関嘉彦先生、民社党
1時、就寝。7時、起床。午前中は来客を含め、打ち合わせ2件。母が法要に出かけたため、祖母を看る都合にあり、事務所での打ち合わせにさせてもらった。
ブランチとして、先日作ったイクラの醤油漬けでの納豆料理。ご飯の上に薄く引き割り納豆を敷き、隠れるほどのイクラを投入。最後に卵黄を落とした。重厚な味わいになり、引き割り納豆ではなく、大粒納豆を叩いたものでバランスをとっても良かったと思う。
祖母にも昼食を作り、昼寝をしたことを確認。午後から次回の議会に向けて、資料を読み漁る。次回の一般質問は教育関係をはじめ、鉄道網などのまちづくりについて、大きな視点からの質問にしたいと思う。
母が法要から帰ってきた際、鶏肉をもらってきたとのことで、ニンニク醤油に漬け込んだのち、から揚げにする。隠し味はすりおろし林檎。ジューシーな感じに仕上がった。
食後、先日、買ったまま積んでおいた産経新聞社『別冊 正論 今こそ問う 日本人の志はどこへ行った』にざっと目を通すと、チャンネル桜でも味わいのある解説をしている遠藤浩一氏が関嘉彦先生についてお書きになっていた。
関嘉彦先生が関係された民社党は、自民党よりも右と言われた。
母校・東電学園での社会思想史は、関嘉彦先生-浜井修先生のラインで、最初のテキストは関嘉彦先生の『社会思想史十講』有信堂。懐かしく思い、再度、本棚から出して開いてみた。
34歳になった今、改めて読み返してみると、アンダーラインを引いたり、書き込みをしているところが、微妙に主題と違っており、若かったとはいえ、完全に理解はできていなかったようだ。ただ、自分でも忘れていたが、「ジョン・ロックの自由主義」というページを異常なまでに読み返していたようで、「財産所有者こそ市民」というところに「?」がついていた。 「そういえば・・・・」と、学生時代の品物を探してみると、関嘉彦先生の講演「国際政治と人生観」のテープがでてきた。お金がなかったので、ノーマルテープにするか、メタルテープにするか悩んだ末、(こんな小さなことで)自分への投資と考え、メタルテープにとった覚えがある。
いずれ時間を見つけて、CDに変換しつつ、聞いてみようと思う。
古武士の面影、関嘉彦先生
遠藤浩一 (評論家)
関嘉彦先生が、幽明境を異にされた。
昭和53年から54年にかけて、関氏は森嶋通夫氏との間で防衛論争を交はした。共産主義国が武力侵攻をする可能性を否定できない以上、わが国は自らの防衛力を整え、足りないところはアメリカとの同盟によって補ふべしと、関氏が説いたのに対して、森嶋氏は、核兵器の時代に日本が通常兵器で武装してもひとたまりもないのだから非武装中立主義にしくはなし、ソ連が攻撃してきたら白旗と赤旗を掲げて降伏すればいいと主張した。
当時大学生だった僕は、概ね関氏の主張に首肯し、森嶋氏については不思議なことを言ふ人だなあといふ印象を持つだけだった。ただ、常識的で合理的で理路整然とした関氏の物言ひについても、惹かれる反面、かすかに違和感を持った。それが何かはよく分からなかったが、福田恆存氏が森嶋氏を斬り、返す刀で関氏ら保守派の議論についても「その(国防の=筆者注)必要条件を満たすためにはどうしても直面せざるを得ない障碍に目をつぶってゐながら、ただその必要を説く」だけではないか(「人間不在の防衛論」)、と批判するのを読んで、自分が引っ掛かってゐるものの正体が分かった。現行憲法の欺瞞に目を瞑ったまま国防の大事を説いても、それは所詮「空想的防衛論」ではないかといふ苛立ちであった。
関氏の著作を通して、民主社会主義といふ考へ方に出会ったときも、概ね諒としつつ、微妙な、しかし明確な距離を感じた。確かに民主社会主義は共産主義などと比べると遥かにマシな思想だ。しかし、日本人がこれをいかに受肉化するか、あるい本当に受肉できるのかといふ問ひに対する回答は見出せなかった。所詮借り物ではないかといふ気が、僕にはしてならなかった。自分は、この思想に殉じることはないだらう、さう思ひつつ、昭和56年春、僕は、民社党本部に入った。
昭和58年の参議院選挙で、関氏は民社党の比例名簿第一位に登載された。僕はその全国遊説に随行した。移動の車中で英国の政治史や社会思想史などについて詰まらない質問をすると、丁寧に教へてくださった。演説会でも、大学の講義のやうに静々と説く姿勢を崩されなかった。次第に、先生に惹かれていった。
開票日。一位の関氏はもちろん当選したが、四位の某組合系の候補者は落選が濃厚になった。「これでは収まらないぞ」「関さんに挨拶に行ってもらつてはどうか」といふ声が、党本部で出た。何を云ってやがる、と僕は思った。票稼ぎのために無理に頼み込んで候補者になってもらって、その煽りで組合出身の候補が落ちさうだからといって、なんで先生がお詫びに行かなければならないんだ。「そんな必要はないと思ひます」と口をとがらせると、先生は、静かに「いや、行かせてもらふよ」。組合の事務所を訪ね、同行した党幹部が甲高い声でなにやら喋ってゐる傍らで黙って頭を下げる後ろ姿からは誠実さが渉み出てゐた。
平成3年、湾岸戦争の後始末で掃海艇が横須賀を発つとき、先生は、海を渡る自衛艦を見送りに行かれた。僕もお供をさせていただいた。軍艦マーチが鳴り響く中、滞軍の艦艇が白い波を引いて去っていく。先生はやはり無言で、しかし全身に敬意をやませて見送られた。
僕は、その姿に古武士の面影を見た。重しい日本人を感じた。思想的な影響はそれほどでもなかつたが、先生の「人間」には強く惹かれた。合掌。
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