国歌斉唱で起立卒業生1人 教員指示か
元校長、中学校で「最後の授業」
3時、就寝。
7時、起床。ひきわり納豆、小粒納豆を混ぜたもの、目玉焼き、たらこでご飯2杯の朝食をとる。
午前中はこれまでの打ち合わせの議事録のまとめ。リアルタイムで議事録をとるようにしているものの、なかなか中身を精査して関係者に送付する時間がない。
事務所に来客があり、道路に関する陳情であった。
12時過ぎ、祖母の分と一緒にお気に入りのニチロの冷凍ラーメン「横浜あんかけラーメン 生碼麺」を作り、昼食。
もずくを入れたり、祖母が飲み込みやすいように片栗粉を追加してトロみをさらに増したり、手を加えるものの、熱く作り過ぎ、自分自身で舌を火傷。コップのなかの水で、レロレロと舌を冷やし、イジリー岡田氏のような動きをしてしまった。
13時から市内某所で長時間の打ち合わせ。
17時過ぎ、一旦事務所に戻り、ブログの更新やメールチェックなどを行う。
先日、佐賀県玄海町に行った際にお土産で頂戴した玄海町のイカの一夜干しのゲソを天ぷらにしたところ、その非常に美味であった。思わずビールも飲みたいところであったが、大粒納豆とご飯で酒なしの夕食にする。
19時30分から柏崎青年会議所のECO活動推進委員会の会議に出席。
作成し直したオープニングビデオ、レポートビデオ、パワーポイントの資料の流れなどを確認する。
21時過ぎ、会議終了となり、自宅に向かう途中、バッタリ、某氏と出会ってしまい、「仕事があるので」と言ったものの、流れのなかで市内のスナックで懇親となる。
いまだこんな学校があるのか?というニュースがつい先日にあった。
平成20年3月27日『産経新聞』
国歌斉唱で起立の卒業生、1人だけ
教員指示か
大阪府門真市の市立第三中学校で今月13日に行われた卒業式で、約170人の卒業生のうち男子生徒1人を除く全員が、国歌斉唱時に起立せず、その多くが斉唱もしなかったことが26日、分かった。式に出席していた3学年の担任、副担任計11人のうち9人も起立せずに斉唱もしなかったという。学校側は事前に教員が卒業生に不起立を促した可能性があるとみて担任らから事情を聴いており、事態を重くみた府教育委員会も調査に乗り出した。
式の後、一部保護者から事態を問題視する声が寄せられ、学校側は市教委に報告。府教委によると、学校の調査に対し一部の教員は「生徒に国歌の意義について説明し、『式で歌うかどうかは自分で判断しなさい』と指導した」と話しているという。
瀬戸和夫校長は「事前に不起立を指導していたのであれば、生徒の内心の自由を侵す行為で明らかに行き過ぎ」と話している。
このニュースに対し、教師の組合系、いわゆる左翼団体は「快挙だ!学校に激励を送ろう!」などとしているが、これこそが生徒を左巻き教師の勝手な政治活動に巻き込む暴挙であること気付いていない。
そんなに国歌がイヤなら公の存在である公務員をやめて、活動をすれば良い。公のお金、税金で生活しながら、もっとも公たる国を否定するのは筋が通らない。
もっとも被害を受けるのは、これから世界の国々にでていくことがあるだろう生徒たちである。他の国に行き、自国の国歌には起立もしません、反対します、と言ったら、相手にはしてもらえない。恥をかくのは生徒である次世代を担う子供達である。
厳重な処分を望む。
そんな政治的な押しつけを生徒にする悪教師の一方、同じ大阪府内であるがこんな感動的なニュースもあった。最高の授業であったかと思う。
平成20年3月9日『朝日新聞』
余命半年
元校長、中学校で「最後の授業」 吹田市
