陸自12旅団第44回定期演奏会
かく戦えり、高崎歩兵第十五聯隊
打ち合わせが長引き1時にホテルの部屋に戻り、2時就寝。
7時、起床。シャワーを浴びて、チェックアウトしたのち、群馬県高崎市に移動する。
途中、埼玉県、群馬県とぶらり旅のように色々なところに寄り、面白そうなビジネスを探す。11時過ぎ、コンビ二の納豆巻き2本、アメリカンドッグでブランチ。
13時、柏崎市から来た被災者ご家族と群馬音楽センターの前で待ち合わせる。群馬県伊勢崎市の伊藤純子議員も支持者とともに会場に来られたので、雑談。
また、昨年の中越沖地震の際に色々とお世話になった陸上自衛隊第12旅団広報部の方へご挨拶と近況の報告を行う。
会場の前には長蛇の列ができ、今回は来賓出席なので簡単に入れてもらったが、往復はがきで申し込んだ方や当日のキャンセル待ちをされた方は寒い中、大変なご様子であった。
会場は1900名強まで対応可能であるが、入りきれないお客様が多く、大人気のイベント。
14時、陸上自衛隊第12旅団第44回定期演奏会が開始。
冒頭は、参加者全員が起立して国歌『君が代』を歌うとともに、国旗の入場である。
先日潜入し、新潟県内の教職員の多くも参加していることが分かった、反原発活動にも<ご活発>であられる新潟県平和運動センターの関係者がいたら卒倒していたところであろう。
続いて、相馬が原、新発田の部隊で構成した17名(1名のみ女性)の隊員コーラス隊による『第12旅団歌』。
陸上自衛隊第12旅団は、平成13年3月に第12師団から第12旅団へと組織変更が行われた反面、ヘリコプター部隊が増強された。
災害派遣でその実力を発揮したように、陸上自衛隊のなかでは特に高い空中機動性をもつ旅団であるが、現在の装備では有事の際に普通科連隊(いわゆる歩兵)1個を空中輸送することができないため、個人的には師団への再度の格上げとともに、装備の充実を願うところである。特に第12旅団の担当範囲には自然災害が多く、そして我が柏崎市には世界最大の原子力発電所もあることから、NBCR(核、バイオ、化学、放射線)にも強い師団になることを願う。
そして今回の定期音楽会のメイン?とでもいうべき、中越沖地震への災害派遣のコーナーとなった。
地震発生後から災害派遣の出動、民生支援の様子、災害派遣の撤収の写真をスライド風に流しつつ、ナレーションとともに第12音楽隊による演奏が流れる。
1900名を超える高崎市周辺をはじめとする多くの方から涙をすする音や感動の拍手も聞こえ、素晴らしい映像と音楽の競演であった。
ここで被災地である柏崎市を代表して、若山副市長が登場し、観客の皆様にご挨拶とご支援の御礼、そして柏崎の海へのお誘いを行った。
若山副市長の話の内容は素晴らしいものであったが、私と同じ来賓席に座っていた各自治体の首長や議員、自衛隊協力団体関係者からは、
「柏崎の市長さんはお忙しいのでしょうね」
と【トゲあるお言葉】があった。ごもっともである。
1900名を超える方に加え、群馬県内の首長、議員、自衛隊関係者が揃い、かつこの後に登場する柏崎第三中学校、柏崎南中学校吹奏楽部も出演、さらには群馬県の地元テレビの中継も入る。本来であれば、柏崎市の営業マンたる市長が来て、ご挨拶し、支援の御礼を申し上げるべきであろう。
ちなみに、同時刻には柏崎市内で自民党の近藤もとひこ衆議院議員の後援会総会があり、会田市長はそこに出席し、酒を持って各テーブルをまわっていたそうである。完全な選挙モード。私も自民党に籍を置く身であるが、群馬県という違う自治体において、柏崎の中学校の生徒が出演し、かつ柏崎のことを取り上げてくれる場と、政治パーティを天秤にかけ、柏崎市議会議員が一人もこないというのも失礼だと思い、こっちの方を優先したのである。むしろ、市長であれば近藤代議士に事情を説明し、柏崎のための行動をとるべきだったのではないだろうか。
副市長の挨拶ののち、いよいよ柏崎第三中学校、柏崎南中学校吹奏楽部が登場。
曲は、フランキー・ヴァリがオリジナルの
『君の瞳に恋してる(CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU)』
と漫画(原作:二ノ宮知子)やドラマでも人気であった『のだめカンタービレ』にでてくる曲を使った
『のだめカンタービレコレクション』
である。
人数が少ない分、複数の楽器を扱う生徒さんは大変そうであったが、無事演奏は終わり、大きな拍手。
続いて、第12音楽隊との競演で、
