慰霊調査のため、インドに出発
1時過ぎ、カプセルホテルを見つけ、シャワーを浴びたのちに就寝。
7時、起床。ゆっくりと大浴場に使ったのちにチェックアウトし、コンビニで納豆巻き2本、低脂肪乳、グレープフルーツジュースを購入して朝食をとる。
途中、色々な買い物をしつつ、成田空港に向かって移動。
10時過ぎ、成田空港第2ターミナルに到着し、参加するツアーの皆さんと合流する。元産経新聞で戦史の追及などご活躍の作家・牧野弘道氏、同じく元産経新聞で『週刊新潮』の人気連載「変見自在」、『世界は腹黒い』のジャーナリスト・高山正之氏をはじめ、医師、大学教授など色々な職歴の方、ご高齢で参加の元帝國軍人の方など約20名である。
早速、出国手続きをして、空港内を散策。
いつもは予定をギッチリにつめており、これまでゆっくりと出発ロビーを散策する時間のある旅はなかなかなかったので、良い経験となった。
ツインもある仮眠室やシャワールームもあるリラクゼーションスペースをはじめ、スーツケースの開錠サービスなど、ドンドンと進化している。
ショップも色々なジャンルが揃い、見ているだけでも楽しい。
なかでも、 「Fa‐So‐La TAX FREE AKIHABARA」は、秋葉原、いや外国人がいう「AKIHABARA」 を再現したオタク感あふれるショップで、ガンダムをはじめ、アニメグッズを多く取り扱っていた。
近くにいた白人カップルは、エアーキャップ、いわゆるプチプチをおもちゃにしたものにハマっているようで、やたら感動しているようであった。
11時40分、搭乗口に移動。搭乗する航空会社はエア・インディアであり、最近活発となっているテロ活動の防止のためか、搭乗前にもエア・インディア独自のセキュリティチェックが行われた。
もし、ここでハイジャックの武器となる危険品が見つかるとすれば、出発ロビー内の売店や関係者がテロに協力した場合のみであろう。そこまで神経をとがらせているのである。
12時、AI307便に搭乗。機体はボーイング777-200LRであり、乗客率は60%といったところ。最後尾の2名がけの席でゆったりと座れた。
12時50分、機内食での昼食。選択は、ベジタリアンかノンベジタリアンとなり、ノンベジタリアンのチキンカレーを選んだ。
日本での調理のためか、あまり抵抗感はない。ただ、甘すぎるライスプディングだけは、受け付けない味であった。
機内での時間は、すべて読書にあて、高田歩兵五八聯隊関係者で編纂した『ビルマ戦線』やそのほかのインパール作戦に関する資料のうち、コヒマでの戦闘を中心に読みあさる。
意外に集中して読み進めることができたが、メモをとるための愛用デジタルメモ「ポメラ」DM10を持参してこなかったのが、失敗であった。
18時40分過ぎ、二回目の機内食。
現地時間での夕食との兼ね合いのため、軽るめの軽食となるサンドイッチなどがだされた。最近フルーツを食べていなかったので楽しみにしていたが、先に砂糖たっぷりのデザートを食べてしまったので、あまり味を感じることができず残念。
18時(現地時間、時差-3.5時間)、デリー(インディラ・ガンジー)国際空港に到着。多少、肌寒く、霧がかかっている。
入国審査を終え、移動のための団体バスに乗る。
今回のツアーのトータルコーディネーターは、ジャギー氏。
空港から夕食会場となるレストランまでの移動の間、最近のインド情勢を説明してもらった。
・ デリー(インディラ・ガンジー)国際空港及び周辺は、来年5月開催のイギリスの植民地だった国が集まって行うコモンウェルズ・ゲームに合わせて大改築をしている。高速道路、地下鉄、モノレールの工事が行なわれており、あっという間に風景が変わる。ただし、工事の進捗は遅れており、大会までに完成するか微妙なところ。
・デリーは首都圏(NCR=ナショナル・キャピタル・リゾン)を構成しており、人口は1300万人。当初は500万人を予想していた。教育費用が高いので子供は1人か2人の家庭が多い。教育費用が高いので子供は1人か2人の家庭が多い。
