昨日と同じく 4時に起床し、ホテルの硫黄系温泉の大浴場で風呂に入る。
4時30分からWiFi環境があるホテルのロビーに移動し、持参してきたノートパソコン(ThinkPad X61,SSD,SXGA+化,LEDバックライト化)で急ぎの仕事。
8時、これまた昨日と同様、レストランの工事改装中のため、ホテル内の大広間「ラピータ」でビュッフェ形式の朝食をとる。小粒納豆、ソーセージ、スクランブルエッグ、柳鰈の一夜干し、シューマイ、郷土食であるイカ人参、温泉卵、サラダ、海苔でご飯2杯といった内容。
某議員と2名だったものの、大型のテーブルしか空いておらず、他のお客さんと相席となってしまった。食べているなか、熱い視線を感じ、某議員が先に席を離れたところ、相席となった老夫婦から、
「いっぱい食べて、見ていて気持ちいいわ~」
「若さだねー」
などと話しかけられ、何故か缶入りのクッキーを頂いた・・・・。
8時30分にホテルをチェックアウトし、大型バスに乗り込む。
9時40分、福島県浪江町内の浪江町役場に到着し、9時55分から行政視察。部会長を務める第二部会が担当する視察となる。
視察目的は
「東日本大震災前の避難計画、訓練及び被災後の避難全般について実態を確認し、当市の避難計画に生かすため」
であり、ご対応頂いたのは、浪江町議会・吉田議長、浪江町復興再生事務所帰町準備室、そして避難されている福島県二本松市からお越し頂いた浪江町民の方である。
主な内容は以下の通り。
【吉田議長挨拶】
東日本大震災以降、5年ぶりに使用するという全員協議会室。平成23年3月14日、8000人が避難していたが、荷物もなく着の身着のままだったなか、福島県、国よりも新潟県からの毛布が一番先に届いた。感謝している。新潟県には439人、柏崎市には213人の浪江住民がお世話になっており、重ねて御礼申し上げたい。
【住民代表】
震災当時、町民と一緒に避難をし、津島地区へ5回も往復。浪江町の住民では、多い人で15、16回も場所を変えて避難している。
そんな人たちを一番見てきたのが私であり、いまでも全国に散らばって避難している浪江町民からの相談を多く受けている。なかには不安のあまり、夜中の2時ごろに電話をしている場合もあり、いまだ震災の傷跡は深い。
【事前に送付した調査事項について】
Q1.通報連絡・情報伝達に関すること
原子力災害時の住民への連絡手段、被災前の計画と被災時の実態。
A1.帰町準備室回答
<被災前の計画>
防災行政無線(戸別受信機含む)、広報車(消防団含む)、直接周知
<被災時の実態>
防災行政無線(戸別受信機含む)
→非常用自家発電での稼動(戸別受信機については電気、乾電池との併用)
普段、うるさいとして、電源を抜いている家庭もあった。
その他は、津波による死者が180名超、地震、原発事故があり情報が伝わら
なかった。
Q2.住民避難対応について(避難所運営除く)
住民への避難指示とその内容、避難先、避難方法の確保、災害弱者(要援護者、福祉関係施設、病院)避難について、被災前の計画と被災時の実態。
・平日の日中、夜間の区別をして計画されていたか
・避難先への出発の判断、人員の最終確認は誰の責任となっていたのか
・災害弱者が避難を希望しない、という前提はあったのかなど
A2.帰町準備室回答
<被災前の計画>
・日中、夜間の区別はなかった。
・基本的な指示等の責任は本部長である町長となっていた。
・災害弱者が避難を希望しないという前提はなかった。
<被災時の実態>
・避難指示(テレビ放送の情報が早かった)などは、防災行政無線、広報車、
行政区長や消防団を通じて行っていた。
・住民へその伝達が100%伝わっていない。特に車両で移動中は伝わらない。
・避難先や避難方法についても、明確に決まっていたわけではなく、また自家用車
での避難がほとんどであったが、物流がストップし、燃料切れで車を乗り捨てて
避難した住民もいた。
・災害弱者における対応としては、混乱していて役場での対応は不可能な状況だった。
・施設入所者のために、県へバスを手配したが来なかった。
・病院では、重症患者を動かすことのリスクから避難を拒否した医師もいた。
Q3.安定ヨウ素剤について
原子力災害と確認されてからの服用はなかったと聞き及んでいるが、配布や服用
指示について、被災前の計画と被災時の実態。
・被災前の服用に対する国、県、町の配布方針は一致していたのか
・住民への服用に対する事前説明は十分であったのか
A3.帰町準備室回答
<被災前の計画>
・国、県との配布方針は一致していた。
・服用に関する事前説明はしていない。
<被災時の実態>
