陸上自衛隊目達原駐屯地
特攻隊員安らぎの場・西往寺
1時、シャワーを浴びたのち、就寝。
6時、起床。急いで着替え、ホテルの1階に行き、ビュッフェが開いたところで、おにぎりやクロワッサン、ハッシュド・ブラウン、ゆで玉子などを一気にかっ込み、朝食をとる。
そのままホテルをでて、唐津駅から6時52分発の電車に乗り、久保田駅にて乗り換え、8時18分に吉野ケ里公園駅に到着。
改札をでると、陸上自衛隊目達原駐屯地の広報班長O一尉が出迎えに待っていてくれた。
ご挨拶もそこそこに、目達原陸軍特別攻撃隊出撃基地の跡に移動。
目達原陸軍特別攻撃隊出撃基地は、昭和18年に、陸軍太刀洗飛行学校目達原分校として開設された場所で、戦局の悪化に伴い多くの若い隊員が特攻隊として飛び立っていった地である。
現在は、目達原飛行場正門跡に建立された当時の門柱と石碑があり、石碑にはそれぞれ以下のように碑文が刻み込まれている。
【門柱説明碑文】
旧目達原飛行場は、昭和十八年陸軍太刀洗飛行学校目達原分校として開設され、以来多くの若鷲が養成された。
昭和十九年以降、戦局の進展に伴い特攻第二七三振武隊として「若者よ後につづけ」を合い言葉に、敢然として国に殉じ敵艦を求めて次々と飛び立った由緒ある地である。
昭和二十九年陸上自衛隊九州地区補給処がここに解説され、その後西部方面ヘリ隊、第四飛行隊等の駐留に伴い、現在も旧滑走路の一部がヘリポートとして使用されている。
平成四年七月吉日 三田川町
【碑文】
南海に
華と散りにし ますらおの
御魂とどむか 基地の夏草
【碑文】
櫻咲く
地を飛び立ち 南海に
散りし若鷲 しのぶ門柱
【裏面碑文】
東部方面総監部援護協力会
会長 大田伊作
理事長 塩手満夫
副会長 春日貞吉
吉原利美
井森幸次郎
渡辺繁安
高野将弘
加藤大能
吉川秀隆
防衛協会佐賀東部地区青年部
平成四年七月建立
沖縄の集団自決に関する話題のなかで、軍命令うんぬんを飛び越え、日本軍が沖縄県民を守らなかったという、とんでもない意見まででている。ここを飛び立っていった若い特攻隊員が突入したのは、沖縄の海にいる米軍の艦船。戦後の日本人がGHQにより戦争贖罪意識を植え付けられたとはいえ、日本軍が日本を守らなかったなどという議論をしていては、飛び立っていった若鷲に申し訳が立たない。日本人は先人の苦難を忘れる民族になったのであろうか。
跡地をじっくり見させてもらったあと、陸上自衛隊目達原駐屯地に移動。
広報室で赴任したばかりの室長ご挨拶をさせてもらい、3年前の中越大震災におけるご支援の御礼を申し述べるととに、ご参考として今回の中越沖地震の資料一式をお渡しした。中越大震災の際には、この駐屯地から約20名の隊員が支援に駆けつけてくれた。
陸上自衛隊目達原駐屯地には、総勢で1500名ほどとなる以下の組織が駐屯している。
所在する旧三田川町が約一万人の住民であったことを考えると、駐屯地がもたらす地域への経済効果は莫大である。
*写真はPXで買った目達原駐屯地Tシャツ
・九州補給処本処
・第4師団 第4飛行隊
・西部方面通信群
第102基地システム通信大隊
第321基地通信中隊
・西部方面航空隊
西部方面ヘリコプター隊
第3対戦車ヘリコプター隊
西部方面管制気象隊第1派遣隊
・西部方面後方支援隊本部
本部付隊
第106全般支援大隊
第104不発弾処理隊
まずは駐屯地内の見学ということで、駐屯地広報館を見せてもらった。
現在の航空主力を有する目達原駐屯地の部隊が活躍する展示パネルの奥に、旧軍コーナーがあった。
目達原陸軍特別攻撃隊出撃基地から飛び立っていった特攻隊員の遺書をはじめ、貴重な資料がならんでいる。
先日、<出撃された>元特攻隊教官であった田形先生の名著『日本への遺書』も置いてあり、嬉しいというより、なんだか安心し、そして懐かしい気がした。
田形先生ご自身の特攻出撃命令は昭和20年8月14日であり、いざ明日出撃!と決意を胸に夜を過ごしていたのが、この目達原陸軍特別攻撃隊出撃基地である。
