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2009年2月 3日 (火)

セングマイ、カングラトンビで慰霊
インパールからコヒマへ

Cimg1145 4時(現地時間、時差-3.5時間)、起床。既に外は明るく、ホテル近くの市場も活発になっているようだったので、ホテルのベランダから写真をとる。
 朝の散歩がてら、ホテルの外を歩こうと思ったものの、強烈な便意が何度もおそってきて、トイレにこもりっきりとなる。
 水ではなく、予想では一昨日夜の屋台の食べ物が効いてきたのではないかと思う。

Cimg1146 7時(現地時間、時差-3.5時間)、朝食。
 刻んだ野菜が入ったオムレツ、甘い食パンのトースト、青々としたバナナ、茹で卵、無塩発酵バター、おかゆなどが用意されたので、またも茹で卵を5個、無塩発酵バターをたっぷりつけたトーストなどを食べる。

 今日の全行程は130km、気温も28度以上である。

 9時40分(現地時間、時差-3.5時間)、ホテル出発。ホテルのクリーニングを利用した高山正之氏のお話を聞いたところ、下着+Yシャツ数枚などをクリーニングにだしても40ルピー(約80円)ほどで、バリバリにノリの効いた仕上がりだったそうである。

Cimg1156 10時5分(現地時間、時差-3.5時間)、セングマイに到着。
 セングマイは、昭和19年4月18日、インパールを目指した第15師団(祭)右突進隊、京都の部隊である歩兵第60聯隊(聯隊長 松村弘大佐)の最到達地点である。
 インパールから北約20kmの最後の関門セングマイ高地へ歩兵第60聯隊は第2回の夜襲を敢行、聯隊砲1門のみでは‾突撃支援射撃が出来ず戦死者91名を出して失敗。
 同年4月19日、歩兵第60聯隊の第2大隊(大隊長 内堀次郎少佐)はセングマイ高地頂上まで上ってきた敵戦車の躁欄と敵の迫撃砲により、戦死傷者100数十名の損害を出した。

Cimg1157 セングマイ高地を望むインパール川の河原に行き、黙祷のあと、『海ゆかば』を合唱。
 戦後は、ここに慰霊のためのお寺があったが、3年前の台風で流されたという。
 現地の方も多くでてこられ、お互いに主たる言葉ではない英語を使って、しばしの交流。今でも日本軍人を尊敬しているという、お年寄りにも会えた。

Cimg1168  セングマイを後にし、10時45分(現地時間、時差-3.5時間)、インパール北北西15kmのカングラトンビに到着。地名のカングラトンビは、カングラが「ドライ・乾いた」、トンビが「若い」という意味で、若く乾いた土地という意味をもつ。
 英印軍補給部隊の慰霊墓地があり、上官が来るとのことで、アッサムライフル連隊の儀伏兵と軍楽隊がいた。
 昭和19年4月7日、第15師団(祭)右突進隊、歩兵第60聯隊第3大隊は夜襲成功後、隠れていた英印軍戦車3輌に躁爛され潰滅状態となった。第11中隊長・長石虎之助中尉、機関銃中隊長・田中敬造中尉ら68名が戦死、大隊長・福島銀市少佐も重傷。

Cimg1173 11時45分(現地時間、時差-3.5時間)、ミッション(現在はガンポビ)に到着し、見晴台で地形の確認。
 12時10分(現地時間、時差-3.5時間)、インパール川に架かる1番目の橋、長さ約15mを確認する。
 コヒマ-インパール道の補給路を遮断するため、昭和19年3月28日、第15師団(祭)、敦賀の部隊である歩兵第67聯隊第3大隊(大隊長 本多宇喜久郎大尉)日本軍はこの橋を爆破、停止した英車輌30以上を破壊した。
 本多宇喜久郎大尉が歩兵第67聯隊第3大隊に着任した際、部下将校の殆どが士官学校出身で占められていたため、かなりの戦果がだせると本人は思ったという。
 歩兵第67聯隊第3大隊は歩兵砲2門の内1門を帯同、行動開始後10日間無線封鎖をし、ミッションの橋を爆破後、師団に報告した。
Cimg1175 12時20分(現地時間、時差-3.5時間)、インパール川に架かる2番目の橋、長さ30mを確認する。
 昭和19年6月22日、ミッション付近の第15師団(祭)歩兵第67聯隊(連隊長 松村弘大佐)の陣地も突破され、コヒマ-インパール道は完全に英印軍の手中に陥ちた。
Cimg1184 この2番目の橋のふもと、河原において、歩兵第67聯隊の動けぬ傷病兵がグルカ兵により、生きたままタンカごと焼き殺された。
 その無念もあるかと思い、河原において、慰霊祭を実施。
 国旗「日の丸」を掲げ、日本から持参した酒、水をまき、黙祷のち、『海行かば』合唱した。

Yamautimasafumi  第15師団(祭)の師団長・山内正文中将は当時結核であった。
 マラリヤに倒れ、後送された山内正文中将は師団長を解任され、死の床で、

