1時、就寝。7時、起床。だいぶ体が楽になってきたが、喉がまだ痛い。事務所でできる仕事を優先し、現地に行かなければならない仕事は連絡して延期させてもらった。何のタイミングか、昨日の夜から今朝にかけて、誹謗・中傷のようなメールが数通、HotmailやYahooメールのアドレスで届いていた。
11時、山芋、小粒納豆、卵をのせた「スタミナ蕎麦」を作り、ブランチ。
12時からチャンネル桜で、先日出演した「地方議員アワー 故郷から日本へ」が放送された。今回のテーマは「高齢者の生きがい」ということであったが、介護の現場の話を聞くことに夢中になってしまい、反省。
16時、来客。政治関係の情報交換。
18時30分から商工会議所で、柏崎準倫理法人会の役員会。「ほっかほっか亭」の期間限定新発売の「野菜ととり竜田のカレー風味弁当 460円」、「たまごマカロニサラダ 100円」の夕食をとりながらの打ち合わせである。
21時、一旦、自宅に戻り、車に乗り、長岡に移動。22時から懇親会に顔だけだす。
現在の柏崎とはどういう街なのか、最近は政治方面から聞かれることが多い。その一面を示す文書を長文であるが、以下に引用、紹介したい。
2006年 No.2『ENERGY for the FUTURE』
ルポルタ-ジュ111 新潟県柏崎市の場合
静かな「エネルギー基地」の水面下で起こっていること
吉田 威夫
柏崎市の市長は何度プルサーマルをやろうとしたことか。
そのたびに何かが起こってプルサーマルは先送りになってきた。
市長いわく、「プルサーマルは運命の綾」。そのうち市長が交代となり、反原発派も支援する新市長となって、またしてもプルサーマルはいつのことやら……。
名称だけか「反原発三団体」
一昨年の平成16年11月14日に柏崎市では市長選挙があった。立候補者は3人。現職で当選すれば4期日の西川正純氏(61)と、柏崎市の隣り長岡市の環境部長だった会田洋氏(57)と、前柏崎市議の桜井雅浩氏(42)。いずれも無所属ながら、「保守票が二つに割れ、革新がタナボタ式に勝利した」と言われる結果となった。勝ったのは会田氏で17293票二つに割れたために涙を飲んだのが西川氏16520票と桜井氏15385票である。有権者数は68857で投票率は71.85%だった。
市長となった会田氏は柏崎市の写真館(「写真界の草分け的存在」といわれる)に生まれ、柏崎高枚を卒業して東京大学工学部に進み、「在学中コレだった」と柏崎高校の先輩が旗をふるマネをしてみせた。「そのため一流企業へ就職せず大阪市の職員となったのだけど、当時の大阪市長も左翼の人だったらしいね」と、その先輩は付け加える。そして、長岡市の市長もそうで、会田氏を大阪市からスカウトして連れてきたが、その市長が市長選を落選したため、会田氏も長岡市を離れ、新潟市にある環日本海経済研究所特別研究員となって2年、柏崎市の革新派に説得されて柏崎市の市長選に出馬、運良く保守が二つに割れたために「漁夫の利」を得たという。会田氏の票の大部分は原発反対派の票だといわれている。柏崎市における反原発票は、大体15000といわれているからである。
原発の話の出たところで、桜井雅浩氏のブログを紹介しよう、桜井氏は柏崎駅前で学習塾を経営しながら、ほぼ毎日、日誌を付けるように書いているのだという。紹介するのは、昨年の11月25日付で「原子力発電所と柏崎」と題したブログの内容。市長選からほぼ1年経っているが…。
(昨晩の柏崎日報は柏崎刈羽原発訴訟の控訴審について紙面を多く割いて伝えている。1号機の原子炉設置許可を取り消すよう求めていた、いわゆる原発反対派による請求に対するものである。東京高裁は原告の訴えを退けた。改めてはっきり申し上げておきたい。私は現時点におけるエネルギー源としての原子力を認め、かつ核燃料サイクルの意義を認める立場である。そして、同時に国の安全審査体制に対し満足していない。改善が見られない限り、これ以上の協力は認められない、というのが私の国へのスタンスである。更に私は昨年まで市議会における社会クラブのメンバーや、共産党のメンバーにできうる限りの敬意を持って接してきた。