1時から4時まで市外にポスティングにでかけ、5時帰宅。風呂に入ったのち、仮眠。
8時、起床。午前中は、今月26日に行なわれる「名越二荒之助先生を偲ぶ会」で使う映像の編集作業。
10時、喉が痛いのと、体に無理がきているようなので、葱たっぷりの小粒納豆を中心に、紅鮭や冷蔵庫の残りもの、そして舌を火傷するほど熱いナメコの味噌汁にも葱をたっぷり入れて、ブランチにする。八丁味噌を少し混ぜた味噌汁が胃に染み入るほど美味い。
13時から19時まで参議院選挙関係の活動。
20時、自宅に戻り、鯛のあらを使った鯛めし、使い終わった鯛のあら、ごま味噌の紫蘇巻きで夕食にする。
食後は、依頼されていたサーバの構築作業。余っているノートパソコンをサーバにしたいとのことであったが、光学式ドライブもネットワークカードもついていない旧式のものでとにかく手間取る。
先月の26日、アメリカ下院外交委員会は、「従軍慰安婦問題」で日本政府に公式謝罪を求める決議案を賛成多数で可決した。
商売としての「慰安婦」はいても、軍が強制連行してきた「従軍慰安婦」はいない。そもそも「従軍看護婦」、「従軍記者」という言葉はあっても、「従軍慰安婦」という言葉そのものが存在しなかった。
元慰安婦が「強制連行」されたとして日本政府を相手取った裁判でも、原告・金学順を始め、誰一人として訴状に「強制連行された」と書いていない。「強制連行」の裁判を行なったというパフォーマンスが目的であって、中身は違っている。
慰安婦自体、気の毒な身売り話であり、その面では同情するが、日本軍が強制連行したという歴史的捏造を許すわけにはいかない。
今回の議案提案者であるマイク・ホンダもそうであるが、またもアメリカは中国共産党の罠にはまりかけている。「南京大虐殺」とセットの動きであろう。
アメリカの世論でも日本に謝罪を求める声が上がっていると朝日新聞などは伝えるが、どうしても日本に謝罪をさせたいなら、まずアメリカは自分の国がしたことをよく見つめるべきである。
長くなるが以下に引用する。
2007年4月11日『SAPIO』
秘史発掘!
「24歳の女性を27人で輪姦」
アメリカは従軍慰安婦非難決議にうつつを抜かす前に
この「戦後の犯罪」に対してきちんと謝罪すべきだ
封印されていた占領下の米兵
「日本人婦女子凌辱事件」ファイル
ジャーナリスト 水間政憲
日本人は「言挙げ(言葉に出して、貫いたてること)」するのが苦手な民族であるといわれる。米国で湧き起こった「従軍慰安婦非難決議」にたいして安倍首相や外務省の駐米大使が、正面切って反論しないのはその典型なのかも知れない。しかし、ここに提示される資料をもってしてもなおも立ち上がらずにいられるだろうか。怒りの発掘レポート、言挙げせよ、日本人!
4月26、27日に予定の安倍首相初訪米の直後に米国下院議会で採決されようとしている「従軍慰安婦非難決議案」は、「日本帝国軍隊が第2次大戦期に若い女性たちを慰安婦として強制的に性奴隷化(セックス・スレイブ)したことに(略)謝罪する」ことを日本に求めるものだ。前文では「20世紀最大の人身売買」であり「集団暴行、強制中絶、殺害、手足切断など」の蛮行を犯したと断じている。
「従軍慰安婦」については、史料検証でその事実がなかったことが証明されているが、詳述は別稿(90ページ)に譲ろう。
ここでは、「戦争と性」の問題を考える上でひとつの史料を提供したい。それは、GHQ占領下の日本人女性にたいする米兵の「強姦事件」についてである。
マッカーサーが厚木に降り
立った直後に9件の強姦事件
占領初期のGHQ1945年9月「月例報告」では、「日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W・J・シーボルドは「(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記している(『マッカーサーの日本』1970年刊、新潮社より)。
しかし、これら米国側の記録は、事実ではない。
この米軍の「嘘」を暴く鍵は、占領下の1945年10月4日に解散させられた「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。米軍進駐後、「特高」は「治安維持法」に基づく監視の必要もなくなり、もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。前掲の『マッカーサーの日本』にこの記録のことが一部記されており、原本をこの日で確かめてみたいと思った筆者は、国立公文書館でこの資料を発見した。手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。
そのファイルが377ページに及ぶ「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの米軍の不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。
ファイルによれば1945年8月30日~9月10日の12日間分だけでも強姦事件9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件(この中には、後述するような理由で強姦事件も含まれていると考えられる)。特別事件として「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」などが発生している。
「特高」は解散命令が出た10月4日の記録も残している。その日の記録には「各種学校、倉庫等二侵入シ保管印等ヲ不法徴発 被害発生場所 屋内10件 屋外10件」「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」などとある。
掠れたページもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月問で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。
実際、「特高廃止」指令が出ると、全国の「特高」は、書類を焼却してしまった。しかし、「特高」の元締「内務省警保局」の秘密報告書は焼却されず、この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文書館に所蔵されていた。
妻36歳、長女17歳に対し
拳銃で脅して……
米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、苦心惨憺した様子を少し述べてみたい。日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだったのだ。
1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。
その目的は、「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。
しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。実際は主権回復後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。
<強姦事件
(一)八月三十日午後六時頃 横須賀市〇〇方女中、34 右一人ニテ留守居中、突然米兵二名侵入シ来り、一名見張り、一名ハ二階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。手口ハ予メ検索卜称シ、家内ニ侵入シ、一度外二出テ再ビ入り、女一人卜確認シテ前記犯行セリ
