2時、就寝。
5時、起床。ホテル周辺に散歩にでて、コンビニにて『週刊新潮』『週刊文春』を購入する。
ホテルに戻って読書ののち、7時、ホテル1階で朝食をとる。 軽食のビュッフェ形式になっており、ゆで卵2個、チーズロール2個、ヨーグルト、野菜サラダをとるものの、納豆がなく力がわかない。一度、部屋に戻り、納豆2パックを食べる。
8時40分、JR信太山駅に到着。 今日は、陸上自衛隊信太山駐屯地 創立51周年記念式典である。 同伴者としてお誘いした、京都のシステムエンジニアM氏と同じく京都で立命館大学 の女子学生Hさんと待ち合わせ。 お二人とも自衛隊の駐屯地は始めてであり、訓練展示も見たことがないということなので、お誘いした次第である。
また地元では陸上自衛隊高田駐屯地 の式典もあり、今回は後援会のスタッフに代理出席をお願いした。聞くところによれば、これまで副市長としか会ったことがない自衛隊関係式典であるが、珍しく会田市長本人が出席していたそうである。
駅から信太山駐屯地まで徒歩にて移動。 途中、「和泉市立解放総合センター」という表示を見つける。現在の名称は「和泉市立人権文化センター」 となっており、水平社の歴史などを展示しているという。
信太山駐屯地までの間、現地に向かう多くの徒歩の方、自転車の方と一緒になったが、それぞれに「楽しみやねぇ~」 などという期待の声があった。 正門から受付に行き、昨日、お世話になって広報室長、連隊長にご挨拶。
申し訳ないことに、国会議員や首長が座る観閲台にご案内頂き、10時から観閲式が開始された。 第37普通科連隊と第7普通科連隊との合同音楽隊、本部管理中隊、第1中隊、第2中隊、第3中隊(軽装甲機動車)、第4中隊、第5中隊、重迫撃砲中隊、第3普通科連隊直接支援中隊、第2整備大隊、そして4月8日に入隊の新隊員を含む教育隊の人員346名、車両60、航空機5である。 おなじみの西村眞吾 衆議院議員が来賓としていらっしゃったので、ご挨拶。来賓としての西村議員の祝辞がまた気合の入ったものであった。
「帝国陸軍より輝かしい伝統のある37連隊。 国民の生命を守るために日夜訓練を行い、そして敵国となりうる周辺諸国の軍隊に負けない訓練をも行う皆さんは、わが泉州の誇りである。また、厳しい訓練を通じて、生涯付き合える戦友も大切にしてもらいたい」
その他の来賓紹介となり、ありがたいことに「中越沖地震での支援でお世話になった・・・」 と紹介されたので、起立するとともに、僭越ながら柏崎市民を代表する気持ちで、大きな声をだし
「ご支援、ありがとうございました」
とご挨拶をした。 行進は、陸上自衛隊公式行進曲『大空』で始まったが、途中で名曲『陸軍分列行進曲』となり、その瞬間、西村議員をはじめ、旧軍関係者からも「おぉおぉー」との声。
VIDEO
観閲式のち、平成6年に創設したという隊員による太鼓「信太山 菊水太鼓」の演奏。 隊員の作曲による、初陣となる戦場にでた武将の気持ちを表した曲で、腹に響く気合もさることながら、早打ちの繊細さも光った演奏であった。
太鼓演奏終了後、いよいよ訓練展示。 観測用ヘリコプターOH-6D による敵陣地の偵察、オートバイによる斥候、そしてヘリコプターから、レンジャー隊員がリぺリング降下する。 その後の準備射撃として、「FH70 155mm榴弾砲」が空砲を撃ち、その大音量に会場がどよめく。74式戦車による射撃もあり、ド迫力の訓練展示。
お誘いした2名も、初めて訓練展示であり、感激したということだった。 訓練展示終了後、式典会食の会場に移動しようとすると、後ろの方から「三井田君!」 と声をかけられた。誰かと思ったら大阪府八尾市の三宅博議員。「北朝鮮に拉致された日本人を奪還する全国地方議員の会」の副会長でもあり、よくお会いする同志であるが、何よりも印象が強いのは部落解放同盟との戦いである。強烈な恫喝や嫌がらせにもクールに対応。個人的には、心のなかで「ブレないおじさん」と呼んでいる。 会食会場では、乾杯ののち、テーブル上のオードブルとともに、そば、うどん、焼き鳥などをつまむ。かなり量が多く、残してしまうのがもったいない。 ビールを注ぎ、注がれつつ、副連隊長をはじめ、中部方面隊の幹部の方と意見交換をさせてもらう。 空挺でも活躍された某中隊長からは、いかにイラクの地で公に殉じた特攻隊「Kamikaze」が尊敬されているのか、イラク派遣の実体験からお聞きした。その後、義烈空挺隊のことなど、話し込む。
