4時(現地時間、時差-3.5時間)、一旦、目が覚めるも、あまりにも周りが暗すぎ、再度、就寝。
6時(現地時間、時差-3.5時間)、起床。インターネットが使えない環境のため、撮影した写真の整理などネット環境がなくてもできる仕事などを行う。
8時(現地時間、時差-3.5時間)、ホテルの1階に朝食。青々としたバナナ、卵を薄くのばして焼いたオムレツ、茹で卵、トースト、無塩発酵バター、おかゆなどが用意され、臭みのないレモン色の黄身をした茹で卵を5個、無塩発酵バターをたっぷりつけたトーストで3枚ほど食べる。
ホテルの前にでて、ふと上を見ると、電柱に尋常ではない数の電線が張られているのが見えた。停電も1時間に何回もあるうえ、配電がこの状況では、近代化はまだほど遠いであろう。
8時45分(現地時間、時差-3.5時間)、移動のためのバスに乗り込む。身分確認があったときのために、パスポート持参。
交通渋滞がひどく、インパール地方のテロリストの暴発に警戒する軍人・軍用者が多いため、移動にはかなりの時間がかかった。
9時20分(現地時間、時差-3.5時間)、インパール北方15kmのカメン村に到着。
昭和19年4月3日、第15師団(祭)本隊・歩兵第67聯隊第10、第11中隊の2個中隊が敵戦車に反撃され、第10中隊長・大西中尉ら戦死行方不明59名、戦傷21名でほとんど潰滅状態になった地である。
誰の遺体かは区別はつかない状況であるが、現地の方は丁寧に土葬してくれていた。
全員で黙祷ののち、『海ゆかば』を斉唱して、慰霊。
この墓を是非、このまま維持してほしいと参加者でカンパを1500ルピー集め、カメン村の代表に手渡した。
カメン村を後にし、ひたすらサンジャックを目指すが、簡易舗装をメンテナンスしていない悪路であり、気分を悪くする人まででる始末。
州、県などチェックポイントを「袖の下」を渡しつつも通過し、アッサムライフル連隊第17大隊D中隊が駐屯するチェックポイントに到着したのは、11時45分(現地時間、時差-3.5時間)。標高は1585mである。
12時(現地時間、時差-3.5時間)、インパールから約60kmのサンジャックに到着。
昭和19年3月22日、第31師団(烈)の左突進隊:宮崎繁三郎中将率いる宮崎支隊は、ウクルル周辺の敵を撃退し、ウクルルから退却する敵を追ってサンジャックに移動した。
本来、サンジャックは第31師団(烈)の進撃ルートではなく、第15師団(祭)の歩兵第60聯隊、福島銀市少佐率いる第3大隊の攻撃ルート。ウクルル周辺の英印軍を蹴散らした宮崎支隊が先行して現地に到着したため、本来の担当である、歩兵第60聯隊第3大隊との連携が不十分なまま、サンジャックを攻撃することとなった。
*日本陸軍の進撃ルートと部隊名
宮崎支隊・情報主任である柏崎出身・浜中尉(のちにウクルルで戦死)の情報では、サンジャック陣地にいる英印軍は火力を多数有する約1個旅団(2個歩兵連隊)程度としていたが、実際には円筒形陣地・4個歩兵連隊の堅牢な陣地であった。
英印軍は分断包囲されると、直径数10kmの円形に集結し、その中央に重砲を置き円周には戦車と機関銃を配置。食糧・弾薬を毎日のように輸送機で空輸するという空陸共同の立体的防御陣地を形成していた。
スリム中将指揮の英第14軍の基本戦術は、人的損害を避け、分断包囲にあった場合には、円筒形陣地を構築あるいは後方の拠点に後退し、補給線の延びきった日本陸軍を平野部出口で待ち受けて、迎え撃つというもの。日本陸軍は見事、その戦術にハマってしまったのである。
*写真は、サンジャック内にある英印軍の慰霊塔「SHANGSHAK WAR MEMORIAL」。日本軍関係の施設には、柵やはないが、英印軍関係の施設はしっかりと柵がある。
空からの補給がある英印軍に比べ、日本陸軍の各師団はアラカン山脈の険しい山中移動の為、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半分しか携行出来ていなかった。さらには、インパール攻略を3週間で完遂する計画であったため、将兵の携行弾薬も最小限、糧食は20日分しか用意していなかった。
第31師団(烈)の左突進隊:宮崎繁三郎中将率いる宮崎支隊は、さらに
・右猛進隊
高田歩兵第58聯隊第1大隊基幹
(第1~4中隊)
・中猛進隊
高田歩兵第58聯隊第2大隊基幹
(第5~8中隊)
歩兵団司令部同行
・左猛進隊
高田歩兵第58聯隊第3大隊基幹
(第9~12中隊)
山砲兵第2大隊、工兵1中隊基幹
と分担しており、サンジャック陣地正面東方から左猛進隊、西方から中猛進隊で挟み撃ちする作戦をとった。