他にも現在はかなり貴重となった「三三式騎銃」をはじめ、満州国からの建国功労賞の勲章などがあり、今後来るときには、時間をかけ、その由来や時代背景なども確認したいところ。
知覧の観光ポスターや映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』のエンディングでも使われた写真「出撃を前に小犬と遊ぶ特攻隊員」
*画像をクリックすると大きくなります。
も飾ってあった。この写真は昭和20年5月26日午後に、鹿児島県万世特攻基地で撮影されたもので、写っている5名は第72振武隊の隊員。
向かって左上が高橋要伍長(少飛15期、東京都出身)18歳、左下が早川勉伍長(少飛15期、三重県四日市市出身)18歳、子犬を抱いているのが、荒木幸雄伍長(少飛15期、群馬県桐生市)17歳、右上が高橋峯好伍長(少飛15期、神奈川県横浜市出身)17歳、右下が千田孝正伍長(少飛15期、愛知県丹羽郡出身)18歳、今でいえば高校2年生から3年生である。
常に笑顔で、明るく歌って過ごし、「ほがらか隊」と自称、また言われたそうであるが、彼らが過ごしたのが、ここ目達原の地であった。
写真がすべてを物語っており、辞世の句にその気持ちが表れている。
君か為唯一すぢに空を征く
心の笑顔誰か知るらむ
高橋峯好 命
帰らじと 父母に決別若櫻
馳せ参じ征く 大君の股肱
荒木幸雄 命
吾もまた 君に捧げん 若櫻
散りてのち 又七度仕えん
千田孝正 命
すっかり見入ったのち、駐屯地広報室の会議室で駐屯地が紹介されたローカルテレビ番組を見せて頂いた。
佐賀銀行さんが毎年、新入社員研修として、男女を問わず2泊3日の目達原駐屯地に訓練入隊をさせているという紹介であった。
他の議員からも、柏崎市役所に新たに入庁する職員もやらせるべきではないか、と言うほど、効果がその顔つきにでる訓練風景であった。
ちなみに、既に廃校となった母校である東電学園高等部は、かつて海上自衛隊第四術科学校での訓練実習があった。
目達原駐屯地を後にし、広報班長O一尉のご厚意で特攻隊員が出撃までの時間を過ごした「九品山 西往寺(さいおうじ)」さんにご案内頂いた。
この西征寺に滞在した特攻隊員は以下である。
陸軍特別攻撃隊第74振武飛行隊(九九式襲撃機)
伊藤実隊長以下12名
滞在期間:昭和20年4月5~6日
出撃日:同年4月7日、12日、13日(万世飛行場)
陸軍特別攻撃隊第75振武飛行隊(九九式襲撃機)
大岩覚隊長以下10名
滞在期間:昭和20年4月5~6日
出撃日:同年4月7日、12日、13日、16日(万世飛行場)
第102振武飛行隊第一降魔隊
天野重明隊長以下12名
滞在期間:昭和20年4月7~11日
出撃日:同年4月12日、18日(万世飛行場)
陸軍特別攻撃隊第72振武飛行隊(九九式襲撃機)
佐藤睦男隊長以下10名
滞在期間:昭和20年5月17~26日
出撃日:同年5月27日(万世飛行場)
第64振武隊 国華隊(九九式襲撃機)
澁谷健一隊長以下9名
滞在期間:昭和20年5月31~6月9日
出撃日:同年6月11日(万世飛行場)
陸軍特別攻撃隊振武隊 天翔隊
山本琢郎隊長以下6名
滞在期間:昭和20月7月 出撃出来ず終戦
*うち1名は8月13日に飛行訓練中事故により戦死。
まずは本堂で、「特別攻撃隊員戦歿英霊」 「大東亜戦争陸海軍戦死病歿英霊」という位牌が立つご本尊にて、手を合わさせ、ご供養をさせてもらう。
遺骨がない特攻隊員は神式では靖國神社があるが、仏式では珍しい。
ありがたいことに住職さんからご案内やご説明をして頂くことになり、特攻隊員が最後の時間を過ごした部屋などを見せて頂いた。
できる限り当時そのままにして残してあり、かなり趣のある中庭も当時のままだという。
特攻隊員がどのような気持ちでこの部屋に寝泊まりしていたのか。平和な時代に生まれて、のほほんと育った私には想像ができない。
十代の若さとはいえ、特攻隊をだすほど戦局が悪化していることは理解しており、国難を個人として懸命に受け止めていた。