途中、ある隊員に声をかけられた。 中越沖地震の給食支援の際、毎回メニューとともに住民を和ませる絵を描いてくれたT隊員(陸士)であった。T隊員というよりは、T画伯の方が支援してもらった地元町内会での通りがよく、T画伯の支援隊が交代となる際にも、某ケーキ屋さんから「絵を描いていた人にお礼がしたい」との声があったほど。 今回は、再度、給食支援のときと同じように、応援の絵を描いてきてくれた。ありがたい限りである。 デジカメで接写したので、地元に戻り次第、説明をつけ、共通掲示板にて掲示したいと思う。
会食会場を後にし、駐屯地内にある歴史資料を収めた修史館に移動する。 ここには、皇室をはじめ、14世紀南朝の勤皇の士・楠正成、旧陸軍野砲兵第4聯隊、歩兵第三十七聯隊、歩兵第八聯隊、歩兵第六十一聯隊、信太山駐屯地の歴史資料が陳列されている。 以下は説明板の記載による。
歩兵第61連隊の歴史(概要)
明治38年7月17日編成、16師団れい下に入り7月24日編成完結とともに他立ちに日露戦争参加、戦争終了後も引き続き満州に残り、同地区の守備にあたり、明治40年3月11日大阪に凱旋、浜寺仮しよう舎に入る。41年10月28日16師団から4師団のれい下に入り、42年3月17日和歌山市に移駐する。大正3年8月23日からの日独戦争に一部参加、昭和12年4月29日大阪港出帆再び渡満満州警備にあたる。昭和14年8月29日第2次ノモンハン事件の際広急派兵さる。昭和15年7月9日佳木斯(北満州)発 北支 中支 に転戦 17年2月21日中支呉淞出帆比島派遣バタン及びコレヒドール攻略戦参加、同年7月20日和歌山において復員完結。昭和18年10月4日和歌山出発、中部スマトラ 19年5月16日からビルマ マレー作戦に参加終戦に至る。昭和21年6月19日浦賀上陸 21日復員完結す。
*写真は、陸軍松井石根大将の書。
歩兵第8連隊の歴史(概要)
歩兵第8連隊は明治初年大阪市難波に創設され、明治7年萩の乱、同10年西南の役をはじめ、日清・日露の両戦役、日独戦争、シベリア出兵に参加して、赫々たる武勲をたてて凱旋。また平時においても明治18年淀川の大洪水、松島遊廓乱闘事件、明治43年同44年の大火、大正6年淀川洪水、大正7年夏の米騒動、昭和9年秋室戸台風等、天災地変に、その都度迅速軽快に出動して近畿の守りに磐石の重きをなし、昭和6年満州事変に出征、引き続き支那事変、大東亜戦争に従軍、中南支・比島・スマトラ・泰各地で勇名を馳せる。
歩兵第37連隊の歴史(概要)
歩兵第37連隊は明治29年12月1日大阪市東区法円坂町に創設され、同年3月24日軍旗を拝受、同31年12月1日編成を完結、明治37年4月27日から同38年4月30日の間日露戦役に参加、明治42年7月30日大阪北区の大火及び同45年1月16日大阪南区の大火に出動、大正4年9月第9中隊を朝鮮に派遣、同6年淀川大洪水出動、大正7年8月12日から18日の間米騒動鎮撫のため出動、同年9月5日第6中隊を青島守備のため派遣、昭和12年4月29日満州出征三江省他各地で活躍、昭和15年7月11日北支に転進漢水作戦及び長沙作戦に参加、赫々たる武勲をたてる。昭和17年3月9日フィリッピン作戦のため呉港出発、バターン半島攻略、コレヒドール島攻略、同年6月内地帰還、昭和18年10月スマトラ派遣のため宇品を出帆再度の征途につき、マライ半島を経て、タイ国へ転戦 同地で終戦を迎え昭和20年9月2日タイ国シヤン州モレンにおいて軍旗を奉焼、昭和21年6月復員。
旧軍の大阪歩兵第三十七聯隊については、事前に『大阪歩兵第三十七聯隊史』を古本屋にて入手し、読み込んできたので、より理解が深まった感がある。野砲兵第四聯隊についても事前学習していこうと思ったものの、文献となる『日本陸軍 野砲兵第四聯隊並びに関連諸史』が入手できなかった。再度、入手を試み、その歴史を調べてみたい。
大阪歩兵第三十七聯隊歌についても資料が掲示されていた。厳密には第三代目であり、初代の聯隊歌は20番まである長いもので、二代目は詳細不明。掲示されていた歌詞は以下の通り(旧字体の一部を修正)。
歩兵第三十七聯隊歌 作詞作曲:陸軍歩兵中尉 堀田俊
一、金剛山の峰高く 血潮に咲くや山桜 大淀に聳つ錦城に 雄図こもれる摂河泉 我が三七 我が三七は聖地に生る
二、ああ忠勇の流れ汲み 五條のみことかしこみて 軍旗を仰ぎ命ぞと 武を錬り鍛ふ健男児 我が三七 我が三七は軍旗ぞ命
三、日露の役に初陣し 遼陽城外朱に染め 前石橋子に轟ける 三七の名いや高し 我が三七 我が三七は歴史に光る
四、亜細亜の空に風荒び 皇師一度地を蹴なば 鉄の兜の緒をしめて 第一線に我起たん 我が三七 我が三七は日本の前衛