自信を持って言える。それは考え方こそ異なれ、その姿勢が一貫していることへの敬意だった。しかし、私は昨年彼らとは訣別した。市長選挙において、自らの候補を立てずに裏に隠れ、表面上の「市民派」を演出することに腐心するという態度を取ったからである。原発反対派の中心を担う地区労の旗開きでは「長年の夢が実現した」と関係者は現市長を囲み、その正直な気持ちを表している。しかるに昨日の控訴審判決に対し、当の市長は、「原子炉設置許可処分が妥当なものであるという判決が出されたことは、市民の安全・安心を守る発電所立地市長としても、大変意義深いものと考えています。」とコメントを発表している。原告代表の田辺氏は92歳というご高齢であるが、今までの御労苦には敬意を払う。そして、反原発の運動が原発の大事故を結果的に防いできたという内容のコメントは多くの市民が正直なところとして納得するだろう。であるのならば、それを引き継ぐべき立場の人間が『そこは大人になって』等という立場でものを考え、進めていくべきではなかった。原発反対派が言う「よりましだ」という理屈は逃げ口上である。原発反対派の存在は柏崎にとっては大切なのだ。私は市長になったとき、反原発三団体に対し、市政功労をさし上げることを決めていた。原発を巡る問題こそ柏崎のエネルギー源だったのだ。しかし、本当に失望した。原発反対派は東京電力と市長が横並びで、判決を「大変意義深い」とコメントしたことをどのように問いているのだろうか。羊頭狗肉が処世術だとするならば、これほど柏崎にとって不幸なことはない。)
少々引用が長くなったが、3日間柏崎市にいて、いろんな人たちの話を聞いて、この桜井氏のブログが一番柏崎市民の言いたいことを代弁しているように思ったからである。
「地区労の旗開き」という言葉が出てくる。なつかしい言葉だ。だいいち「地区労」がまだ柏崎市に残っているのに驚く。社会党、総評の末端の組織だった。いまは各地の地区労はほとんど姿を消しているが、それが柏崎市にはまだあるという。
「旗開き」の「旗」は、むろん「アカハタ」を意味する。お正月の名刺交換会、あるいは賀詞交換会の左翼的表現とでも言っておこうか。いずれにしろ、柏崎市では今も左翼すなわち社会党、共産党の”顔”が存在して、昔ながらの”広い顔”を正月になると皆に見せているということだ。
彼らの「長年の夢」というのを解説しておく必要があろう。ほかでもない柏崎市長の座をわが派で占めることが、彼らの「長年の夢」だったのである。敗戦後、ただの一回も首長の座を手に入れたことのない柏崎市の左翼だった。だらしなかったのではない。逆に、柏崎市の左翼は筋金入りだったと言っていい。今回、平成の大合併とやらで、田中角栄の故郷として名高い西山町と、西山町が柏崎市の東にあるなら、柏崎市の西にある高柳町と合併して人口も増え、市会議員の定員も3名ほど増えたが、それ以前の定員は30名、うち共産党員が3名。今もって左翼色の強いのが柏崎市の政治状況なのである。ただ、新潟県の知事も柏崎市の市長も、今までは保守一色だった。
ところが、今は違うのである。知事も市長もプルサーマルと核のリサイクルに対しては、いい顔をしないのである。会田氏も市長選の時に、はっきりとこう宣言したと、原発推進派の市民だが、言うのである。
「原子力発電は柏崎市にとって重要な産業だと考えていますが、プルサーマルと核のリサイクルについては不透明なところがあるから、今のところ私は反対です」
それはそうと、桜井氏に話を戻そう。桜井氏によれば、柏崎市で「反原発票は15000票はある」という。国政レベルでも常に革新系の票数はそんなものだそうだ。「革新色が強いんですね」と言うと、桜井氏は〝えたりやおう”といった感じで、新潟県は農民運動の強かったところですから」。
革新色が強いのは”伝統”だというのである。農民運動が今は反原発運動になっているのじゃないか、とも桜井氏は言う。そういえば、ある市民も言っていた。「何故、反原発が今も柏崎市にあるのでしょうか?」という質問を筆者が発したトタン、その人はこう言ったたのである。