母親、父親、兄弟、恋人、結婚していれば奥さんや子供もことも考えたであろう。しかし、このままの戦局であれば米軍の沖縄上陸に続き、本土決戦となる・・・・・その前に一矢報いるにはどうするのか。
純粋に国を、そして愛する人を護るために出撃を待ったのであろう。
住職のお話によれば、当時特攻隊員のお世話にしていた皆さんから、特攻隊員が暴れまわることはなかった、とお聞きしているとのことであった。
ただ、墓地内で
「お母さーん、お母さーん」
と絶叫している声はあったという。
特攻隊員が残した遺書にも、ほとんどは母親への想いを綴っている。
*写真をクリックすると大きくなります。
左の遺書は、第64振武隊 岸田盛夫伍長(京都府出身、21歳)の遺書である。見るこちらの背筋がシャンとなるほどの達筆で書かれている。
岸田伍長は、昭和20年6月11日に沖縄周辺で散華した。
*写真をクリックすると大きくなります。
思い出すのは幼い頃の 母の背中よ
蛍飛ぶ飛ぶあぜ道の 遠い祭の笛太鼓
思い出すのは兄弟けんか 父に叱られ小藪のかげに
我が家なつかし思い出の 呼んだやさしい母の声
思い出すのは門出の朝の 母のあのかお小さい姿
ふった日の丸思い出の 手柄立てずに死なれよか
左の写真は、写真「出撃を前に小犬と遊ぶ特攻隊員」の中央にいた、荒城幸雄伍長(17歳)が西往寺での最後の一筆として、書き遺したハンカチである。 「只一筋に征く」 、あまりにも重く、字からも気持ちが伝わってくる。
*写真をクリックすると大きくなります。
この書は以下の本の表紙にも使われている。
左の写真は、同じく荒城幸雄伍長(17歳)をはじめ、西往寺での貴重な時間を過ごした特攻隊員が送った礼状である。
なかには、この礼状が届いたときには既にご本人は散華されている場合もあり、なんとも言えない気持ちになった。
万世飛行場から出撃した特攻隊員のうち、妻帯者は3名。なかでも子供がいたのが1名だけで、この西往寺で過ごした第64振武隊 国華隊の隊長、渋谷健一大尉(山形県松峰町出身、31歳)である。渋谷大尉は、遺書や日記も残さなかったが、『愛するわが子へ 倫子並生れ来る愛子へ』と題した、感動的な書簡を残している。
また西往寺には、遺詠の色紙がある。
*写真をクリックすると大きくなります。
父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当たりを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべきなり。父は死にても死するにあらず、悠久の大儀に生るなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず。母あるに存らずや。父も又幼少に父母病に亡くなれど、決して明さを失わずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死せりと聞かば、日の春の子は喜こぶべきものなり。父恋しと思はば空を視よ。大空に浮ぶ白雲に乗りて父は常に微笑て迎ふ。
二、素直に育て。戦ひ勝ても国難は去るにあらず。世界に平和のおとづれて、萬民大平の幸を受ける迄、の勉強をする事が大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祀りて明く暮すは、父に対しての最大の孝養なり。父は飛行将校として栄の任務を心から喜び、神州に真の春を招来する神風たらんとす。皇恩の有難さを常に感謝し、世は変る共、忠孝の心は片時も忘るべからず。
