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2006年6月 2日 (金)

妹への遺書:大石清伍長

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 満州に関する資料を読み漁ってしまい、4時就寝。7時、起床。朝食のおかずを作る気力がなく、干し納豆と梅干を具にしたおにぎりと葱味噌の味噌汁で朝食。
 8時、名越先生からお電話があり、6月10日に「世界に開かれた日本近現代史」の新潟歴史掘り起こし番組(1時間)を2本収録するご提案があった。
 スタジオには6名ほど入れるので、日本近現代史に関心のある新潟県内の方をお連れして撮影にのぞみたい。
 長岡市の斉藤博大使、佐渡市の本間中将、郵政民営化もあったので上越市の前島密など、新潟県として掘り起こしたい人物は多い。柏崎市としては誰を選ぶか悩むところである。

F1000001_21 12時から14時過ぎまで、シーユース雷音の3階レストラン「羅針盤」で「ランチ 1000円」をとりつつ、打ち合わせ。ランチについてきた、ポテトサラダが海苔でサッカーボールに見立ててあり、なかなかの演出。ランチは、小海老とビーンズのチリソース、パイナップルの赤ワイン煮、チキンとあさりのチャンポン風スープ、サラダ、ライス、焼きプリン、ドリンクバー。

F1000002_10 15時から市役所にて、障碍をお持ちの方の住まいについての相談。
 16時、E氏とともに車で新潟市まで移動。途中、栄PAで休憩し、あまりの暑さに「ソフトクリーム 280円」を購入し、恥ずかしながらもペロペロと食べた。乳脂肪のしっかりした濃いクリームで久々に美味しいソフトクリームであった。新潟市内で、2社を訪問し、仕事関係の打ち合わせ。

F1000003_9 訪問した某社社長とすっかり意気投合してしまい、社長の奥さん、E氏と4人で一緒に夕食をとることになったため、車で移動し、「えん家 KURA」(電話:025-268-0455)へ。
 和風のしっとりした雰囲気で静かなお店である。

F1000006_4 「へぎそば」「鶏のから揚げ」「天麩羅盛り合わせ」「かにとアスパラのシーザーサラダ」などを4人でつまみながら、20時から23時過ぎのオーダーストップまで双方、酒も飲まずに今後の製品戦略を話し合う。

 戦争悲劇の名作と言われている「火垂るの墓」

は兄と妹が戦火のなか健気に生きる物語であるが、特攻隊員の兄と妹との涙を誘う物語もある。
 大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、昭和20年(1945年)3月13日、14日の大阪大空襲(深夜の3時間、274機のB29で民間人を無差別爆撃)で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くす。
 肉親は、大石伍長の妹である静恵さん、当時小学生。兄が戦場に行き、妹は伯父の元に引き取られていた。
 妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、このような手紙をやりとりしたという。出典:神坂次郎著『今日われ生きてあり』


Kami  静(せい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく。


 戦況の悪化により、鹿児島県知覧のみであった特別攻撃隊の飛行場の補助として作られた万世基地(鹿児島県加世田市)では、昭和20年(1945年)3月29日から終戦まで飛行第66戦隊、飛行第55戦隊が、一機、また一機と飛び立っていった。
 同年5月20日、大石清伍長が到着。その数日後、以下の遺書を整備担当であった大野沢威徳氏に預け、出撃し、散華した。


Ytなつかしい静(せい)ちやん!
 おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
 兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
 もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!


 この遺書を預かった大野沢威徳氏も以下のような手紙を添えている。


 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
 伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。
 伍長どのは、静恵ちやんのつくつた人形を大へん大事にしておられました。いつも、その小さな人形を飛行服の背中に吊っておられました。ほかの飛行兵の人は、みんな腰や落下傘の縛帯の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時人形が怖がると可哀そうと言つておんぶでもするやうに背中に吊っておられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、その人形がゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。
 
伍長どのは、いつも静恵ちゃんといつしよに居るつもりだつたのでしょう。同行二人。仏さまのことばで、そう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちゃんだったのでしょう。けれど今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になって、いつも見てゐてくださることと信じます。
 
伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちゃんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出して勉強してください。
 さやうなら


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