「そりや、原発が柏崎にあるからですよ。そうに決まっているじゃありませんか」
ところで、桜井氏のプログに「反原発三団体」という言葉も出てきた。これについても解説しておこう。
柏崎市の反原発三団体に絶えず接触し、最もこの三団体に詳しいはずの原子力安全対策課の布施実課長の話である。なお、布施氏は昔は反原発派だったと堂々とご自分で発言できる人でもある。「反原発三団体と言い出したのは彼ら自身じゃなかったですか。ありていに言えば、一つひとつの団体では、もはや何をする力もないんですよ。だから3つが1つになって反原発三団体』と言っているのですが、正確に言うと、『柏崎原発反対同盟』『柏崎刈羽原発反対守る会連合』『柏崎地区労働組合会議(地区労)』の3つです。といっても、3つで20人もいないのじゃないでしょうか。いや、10人もいるかどうか、詳しいことは私にも分かりません。この間も何か三団体から市長へ申し入れがあったばかりですよ」
そういって「三団体」の申し入れ書を見せてくれたが、なるほど、それにはっきりと「柏崎原発反対地元三団体」とあり、その下に前記3団体の名称があった。恐れ入るしかない。
その申し入れ書にはこうあった。
「柏崎市長 会田洋殿
柏崎原発反対地元三団体
柏崎刈羽原発の停止しての徹底点検と
ひび割れ制御棒の使用禁止を求める申し入れ書
日頃柏崎市政の進展にご尽力されている貴職に敬意を表します。
さて、柏崎刈羽原発では、年始めから原発の信頼を根底から損なう深刻な事態が続発しています。また、東京電力は、自社の原発が柏崎刈羽及び福島県にしかなく、しかもプルサーマル計画はいずれも頓挫しているにもかかわらず、プルサーマル利用計画』を公表しました。これらのことに関し、市民はもとより周辺住民はますます原発及び東電に対し、強い憤りと不信感をつのらせています。
以下、その主なものについて申し述べ、市長から標記について厳しく対処していただきたく申し入れるものです」
3日間柏崎市に滞在して取材してきた者として、この文中にある「市民はもとより周辺住民は……不信感を」ウンヌンは、ウソであると言える。自信をもって言える。そんな気配はまったくないのにも問わらず、こんな申し入れを柏崎市長に、それも甲し入れ書の日付によれば2月23日(筆者が柏崎市に滞在したのは26日から)にするとは! こんなことをしていれば、3つの団体があっても1つになって「反原発三団体」と言わなければならなくなるのは当然じゃないか、と思った次第である。
「こんなふうに柏崎がなるとは」
反原発三団体の申し入れ書の続きはこうなっている。
「1.流量計試験データ改ざん・ねつ造について
1月31日、福島第一原発6号機の給水ポンプの流量計試験データが改ざん・ねつ造されていたことが発覚した。この事件もまた、内部告発が契機だった。
この発覚直後には、『他に不正はない』と表明されていたものであるが、2月10日には柏崎刈羽原発7号機のデータも改ざん・ねつ造されていたことが明らかになった。経済産業省原子力安全・保安院による検査監督や、新潟県等行政のその都度の立ち入り検査もなおざりで、内部告発によってしか表面化しない原発の不正行為に、大きな憤りと不信感と恐怖感すら禁じえない。2002年の東電不正発覚で指摘された課題そのものであり、東電が不正問題再発防止対策として公約したことが、ポーズであり、嘘だったことが明らかである。」
といった調子である。「2」と「3」は割愛させていただくが、「2」は1月9日。やはり福島第一原発6号機で発見されたハフニウム板型制御棒の破損である。すぐに柏崎刈羽原発でも調べられ11本の制御棒にひび割れが見つかった。「3」は2月8日に発見された福島第二原発3号機の再循環系配管のひび割れ。これも柏崎刈羽もきっと同じではないか、と申し入れ書では言っている。いずれも大事には至っていないし、むろん放射能が外部に洩れるという事件じゃないが、反原発三団体の会田市長への申し入れ書では、原発の全号機を停止させて徹底的に点検すること、東電の改ざん・ねつ造の「企業体質」を厳しく追及することなどを命じている。
