陸上自衛隊千僧駐屯地
真心支援、第3師団
ブログやメールなどを書き、4時に就寝する。
7時、起床。
ホテル1階の軽食のビュッフェ形式にて、ゆで卵2個、ミニクロワッサン2個、バターロール、野菜サラダの朝食をとる。
昨日と同様、納豆がなく力が沸かないので、部屋に戻り、納豆2パックを食べる。
シャワーを浴び、新聞3紙に目を通す。中国人による反フランスのデモ行進を始めたことなど、今回の北京オリンピックとチベット弾圧の余波が
ホテルをチェックアウトし、南海線の堺駅から新今宮駅、JRに乗り換え、大阪、尼崎、福知山線にて、JR伊丹駅に到着。
11時20分、JR伊丹駅にて広報幹部と陸上自衛隊第3師団千僧駐屯地に
<報告、執筆中>
陸上自衛隊 第三師団殿
貴殿は、新潟県中越沖地震にて被災した柏崎市、特に被害が大きかった中央地区において、心のこもった支援を行い、我々被災者に安全と安心を与えて頂きました。
まさに国民の生命と財産を守る崇高な使命をもつ皆様のご活躍なくしては、柏崎市の復興はありえませんでした。
ここに心より感謝の意を表します。
平成二〇年四月二十一日
本町七丁目 町内会 会長 ****(印)
本町八丁目 町内会 会長 ****(印)
諏訪町一丁目 町内会 会長 ****(印)
諏訪町二丁目 町内会 会長 ****(印)
東学校町 町内会 会長 ****(印)
感 謝 状
陸上自衛隊 第三師団殿
貴殿は、新潟県中越沖地震にて被災したわが新潟県柏崎市において、迅速かつ心のこもった支援を行い、我々被災者に安全と安心を与えてくれました。
とりわけ特に被害の大きかった、えんま通り商店街においては、いち早い食事の提供とともに、震災以来断水となっていたなかでの給水により、多くの住民が救われました。
そして酷暑により不衛生になることが心配されたなかでの入浴施設の設置。まさに我々の生命と財産を守る素晴らしい活躍をされました。
ここに心より感謝の意を表します。
平成二〇年四月二十一日
協同組合 東本町二丁目振興会(えんま通り)
理事長 ****(印)
JR伊丹駅から大阪城近くの地下鉄・谷町4丁目駅まで移動。早速、佐藤副師団長にお聞きした旧軍第四師団の確認するためである。
大阪城内にストレートに入っても良いと思ったが、大阪城の周りを一周するとどれぐらいかかるのか、試しに歩いてみた・・・・が、大荷物を持ったなか1時間弱かかり、暑い天気もあってスーツは汗だく。
豊国神社を参拝したのち、大阪城内に入る。
これまで何回も大阪城内に入り、天守閣まで登ったが、レンガ作りの建物が第四師団の司令部だったとは気付きもしなかった。
説明には次のように書いてあった。
もと大阪市立博物館の建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年に、市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。
概観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。
戦後は大阪市警視庁として、またその後は大阪府警本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
なお博物館は、「大阪歴史博物館」として、平成13年11月3日、大阪市中央区大手前4丁目に開館しました。
大阪市教育委員会
昭和6年当時の物価は、カレーライスが10銭、豆腐1丁が4銭、ビール(大瓶)35銭
であり、そんな中、150万円も寄付を集めた大阪人、恐るべし!である。
建物の横にひっそりとあった銘板には、次のような説明がされていた。
大阪城公園内に残る戦争の傷あと
先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
ここ、大阪城後援も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲と思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎(現大阪市立博物館)は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般行員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など6,4000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。 戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
1996年(平成8年)3月
大阪府/大阪市
左翼臭プンプンである。
20時前にやっと宿泊先であるホテル銀座ダイエーに到着。
大阪市内で買い集めた納豆8種類を食べ比べ、夕食にする。
食後、いつの間にか寝てしまった。
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