復興、そして『奪還を命ず』
事務所の掃除が終わらず、4時就寝。7時、起床。大粒納豆、板わさ(正月用のかまぼこを拝借)、目玉焼きでご飯2杯の朝食をとる。
午前中は引き続き、事務所の整理。地震後まだ手をつけていなかった書類の山に手をつけたところ、あっという間に13時となった。返事をしていない手紙などもでてきてしまい、お侘びの手紙も書く。
冷凍うどんとハムカツ、ひきわり納豆の納豆うどんで昼食。
14時から挨拶まわりと正月用の買出し。途中、某ホームセンターで
「市議さんでしょ」
いきなり50代ぐらいの方に話しかけられ、
「被害にあった人の住宅建設に反対ってやさぁ・・・」
と先日もあった誤解と同じ内容でお叱りを受けた。まずは、こちらが議論した内容をお話しようと思い、
・建設自体に反対しているのではないこと。
・被災者がなるべく自分の家に近い地元に暮らせるよう分散型にする。
・柏崎市が既に持っている土地を利用し、税金の支出を減らす。
・9億円ですべてができるわけではなく、土地代だけで9億円。
建物も入れれば、10憶円を超える事業になる
ことを説明した。
ちなみに、土地代の9億円ですべて事が済むので、その金額は安いとの論じているのが下記の新聞記事である(さらに言えば「時間がない」も鵜呑み。時間が無いと言うなら、なぜ11月27日まで動かなかったのか。<名目上の>2年で仮設住宅から出てけと行政が言うのか)。
平成20年1月1日『越後タイムス』
タイムス抄 桑山跡地に復興住宅を
昨年十二月二十一日の市議会十二月定例会最終日に、駅前二の桑山木材跡地に、羅災者公営住宅と一般公営住宅を建設するための用地取得費九億円の債務負担行為補正案が、まるまる一日かけて議論され、その結果、継続審査とすることが決まった。
会田市長は、議会終了後、「意外だった。大変いい場所を選んでもらったと褒めてもらえると思ったのに……」と悔しさを滲ませて話した。
提案の仕方が〝唐突すぎる〞との批判には、「言いがかりだ。事柄のなりゆき上、仕方がないではないか」と反論した。
確かに、桑山木材跡地の所有者に打診したのが十一月二十七日、その後所有者の前向きの返事をもらったのが議会の直前で、〝さて、それでいいのか〞と再度の決断を迫られ、一般質問の打ち合わせ時点では、何も決まっていなかったというのが本当なら、無理もない話である。
この構想は十二月十一日の池田千賀子氏(みらい)の一般質問に答える形で明らかにされたが、そこに作為的なものがあったとは思えない。
そこで出しておかなければ、もっと〝唐突だ〞という批判を受けただろう。
桑山木材跡地に復興住宅を建てることに反対する論拠は二つある。一つは今回の地震で柏崎市がさらに厳しい財政状況に追い込まれているのに、市有地を利用せず、民間の土地を買うことはないというもの。もう一つは今まで住んでいた所の近くに住みたいという、被災者の心情を汲み取っていないというものだ。
しかし、被災者の生活再建を最優先させるという方針からすれば、喫緊の課題として、財政支出もやむを得ない。また、公営住宅に入居を希望している人は、自力で住宅再建ができない高齢者が多く、”生活の利便性”は第一に考えられなければならない。
脚が動かなくなった高齢者は、自分の町内にある医院に行くのにもタクシーを利用するという話を聞く。桑山木材跡地なら、這ってでも病院に行けるし、買い物にも行ける。高齢者の生活再建のための公営住宅建設地として、ここほど理想的な場所は他にないではないか。
さらに、この土地の再開発ということを考えた時に、「まちなか活性化」にとって、二度とないチャンスである。地震がなければ訪れなかったチャンスを活かさない手はない。駅前に居住者が増えることで、商店街の活性化につながるだろうし、そのことが駅周辺の空洞化を埋めていく呼び水になることも大いに期待される。九億円の投資が無駄になるとは考えられない。
昨年十二月の議会で議案が可決されず、継続審査となったことは非常に憂慮されることである。議案に反対した市議も「復興住宅を建てることに反対しているのではない」と言う。しかし、そのことで復興住宅建設が遅れたり、十分な調査や設計ができず、結果的に被災者にとってマイナスになるようなことがあれば、その責任は極めて重大である。
一時も早く、罹災者公営住宅と一般公営住宅を桑山木材跡地に建設することを決めなければならない。
さらには継続審査になったことも私を含む慎重派のたくらみと思い込まれていたので、
・「継続審査」は議員の反対の多さに市長与党自らが工作
と真相をお話した。かなり納得されたようで、帰り際には
「会報とか出して教えてくれぇやぁ」
とのことであった。
17時、刈羽郡総合病院に行き、祖母のお見舞い。手術以来、これまで議会やら打ち合わせなどで、なかなか来れなかったので、色々なことを話す。しかし、今日が12月31日であることも認識しておらず、明日が新年というと
「昭和何年かねぇ?」
との返事であった。87歳の年越しを病院で迎えるとは思わなかったと思う。
最近のコメント