もう一度、桜井氏の話に戻ろう。桜井氏はこうも言っていた。当面は原発反対派にはいいだろうが、長い目で見ると、反対派には会田さんが市長になったことはマイナスだと思うと。確かに反対派はいま市の予算などに反対はしていない。予算そのものは少しも変わっちゃいないのにである。今まで通りの予算である。つまり、今までなら反対派が「反対」と言っていた予算。それに、今は反対しなくなったのである。そのうち原発反対派は実質的には消滅してしまうのではなかろうか。「反原発三団体も矛盾を感じ出しているのじゃないか」とも、桜井氏は言っていた。
こういう反対派の申し入れ書に会田市長はどういう態度をとるのだろうか。
しかし、今後の柏崎市の経済には「軌道修正」が求められているから、「会田君も大変だろうな」というのは、柏崎市の新名所になっているコレクション・ビレッジにある郷土玩具館『痴娯の家』の岩下正雄館長。原発を柏崎市と隣りの刈羽村に誘致した当時の柏崎青年会議所の理事長だった人。当然のことながら原発推進派と地元では見られている。ほかでもない、コレクション・ビレッジそのものだって、原発誘致に伴う電源三法交付金でつくられたものである。『痴娯の家』はそのビレッジの中でも重きをなしている。
岩下氏は会田市長を「君」付けで呼ぶ。柏崎高校の会田氏の先輩に当たるのである。会田氏は反原発派と高校の同窓生の力によって市長に当選したと言われているが、柏崎高校の同窓生には岩下氏のような原発容認・推進派も多いから、会田氏当選にどこまで高校同窓会が力を発揮できたか筆者には疑問であるとも言っておきたい。それはともかく、岩下氏の話を紹介しよう。
「ぼくは、原子力発電と原子力発電所は違うと主張している。今、次から次へとトラブルを起こしているのは発電所であって、原理である原子力発電の方は無傷なのですが、そこを一緒くたにしているから、プルサーマルが 始まるのもいつのことやらという状況ですよ。ここの3号機でプルサーマルが始まる予定で、もうそのための燃料だって用意されているんですよ」
実を言えば、筆者は25年前に柏崎青年会議所の岩下理事長に会って話を開いているのである。柏崎刈羽原発誘致の際の手続きの一つとして、地元で「公開ヒアリング」が開かれたが、原発反対派がそれのボイコットを呼びかけ、全国から労働組合員たちのデモ隊がやってきて、公開ヒアリングの会場となった武道館をとりまき、それを排除しようとする機動隊とぶつかって大騒ぎになった。筆者はそれを取材したとき岩下氏と会ったのだ。
「あのころの反対派はよかった」と岩下氏。
「あのころの反対派には信念がありましたよ。放射能と人類は同居できないという信念。情熱もあった。いまの反対派には何もないのじゃないかとぼくには思える。反対の理由も場当たり主義というか、その時その時で違うのじゃないでしょうか。推進派も何といえばいいのかなあ、『原発を誘致して柏崎市にとって何かいいことがあったかよ』と言われると、ぼくなんか忸怩たるものがあるんだけど、やはり原発があった方がよかったのじゃないかと思うよ。原発がなかったら、いまの柏崎はない。いずれにしても、これからが柏崎の正念場なのでしょうね」
当時取材した人にもう一人会った。小林治助氏である。お父様が柏崎の市長だった人で、その小林市長と田中角栄氏の間で原発誘致の話が出たのが、そもそも柏崎刈羽原発のはじまりだそうだが、小林さんは代々小林治助商店を経営していて、家長は「小林治助」を襲名することになっている、小林治助柏崎市長は昭和38年から昭和54年まで4期続いた。柏崎市の市長としては最長記録で「各市長」の誉れが高かった。というわけで、その父がはじめた原発、当然、若かりし息子の小林治助氏も大の推進派だった。当時、小林氏もまた青年会議所のメンバーで、岩下氏らとともに原発誘致に奔走していた。以下は、その小林治助氏のいまの話だ。
