ホタルになった特攻隊員
2時、就寝。7時、起床。大粒納豆となめたけの瓶詰めでご飯をかっこみ朝食にする。午前中は選挙前に頼まれてきた資料の調査。
12時過ぎ、遊びに来た甥っ子と「うれっ子」(電話:0257-22-4648)の「チャーシューメン」を分けて昼食にする。
食事中にテレビ番組の企画に関する電話があった。旅ものと納豆をうまく融合させたいとのことであった。ただ、茨城県や福島県、秋田県など納豆と縁深い地以外では、なかなか難しい。舞台は関西にしたいということなので、調査する時間を含め、しばらく猶予をもらうことにした。
午後から市内まわり。お茶までご馳走になってしまったが、台湾と中国、アメリカの関係など政治的に濃いお話もできた。
18時過ぎ、自宅に戻る。顔がほてって熱いので、熱を測って見ると39度近く。風邪であろうか。月刊誌を2冊を読みつつ、20時に寝る。
来月5月公開予定の石原慎太郎都知事が脚本を書いた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』では、若者が集う食堂の女将さんである鳥濱トメさんと特攻隊員の物語が描かれているが、長岡出身の宮川三郎軍曹もその一人であった。
宮川三郎軍曹は、小千谷市出身。長岡工業学校卒業後、一旦は民間会社に就職したが大空への夢を絶ちがたく、仙台航空機乗員養成所からパイロットになる。
そして戦争の状況悪化により、特攻に志願。昭和20年5月に一度出撃したものの、機体の不調により帰還。戦友と共に散華できなかったことに悩み、トメさんにその気持ちを打ち明ける手紙を書いた。
「先輩、同期生がつぎつぎと散華し、
自分たちばかり残るというのは、心苦しいことです。
この心は、わかっていただけると思います。
だが、決して死を早まらんつもりです。
任務を完遂するまでは、断じてやります。ご安心ください」
その後、昭和20年6月6日に再度出撃し、散華した。
トメさんが宮川軍曹について語った文章を以下に引用する。
宮川さんが知覧に来られたのは20年5月の終わりごろと思います。雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。前に、万世飛行場から一度、出撃したのですが、機体の故障で引き返して、一人だけ残ったのを大変気にしておられましてね。ようやく代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日一緒に隊を組む仲よしの滝本恵之助曹長と二人で私の食堂に来られました。宮川さんは[あした出撃だ]とごきげんでした。帰りがけに「おばさん、あしたも帰ってくるよ。ホタルになって滝本と二匹でね。追っ払ったらだめだよ」と冗談のようにいわれました。食堂にくるとき、どこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめていませんでした。
翌6日はどんより曇った日でした。この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。夜になって、出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」といってぽろぽろ涙をこぼしました。視界が悪いため、宮川機に何度も引き返そうと翼で合図を送ったが、「お前だけ帰れ」といってそのまま飛んで行かれたそうです。
夜の九時ごろでした。食堂には娘二人と滝本さんの三人。奥の広間には私と遺書を書いている隊員が七、八人おりました。すると食堂の方で、娘が「あっ宮川さんよ。ホタルになって帰ってきた」と叫びました。一匹のホタルが開けていた食堂の玄関から、すーっと入ってきたそうです。もう大騒ぎ。滝本さんはびっくりされた様子でした。私は「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」といい、全員で「同期の桜」を歌いました。ホタルは長い間、天井のはりに止まっていましたが、すっといなくなりました。
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