田形竹尾准尉出撃!『出征兵士を送る歌』
あまりの空腹に会場の隣にあるコンビニにかなり遅めの夕食を買いに行くも、納豆、納豆巻きなど納豆関連商品が一切なく、「ほうれん草の15品目バランスサラダ」「焼きそば」とビール500ml2本を購入。
『週刊新潮』『週刊文春』など雑誌を数冊読みながら、飲み食いをする。『週刊現代』が、高浜原子力発電所に絡み、関西電力の指令で高浜町長暗殺を計画していたという電波系記事を掲載したと伝え聞いていたが、購入できず確認はできなかった。
ご遺族の皆さんと同じ部屋の宿泊なので、早めの1時30分ごろに就寝。
7時、起床。天気予報では雨であったが、見事な晴れの日となった。
シャワーを浴びたのち、九州のご遺族の方とお茶を飲みながら、田形先生の思い出話をお聞きする。
妹さんが通っていた学校の上空に田形先生の乗る戦闘機(九七式)が来た際、教師も一緒になって全校生徒が校庭に日の丸を持ってでていき手を振り、それに対し田形先生もバンクを振って(両翼を上下させる)答えたそうで、妹さんにはそれが一番の思い出だという。
8時30分、朝食。食事中は、納豆の話題となり、長崎をはじめ、九州の一部では「しょうゆの実」を納豆と呼ぶ地区がある話や醤油伝来のお話などをさせてもらう。
「納豆は体にいいけんね」「・・・したとですか?」という言葉に始まり、福岡弁が心地よい。
9時から告別式の準備。10時ごろから国会議員、地方議員、元軍人、航空自衛隊関係者、保守系の論客が次々と弔問に訪れる。
弔電は、東條由布子さんや同じ地方議員仲間である埼玉県の鈴木正人議員をはじめ、多くの方がお寄せになり、長テーブルを2つも用意しなければ乗り切らないほどであった。
遺影は航空自衛隊浜松基地でF-1支援戦闘機に体験搭乗(離陸なし)をされたときのお写真である。
葬儀委員長であるチャンネル桜の水島総社長の
「先生は好き嫌いはない、何でも食べるとおっしゃりながら、
卵は大嫌いでした」
という笑いも含めた、心のこもった弔辞ののち、ご焼香。多くの方が訪れ、田形先生との別れを惜しむ。
棺には、日章旗に包まれた田形先生の上に多くのお花がたむけられ、最後に桜が2本入れられた。
出棺の準備ができたところで、喪主である息子さんの感動的なご挨拶。田形先生が入院されていた病院の責任者はなんと田形先生の名著『飛燕対グラマン』の愛読者であったという。
そして、田形先生の教え子であり、元少年飛行兵「一式戦闘機 隼」に乗っていた増山章伍長の「送る言葉」がご本人から読まれる。
「本当は、教え子の特攻隊員を見送ってきた
隊長の方がつらかったのではないかと思います。
今日は隊長の出撃だと思いますので、
我々が軍歌でお送りします。」
その後、東京都杉並区議会の松浦芳子議員、静岡県函南町議会の植松和子議員とともに、マイクの前に立ち、『出征兵士を送る歌』を歌った。
この歌は1番から6番まであるが、歌詞の内容に鑑み、歌ったのは1番と5番。
一、わが大君に召されたる
生命光栄(はえ)ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征け つわもの 日本男児
五、ああ萬世の大君に
水漬き草むす忠烈の
誓致さん秋(とき)至る
勇ましいかなこの首途(かどで)
いざ征け つわもの 日本男児
田形先生とは4年前に初めてお会いして以来、年末には生まれ故郷である福岡県八女郡黒木町の低農薬「富有柿」を毎年お送り頂き、またチャンネル桜での収録時での食事会をはじめ、靖國神社での90歳の卒寿のお祝い、柏崎での講演会の実施に加え、入院前には毎週のようにお電話を頂戴していた。
お年を召していただけに、同じ話を何回もするということはあったが、一時間以上はお話し、最後はいつも、