がんで余命半年と告げられた大阪府吹田市の前教育長、延地(のべち)和子さん(62)が7日、2年余り前まで校長を務めていた市立竹見台中学校で、卒業を控えた3年生36人に「最後の授業」をした。病気のこと。仕事のこと。24歳で先立った一人娘のこと。自分の人生を教材に生きることの貴さを説き、「人生はしんどいことがいっぱいだけど、しっかりと生きてほしい」と語りかけた。
「私、なんでもさらけだしてきたの」。視聴覚室に集まった生徒たちの前で、延地さんはニット帽を脱いだ。抗がん剤治療の副作用で一部が抜けた頭髪があらわれた。「顔もむくんで自分じゃないみたいで、20万円もするカツラを買ったのよ。それで旅行に行けたのに」。生徒の緊張をほぐしてから話し始めた。
延地さんは戦後間もなく神戸・須磨で生まれた。1カ月後に父を亡くし、母と5人きょうだいで貧しさの中で育った。高校時代、家庭教師をして教える楽しさに気づき、大学を卒業後、吹田市で中学校の国語教師に。05年12月、吹田市初の女性教育長に就いた。
昨年7月、記者会見中に腹部に痛みを感じた。ビール瓶1本分の腹腔(ふくこう)内出血が見つかり緊急入院。副腎皮質のがんだった。担当医に「肝臓やリンパ節に転移している」と言われた。昨年12月に辞表を出し、市議会で「がん患者として生きていきます」と宣言した。
今年1月の2回目の抗がん剤治療で、髪は抜け、吐き気に襲われ、体重が1日1キロずつ減った。それでも、治療効果はみられなかった。「撤退しましょう」。主治医の言葉に治療の中止を決意し、一人暮らしの不自由から自宅を離れ、ホテルに宿泊しながらホスピスへの入所を待っている。
そんなとき、竹見台中の山邊義毅校長から「卒業する子に命について語ってほしい」と頼まれた。山邊校長は延地さんが校長時代の教頭。3年生は1年生の2学期まで、延地さんの「最後の教え子」だった。
この日は、26歳で赴任した2カ所目の中学校での経験を「教師としての原点」として語った。当時は校内暴力の全盛期で、「市内一」と言われるほど荒れていた。若い男性教師らは生徒に教室から引きずり出されて殴られ、辞めたり「不登校」になったりしていた。産んだばかりの娘を校長室のソファに寝かせ、学校や教室に寄りつかない生徒たちを追いかけ回した。
「そのやんちゃな子たちが50歳近くになって、いま、洗濯とか私の身の回りの世話をしてくれる。大変だったけど、楽しかった」
一人娘のもと子さんのことも話した。私立高2年のとき、同級生らになじめず、「今日から学校に行かへん」と言い出した。親としては悩んだが、中退を認めた。大検に合格して大学に進んだものの、11年前、自宅で卒業論文を執筆後、眠ったまま息を引き取った。突然死だった。
「子どもの分まで生きなくちゃ、そう思っていたのに、がんになって、悔しくて悔しくて……」。涙声に教室内は静まった。
病気になって「自分はひとりじゃない」と気づいたとも語った。教師仲間、大学時代の友人、教え子。800人以上が見舞いにきてくれた。
「最後の授業」の最後には、「がんと闘っている人は大勢いる。私の使命は希望を失わずに生きること。私の命がなくなったとき、話を聞いてくれた人の中に火種が残ってくれたら、私は第二の人生を生きられる」と話した。
そして、「いま始まる新しいいま」という題の詩人川崎洋さんの詩を朗読して締めくくった。
生徒たちは、目を真っ赤にした子も、延地さんをまっすぐ見つめて聞いていた。元生徒会長の覚前雄登さん(15)は「いつも笑顔を絶やさなかった先生が、あんなに重い病気だとは知らなかった。自分たちに全部話してくれてうれしかった」。杉山春菜さん(15)は「今はすぐ理解できないかも知れないけど、託されたんだなと感じた」と話した。
延地さんは「久しぶりに子どもたちの前で話せて楽しかった。私も勇気をもらった」と先生らに言って学校を後にした。
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