・服用に対する指示はなく、配布も行っていなかった。
・実際に、配布・服用できる体制(25000錠保管)があり、いつでも服用できるよ
う避難所に医師が同行していた。
Q4. 防災体制に関すること
被災前の防災訓練の有効性(自主防災会、町)はどうであったか。
また、行政機能移転(BCP含め)などを想定していたか否か。
・防災訓練は全町民参加(県、国と合同はあったか)で計画されていたのか
・防災訓練の頻度は毎年かどうか
・原子力災害を想定した防災訓練は行ったことがあるのか
A4.帰町準備室回答
・原子力防災訓練は、当時のEPZ(防災対策重点地域)である原子力発電所から
半径8km~10kmの中でも特に近い5km地域の住民の参加で、計画、実施して
いた。福島県と共催。
・1F、2Fを交互に実施していたので、2年に1回の頻度となっていた。
・行政機能の移転などを想定した訓練は実施していなかった。
Q5. 避難所の運営について
運営の問題点、物資の充足及び生活状況など
・被災前、避難所の体制は住民に周知・確認されていたのか
・物資の備蓄は各避難所でされていたのか、それとも災害時に供給されることが
前提だったのか。
・(仮設住宅建設前)避難所運営時のプライバシー確保の対応はどうか
A5.帰町準備室回答
<町内は?>
・避難所の位置は各ハザードマップなどに記載されていた。
その上で住民に認知されていたかは分からない。
・避難所の体制は周知されていなかった。
・物資の避難所への備蓄はされていなかった。
<町外は?>
・そもそも町外避難先は県に要請し、避難先市町村の避難所の中から、県が指定する
避難所となっていたため、あらかじめ把握すらしていない。住民に認知されていた
はずもない。
・実態としては町長が二本松市長に直接要請し、受け入れてもらった経緯がある。
・避難所運営のプライバシーについても、あらかじめ考慮されていた訳ではなく、
徐々に改善されていった。
【今の浪江町について】
国や県の指針や計画を踏まえ、また震災の教訓を生かした地域防災計画を策定中。
<通報連絡・情報伝達手段について>
東京電力からの通報連絡は、電話・メール・FAXのほかに、通信機能遮断のみ
ならず、事故・トラブルが発生した際には、衛星携帯電話を所持した社員2名(GM+技術職)が市町村に派遣される仕組みを構築中。
住民等への情報伝達手段としては、防災行政無線や広報車のみならず、町でも
エリアメールを発出できるようにし、またホームページやSNSでの情報発信も可能。
<住民避難対応について>
・昼夜に対応する計画を作成中
・避難指示についても、マニュアルを作成している。
<地域防災計画改定について>
実際に地域防災計画はあったが、町民が戻られたときに安心してもらうべく改定するため、職員でワーキングチームを作って取り組んでいる。
これまで浪江町職員ヒアリングやその分析、町民アンケートなどを実施し、東京大
総合防災情報研究センター・関谷直也特任准教授生からご協力を頂き、災害の心理と避難をテーマに進めてきた。
原子力災害広域避難計画(案)、小冊子の職員マニュアル(案)を策定中でもあり、
最終的に地域防災計画を改定する。
→ ただし行政がやれることには限界があるので、町民の皆さんと相談したい。
ここで質疑応答となり、その主なやりとりは以下の通りであった。
Q.行政区というは町内会ということで良いのか。防災の課題として事業所との関わりを考えているのか。避難誘導の課題は?
A.(帰町準備室)行政区は町内会と置き換えてもらって良い。事業者の役割については、協定を結んでいるということはなかったが、当時は食料などご協力頂いた。今後は安定供給のために協定を結びたい。防災会議の構成メンバーにインフラに関する事業者の方にも入ってもらっている。避難誘導や道路について、住民の方が戻っていないこともあり、線量の関係で住民の居住状況が変わるので決めてはいない。国道6号線が主要道路、常磐自動車道があるがともに2車線しかない。狭隘道路もあるので、課題は多い。平成31年に事業完了予定の直線道路に取り組んでいる。
Q.ヨウ素剤の配布についてはどうか。東京電力が事故に連絡をくれるのかどうかが問題であり、屋内退避でいいのかどうかという考え方の整理は?。
A.(帰町準備室)避難の判断、ヨウ素剤は国の考えと違う部分は、経験した住民の肌感覚。国の基準である放射線量は否定しない。ヨウ素剤についても科学的な判断とは思っているが、事前に配っても、配っていなくとも、まずは遠くに逃げることが大切。情報は取りに行くものだと思っている。
Q.東京電力に対して思っていることは?