三、御身等の母は真に点き母にして、父在世中は飛行将校の妻は数多くあれ共、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありたり。戦時多忙の身にして、真に母を幸福に在らしめる機会少なく、父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には、父の分迄、母に孝養尽せらるべし。之父の頼なり。現時敵機爆撃の為大都市にて家は焼かれ、父母を亡ひし少年少女数限りなし。之を思へば父は心痛極りなし。御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。書置く事は多けれど、大きくなつたる時に良く母に聞き母の苦労を知り決して我儘せねやう望む。
そして、渋谷大尉が沖縄周辺で散華した昭和20年6月11日、ご長男が生まれた。
左の写真は、第72振武隊の10人が寄せ書きした、お世話になっている寿賀さんの婚礼記念の絹のハンカチ。
現物を手にとらせてもらい、じっくりと拝見し、ここまでの数々の遺書のこともあり、つい涙ぐんだ。
同僚の先輩議員もハンカチで涙をぬぐっていた。
*写真をクリックすると大きくなります。
手ぶらで行ったにも関わらず、貴重な資料を拝見させてもらい、かつご説明も頂いた。さらにパンフレットに加え、お茶と「西往寺」オリジナルお菓子まで頂戴してしまい、申し訳ない限りである。
時間の関係で、バタバタとした訪問になってしまったが、次回は事前にご連絡したうえでゆっくりと訪れようと思う。
知覧・加世田万世基地から陸軍特別攻撃隊として出撃した若鷲のなかで、ホタルになって帰ってくると言い残した小千谷市出身の宮川三郎軍曹をはじめ新潟県人は16名である。さらに、柏崎市に関係のある方が第77振武隊の本間忠夫伍長。今後、できれば新潟県人として調査していきたい。
*後日、知覧特攻平和会館に確認したところ、ご遺族は柏崎市内在住の妹さんとなっているものの連絡がつかず、しかも写真も今まで一枚もなかったとのこと。現在は、生き残った隊長が寄贈した写真から切り出したものを展示しているという。
第50振武隊
松崎義勝少尉(少飛13期)大正14年生まれ
昭和20年5月20日 沖縄周辺洋上で散華
第61振武隊
田中秀男少尉(少飛14期)大正15年生まれ
昭和20年4月28日 沖縄周辺洋上で散華
第76振武隊
長谷川武弘少尉(少飛13期)大正14年生まれ
昭和20年4月28日 沖縄周辺洋上で散華
第76振武隊
中川芳穂少尉 大正15年生まれ
昭和20年4月28日 沖縄周辺洋上で散華
第77振武隊
本間忠男少尉(少飛14期)大正15年生まれ
昭和20年4月28日 沖縄周辺洋上で散華
第79振武隊
池田保男大尉(特操1期)生年不明
昭和20年4月16日 沖縄周辺洋上で散華
第80振武隊
川上喜一郎少尉 大正8年生まれ
昭和20年4月22日 沖縄周辺洋上で散華
第104振武隊
渡部佐多雄大尉(特操1期)大正11年生まれ
昭和20年4月12日 沖縄周辺洋上で散華
第104振武隊
宮川三郎少尉 大正14年生まれ
昭和20年6月6日 沖縄周辺洋上で散華
第3独立飛行隊
小林真吾大尉(陸士57期)大正13年生まれ
昭和20年6月15日 沖縄中北飛行場付近で散華
義烈空挺隊
石山俊雄大尉 大正9年生まれ
昭和20年5月24日 沖縄中北飛行場付近で散華
義烈空挺隊
渡辺祐輔大尉 大正11年生まれ
昭和20年5月24日 沖縄中北飛行場付近で散華
義烈空挺隊
宮越春雄中尉 大正7年生まれ
昭和20年5月24日 沖縄中北飛行場付近で散華
*大変失礼な事に、名字を間違っておりましたので訂正しました(宮城→宮越)。ご遺族の皆様には改めて、お詫び申し上げます。
義烈空挺隊
角田信夫少尉 大正9年生まれ
昭和20年5月24日 沖縄中北飛行場付近で散華
誠第32飛行隊
小林勇大尉(幹部候補生9期)大正11年生まれ
昭和20年4月3日 沖縄西方洋上にて散華
独立飛行第46中隊
上宮賢了大尉(特操1期)大正11年生まれ
昭和20年3月28日 慶良間西方にて散華
急いで吉野ケ里公園駅にまで戻り、お別れのご挨拶もそこそこに電車に飛び乗った。
鳥栖駅にて待ち合わせ時間があったため、メカマニアの血が騒いだ。