「若い人にね、いまの原発推進派の人たちのしていることを見て、どう思われますか、などと聞かれることがあるのですが、そういう時私はこう答えることにしている。こんなふうに柏崎がなるとは思っていなかった、と。柏崎刈羽原発7機全部動き出した時、東京電力は那須さんが社長でしたが、その那須さんが挨拶に立ち、『ふるさと公園』を作って柏崎市に御礼に進呈しようと言った。その時私は、この人はいったい何を考えているのだろうか、と思ったものですよ。柏崎市民が欲しがっているものが何もわかっちゃいない。『ふるさと公園』なんて、市民の誰も欲しいとは思っていなかった。いま建設中ですが、新市長の会田さんは選挙演説の中で、その公園を見直そうといって当選したんですから。私の親父の考えていたのはそんなもんじゃない。発電所から出る余熱を利用した農園の大構想とか、水産資源の培養とかです。なにしろ柏崎市は世界一のエネルギー基地じゃないですか。市民はもっと胸を張って堂々としなければ。結局、親父のあとを次いだ人たちに、柏崎市をこうしようというビジョンがなかったということじゃないでしょうか」
そういえば、発電所から出る余熱の利用法について方々で考えられているが、柏崎市にはそういった施設は全然見当たらない。そのかわり何が作られたのか? 『新潟日報』が今年の2月に入って「転機の原発交付金」という連載を企画したが、それに「電源三法交付金で柏崎市が整備した主な施設」という一覧表があった。それを紹介しておく。
「道路(市道改良など)29件 約57億円
赤坂山浄水場 11億円
武道館 2億3000万円
佐藤池運動広場(野球場など)約16億円
総合体育館 約30億円
博物館 約14億5000万円
ソフィアセンター(図書館) 約30億円
健康管理センター 約4億7000万円
総合福祉センター 約7億円
コレクション・ビレッジ 6億円
産業文化会館 7億3500万円
ソフトパーク整備 約9億6600万円」
同紙によれば、柏崎刈羽原発のおかげで、「県、柏崎市、刈羽村とその周辺地域には、三法交付金2000億円強がつぎ込まれた」という。「三法交付金」とは、あらためていう必要もないだろうが、「電源開発促進税法」「電源開発促進対策特別会計法」「発電用施設周辺地域整備法」(いずれも1974年に国が制定したもの)の総称である。そして、この三法に基づく交付金は、原発着工から運転開始後5年まで、立地市町村(隣接の市町村にはその半額)に交付されるが、そのほかにもさまざまな補助金や交付金もあるし、また発電所からの固定資産税も立地市町村には入って、どこも原発の立地市町村は裕福なのが常識である。原発のおかげで人口が増える立地市町村だって珍しくない。しかし、柏崎市ではどうか?ふたたび『新潟日報』からの引用である。
「しかし05年の国税調査では旧柏崎市部(平成17年の5月に柏崎市は人口6500の西山町と人口2240の高柳町と合併した)の人口は8万5898人と、2000年の前回調査に比べて2520人減。減少数は県内最多だった」
プルサーマルは「運命の綾」
ともかく、柏崎市の市長が西川氏から会田氏へ変わったこと、それから小泉純一郎首相の政権の改革路線のために、いままでの柏崎市の財政も、『痴娯の家』の岩下館長の言をまつまでもなく、変わらざるを得ないのは確かなことのようである。岩下氏の言葉を拝借すれば「いままでのような大盤振る舞いは以後なくなるだろう」。たとえば、コレクション・ビレッジのような。日本海に面した小高い丘の上にある小さな博物館群。「郷土玩具館」についてはすでに紹介した。あとにあるのは幕末に欧米からやってきた黒船にちなむ物のコレクションとかその他。ほとんど客がいないのは、いうまでもないだろう。
しかしながら岩下氏は言うのだ。
「コレクション・ビレッジ、それなりに評判いいんだよ。これから原発が立地される自治体から見学客がやってくるだろう。みんな驚いているんだよ、よくぞこんな金にならないものが作れましたね、と」
ただし、岩下氏は苦笑していた。自分でそう言って、なんとなく恥ずかしそうだった。
筆者は、昔の柏崎青年会議所の理事長として原発誘致に奔走していたころの岩下氏の容姿を覚えてはいないが、いま見る岩下氏はそれなりにカンロクがあり、柏崎市で誰かが言っていたが、「柏崎市きってのインテリ」のイメージは充分あった。