・ デリーは首都圏を構成し、デリーは、連邦の首都機能があるニューデリー行政区とオールドデリーに分けられている。ニューデリーは、イギリス植民地時代に作られたものであり、古くは今でいうオールドデリーしかなかった。
・乗用車の50%以上は、日本とインドの合弁となったスズキの製品であるが、いまではそのシェアを韓国の現代自動車と激しい競争している。話題となっているTATA製ナノ(30万円台の小型車)の予約が開始されており、ナノが販売されると二輪車からナノに乗り換える人が増え、これまで以上の交通渋滞が予想される。
・公用語はヒンズー語、ヒンズー語が解らない人のために準公用語として英語を使用。しかし、インド国内で多く使われる言語だけでも16あり、100ルピーなどの紙幣には各言語が表示されている。現在の相場は2円=1ルピー程度で、1万円で4990ルピーに換金。
・今年4月に総選挙がある為、政府方針及び施策、予算が決まっておらず、現政権・新政権の何れが実施するかどうか政治が混乱している。
・インドの宗教は、
1.ヒンズー教(約70%)
2.イスラム教
3.ジャイナ教
4.仏教
5.ゾロアスター教(拝火教)
6.キリスト教
であり、ジャイナ教とゾロアスター教はお金持ちという。ネール、ガンジーは古代ヒンズー教であるバラモン教徒。
・インド国内のイスラム教徒は約20%となり、同じ教徒同士で集まって住むため「パキスタンよりパキスタン」と言われている。ゆえに、テロも続出している。イスラム教徒は殆どオールド・デリーに居住し、クリケットなどインド対パキスタの試合では、パキスタンが勝っても負けても暴動が起こり、大変迷惑している。インド独立時にガンジーはイスラム教徒を認めたが、 「国父ガンジーの唯一の判断ミス」と言う人も最近多い。
・現在のインドでは仏教徒が少ないものの、影響が強く残っており、49日の法要、新盆の風習はどの宗教も行なっている。
・インドでは、猫は縁起の悪い動物として忌み嫌われている。ペットとして猫を飼うことはない。
・1991年末からの経済自由化政策(New Economic Policy)でインドは大きく経済発展、自由化が進んだが、TVチャンネルが200チャンネルに増え、低俗なTV番組などにより、若者に悪影響を与えている。実際に、TV番組の真似する若者が増え、治安が下がった。以前は、国営放送の2チャンネル、その他の計3チャンネルだけであった。
19時40分(現地時間、時差-3.5時間)、夕食会場となるレストラン「ラジーズ・アフェアー(Lazeez Affaire)」(6/48 Malcha Marg shopping center 電話:011-268-78155)にて到着。
「ラジーズ」はウルドゥー語で「美味しい」という意味だそうである。
食事前に作家・牧野弘道氏からインパール作戦に至る経緯から、戦闘を行った各師団の特性、師団長のことなどをご説明頂いた。
<インド進攻のタイミング>
大東亜戦争緒戦の圧倒的優勢から劣勢に立たされた昭和17年8月22日、大本営は南方軍に対し、東インド進攻の21号作戦準備を命じるが、同年9月5日参謀本部第1部長は21号作戦実施の決定は、当分保留する旨を指示。
まだ大日本帝国陸軍に余力があったこの時点で、インド作戦を実施していれば、インドが独立、日本と手を携えて、歴史は変わったであろう。
<第15師団:祭兵団>
第15師団長・山内正文中将率いる第15師団は、福井県人・滋賀県人で編成され、中でも頑張ったのは歩兵第60聯隊・松村弘大佐(陸士33期)の部隊であった。
<第33師団:弓兵団>
第33師団長・柳田元三中将は第15軍司令官牟田口廉也(陸士20期)の4期後輩で陸軍大学を恩賜で出た秀才で幕僚タイプ。
<第31師団:烈兵団>
第31師団長・佐藤幸徳中将は第15軍司令官・牟田口廉也中将と似た実戦派の勇将タイプで、張鼓峰、ノモンハン、支那事変でも前線で指揮を執っている。