「『後を頼む』と言われました・・・
私からもお願いします。
戦友にですね、
いつ呼ばれるか分かりませんから・・」
であった。
泣かないようにしようと思いつつ、参列者に「元気良くご唱和下さい!」と歌の前に自分で言っておきながら、さすがに5番の最後には涙があふれてしまった。
支那事変、大東亜戦争を通じ、エースパイロットとして、「三式戦闘機 飛燕」をはじめとする日本の航空技術の発展を身をもって経験され、さらに200回にもおよぶ出撃にも生き残ったたくましさ。
アジア各地を転戦し、下士官として現地人と触れ合い、大東亜戦争の本来の敵は白人であり、人種差別への戦い、そして自存自衛、アジア解放の大義を伝えた話。
米軍による民間人を狙った空襲という名の虐殺への怒りと、戦闘機のパイロットとして何もできなかった悔しさを、まるで昨日の事のようにお話になっていた。
特攻隊の教官となってからは心を鬼にしていたため、かつての部下には恨んでいる人もいることであろうことも気にされていた。それはもちろんそうであろう。当時の人にも色々な捉え方がある。
戦後は、特攻隊として沖縄の海に散華した若い隊員の「あとの日本を頼みます」という言葉を深く捉え、活動されてきた。チャンネル桜の設立に奔走されたのもその一環である。そして次の世代には誇りある日本を取り戻してほしい と訴え続けてきた。
「いい国にして下さい」
「あとの日本を頼みます」という田形先生から私への、
いや私達世代への引き継ぎは、
その死をもって本日完了した。
「日本が戦争を放棄しても、
自衛心なければ、戦争は日本を放棄しない」
田形竹尾
告別式ののち、一部の参列者の方と会場近くの「コピンヌ(Copine)」(電話:042-345-8202)で昼食会。手作りのハンバーグ&ライスのセットを注文した。コーヒーとともに1730円という値段で、高いかなという思いがあったが、肉汁の蓄え具合、デミグラスソースの深みともに好みの味であり、満足であった。ご飯だけはマイナス点。
会場を後にし、愛車にて所沢市に移動。世界のエネルギー事情に詳しい某研究所出身のN教授とお会いし、教えを請う。
15時過ぎ、群馬県伊勢崎市に到着。伊勢崎市議会の伊藤純子議員の事務所で、人権擁護法案・外国人参政権への反対やスパイ防止法の制定など今後の地方議員でできることの打ち合わせ。支持者の方もいらっしゃり、民謡や昭和歌謡の話で途中盛り上がる。
せっかく伊勢崎に来たのだから、ということで、17時過ぎに人気店である「上州ラーメン風っ子大将」(電話:0270-26-0803)にて夕食。メニューを見ると
「名物・雷(かみなり)ラーメン
辛味噌ラーメンは当店が昭和48年10月、日本で最初に海発し、名称、激辛”雷ラーメン”として誕生いたしました。当店から始まった辛味噌ラーメンブームは上州では勿論、今ではインスタントラーメン(激辛ラーメン)にまで類似商品が発売されています。辛味噌ラーメンの本場上州で、元祖辛味噌”雷ラーメン”の格調高い、独創的激辛風味をたっぷりと味わってください。」
と書いてあったので、「三番雷ラーメン[辛さで逆上、胃腸を大切に]780円」と「ギョーザ 360円」を注文し、汗をかきかき食べる。餃子はニンニクがこれでもか、というほど効いており、食べている最中から自分の臭いに気付くほどであった。
関越自動車道を飛ばし、21時過ぎに柏崎に到着。日本会議柏崎支部設立準備の打ち合わせに途中から参加する。
22時30分、某集まりの懇親会2次会に参加。かけつけ3杯をせよ、ということになり、焼酎を生のままコップ3杯のきついスタートとなった。
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