「東京大空襲」が意味するもの
0時過ぎ、2軒目として某スナックに移動。「宇宙海賊キャプテンハーロック」「home」「ウルトラマンレオ」などを歌う。
途中、何回か電話があり、見慣れない番号だと思ったら、海外在住の某氏からで、日本食の輸入の仕事をはじめたいとのことであった。
2時、帰宅。シャワーを浴びたのち、3時過ぎに就寝する。
7時、起床。発売されたばかりの週刊誌や月刊誌をもって2時間ほど、長風呂に入る。
大粒納豆、目玉焼き、もずく酢でご飯2杯の朝食をとり、その後、病院に向かう。
祖母に話しかけても反応はなく、まぶたを開けている時間も短くなってきた。
12時、一旦、自宅に戻り、冷やご飯とひきわり納豆、永谷園「さけ茶づけ」で作った納豆茶漬けで昼食。
14時、商店街活性化のため、NPO全国防災・災害支援ネットワーク会議、柏崎駅前ニコニコ通り商店街の皆さんが協力した、駄菓子屋「駄菓子えんまねき」がオープンしたとのことで、さっそく現地を見せてもらう。
氷水のたらいに入ったラムネ、カタ抜きなどお約束のレトロ感たっぷりのお店で、親子連れで賑わっていた。あとは、社会勉強のため、子供を「たらかす」おじさんがいれば完璧?である。
とにかく開店までこぎ着けた関係者の皆さんに敬意を表したい。
14時30分、柏崎市社会福祉協議会に移動し、昨年に引き続き、「わいわいがやがやフェスティバル」。今年も柏崎市内のガンダム好きのメンバーが「ガンダムミーティング」のコーナーを設置したが、昨年とは場所が変わって和室された。今回、事前にグッズなど提供することはできなかったが、ファーストガンダムの1年戦争を別角度で描いた作品の映像を明日、提供することになった。
15時、地元町内の集会場に移動。遅参したが、町内成年会での子供御輿づくりに参加する。
少子化の流れで、地元町内会も子供が少なくなっているが、今年は子供御輿を決行。キャラクター御輿を作成することになった。
作業の一区切りがついたところで、愛車で長岡市に移動。
18時から「健康の駅ながおか 高齢者センターしなの」にて、車イスレクダンス普及会「矢車草の会」の役員、長岡支部の皆さんとの懇親会に出席する。今年10月、長岡市で開催される全国大会のことや、理事長に触発され歴史に関することで盛り上がる。柏崎をはじめ、周辺自治体でのボランティア募集の協力をお約束した。
20時過ぎ、先日、選挙応援にいった五十嵐茂昭氏の状況が気になってので、選挙事務所に向かって移動。途中、今日も応援に入っていた十日町市議会の庭野茂美議員と連絡がとれ、無事、選挙戦を終えたことが分かったため、帰路につく。
途中で買い物などを済ませ、22時、帰宅。
今日の懇親会のなかで、近現代史に話しがおよんだとき、当然のことながら、長岡市の方から長岡大空襲のお話がでた。戦争の悲惨さ、という一言で片付けるのは、最近のマスコミの風潮であるが、本当に伝えるべきことは、悲劇だけではなく、その本質である。
本来、戦争は軍人と軍人が行うべきものであり、女性や子供などの民間人を狙ったアメリカによる空襲(原爆も同様)こそ、まさに戦争犯罪。この事は、キチンと後世に伝える必要があろう。
平成21年3月12日『産経新聞』
【正論】
「東京大空襲」が意味するもの
拓殖大学教授・藤岡信勝
木造の家屋狙った焼夷弾
アメリカが日本の人口密集地に焼夷(しょうい)弾を使用することを考え始めたのは「パールハーバー」よりもはるか前のことである。日米戦を想定して、「木と紙」でできている日本の家屋を攻撃するには、焼夷弾のような火炎兵器が最も効果的だと分析した。
アメリカが日本の空襲用に開発した焼夷弾は「M69油脂焼夷弾」とよばれ、本体はゼリー状のガソリンである。開発責任者のR・ラッセルはスタンダード石油会社の副社長だった。焼夷弾1本の形状は、野球のバット半分程度の鋼鉄製の筒である。これを38発、鉄バンドで束ねたものを上空から投下すると、バンドが空中ではずれ、広い範囲にバラバラと落下し、家屋を燃やし、あたりを火の海にする。アメリカはテキサスの砂漠にわざわざ日本式の家屋を建てて実験し、効果が抜群であることを確かめていた。