五、銃執る我手に霜降りて 異郷に骨を曝すとも いかで汚さん菊水の 君に捧げし此の精神 我が三七 我が三七は正義にたおる
駐屯地内には、王塚もあり、以下のような説明がされていた。
王塚考
当王塚は、履中天皇第一皇子市辺押歯皇子の古墳なり 皇子は雄略天皇に従い葛城山麓に狩りし給いし内不慮の 死をとげ給いしにより府中の東南端なる桑畑の仲子多に 葬まつりしてその後御子顕桑天皇市辺王のお骨を求めら れ桑畑の仲子多の地よりこの処に改め奉斉し給う口伝 文書によれば中世に至り元弘三年六月護良親王守護内 亟為成に和泉黒鳥村を領せしめ給う元弘の乱世に至り 大和守はこの市辺塚に烽火を上げ挙兵以って公衆に従う と見えたり以来荒廃甚しく明治に至り民有となり好本治 一郎氏が管理せしものを大正八年伯太野砲連隊創立に際し 公にこれを寄付奉斉しまつり今日に至るものである。
昭和五十二年十二月二日 和泉大社泉井上神社 宮司 田所末市
お連れした二人には駐屯地内の各種展示を見てもらうことにして、一度、別れ、一人で駐屯地の外にでて、黒鳥山公園に向かう。 官舎の横を通り、歩くこと10分程度で目的の「忠霊塔」に着くことができた。この「忠霊塔」は、昭和16年11月21日より建設開始、昭和17年4月23日工事竣工で、高さ13m、正面幅2m、奥行2m25、コンクリート花崗岩張りの納骨堂は正面幅9.5m、奥行5.5m、前庭や展望台などの浄域の総面積は2000平方メートル超という巨大なものである。 昭和17年5月8日に納骨式が行われ、明治以降の各戦役、支那事変、大東亜戦争における地元出身の戦没者を祀っているとのことで、手を合わせさせてもらった。 同公園には、同じく大きな「天皇駐蹕碑」があった。行幸にお出にでられた天皇陛下がご休憩、駐蹕された場所の記念碑である。 敗戦までは、この公園の位置を含め、周辺一帯が信太山一帯が軍の演習場であったとのことで、公園のなかにこういった碑がある。
また、この公園に来てみたい理由はもう一つあった。 先日、批判の意味の書評をした『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』 に
「海軍内で反戦活動、憲兵隊に虐殺された活動家の碑」
として阪口喜一郎顕彰碑が紹介されていたためである。共産党系の石碑として興味本位で確認にきたが、没後50年の1982年に作られたという顕彰碑というわりには、紹介銘板の下に共産党の政治ポスターが張ってある「俗っぽさ」 。これでは、阪口喜一郎氏も喜ばないであろう。 紹介パネルには以下のように書かれていた。
阪口喜一郎顕彰碑紹介
戦前、日本帝国主義が中国侵略を企てたころ、侵略の基地、呉軍港で現役の水兵にむけて反戦新聞「聳ゆるマスト」を発行しつづけ、日本共産党員として生命をかけて戦争に反対した海軍二等機関兵曹・阪口喜一郎は悪法治安維持法により検挙され、一九三三年、広島刑務所で虐殺されました。享年三十一歳、阪口喜一郎は和泉市黒鳥の人であり、碑は平和と民主主義のために活動する和泉・広島を中心に全国に及ぶ多くの人たちの献金で建てられたものであります。
*当時、単一国家である中国が存在しないにも関わらず誤解を誘うかのような「中国侵略」、呉を「侵略の基地」、獄死を「虐殺」とするあたりに、共産党のプロパガンダ臭をたっぷり感じ取ることができる。
現地にきてみて、いかに『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』 が偏っている本なのか証明できたとともに、この公園が革新系デモ行進のゴールになっていることも理解できた。
再度、お連れした二人と待ち合わせ、駐屯地に向かって一礼したのち、駐屯地を後にした。
15時過ぎ、南海線の堺駅に移動。駅近くの「ESPRESSO AMERICANO 堺プラットプラット店」にて、M氏と今後のIT戦略について打ち合わせを行う。飲み物として、つい写真につられて「アイスキャラメルナッツモカ 470円」を注文したものの、生クリームなど濃厚過ぎて、打ち合わせ中の飲み物には向かない。
18時、一度、ホテルに戻り、資料や荷物をもって、大阪市内の企業、個人宅をまわる。中越沖地震の際、個人的にカップラーメンや水などを送ってくれた方への御礼で、中越沖地震写真集と明治饅頭をお持ちした。 伺った時間も悪かったが、御礼で伺った某氏宅で、お好み焼きなどいかにも大阪風の夕食をご馳走になってしまった。何の為にいったのか意味不明である。
23時、ホテルに戻る。
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