実はもう一人筆者は昔会った人に会っている。公開ヒアリング当時、柏崎市の助役をしていた長野茂氏である。原発反対派と誘致派が激突しても、毅然とした態度を崩さなかった市の助役を見て、「勝負あったな」と当時筆者は強く印象づけられたものだった。その長野氏に今回コレクション・ビレッジの話をうかがったのである。そして、筆者はそのコレクション・ビレッジに対しての印象をガラリと変えたのである。つまり、それまで三法交付金の使い方の最低のケースと思っていたのが、最高のケースに。我ながら浅はかだとは思うのだが……。
「柏崎市に木村さんという茶人がいましてね、大変な茶道コレクションをお持ちでしたが、その木村家の後継者が自分にそんな趣味がないから市に寄贈したいと言ってきた。そのとき私は国立博物館の先生にも来てもらって見てもらった。すると総額でなんと2億円。当時の金で(約30年前)。道具類だから欲しがっている人に値段をつけさせればもっと高くなる、ともその先生は言うんですね。そんな凄いものとは私は思っていなかたのですが、市長(注・今井哲夫市長時代で昭和54年から昭和62年)と相談して財団法人をつくり、『木村美術館』を設置し日本全国から結構見学者がやってくる。成功したんです。これが前例となってコレクション・ビレッジをつくったのですよ。江戸時代のことですが、柏崎市の郷土史をひもとくと、『ちぢみ行商時代』というのがあるのです。小千谷で作られるちぢみを担いで江戸や京へ売りに行ったのは柏崎の商人たちなんですね。そのせいで柏崎には江戸と京の文化が流れ込んできたのですが、彼らは江戸や京の文化だけでなく、もうけたカネを使って、いろいろなコレクションをして競ったんです。ある者は玩具、ある者は古銭、ある者は黒船時代の欧米人たちの日常用品、ある者は藍染めのもの、という具合。そういう風習が柏崎にあった。柏崎は豊かな商都だった。しかし、こういったコレクションは現代になると、どんどん散逸してしまう。だいたいがコレクションなんて一種の道楽。代が変わればコレクターはいなくなる、道理ですから当然でしょう。散逸を防ぐためにはどうすればいいか? そのよき木村さんの茶道具のことが前例になったわけです」
ちなみに言っておけば、この長野茂氏こそ、スムーズに原子力発電所を建設するために大いに効果のあった、“電源三法交付金の生みの親”である。そもそも一般家庭の電気は東北電力で賄われている柏崎市に、東京電力の原発が建設されるのだから、当然のこと、何がしかの“見返り”がなければ地元はウンとは言わなかったろう。
ところで、三法交付金の使われ方にはひとつのパターンがあると言えるだろう。もちろん、政府はこの交付金が妙な使われ方をしないために、公共のものにしか使ってはならないようアミをかけた。当然であろう。
そこで三法交付金は道路の舗装や公民館、公共ホール、運動場などに多く使われることになる。いわゆるハコモノである。ところが、いったんハコモノを件ると、それを維持するためにカネがかかる。それには三法交付金は使えない。ということで、原発がありながら赤字に悩む自治体も出てくる始末である。
のみならず、こういうこともある。いま柏崎市を例にとると、1995年、三法交付金その他の原発のおかげで市に入ってくるカネは150億円以上あった。それが、2005年では約90億円という状態だ。三法交付金が原発運転開始後5年までとされているせいである。それに、原発から入ってくる固定資産税もすでにピーク時の半分以下に減っているのも大きい。
長野茂氏の話を続けよう。すでに店じまいをし、柏崎市の三法交付金の使い方の失敗例とされる「情報開発学院」について、長野氏が語るのである。
「それから柏崎市には“農村工業時代”というのがありました。日本で唯一の石油産出地域であり、そのための機具の生産が柏崎市では盛んだった。農業のかたわら皆で機具をつくったんですよ。石油が出なくなってからも柏崎市には町工場がたくさんあって、そういう時代が続きました。戦後も理研や富士ゼロックスという大企業の下請けが盛んな市です。お父ちゃんと息子だけでトンカチやっている。そういう町工場のために、原発のお陰で裕福になった柏崎市では、中小企業団地を作ったら、たちまちお父ちゃんと息子だけの工場が工員が、百人ぐらいの工場になったんですよ。これから、どんな時代になるか? 私はIT時代がやってくると読み、そのためのソフト産業をと柏崎市に学校とセンターを作ったのです」