2・26事件の際、皇道派であった牟田口廉也中将と統制派の東條首相と親しかった佐藤幸徳中将は反目し合った。
第31師団長・佐藤幸徳中将と第15師団長・山内正文中将は陸士25期の同期生。
<インパール作戦の実相>
・第33師団(弓)はインパール作戦の主力であり、南からインパールを目指した。インパールまで自動車道が開通しており、重砲等は自動車道を利用し運搬した。
・第15師団(祭)は山岳地帯を抜け、北からインパール・コヒマ道を抜けて目指し、第31師団(烈)はコヒマ・デイマプールを目指した。
・第15師団(祭)、第33師団(弓)のどちらがインパール攻略をするか曖昧であった。
・戦局悪化、独断で撤退を決めた第31師団長・佐藤幸徳中将の行動は当時の帝國陸軍としては考えられないものであった。
・戦闘中、前線に何とか握り飯1個でも届けようと輜重隊(食料などの兵站を担当する部隊)はそれぞれに努力していたが、決定的な糧食の欠乏は退却時に発生した。
・インパール作戦は、日本に制空権はなく、敵の制空権下の戦いであった。ズブサの英軍砲兵陣地にメークテーラから帝國陸軍第5飛行師団(師団司令部はラングーン)の一式戦闘機「隼」40機が1度だけ、うち1機に50kg爆弾2発搭載し、爆撃を敢行した。
・昭和19年5月16日、第33師団長・柳田元三中将の後任に親補された田中信男少将は府立1中出身で陸軍大学は出ていないが、インパールから退却中の第33師団(弓)最後の部隊を指揮して作戦中止から4ヶ月半をかけて、自動貨車604輌をチンドウイン河東岸へ渡し終え、撤退を終える。混乱しがちな負け戦のなか、見事な指揮であった。
<コヒマについて>
・コヒマは英軍避暑地であり、現地に住むナガ族は100年前までは首刈りをしていた。ナガ族の働き盛りの男は出稼ぎで不在の為女性が残り、末子相続が行なわれている。
<第31師団、宮崎支隊・58聯隊の活躍>
・第31歩兵団長・宮崎繁三郎少将(陸士26期)が高田歩兵第五十八聯隊を主に率いた宮崎支隊は、いくら犠牲者が出ても徹底的に作戦を実行し、成果を上げる方針を貫いた。戦後、イギリスの陸戦史でも讃えられるところである。
【宮崎支隊の戦術方針】
・装備・人員均一性を見直し
(1)装備が優勢な敵に対し、装備が劣る兵で突入するため、装備においても普通のような一様ではなく、3個大隊が同じ編成装備をする必要はない。
(2)聯隊長の信任する大隊を極度に増強して、必勝大隊を作る。
(3)大隊、中隊、小隊も同様に、各隊長の信任する中隊などの戦力を思い切り増強して、必勝の中隊、小隊、分隊を作り、人員も平等にする必要は無い。
(4)分隊内にしても、全員に小銃を持たせる必要はない。手榴弾の使い方が上手い者は手榴弾を10個以上持たせ、小銃を携行する必要はない。
(5)これなら勝てるという確信を有するよう思い切って、編成装備を改変。
・3人組戦法
(1)1名は手榴弾手、1人は銃剣術手、1人は小銃援護射撃手として組み合わせる。
銃手が射撃している間、手榴弾手と銃剣術手でトーチカの中の敵を倒す。
牧野弘道氏からの説明をお聞きしながら、各種のカレーを食べる。
マトン、チキンとでてきたが、秀逸だったのはほうれん草のカレー。その濃厚さ、風味、非常に好みのカレーで、ナンで一杯、ライスで一杯と二杯も食べてしまった。
食後、すっかり満腹となって宿泊先の「THE LALIT NEW DELHI」(BARAKHAMBA AVENUE CONNAUGHT PLACE 電話:011-2341-1001)に移動。インターネットも使え、シャワーもある一流のホテルであるが、部屋でのネット使用料が高く、30分で300ルピー(約600円)であった。
シャワーを浴び、かなりの重量になった慰霊の品(柏崎の米、酒、日本海の海水、笹団子、柿の種など)を整理し、23時(現地時間、時差-3.5時間)に就寝。
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