旧越路町「延命寺」コヒマ戦没将兵鎮魂之碑
2時過ぎ、新宿近くの知人宅に泊めてもらう。8時に起床し、そのまま車で自宅に向かう。
途中、小腹がすいたので何か食べようかと上里サービスエリアに寄るも、食べ物より「富良野メロンソフトクリーム 300円」に目がいってしまい、思わず購入。
関越自動車道を通って、そのまま自宅に戻らずに途中、長岡市となった旧越路町の「延命寺」(長岡市東谷3512)に寄る。
柏崎刈羽出身でインパール作戦に出征された歩兵第58連隊の生き残りの方々が、戦友の鎮魂のため、慰霊碑を旧越路町の寺に作ったとお聞きしていた。詳細な場所が分からなかったので、長岡市教育委員会に、
と失礼ながら大雑把な問い合わせをしたところ、ありがたいことに遺族会などにも問い合わせて頂き、判明した次第である。
調査にご協力頂いた長岡市教育委員会の皆様には大変感謝をしている。
なにせ経緯を知る方の多くが既に鬼籍に入っており、慰霊碑の維持できなくなってきている状態である。
慰霊碑には、「印度国コヒマ 戦没将兵鎮魂之碑」とあり、裏面には「昭和55年3月吉日 元歩兵第五十八聯隊 中越地区戦友有志建之」とあった。しかし、草は生い茂り、あまり綺麗な状態とは言えなかった。住職のお話によれば、当初、柏崎刈羽出身者のみで建立、維持されていたが、次第に人数も減り、中越地区全体の慰霊碑にしたそうである。
今日は場所の確認がメインであったため、手を合わせただけであったが、次回来るときには線香はもとより、掃除道具も持参し、綺麗にしたい。
十分な補給、制空権が無い無謀な作戦と知りつつも、柏崎刈羽の多くの方がインド独立のために戦ったインパール作戦。平和、アジアの歴史を伝えるため、そして日印友好のためにも語り継いでいきたいものである。
また歩兵58連隊の戦いぶりは、インパール作戦においてイギリス軍を恐れおののかせた名将・宮崎繁三郎中将を描いた豊田穣氏の著書『名将 宮崎繁三郎中将』のなかに、「五十八連隊かく戦えり」として詳細が書かれている。
柏崎出身で副官となった浜中尉と宮崎繁三郎中将の会話のなかに、こんなやりとりもある。
そのころ、司令部がわりの民家の中で、宮崎は浜としみじみと語り合った。
「浜中尉、昔からのわが支隊司令部の将校も、ほとんどが戦死傷して、満足なのは僕と君だけになった。僕は君を片腕どころか、両腕、両足とも頼りにしているのだから、今後は自重してくれ。もし不思議に命をながらえて、ぶじ内地に帰ることができたならば、僕はぜひ越後に行って、亡き忠勇な部下将兵の遺族を訪問し、その英霊にお参りしたいと思っている。そのときはかならず 柏崎 に君をたずねる。そして、このインド進攻作戦の話でも昔語りにしようじゃないか。もうほかにも話し相手がいないからな」
「まったくそうですな。もう閣下と浜だけになりましたな。乗馬も、不思議に生きているのは、閣下と浜のと二頭きりです。ここまできたのですから、閣下こそご自重ください。いつも
はらはらすることばかりです」
浜中尉はその後、砲弾が頭部に命中し、戦死(ウクルルにて昭和19年6月2日13時30分)。宮崎中将は
「浜副官、長い間、本当によくやってくれた・・・。
ありがとう」
と涙をこぼし、 「頭を敵の方に向けて埋葬せよ」と命令した。
分かりやすいインド独立物語:
「進めデリーへ ~チャンドラ・ボースの戦い~」
自宅に帰り、小粒納豆、もつ煮込み、ほうれん草のおひたしでブランチをとったのち、打ち合わせにでかける。
今後のイベントでのボランティアをお願いするための下話であったが、選挙が終ったあとなので選挙活動ととられない分、話しやすかった。昨年は何かと選挙に結びつける方がいて、イベントの手伝い=売名行為ととられていたようで、あまり積極的な協力はできなかった。今年は気が楽である。
17時過ぎから、事務所で打ち合わせ。現在、準備中である鉄道活性化のための市民組織の事務所、商店街活性化のための方策などを複数の大義をもった事案を進めるためである。
打ち合わせが長引き、20時を過ぎたところで、今朝、米山町で捕れた平目の刺身、若布とコーンフリーのサラダなどをつまみつつ、酒を飲む。
新潟工科大の平成19年度公開講座・技術講座「発酵と微生物」に今回も参加できず・・・・。
ある程度、話がまとまったところで事務所からまちなかに繰り出し、2軒ほどまわる。
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インパール作戦では、困難な退却戦を戦い抜いて帰還したのですよね。
投稿: アルマジロ | 2009年9月 1日 (火) 22時59分
アルマジロさん、コメントありがとうございます。
ご指摘の通りで、食料、武器もないなかの退却戦も困難なものでした。
是非、慰霊する機会がございましたら、帰還できなかった英霊への追悼もお願いいたします。
投稿: 三井田孝欧 | 2009年9月25日 (金) 01時59分