インパール方面からの英印軍の援軍が来ることを阻止するため、第1中隊に大隊砲1門、重機関銃2門をつけてサンジャック西方4191高地に配置。
昭和19年3月22日、中猛進隊(長家大隊長)は第一線に第2大隊第8中隊、第二線として第5中隊、第6中隊にし23日未明にかけて夜襲。左猛進隊(島之江大隊長)はサンジャック東方、7338高地の敵と激戦となってしまい、サンジャックへの到着は遅れ、中猛進隊とのはさみ撃ち攻撃が失敗。
同日、中猛進隊と左猛進隊の薄暮攻撃するも失敗した。
*写真は、現在のサンジャック
元歩兵第五十八聯隊編著『ビルマ戦線-歩兵五十八聯隊の回想』には次のようにある。
二十三日午前三時、第一線たる八隊は猛然と突撃を敢行した。最先頭は愛用の日本刀を翳して突進する伴小隊長である。「中隊長に続け」、「中隊長を殺すな」、と中隊は一団となって突入した。俄然猛烈な銑砲火、手榴弾の炸裂、全山まさに火を噴くかと思われた。
伴中尉は精練証を有する剣道の達人である。手練の早技で敵兵数人を斬って落し、この時すでに身に数創を受けていたが毫にも屈せず、更に敵陣内深く突入して壮烈な戦死を遂げた。続く小隊長馬場正雄少尉以下もよく中隊長と共に勇戦したが、燐烈な敵火に倒れる者多く、もはや突撃成功の見込みは絶えた。
この状態を見た長家大隊長は、自ら敢然と第二線部隊を提げて殴り込みの夜襲を決行した。まさに阿鼻叫喚、耳をつんざく銃砲声の間に、「天皇陛下バンザイ」の声が聞えていた。
戦友の屍を乗り越えて敢行された猛烈な突撃も、一気に敵陣を奪取することが出来ないままに払暁を迎えた。現態勢で夜が明ければ、大隊の苦戦は明らかである。大隊長は機関銃に援護射撃を命じ、大隊本部および各中隊を辛うじて敵方斜面から収容した。この時部下思いの大隊長が、左頸部の受傷個所から鮮血を流しながら、「部下の骨が拾えないのが残念だ」、と男泣きに泣いていたのが今でも忘れられない。
同年3月24日、宮崎支隊長はサンジャックに到着した右猛進隊(森本大隊長)にコヒマ南方のトマへに直行し、コヒマ・インパール間の連絡を遮断するよう命令した。
再度、中猛進隊と左猛進隊による薄暮攻撃も失敗。
同年3月25日、中猛進隊の第2大隊第5中隊(中村中隊長)が、敵陣地中央である教会陣地を西から攻撃、中隊の1部は陣地内に突入し、玉砕した。
同年3月26日、左猛進隊、第3大隊の島之江大隊長は、予備隊であった第11中隊(西田中隊長)に第6中隊も掌握させ、2個中隊(合計約150名)をもって、攻略することを指示。2個中隊はサンジャック陣地に隠密潜入し、第6中隊は教会陣地、第11中隊は北側陣地を攻撃した。第11中隊長・西田将中尉が小隊長の頃、第6中隊に所属していたため、指揮命令には何の支障もなかった。
*写真は、現在の教会陣地の跡
思いもかけぬ教会陣地の東側の敵陣地にも手こずり、夜明けと共に激烈な陣地内戦を展開、第11中隊長・西田将中尉も重傷を負う。
敵陣内に孤立した突入部隊は、時間と共に殲滅されていった。
同年3月27日未明、宮崎支隊の強襲でサンジャック陥落。遅れて、第15師団(祭)の右突進隊・歩兵第60聯隊第3大隊が突入した。
*写真は、教会陣地への突入路
元歩兵第五十八聯隊編著『ビルマ戦線-歩兵五十八聯隊の回想』には次のようにある。
やがて二十六日も日は暮れた。連隊長は最後の総突撃を決意し、軍旗を先頭に陣前近く進んでいた。敵の銃砲火は相も変らず無闇と撃ちまくり、隊内には異様な緊張が漲っていた。夜半過ぎ、昼をあざむく照明弾と共に、敵の射撃は一き激しくなり、狂気のような火網は我が突撃を察知したかの如くで、総突撃の前途もあわや……と思われた。
だがその一瞬、敵の猛射がピクリと止んだ。連隊長は直ちに斥候を派遣した。時すでに遅し。陣内に敵影はなく、折柄アラカンの山嶺に昇った弦月が、冷え切った山上に冷たい光を投げかけるばかりであった。
※サンジャックの戦闘は、敵を殲滅することは出来なかったが、その戦利品は膨大なものがあった。(大砲、迫撃砲、その他各種火器、弾薬、食糧、車両、軍馬等。なお捕虜は約百名)連隊はこれによって装備を強化し、食糧を補充することが出来た。「糧を敵に求める」ということが、インパール作戦における悲しい目論見ではあったが、この時ばかりは実際に目論見通りに行ったのである。しかし、それにしても大きな代償であった。我が方の死傷者は約五百名である。
一週間近くかかってサンジャックを攻略することはできたが、このため左突進隊のコヒマへの前進は一週間近く遅れた。
