名越先生を偲ぶ、歴史パノラマツアー
東村山市・B29平和観音像と柏崎
2時、帰宅。2時間ほど仮眠し、愛車にて都内に移動。
8時前に東中野に到着。駐車場に車を入れ、 「富士そば 東中野店」で「コロッケそば」を食べ、その近くのコンビニで納豆巻きを購入し、ダメ押しの朝食(何故、ダメ押しをするのか自分でも不明)。
新宿に移動。9時20分、集合場所の新宿住友ビル48階の「平和記念展示資料館」に到着。今日は名越二荒之助先生の一周忌、先生のご遺徳を偲ぶツアーである。
このツアーも名越先生が名付け親であり、「歴史パノラマ探訪ツアー」のパノラマは、
「同じ富士山でも静岡から見たのと、山梨からでは違う。
歴史も同じ。
色々な角度からパノラマのように見ることが大切」
との先生の思いが込められている。
長年、名越先生を支えた陸軍史研究家の奈良保男氏(陸軍幼年学校)、名越先生の愛弟子である拳骨拓史氏をはじめ、名越先生にゆかりの31名の方が参加された。
「平和記念展示資料館」は、日ソ中立条約を一方的に排除し、まさに火事場泥棒をしたソ連による日本人の抑留(ポツダム宣言違反)の貴重な歴史資料が保存してある。
名越先生は、敗戦により朝鮮から満州を経てシベリアへ連行され、そのままシベリアで5年間の抑留生活を送った。 極寒の地における少ない食事で過酷な作業、「民主運動」という名の共産主義の洗脳を受ければ帰国できるという環境のなか、5年間耐え切った。生半可な反骨精神ではない。
名越先生ご自身、ソ連抑留体験について、それはそれで非常に大切な体験ではあるが、体験のみという視点ではなく、より大きな視点で書き残されており、なかでも新人物往来社『満州国と関東軍』には、次のような文章をお書きになっている。
ソ連抑留体験は、「真空地帯」といわれた軍隊生活とは比較にならない深刻・痛烈なものであった。それだけに抑留記は著書としてすでに五百冊(自費出版を含め)は出版されているという。小論や文集や関係資料まで集めたら、数千点に達し、図書室ができるほどになろう私もずいぶん集めて読んできたが、体験記のパターンはだいたい決まっているのではないか。
どの抑留記録にも共通していることは、ポツダム宣言に違反して抑留されたことへの屈辱感や、厳冬の中でのノルマに追われる重労働の苦しみや、最悪の食糧事情の中の飢餓生活などが、共通のテーマになっている。
(仮定の話になるが)これではツァー時代ロシア帝国に抑留された体験と変わらないではないか。
ソ連抑留の最大特徴は、ソヴエト連邦というイデオロギー国家に抑留されたことである。
捕虜を労働に酷使して労働力不足を補うことも目的であったが、別に「民主主義」を体験させて、特異な洗脳教育を行い、作業促進に役立て、あわよくば日本共産革命の一翼を担わせたいという狙いがあったことは、隠すべくもない事実であった。
イデオロギーに対して処女とも言われた日本人は、これにどう対応したであろうか。
ここに日本人的体質の特徴と教訓が秘められている。この点にしぼって、私の体験を語りたい。
そして、
・モスクワ・プシキノ収容所のブルジョア民主主義
・モスクワ・クラスナゴースクのファッショ的民主主義
・シベリア運動のプロレタリア民主主義
といったパターンに分けて、その体験を踏まえた分析を行われている。
「平和記念展示資料館」が平成12年にできてから、名越先生は平成13年より数度に渡り訪れたそうであり、ご縁のある資料館ということである。
1時間ほど見学したが、時代背景まで含めて、じっくりと考察しながら見たい貴重な資料が満載。また日をあらためて訪れてみたい。
大型バスに乗り込み、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園に移動。
移動中は、奈良氏から日本本土への空襲をはじめ、日本の航空史などの説明があった。
日本の都市で、石川県だけが空襲の人的被害が「0」ということを初めて知った。
中共(中国)の南京大虐殺といったプロパガンダが許されるのなら、こういった空襲の事実をベースに、東京大空襲で女子供を含めた民間人を大量虐殺した
「東京(トンキン)大虐殺」
という映画でも作れば、日本人の近現代史の歴史観、大東亜戦争の本質がより分かるのではないかと思う。
11時、所沢聖地霊園に到着。
名越先生のご希望から「明るく、広く、桜があり、お参りしやすい」この地を選ばれたそうであり、戒名は「大法院知健二荒居士」であった。
名越先生のご令嬢である高草真知子先生(麗澤大学・麗澤高校講師)にもお越し頂き、ご挨拶を頂戴したあと、参加者一同で、名越先生の墓前にて『海ゆかば』を歌う。