南太平洋のサイパン島を基地として、アメリカは昭和19年11月からB29による日本本土への空襲を開始していた。
しかし、それは、(1)飛行機工場などの軍需工場を目標に、(2)日中、(3)高度1万メートルの上空から爆弾を投下するもので、命中率は平均5%程度にすぎなかった。 同年12月29日、ホワイトハウスでルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長らを含む秘密の作戦会議が開かれ、日本本土爆撃作戦を再検討した。そこで決まったのは、 (1)民間人を直接の対象とし、(2)夜間、(3)低空飛行で焼夷弾を投下する、戦時国際法違反の「無差別爆撃」だった。
最大の戦争犯罪のひとつ
この作戦変更に伴い、マリアナ3島の司令官のクビがすげ替えられた。民間人の家屋を焼く焼夷弾攻撃に反対していたハンセル少将にかわって、ドイツ・ハンブルクの絨毯(じゅうたん)爆撃をやり遂げたカーチス・ルメイ少将が任命された。
ルメイは江戸時代の大火の50%が3月上旬に集中していることを調べ上げた。春先の強風が吹くこの時期が作戦には最も効果的だと分かった。3月10日は日露戦争の奉天会戦で日本が勝利した陸軍記念日だった。
前日、マリアナ諸島を飛び立った325機のB29は、少量に抑えた燃料と満載の焼夷弾を抱えて東京を目指した。作戦計画に従ってまず、正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落として火の壁をつくり、住民の退路を断った上で、1平方メートル当たり3発、総重量2700トンの焼夷弾を、雨あられと無辜(むこ)の市民の頭上に降り注いだのである。
ルメイは戦後、「もし、アメリカが戦争に負けていたら、私は間違いなく戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と述べている。一夜にして10万の市民を焼き殺した「東京大空襲」は、第二次世界大戦の最大の戦争犯罪の一つであろう。
東京都江東区で家具店を営む滝保清さん(現在80歳)は、64年前の3月10日、空襲による業火の中を逃げ惑っていた。当時16歳の中学生で、早くに父を亡くした保清少年は、数日前に運悪く足にけがをして歩けない祖父を背中に背負い、安全な方角を目指した。だが、火の勢いは激しくなる一方で、やがて祖父の背中のドテラが燃えだし、煙と熱風の渦に巻き込まれた。
目の前で燃えている祖父を残し、「後ろ髪を引かれる思いで、生きたいという本能と窒息の苦しさから逃れたい一心で」(私家版冊子『赤い吹雪』より)逃げ出さざるを得なかった。
国立慰霊碑の建立を急げ
長い年月がたち、つらい地獄の体験をやっと他人に語る心境になった滝さんは、平成3年、東京大空襲の犠牲者を追悼する慰霊碑の建立を求める署名運動を地元の仲間とともに始めた。
本業をそっちのけで奔走し、3月10日の犠牲者の数を超える11万5000人の署名を集めきった。
願いは国会に通じ、平成17年11月1日、衆議院本会議で国立慰霊碑建立の請願が採択された。昨年12月、自民党の国会議員からなる「戦災犠牲者の国立慰霊碑建立を目指す議員の会」(下村博文会長)が設立された。
しかし、所管の総務省は、兵庫県姫路市に昭和31年に民間の寄付で建立した「全国戦災都市空襲死没者慰霊塔」があり、国が新たに慰霊碑をつくる予定はないという。滝さんは、個人や民間や自治体ではなく国が慰霊碑を建ててほしいと切望する。
空襲犠牲者は、東京都のために死んだのではなく、国のために命をささげた点で戦死者と同じではないか、と言う。
滝さんたちが署名運動を始めてからすでに18年の歳月がたつ。残された時間は少ない。政治と行政は、一刻も早く決断すべきである。
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