(二)八月三十日午後一時三十分頃 横須賀市〇〇方。米兵二名裏口ヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当〇〇三十六年、長女○○当十七年二対シ、拳銃ヲ擬シ威嚇ノ上、○○ハ二階ニテ、○○ハ勝手口小室二於テ、夫々強姦セリ(以下略)>
同9月1日、房総半島に米軍上陸。ここでも事件発生。
<〇〇方ニ侵入セル米兵三人二留守番中ノ妻(二八)(中略)奥座敷二連行、脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ)>
<九月一日午後六時頃トラックニ乗リタル米兵二名(中略)市内○○ニ来リ女中一名(24)連レ去リ(中略)野毛山公園内米兵宿舎内ニ於テ米兵二十七名(ニ)輪姦サレ仮死状態ニ陥リタルモ(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送リ届ケラレタリ>
このような記載が「特高」解散の10月4日まで続く。
<九月十九日夜十一時頃、(横浜市)保土谷区、出征中○○妻(27)、(中略)ニ侵入シ「ジャックナイフ」デ情交ヲ迫り、被害者之ヲ拒否シテ戸外二逃避セルヲ(中略)畠(畑)ニ連行、三名ニテ輪姦シタル。更二通中ノ三名ノ黒人兵ガ同所二於テ輪姦逃走セリ)
調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。一般人は、「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」「背広」や「ゲタ」まで、手当たり次第に強奪されていた。
<九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ横浜市中区山手町二二一番地共立女学校内、校長神保勝也二侵入各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ)
とこのような「強奪逃走せり」が続くのだ。
その中に、首を傾げたくなる記述がある。それは、「民家に米兵が押し入り、若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」との記述が散見することである。
貞操は取り返すことができずとも、せめて当時、貴重だった「腕時計」だけでも、取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。先述した945件の強盗・略奪に強姦(あるいは強姦未遂)も入っているのではないかと考えるのはこのためである。
このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。当時の朝日新聞(1945年9月5日付)は三段見出しで「神奈川県の女生徒は休校教職員が家族を巡回指導」と記している。
しかし、9月19日、GHQ「プレスコード」が発令されて以後は米兵を批判する記事は、新開紙面からすべて消えている。これで米国は、「強姦」など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう。しかし記述のように「特高」の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。
青少年性犯罪者が「米兵の真似して何が悪い」と開き直る
当時の憤りを取材して『黒い春<米軍・パンパン・女たちの戦後>』を1953年に五島勉氏が出版している。その内容は、調書よりも残酷さがひしひしと伝わってくる。五島勉氏は1948年から調査を開始し、本人やその家族・友人・事件の目撃者など1000人にも及ぶ面接にもとづいて占領下の空白時期をまとめた。
その中の、元外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の北林余志子氏の作成した米軍の横浜市内と県下の一部を含む、不法行動リストによると、10月末日までで強姦29件となっている。しかも、届け出ない件数は数十倍になると証言しているのだ。
五島氏は「印刷ミスではない」と断わってこう記す。
「T子(十一歳・武蔵野市小学五年生)R子(同)A子(同)の三人は、十月(中略)武蔵野の林のなかを伸よく手をつないで歩いていた」
<キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。彼女達のスカートは切られ、何が起こったのか全然わからなかった。R子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと、アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った>(要旨、以下同)
このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。
<N病院(=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった)は三台のトラックに分乗した米兵によって、およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。彼等の総数は二
百人とか三百人とかという説もある。婦人患者のうち重症者をのぞく四十数人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された>
「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった」「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」そして、「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」--懐然とする内容である。
安倍首相や駐米大使(*)がひたすら日本は既に「謝罪している」として、逆に「従軍慰安婦」を既成事実化するかのような姿勢であるのにたいして、自民党の戸井田とおる議員は2月21日の衆院内閣委員会でこう質した。
「(決議案を提出した)マイク・ホンダ議員に翻訳して差し上げてもらいたい資料がでてきました。(中略)これは、官報号外、昭和28年2月27日に載った第15回国会の社会党の藤原道子議員の質問の議事録です。(中略)そこにはこのように書かれてあります。『米軍の暴行事件は、昨年十二月まで独立後』独立後ですよ、『八ケ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになっておりまする件数は膨大な数であろうと想像されております』」
戸井田議員は、この資料で米国に攻めに転じよと言っているわけだ。同官報にはこう続けられている。
「各地における青少年の特に性犯罪、学童の桃色遊戯等の取調の際、彼らは係官に対して、アメリカ兵の真似をしたことがなぜ悪いかと反問し、大人の世界に精一杯の抗議をいたしておるのであります」
いまだ数々の戦争犯罪に対して、一度も謝罪したことのない米国に、なぜ毅然とした態度で挑まぬのか。米国は、日本を非難する前に、ワシントン国立公文書館や米軍公文書館で調査してみよ。
慰安婦非難決議の第4項にこうある。
「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」
この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。
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