名越先生が高天原に旅立たれてから、あっという間の一年であった。いつも頂戴していた
「名越です。
で、ですね、今度のチャンネル桜の・・・・」
というお電話が、今でもかかってきそうな感じさえする。
世界に波及したチベット問題をはじめとする民族問題、そしてさらに酷くなった感のある弱腰な日本政府の対応に、名越先生だったらどんなご意見をおっしゃるのであろうか。
「もう1年か・・・」と一瞬、悲しい気持ちとなったが、生前の名越先生の想いをくみ取り、明るく墓前を後にした。
今更ながら、まだまだ活躍してほしい方を亡くした喪失感を感じるとともに、託されたことを確実に実行していく決意を新たにした次第である。
12時過ぎ、所沢聖地霊園内の待合室で、ツアーでだされた彩り弁当で昼食をとる。
食事をとりながら、4月26日の長野市での聖火リレーへの抗議の話となった。聖火リレーを歓迎するサクラとして在日中国人グループが大量動員されると言われている。
チベット騒動に関する中共への抗議デモは世界各地で行われており、日本での抗議活動がどうなるのか、世界から注目されている。日本の保守派の行動力が試される。
食後、同じ所沢市内の所沢航空記念公園に移動。
日本の航空発祥の地であり、現在でも貴重な資料が多く展示されているところである。
ただ残念なのは、展示されている航空機が外国製もしくはライセンス製造した機体ばかりなところ。日本がいまだ独立国としての体をなしていないことの証左でもあるが、技術国・日本として、あまりにも情けない。 明治2年(1869年)の開国以来、100年も満たない期間に近代化をはたし、世界をあっと驚かせた「零式艦上戦闘機」(皇紀2600年、昭和15年、1940年)いわゆるゼロ戦をはじめ、「航空・日本」といわれた技術の高さを、戦争うんぬんの価値判断にとらわれることなく、技術にかけてきた日本人の在り方として、次の世代にも伝える展示をお願いしたところである。
*写真は、九一式戦闘機二型 胴体
また、所沢航空記念公園には「航空発祥の地」や「少年航空整備兵の像」などがある。
【説明板】
この地は明治四十四年我が国で初めて飛行場が開設され同年四月五日早朝徳川大尉操縦のアンリ、ファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
平成十二年四月五日
所沢市
所沢航空資料調査収集する会
【説明板】
この銅像は、昭和十八年、彫刻家故長沼孝三氏(一九〇八~一九九三)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌十九年五月二十一日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和四十六年の基地返還により、所沢航空記念公園として整備されました。しかしこの像は傷みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成九年二月、長沼孝三彫塑館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました・
空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民の親しまれていくことを願ってやみません。
平成十年三月 所沢市
所沢航空資料調査収集する会
【彫刻裏面】
昭和十八年 夏 孝三作
【銅像台座】
平成十七年十二月移設
所沢航空資料調査収集する会
会長 越阪部四一郎
施工
貫井石材彫刻店
14時過ぎ、所沢航空記念公園を後にし、お隣、東京都東村山市秋津に移動。
ここには、墜落したB29搭乗員を祀った平和観音像がある。
昭和20年4月2日、この地にB29が墜落し乗組員11名が戦死した。
地主である小俣権次郎さんをはじめ、近隣の住民の方の手によって遺体を共同墓地に埋葬したという。名越先生が著書『世界に開かれた昭和の戦争記念館』に取り上げたこともあり、次男にあたる小俣光明さんにご説明を頂いた。
参拝させてもらうとともに、非常に興味があったので、色々なことを質問した。
なぜ非常に興味があったかといえば、戦争のことだけのことではない。東村山市は、我が柏崎市と姉妹都市だからである。
○盟約書
(東村山市と柏崎市との姉妹都市盟約書)
東村山市と柏崎市は、長年にわたり培ってきた尊敬と友情の関係を確固たるものとし、両都市のさらなる発展を念願して、ここに姉妹都市として提携することを盟約する。