本来であれば、映画『月光の夏』にもなった特攻隊員が出撃前に弾いたというピアノなどが鳥栖駅周辺にあるので、それを見たかったものの、そこまでの乗り換え時間はなく断念。
ホームから見える各鉄道車両などを見てまわった。
鳥栖駅にはタンク式蒸気機関車である「国鉄230形蒸気機関車268号機」が車体保存してある。この車体は、実は柏崎周辺住民の重要な足であった北越鉄道株式会社(直江津~新潟<旧駅>間の私鉄)が「北越鉄道G形18号機関車」として使っていたもので、明治40年(1907年)、北越鉄道が国有鉄道編入後ときに268号機に改称された。柏崎も含め新潟で活躍した100年以上前の車両がこの佐賀県鳥栖市で眠っている。
博多までは特急「リレーつばめ」で移動。特急の伝統「つばめ」の名称も良く、個性的な色合いで気に入ってしまった。
博多から福岡空港までは地下鉄。何気なく車内を見回すと自分自身も会員になっている「鉄道友の会」から1982年に送られたローレル賞が飾ってあった。
福岡空港に着き、チェックインをしたところでお昼を過ぎていたため、出発ロビーにある軽食コーナーで昼食。「かき揚げうどん 420円」「かしわおにぎり 210円」で腹を満たすものの、どうしても納豆が食べたくなり、カバンに隠し持って?おいた干し納豆をうどんに投入する。
ANA254便にて羽田空港、モノレールで浜松町、地下鉄で浅草まで移動する。
浅草を宿泊先に選んだのは、中越沖地震後、柏崎の商業界のために、チャキチャキな浅草のおかみさんの皆さんが講演にこられたり、商品を買ってくれたためである。宿泊先は、浅草セントラルホテル。サービスが良いことで評判であり、チェックインしたところ、おつまみと冷たい発泡酒のセットをもらった。
浅草おかみさん会の会合があるとのことで、その間に夕食を済まそうと 「駒形どぜう 本店」(電話:03-3842-4001)で、どじょう鍋を夕食にする。
はじめてこのお店に連れてきてもらったのが高校を卒業してすぐであったので、かれこれ17年ぶり?である。
どじょう鍋はどじょう本体よりも大量のネギが美味であり、さらにいえばポイントは牛蒡である。
だいぶ寒くなってきた財布の中身を見ての予算的なこともあり、どじょうの追加よりは牛蒡を追加し、無料の刻みネギをおかわりをするという貧乏学生のような食べ方ですっかり満腹となる。
溶いた生卵につけて食べるのが好みである。
そろそろ浅草おかみさん会の会合も終わった頃かと思い、「日本料理 手打ちそば 十和田」(電話:03-3841-7375)に移動。
会社としては、ホテルニューオータニにも出店されており、揚げまんじゅう 中富商店、手焼きせんべい 壱番屋、人形焼 梅林堂、浅草 旬の市とかなり手広く商売をされいる。
お店まで来て何も頼まないというわけにはいかないので、生ビールも「鴨せいろ」を注文。
どじょうとネギと牛蒡の香りにヤラれてしまったからか蕎麦の香りよりは、鴨の脂がキラキラと浮かぶつゆに気持ちが集中してしまった。
「十和田」のおかみさん、協同組合浅草おかみさん会理事長である冨永照子さん(写真:左)、東京おかみさん会の会長でもある高橋和子さん(写真:左下)がお見えになったので、まずは柏崎へのお気遣いに御礼するとともに、色々とお話を伺った。
女性のパワーをうまく使わなくては町の活性化はないこと、「浅草ニューオリンズ・ジャズ・フェスティバル」の開催までの苦労、そして今年6月にあの経営破綻した町・北海道夕張市で開催する「第16回全国商店街おかみさん交流サミット」のことを熱くお話された。
意外であったのは、世界的な建築家であった故・黒川紀章氏と冨永さんとのご関係。知事選では応援でご苦労されたという。冨永さんご自身も残念な結果となったが、2001年の参議院比例区に民主党から出馬している。
高橋さんからは、柏崎の男性はもっと女性を表舞台にだして、その気にさせてほしいとのお話があった。
とにかくお話していてもお二人ともビンビンと力強さが伝わってきており、四文字熟語で表せば、
キョ~「強烈無比」!