 「撃つに弾無く、今や豪雨と泥浮の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして此れに立ち至らしめたものは実に第15軍と牟田口の無能の為なり」

と語った。
 インパール作戦の大きな戦術ミスはこの言葉に尽きる。

 悲劇のインパール作戦ではあったが、インド独立への大義は伝わっており、インパール北方約18kmの4950高地山頂付近にあるマパオ部落では、今でも『日本兵を讃える歌』が現地で歌い継がれている。
 マパオには、第15師団(祭)、歩兵第51聯隊(聯隊長 尾本嘉三雄大佐)が進出していた。歌の大意は、

 「ある日この平和に満ちた美しいマパオの丘に日本兵がやって来て、勇敢に戦ったが、インパール入りの目的を果たせず、空しく引き返さざるを得なかった、村人達も散り散りになったが神の恵みを得て、叉集まってきた。去っていった日本の兵士の無事を祈る」

というものである。

Cimg1185 13時50分(現地時間、時差-3.5時間)、曲がりくねった道途中の自称・ホテルという「View Point Hotel」に弁当を持ち込み昼食にする。
 ホテルは「飲食店」の意味で使われているものの、掘っ立て小屋そのもので、壁には女性のグラビアが貼ってあり、出せるものは白湯のみという。
Cimg1186 無料で弁当持ち込みで場所を借りるわけにもいかないので、とりあえず白湯を注文。しかし、でてきた白湯は茶色く濁った生ぬるいものであった。さすがに飲むことができずに、床に流す。
 昼食の弁当は、チーズのサンドイッチ、青いバナナ、茹で玉子2個、焼きそばであった。

 少し休憩をしたのち、14時35分(現地時間、時差-3.5時間)に出発。

Cimg1188  14時50分(現地時間、時差-3.5時間)、標高1390mのマラム分岐点に到着。コヒマから撤退し、インパール街道を遅滞しながら南下してきた宮崎支隊は、ここからウクルルに向かった。
 現地では、あまり日本人がくることがないのか、周りには見物の人だかりとなった。

Cimg1195  マラム分岐点を後にし、インパール街道を走っていると、16時(現地時間、時差-3.5時間)、あまりの悪路の為、バスがエンスト。
 さらには急な砂の坂道で、バスの馬力とタイヤのグリップがないため、登ることができず、少しでも荷物を軽くしようと、ツアーメンバーが降りて、何とか登ることができた。

 16時25分(現地時間、時差-3.5時間)、マニプール州最後のチェック・ポイントであるマオソンサンを通過し、16時30分(現地時間、時差-3.5時間)、ナガランド州に入る。
 コヒマはナガランド州の首都で人口155万人である。
 16時35分(現地時間、時差-3.5時間)にナガランド州最初のチェック・ポイントがあり、17時30分にもチェックポイント。

Cimg1197  17時50分(現地時間、時差-3.5時間)、宿泊先の「HOTEL JAPFU」(PR Hill, Kohima, Nagaland 797 001 電話:370-224-3439)に到着した。
 早速、部屋に入ってみるが、案の定、お湯がでず、トイレなどはバケツ式である。
 また、インパールと同じで停電が多く、電力が安定していない。

Cimg1200 ホテルのロビーで、昭和54年に日本、そして我が柏崎にお越し頂いたコヒマ三人娘のうち、アジャノさん、アルオイさんとお会いすることができた。アルオイさんの姪っ子さんは、日本人と結婚されたそうだ。
 今でも日本の旧軍人との交流は続けており、遺骨収集のための情報も引き続き集めているという。
 アジャノさんは、現在、ナガランド州の観光を担当する部局で活躍されているとのことで、ナガ族の資料も頂戴した。
 一番お聞きしたかったメレンさんご夫妻の現在については、残念ながらご夫妻とも鬼籍に入られたとのことで、明日、ご令嬢にお会いできるよう手配して頂いた。
 インドに眠る英霊への慰霊に加え、柏崎刈羽地区のインパール作戦に関係した旧軍人の方に、ご報告ができる視察となった。