平成8年10月1日
東村山市長 細渕一男 柏崎市長 西川正純
しかも、柏崎市には二式複座重戦闘機「屠龍」でB29を26機撃墜し、本土防衛に活躍、「武功章」を昭和20年5月にもらった樫出勇氏がおり、関連性がまったくないということもない。
ちなみに、東村山市は米国ミズーリ州インディペンデンス市とも姉妹都市となっている。原爆投下を決断したトルーマン大統領の出身地でもある。
本来、軍人と軍人が戦う戦争において、民間人を狙う空襲を繰り返すB29。その恩讐を超え、敵国アメリカといえども、御国のために戦った軍人として、ここ東村山市の人々は丁重に扱った。さらに戦後、遺体を米軍墓地に移送するとともに、この平和観音を立て、世界の恒久平和を願ったという。
B29が墜落した当時、小俣光明さんは16歳。お父様である小俣権次郎さんは昭和25年に他界。仏になった以上、敵国も関係無く英霊であるというお父様のご遺志をつぎ、戦後、乗組員の遺族を捜してまわった。そして昭和54年に3回目の渡米をし、やっと11名全員の遺族を突き止め、報告をした。
米軍は、大東亜戦争終結後、朝鮮戦争、ベトナム戦争と突き進んだため、詳細な情報がとれなかったという(この辺からアメリカの国柄も見てとれる)。
乗組員の情報(pdf形式)
この話は、全米でも話題となり、1978年1月号の『デルタ・ダイジェスト』誌にも、「ザ・オマタ・ストーリー」として掲載された。
光明さんのもとには、昭和60年に在日米軍のチャールズ・ダナリー司令官、昭和61年にはウォールター・モンデール駐日大使、昭和63年にはアーチー・クレメンス米太平洋艦隊司令官にそれぞれ招かれ、感謝状を与えられている。
名越先生が願っていたように、ハワイ真珠湾攻撃の際の飯田房太大尉の慰霊をはじめ、日米双方の武士道ともいえる、互いをたたえ合う精神をより多くの若い世代に伝えたいものである。
続いて、福生市の清岩院(電話:042-551-1986)に移動。
ここには、支那事変以後、真の日中友好を訴え、親日和平路線をとった汪兆銘政権に司法長官として参画し、『中華日報』総編集長としても活躍、戦後は日本に亡命した一級文人・胡蘭成氏の墓がある。
胡蘭成氏は、蒋介石率いる国民党軍、毛沢東率いる中国共産党との戦いに敗れ、両方から狙われ、日本に亡命した。
日本では、数学者の岡潔、日本浪漫派の保田與重郎、川端康成等々と親交を結び、日中の文化の架け橋として、活躍した人物である。ちなみに別れた奥様は、作家の張愛玲女史。
お父様が胡蘭成氏と親交があり、ご本人も頭を撫でてもらったという記憶がある拳骨拓史氏から解説があった。
胡蘭成氏は汪兆銘政権に参加時に、現在考えられているほど親日的ではなく、親日家となったのは、訪日し、伊勢神宮を参拝してからという。
確かに、こんな文章も残している。
天照大御神の稲授けと外宮の山の幸と海の幸を思って気が付いた。
キリスト教のエホバ祭りは天を祭るに当たるが、外宮に当たる祭りはキリスト教にはない。故に「人世の建設」がないのである。
大御神の稲授けと歴代天皇の大嘗祭と年毎の新嘗祭は「人世の建設と報本の悟り」なのである。他宗教にはこれがない。
ギリシャのオリンピス神山にも、ヘブライ人の聖書にいうエデンの園や天国にも、日本の高天原のような風景がない。高天原には稲造りと機織(はたおり)があった。
その演繹で人の世に「礼と楽」との風景が啓けたのである。
胡蘭成氏の名前は現在ではあまり話題とならないが、名越先生が忘れ得ぬ人として取り上げたように、戦中、戦後の日本とあの大陸との交流を正確に読み取るためには、よく勉強する必要がある人物であろう。
18時過ぎに一応のツアー終了となったものの、かなりの渋滞があり、終点の新宿駅に着いたのが20時。帰りの電車の時間がある地方の方もおり、お別れの挨拶もそこそこに解散となった。
21時近く、東中野駅に着いたものの、異常にお腹が空いていたので、駅近くの「麺家 ばく」(東京都中野区東中野4-4-3 電話:03-3366-2310)にて、「ちゃーしゅーめん 並 900円」を食べる。
麺の茹で具合、味の濃さ、油の量を決められるので、「麺固め、味濃いめ、油普通」で注文したが、なかなかの味で特にチャーシューの味の染み込み具合、歯ごたえは好みであった。次回、また食べにこようと思う。
駐車場に行き、愛車のシートに座ったところで、眠気が襲ってきたので仮眠。
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