『佐渡おけさ』
の演奏。やはり中学生だけの演奏よりも、ビシッと締まった音であった。
柏崎の子供には、こういった一流の方に触れるチャンスを多く作ってあげたいものである。一流のものに触れ、努力目標が決まり、精進できる。
新柏崎市民会館の建物の議論は進んでいるが、同時にいかに柏崎の子供に一流の音楽・芸術に触れさせるのか、ということも議論していきたい。
*以下、パンフレットより。画像をクリックすると大きくなります。
休憩ののち、第2部として、地元である育英短期大学によるあばれん坊太鼓
『だるま踊りパートIV』『鳥』
そして、第12音楽隊との競演で
『八木節』
であった。一所懸命に太鼓を叩く、若き女性というのはなかなか良いもので、席とは離れたところから凝視してしまった。
元気の良い太鼓のあとは、第12音楽隊の単独演奏、日本語による
『オペラ座の怪人』
(Le Fantome de l'Opera)
であった。すっかり堪能した最後は、参加者全員での『ふるさと』の合唱となった。
演奏会終了とともに、音楽隊のメンバーが出口でお見送りをしてくれたので、是非、次回は自衛隊歌を聞きたいと、陸上自衛隊歌である『栄光の旗のもとに』(作詞:赤堀達郎 作曲:古関裕而)をリクエストをし、少し引かれてしまった。
群馬音楽センターを後にし、すぐ近くにある高崎歩兵第十五聯隊の慰霊碑を見学。
高崎歩兵第十五聯隊は、シベリア出兵から始まり、満州事変後には「満州第四十六部隊」となった。
大東亜戦争では、昭和19年4月、第十四師団直轄部隊としてパラオに配備。第十五聯隊第3大隊は水戸歩兵第二聯隊の指揮下に入り、ペリリュー島にて地元住民をパラオ本島とコロール島に逃がしたのち、米軍との激戦を展開。次いで、第十五聯隊第2大隊が逆上陸し、食糧もない中、73日間に渡り徹底抗戦するも、昭和19年11月、水戸歩兵第二聯隊、第十五聯隊第2大隊、第十五聯隊第3大隊ともに「サクラ、サクラ」の電文を打ち、玉砕した。
現在でもパラオでは、両軍の血で染まったオレンジ・ビーチとともに、ペリリュー島の戦いは知られており、『ペ島の桜を讃える歌』(作曲:同島小学校副校長ウィンティ)が歌われている。
さらに、敵であった米海軍の太平洋艦隊司令長官であるニミッツ元帥は自著『ニミッツの太平洋海戦史』の中で、以下のように述べている(恒文社版291ページ)。
「一方、ペリリューの複雑きわまる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント〉を甘受しなければならなかったからである。」
高崎でも歩兵第十五聯隊歌は生き続けており、高崎経済大学の応援団が歌い続けている。
ペリリュー島には、いまだ日本軍将兵の遺骨が埋まっており(米軍はすべて回収)、祖国・日本に「帰りたい、帰りたい」と思われている英霊もいるであろう。全国の学生ボランティアの遺骨収集ツアーはあるが、是非、高崎市の若い世代の手でも遺骨収集を行ってもらいたいと思う。
『高崎歩兵第十五聯隊歌』
1 三山天に連なりて 刀水巌に激しゆく
秀麗の地に生ひ立ちし 坂東武士の血を承けて
立つや上州健男子 額の箭傷誇らなん
2 翠色濃き和田城を 繞りて清き烏川
聯隊此処に築かれて 王愾の師の動く毎
勲功の歴史重ねつつ 誉を競ふ幾千歳
3 飛龍の松の枝蔭に 君が稜威を讃えつつ
心只管武を練れば 栄えある昔偲ばれて
堅き誓の一筋に 護国の任を果さばや
4 弾丸は霰ぞ展盤溝 剣は霜ぞ三臺子
堅壘我に何かある 見ずや硝煙消ゆる時
軍旗の光燦として 武勲を語る房の影
5 倫安の夢圓らかに 平和の睡深きとき
異端の雲の遠近に 漲り亘る世の相
治乱の遷顧みて 我等の責めの重きかな
小腹が空いたので、高崎スズラン百貨店に入り、「餃子のあかぎ 高崎店」の餃子を食べる。モッチリした皮が美味しい餃子で、ご飯と一緒に食べる餃子ではなく、本来の食べ方通りにこれだけで食事になる感じである。群馬県産のニラ、キャベツ、ネギを使った綺麗な緑色の餡も、風味と見た目が良い。
「谷川温泉納豆」など群馬県の納豆を買ったのち、柏崎に戻る。
20時過ぎ、自宅に到着。
柏崎青年会議所の某メンバーからの相談とのことで、事務所にてサンマの塩焼き、ガーリックトースト、甘エビ刺身をつまみながら、頂き物の「ジャスミン焼酎」を水割りで飲み、打ち合わせ。ボトルが一本空いた頃にお開きとなった。
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