史上、稀にみる完全撤退劇)、そして敗戦後の占守島(しゅむしゅとう)、樺太におけるソ連軍との戦闘を指揮した。
*救出したユダヤ人が2万人との説があるが、当時のオトポールは人口五千人の村であること、そして樋口少将直筆の報告書(防衛庁戦史資料室)には、「満州里からの報告では幾千人」とあるため、数千人が事実と思われる。
*樋口季一郎、石原莞爾は陸軍士官学校時代の同期で気心が知れており、理想国家「満州国」への熱い想いは一緒であった。
*名著『流氷の海』の著者である相良俊輔氏は、死後、樋口季一郎少将が眠る妙輪寺大磯・妙大寺(神奈川県・大磯駅近く)の近くに葬ってほしいとし、1979年8月に亡くなった際、2m離れた位置にお墓が作られた。
ホテル近くに戻ってから、再度、買い物へ。中央書店にて、日本帝国軍揚秘、「食人魔窟」731部隊、東京大裁判(1)(2)、南京大虐殺(上)(下)、日本侵略史、日本甲級戦犯罪行録、原子弾爆炸秘聞、「日帝性暴力受害者」慰安婦奴のVCDをそれぞれ10元、末代皇帝溥儀のVCDを20元で購入。日本がどう描かれているのか、見るのが楽しみである。また溥儀については、現在の中国人から見た視点が興味深い。
18時過ぎから、「日月譚 南山店」にてお別れの宴会。羊肉のしゃぶしゃぶを中心に、白酒の乾杯が続く。さすがに連日の暴飲暴食があり、またビールが冷えていないこともあって、冷え冷えになっていたコーラを飲む。
宴会の部屋にカラオケがあり、日本側からは『昴』『北国の春』など。中国側を代表しても一曲歌ってもらったが、台湾の基降港が望郷の地であるという歌であり、複雑な感じであった。ツアーコンダクターさんのお話によれば、以前、軍歌を歌って、中国人側ではなく、日本人参加者内で問題になったことがあるという。
太古洞開拓団の慰霊のため、柏崎開拓団とは別行動をとり、佳木斯(じゃむす)に行っていた池田先生のグループと合流したため、池田先生から五頂山における関東軍の三日間の戦いの紹介と慰霊の報告があった。
一般に満州へのソ連侵攻とともに、すべての関東軍が民間人を捨てたと言われているが、勇敢に戦った部隊もある。それが五頂山を死守しようとした850名の勇敢なる兵士である。ソ連軍は3000~4000名、さらには最新鋭火器をもつのに対し、こちらは大した武器もない。このソ連軍を相手に3日間の壮絶な戦いをしたのである。3日間で戦死者は約半分の400名。その時点で撤退を余儀なくされるが、この3日間のソ連軍の足止めによって、逃げることができた開拓団員も多い。
*詳細については、池田先生と連絡をとりながら調査したい。
軍事上、部隊半数の死者がでることは「全滅」を意味する。また、深い傷を負った兵が一名でれば、そこに少なくとも一名ないし、二名の手をとられる。この部隊の負傷を負った兵士はどうしたかと言えば、戦友に迷惑をかけまいと自決をしたのである。
池田先生からは、こういった軍人がいたことも歴史に残してほしいとの要望もあった。次回、中国黒龍江省を訪れるときには、佳木斯(じゃむす)まで足をのばし、是非、戦地を訪れて、慰霊を行いたい。
21時過ぎ、一度ホテルに戻り、諸先輩とともに夜の街にでる。
毛沢東のマトリョーシカを買ったり、プラプラ歩いていると、何人かの画家の方が肖像画を描いてくれる商売をやっていた。白黒20元、カラー30元とのことで、せっかくだからとカラーで肖像画を描いてもらうことにし、諸先輩も描いてもらうことになった。
ある方曰く、「こんで葬式用の写真撮らなくてよくなったてぇ~」。
夜の寒風吹きすさぶなか、約40分で完成。最後にコートフィルムが20元というので、仕方なく追加で支払い、計50元で完成。
23時過ぎ、ホテルに戻る。
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ユダヤ人の処遇を決めるのは満州国の行政機関国務院であるべきなのに、
関与のしたのは大日本帝国関東軍や満鉄の人物ばっかり。
やはり「満州国は日本の傀儡国家だった」んだなとつくづく思いました。
投稿: | 2006年5月20日 (土) 11時55分
名無しさん、早速のコメントありがとうございます。
まず本文をお読み頂ければと思いますが、満州国外交部への説得も行っております。
そして、満鉄は満州国建国前からの権益であり、関東軍の駐屯、国防任務については、満州国との議定書に明記されております。
また、武力のみで建国をできないという事はイラク情勢を鑑みて頂ければと思います
*昭和7年(大同元年)9月15年「日満議定書」武藤信義関東軍指令官、満洲国国務総理 鄭孝胥
投稿: 三井田孝欧 | 2006年5月21日 (日) 10時03分
ゼネラル樋口の墓所は
大磯・妙大寺です。
妙輪寺ではありませんが
投稿: | 2011年2月16日 (水) 15時45分
満州国建設をした当時の日本は、なにはともあれすごいと思います。理念はやはり崇高であったと。
投稿: あなざわ | 2011年2月23日 (水) 22時26分
名無しさん、コメント、ご指摘ありがとうございます。
早速修正させてもらいました。
投稿: 三井田孝欧 | 2011年3月 2日 (水) 22時45分
あなざわさん、コメントありがとうございます。
完璧ではなかったにしろ、五族共和の近代国家建設は凄いことであったと私も思います。
投稿: 三井田孝欧 | 2011年3月 2日 (水) 22時53分