それが「情報開発学院」と「情報開発センター」である。1986年、柏崎市は約5億6000万円を投じて学校を整備し、翌年、約9億6000万円を投じてセンターのための土地建物を作る。が、2001年、「情報開発学院」はあえなく閉校する。一時期その学院の事務長でもあった安達公司氏の話である。
「失敗か成功か、という決めつけ方をすればね、情報開発学院は失敗だったというしかないでしょうね。しかし、その学院で勉強した人たちがその後どうしているのか? そういうことも考える必要があるのじゃないでしょうか。確かに学院は閉鎖した。しかし、これも、ものごとには始めがあれば終わりもある、と考えればどうということはない。新潟市に同様の専門学校ができたのが痛かった。凄い生徒の集め方で、そついうノウハウは私たちにはなかったからね。使命を終えたのだから閉校してよかったんじゃないか。」
「ものごとは、いつか終わりがくる」とか「成功と失敗という決めつけ方はどうか」という言葉、大いに考えさせられるものがあるというべきだろう。
いずれにしても「20年で2000億円をどう使うか」は、はなはだ難問というしかないだろう。その際、最も気を使うことは何か?安達氏も言っていた「民主主義というものは怖い」と。
柏崎市の名物に「柏崎トルコ文化村」というのがあった。テーマパークは日本の各地にあり、どこもうまくいっていないようだが、ここ柏崎市の「柏崎トルコ文化村」もこの4月に売り出されることになった。「柏崎トルコ文化村」は、そもそもは柏崎市とはまったく無縁の株式会社、平成8年にオープンしたものである。東京電力とも関係のない会社だというが、柏崎市の原発景気を当て込んだものであることは常識であろう。トルコ料理にべリーダンス(踊り子が腹を出して踊る)が呼び物で、平成8年の入場者数3万人というのは、ちょっとしたものだった、と言えるだろう。が、見る見るうちに入場者数は減る。9年度は26万、10年度22万、11年度は21万という調子で、バブルがはじけて「柏崎トルコ文化村」を経営していた株式会社の銀行が倒産してしまい、手をあげざるを得なくなった。
平成14年の6月議会で土地と建物を柏崎市が取得し、新たな会社を作って土地建物を提供、「柏崎トルコ文化村」は続けることにしたのはいいが、平成16年の水害で敷地内に土砂崩れが起こり、さらに同年11月に震災が追い打ちをかける。文化村はそのまま閉館が続き、昨年の3月、ついに市は土地建物の返還に応じざるを得なくなり、その維持費は年間約4200万円で大したことはなかったが、市議会では売払い議決をしてしまった。売り出しはこの4月から。最低入札価格1億5000万円だそうである。
柏崎市長を3期つとめて、会田氏に市長の座をゆずった西川正純氏とも会った。現在は柏崎市の柏陽鋼機という会社の取締役・相談役である。会ったのは、その柏陽鋼機の応接間。
市長12年間の手記をまとめ、近日中に東京の出版社が本を出すという。原発の柏崎市に“その人あり″と目された西川市長、さぞやその本は話題になるだろう。
西川氏との話は、柏崎刈羽原発3号機で予定されている、-「いる」というべきか「いた」というべきか-プルサーマルに集中した。柏崎市ではプルサーマルをはじめることは既定のこととして話が固まっていた。その矢先に東京電力の「トラブル隠し」事件が発覚したのである。そのことだけではなかった。東電の「トラブル隠し」は1年後には解決し、その柏崎刈羽原発でいよいよプルサーマルを、ということがたびたびあったけれども、その都度何か事件が起こってプルサーマルの開始を先送りしなければならなくなった。西川氏は柏崎刈羽原発のプルサーマルをこう表現した。
「運命の綾ですな」
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