サンジャックの戦地を確認していたところ、INA(インド国民軍)の宣撫工作部隊の一員であったシーシャックさんとお会いすることができた。宣撫工作部隊が先行し、このインパール作戦の大義を現地人に説明していた。シーシャック氏は、インド独立を信じ、INAの一員として日本軍に協力し、宮崎支隊の前方で作戦任務についていたのである。宮崎繁三郎中将とは、昭和19年4月にここサンジャックで会い、支隊撤退時に当地で別れたという。
当地には、サンジャックの方が大切にしてくれている、西田将大尉が残していった品物が保管されている西田会館がある。
その前で、日印両国旗を掲揚し、日本から持参した供物を用意して、サンジャックの皆さんとともに、『海ゆかば』を歌い、慰霊祭を執り行った。
このサンジャックの地には、新潟県人をはじめ、多くの英霊の遺骨が埋まったままである。
慰霊祭ののち、サンジャック内にある英印軍の慰霊塔「SHANGSHAK WAR MEMORIAL」を見学。丈夫な柵で囲まれていたが、鍵が壊れており、中に入ることができた。
13時(現地時間、時差-3.5時間)、シーシャックさんのご自宅を開放してもらい、バスに積んでもってきたランチパックで昼食をとる。
内容は、茹で玉子、甘いバターを塗っただけのサンドイッチ、チキンカレーソースが入った春巻き、青いバナナ、ミネラルウォーターである。
シーシャックさんのご自宅には、日本陸軍の将兵が残した装備、書籍等が大切に保存されており、アルバムや下士官用軍刀等を手に取って見せてもらった。
御礼として、シーシャックさんに靖國神社で購入した桜の湯飲みをお渡しした。
まだ文化的にポイ捨てが横行しているようで、道ばたにはお菓子の包装など、自然には還らないプラスティック製の袋が多く落ちていた。
ゴミを捨てたらダメということを、言葉が通じないサンジャックの子供に教えるために拾ってみたが、驚いたのは日本のアニメパワーである。袋のデザインは日本のアキバ系アニメであった・・・・。
13時45分(現地時間、時差-3.5時間)、サンジャックからウクルルに向けて出発。
険しい山道をひたすら進みながら、当時の日本軍将兵のことを思いつつ、アラカン山脈を見ていると、自然と熱いものがこみあがってきた。
よくここまで来て戦ったものである。現職の自衛官でも旧軍を悪く言う方もいるが、現地に来て、旧軍と同じことをやれるのかどうか、是非、考えてもらいたいと思う。
15時5分(現地時間、時差-3.5時間)、標高1800m、インパールから約80kmのウクルルに到着した。
昭和19年3月18日に左猛進隊、ウクルル南東10kmの高地で頑強な英印軍に遭遇南15kmのサンジャックからの敵逆襲にあう。
同年3月19日、左猛進隊、ウクルル南東10kmの7378高地を占領。
同年3月21日、宮崎支隊長率いる中猛進隊が英軍1個大隊が守備していたウクルルに突入する。
占領後は、第31師団(烈)と第15師団(祭)の補給基地となっており、前線で糧食・弾薬等が不足した時は当地で補給することになっていた。
当時の補給基地になっていたところは現在、教会になっており、その片隅をお借りして、慰霊祭を行った。
日本から持参した供物をお供えし、新潟の地酒、日本海の海水、柏崎の水を周辺にまき、全員で整列して、黙祷。
『海ゆかば』を合唱した。
15時50分(現地時間、時差-3.5時間)、ウクルルを出発。
来た道を帰るだけであるが、暗くなってしまうと、勝手な自治組織、解りやすく言えば山賊のような部族・集団がでてきて、法外な通行料を要求するとのことで、バスは飛ばし気味となった。
往路と同じ、3つほどのチェックポイントを通って、インパールに戻る。
18時50分(現地時間、時差-3.5時間)、昨日と同じホテル「HOTEL Nirmala」(M.G.Avenue,Imphal-795 001 Manipur)に到着。
シャワーを浴びて、ゆっくりしたのち、19時30分から夕食となった。
バスで揺られすぎて、食欲が多少減退気味なので、冷凍で持参してきた納豆を用意する。しかし、醤油を持参するのを忘れていたことに気付いた。なんたるイージーミステイク。
ありがたいことに、ツアーに参加のI氏が醤油の小分けパックをお持ちだったので、分けて頂き、醤油で味付けをした納豆を食べることができた。
カンタ氏も一緒に夕食をとることになったので、一緒に納豆を食べ、かつ日本から持参した柏崎(高柳)の地酒(石塚酒造)を飲みながら、懇談する。カンタ氏は納豆も日本酒も大好物とのことである。
無農薬の大きいレモンや無農薬黒米などオーガニック製品で輸出できないものか等、ビジネス話で盛り上がる。
21時(現地時間、時差-3.5時間)、から一部屋に集まって、再度の懇親会。
24時(現地時間、時差-3.5時間)過ぎ、に就寝する。
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