という感じであった。また、細かい気遣いも忘れないお二人で、帰り際に人形焼きをお土産として頂戴してしまった。ありがたい限りである。
強烈なお二人に出会ったあと、そのままホテルに戻る気もせず、一緒に話を聞いた議員で格安カラオケでカラオケ大会となった。
堺正章『街の灯り』(作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)、『ああ紅の血は燃ゆる』(作詞:野村 俊夫 作曲:明本 京静)、『喜びも悲しみも幾歳月』(作詞・作曲:木下忠司)など歌う。
先輩議員が『銀座の恋の物語』を歌ったが、おかみさんのお話との連想で黒川記章氏のことを思い出してしまった。黒川記章氏が何を思ったか、2007年の東京都知事選に出馬した際、最終日に新宿西口で街頭演説中の石原慎太郎氏の近くで、
「裕次郎の名前がないと当選できない石原慎太郎さんへ」
と、石原裕次郎の名曲『銀座の恋の物語』を歌い、それに対し石原慎太郎氏も
「あの人、面白いねぇぇ~」
と街宣車の上から答えており、シュールな大人の笑いとして笑わせてもらった。
23時近く、ホテルに戻る。
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新潟県出身の義烈空挺隊の氏名が間違っています。
宮城春雄となっていますが間違っています。
正しくは、宮越春雄ですよ。遺族より
投稿: 遺族より | 2011年8月 9日 (火) 00時43分
ご遺族さん、コメントありがとうございます。
そして、記載ミス誠に申し訳ありません。
戦没者名簿にて、再度を確認し、修正しました。
重ね重ねお詫び申し上げます。
投稿: 三井田孝欧 | 2011年8月22日 (月) 12時24分
第72振武隊の「荒木幸雄」さんのお名前が、「荒城」になってしまっている所が何ヶ所かありました。
戦争を体験された方々が、ご高齢で語り継げること自体が難しくなってきています。私は戦争を知らない世代です。でも、お一人でも多くの方の証言を残していくことが、自分の命を懸けて守ってくださった方々に対する、今の平和な日本に生きることがてきている私達のせめてもの恩返しだと感じています。
投稿: cheng | 2011年10月11日 (火) 01時07分
chengさん、コメントありがとうございます。
私も現在の日本を築いてくれた先人への感謝の念から、事実に即した歴史をライフワークとして取り組んでいきたいと思っております。
投稿: 三井田孝欧 | 2011年10月25日 (火) 03時54分
古い記事に失礼します。渋谷大尉は大正3年5月生まれなので、31歳になってましたよ。修正宜しくお願いします。
そういえば目達原の自衛隊さんに、「63・64振武隊の展示ってどうなってるの?」と聞いたら、「63振武隊はウチの記録には入ってないですよ」とツラッと言われてしまいなんとも言えませんでした。戦争中の記録はどんどん失われていきます。
投稿: 白虎 | 2015年3月21日 (土) 07時05分
白虎さん、ご指摘、コメントありがとうございます。
早速、修正しました。
また戦争記録の件、現在の自衛隊の各駐屯地では本来業務と認識されていないかも知れませんが、先人の歴史を守るという意味でも、是非取り組んでもらいたいと思っております。
投稿: 三井田孝欧 | 2015年3月23日 (月) 08時00分
靖国神社の社務所に、「柏崎海鷲会」の紅白の提灯を見たことがあります。
まだ、ご存命の方もいらっしゃるんですね。
それから、靖国の日曜日の朝、関係者のボランタリーの清掃作業を見たこおtがあります。
本当に、小学生も数人参加していましたし,自衛官の制服の方、主婦姿の方。
多くの方に支えられrていると思います。
それと、ここ数年、若い参拝客が増加していますね。
まあ、若干、縁日化しているせいもあるのですが、その際に、少しでも「靖国の聖霊」に思いをはせてくれたらと思います。
私も死んだら、靖国に行きたいものです。
投稿: QQQQ | 2015年3月23日 (月) 11時19分
「三船敏郎」ドキュメント撮影計画。米国3世監督・後藤太郎助手が取材して、日本と米国に放映する予定。S.19年暮れ頃に、特攻隊基地の撮影舞台を、熊本の南に撮影部隊を編成して、全特攻基地の撮影をしたらしいが、何方か三船撮影隊の御方か御存知の御方を探しています。大刀洗も知覧も電話したが判らない。万一御分りなら080-3887-8281ドコモ伊神幸男か090-9283-5690中島信夫滋賀県東近江市か080-3391-5724後藤太郎に御協力電話を頂きたい。伏して御願い致します。
投稿: 伊神幸男88才 | 2015年3月29日 (日) 22時57分
QQQQさん、コメントありがとうございます。
「柏崎海鷲会」の提灯は、私も今度、確認してみます。
毎回、靖國神社に行く度に若い方が増えているのは実感しており、合わせて近現代史にも興味をもってもらえばと思っております。
投稿: 三井田孝欧 | 2015年4月 3日 (金) 14時53分