昭和54年7月10日『新潟日報』

 日印友好 上越で確認
 遺骨収集に協力のインド人 謝意込め招く

 太平洋戦争のインパール作戦で約三千人の戦死者を出した歩兵第五十八聯隊の生還者で組織する「歩五八会」(西田将会長)のインドでの遺骨収集に協力してくれたインドの娘さんら五人の一行が同会の招きで九日、上越市などを訪れ同会会員や遺族らの歓迎を受けた。
 一行は、インドナガランド州コヒマで遺骨収集の現地監督をした同州儀典次官補のメレンさん夫妻と五十八連隊がインパール作戦で作戦行動をとった旧コヒマ村の村長の娘・アジャノ・ベルホーさん(一九)や現地で遺骨収集に献身的に協力してくれたメングノ・アンガミさん(二一)、アルー・セクホセさん(二三)の五人。
 遺骨収集団の派遣は昨年でインド政府により打ち切られたが、彼女たちは今後も遺骨を捜し回り、巡拝団が訪れた際に渡してくれることになっている。このため、同会ではそのお礼の意味でかねてから「日本に行ってみたい」という彼女たちの希望にこたえようと会員から四百万円余の募金を集め、招待することにした。
 一行は、五日に来日、東京見物などをした後、八日には越後湯沢で開かれた歩五八会新潟大会に出席した夕方、新潟市を訪れ、県庁を表敬訪問したり、日本の着物を着せてもらって繁華街を見物、同夜は同市に泊まった。
 九日は柏崎市青海川の自然休養村にある「痴娯の家」を見学、昔、五十八連隊が駐とんしていた上越市を訪れた。市役所庁舎正面にマイクロバスで到着した一行は、近くの大曲保育園児六十人が振る日印両国旗の小旗のなか植木市長や市職員らの出迎えを受けた。
 メレン氏は「温かい歓迎に感謝します。インドにはまだ多くの遺骨が残っていますが、今後も協力していきたい。また日本を訪れる機会を楽しみにしています」とあいさつ、インドの民族衣装をまとった三人の娘さんも出迎えた園児と握手を交わしたり、その覚えたての「ホタルの光」を歌ってみせたりして歓迎にこたえていた。一行はこの後、同市の有沢製作所を訪れ、地元の若者と交流、上越厚生南会館で開かれた戦友会や遺族らによる歓迎パーティーに出席後、東京へ向かった。なお、一行は京都などを訪れた後、各地で歓迎を受け十五日に帰国の予定。


昭和54年7月10日『柏崎日報』

 コヒマの友人ようこそ・・・
 さわやかに日印親善
 インドの娘さんら 柏崎でも盛んな歓迎

 海からのさわやかな風が吹き凍れる緑の柏崎自然休養村で九日、日本、インドのなごやかな国際親善風景がくりひろげられた。
 これは太平洋戦争中最も激烈な戦いとなり、三万人の日本兵が死んだインパール作戦生き残りの兵士たちが昨年戦友の遺骨収集を行った際、現地の人たちから献身的な協力を受けた。とくにコヒマ地区では州政府の高官メレンさんとその夫人、またコヒマ村村長の娘アジャノ・ベルホーさん(一九)ら三人の協力ぶりに涙ぐましいものがあったことから、これら五人旧高田歩兵五八連隊の歩五八会が今回日本に招いたものである。一行はさる四日に空路来日し東京から新潟入りしたもので中越地区では柏崎自然休養村が会場となった。
 この日午前十一時、多数の人たちが日印両国の小旗を打ちふって出迎える中を一行のマイクロバスが痴娯の家前に到着、この時歓迎の花火が打ちあげられて歓迎ムードをもりあげた。一行は痴娯の家の玩具、人形を見学したのち岩下館長から一人一人にガラスケース入りの大きな日本人形を贈られ大よろこびだった。
 このあと米山山荘に移動して歓迎会に入ったが来賓として招かれ今井市長は「不幸な戦争で柏崎市民も多く死にました。遺骨収集に協力して頂き感謝に耐えません。このたびはほんとうによくいらっしゃいました。平和の日本の姿をよく見ていって下さい。そしていつかまた日本へ来て下さい」とあいさつした。招かれたメレンさんは通訳を通じ「私たちは勇敢な日本の兵士を忘れず今でも敬慕の心をもっている。いま平和で美しい日本に招いて頂いて本当にうれしい」とお礼の言葉をのべた。そして乾杯、昼食ののち会場の正面玄関に招待者たちによって記念樹のモミの木が植えこまれた。
 こうして一行は再びバスに乗り日本語で何度も「アリガトウ、サヨナラ」の言葉をくりかえし、次の予定地の上越市に向かったが、この時見送る旧軍人たちの間から当時戦地で故郷をしのんで歌った蛍の光が湧き上った。


Cimg1203 19時(現地時間、時差-3.5時間)から夕食となり、「どうぞご自由にビュッフェ形式です」ということであったが、料理の種類は四種類ほどで選ぶも何もなく、全種類を少しずつプレートに盛っても場所が余るほどであった。
 チーズカレー、マトンカレーを中心に、アルコール度数8%のビールを飲みながら、ナンとライス両方で楽しむ。

 21時(現地時間、時差-3.5時間)から、一部屋に集まり、酒を飲みながら、インパール作戦に関するNHKの番組「NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~」を観てから、インパール作戦について語り合う。

Cimg1201 24時(現地時間、時差-3.5時間)、部屋に戻って、就寝しようとするも、強烈な便意が波状攻撃のようにあり、ベッドとトイレを行ったりきたりする。
 海外旅行でお腹の調子悪くなるのは初めてであり、前回インドに来たときにもならなかった。さすがに奥地まで来ると色々な要因が重なるのであろうか、とにかく酷い下痢である。

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