A.(議長)浪江町への通報連絡もなかったが、自分たちで避難した。立地自治体はバスが国から手配された。議会は執行部の邪魔はしてはならないと思う。風評被害があるので、二本松市へ移動する際に、バスが危ないといって帰ってしまった。また燃料補給のタンクも帰ってしまったこともある。安全協定を結んだ東京電力もこなかった。アメリカのエネルギー庁が放射線量を測った際には、浪江町津島地区は放射線量が高かった。これを公表しなかったのは問題だと思っている。当座、危険性はない、という通知や連絡は、その後危険になるということ。こういった災害のときには、議員が一番非難される。各委員会に分かれて、各避難所に議員が行ったが、罵倒されるだけであった。期待の裏返しであるかも知れないが、現実はそうだった。立地自治体ではないので、東京電力との意思疎通がうまくいっていない。不信感はある。
A.(帰町準備室)現場レベルの話では、各自治体に東京電力の職員が配置されるようになり、情報を常に伝達してくれるようになった。顔が見えるようになっただけでも大きい。100%信用はできないが、情報伝達の関係では良い関係を築いていきたい。
A.(帰町準備室)復興本社が浪江町の環境整備(墓参りの草狩り)などをやってくれている。現場でやってくれている方が悪いとは思っていない。現場の方と手を取り合って、まちづくりをしていきたい。
Q.災害時の防災無線など100%情報が伝わっていない、という実態は分かった。全部が避難終ったかどうかは確認されたか。また住民の避難先の把握はできたか。
A.(帰町準備室)津波被害者は移動手段がなかったので、浪江町内の内陸部に避難させ、そこで名簿を確認した。しかし、途中で家族と会いに別の避難所に行ったりして、把握できなくなった。その後、原発事故をテレビで知ることになり、早く県外に逃げなさいと行っただけで、浪江住民の状況は把握できなかった。警察、消防団、消防の協力で、避難したかどうかのある程度の確認はできた。しかし、全体把握まで至らなかった。
Q.当時、こういう防災教育をしていれば良かったという点はあるか。
A.(帰町準備室)難しい質問であり、学童に対するもの、成人に対するもので変わってくる。少なくとも学童への防災教育は最低必要かと思っている。
A.(帰町準備室)町民アンケートの結果からは、一番多いのは情報伝達、次に飲料、食料、次に災害の種類に応じた避難場所、避難マニュアルの整備、そして防災教育の実施という要望があった。
A.(議長)原子力安全神話にドップリ漬かっていたので、放射線に関する知識がまったくなかった。正確な放射能を正しく怖がることが必要であったかと思う。とにかく情報が必要。テレビが情報を得る大半であった。
A.(住民代表)49行政区あるが、避難していて思ったのは、3月だったので子供を避難先の学校複数にばらばらに分けてしまったことが失敗であった。前もって決めておく必要がある。避難後、夏休み前に浪江小学校を開校したが、もともとあった浪江小学校と勘違いし、かつての浪江町内の他の小学校の生徒が来なかった。
Q.偶発的リーダーが当時多くでたと思うが、その経験から得たことはなにか。
A.(帰町準備室)日本防災士会の防災士の取得を支援していく考え。
Q.消防団の位置づけ、関わりはどうであった。今後はどう位置づけるのか。
A.(帰町準備室)浪江町消防団は当時500余名おり、いまは480名ほどでいる。主たる団員が40代なので、子供がいることもあり、避難先に定住する可能性も高い。毎週日曜日に6分団にて輪番制で町内パトロールだけやっている。毎年の観閲への参加率は20%を切ってしまった。防災計画のなかで、そこまで消防団に期待していいのかどうか、将来像について検討している。消防団だけではなく、役場職員でも一番近くて南相馬市に住んでいることもあり、その意味ではプレイヤーの数は大幅な見直しが必要になっている。
A.(帰町準備室)消防団は重要な役割であり、地域のことが分かっているため避難誘導が重要。しかし、今回は避難誘導した消防団員が津波で亡くなってしまったこともある。消防団の心得も今後作っていく必要があると感じている。
Q.行政区長の責任と権限について聞きたい。例えば、避難バスをだすときの最後の確認、責任者になるようなことがあるのかどうか。責任を問われるような事はないか。
A.(住民代表)津波被害の際に、カーテンをしめていて怖くてこもっていた方がいた。情報が伝わらなくて、周辺住民が逃げていることを知らなかった人もいた。戦争を経験したからここで死ぬという人もいたので、自衛隊と警察にお願いした。安否確認を行政区内で確認しようにも、個人情報がハードルになっていた。自分の行政区内の名簿を作るだけでも、半年かかっている。東日本大震災後に、役場から名簿は来たものの、世帯主しか書いていなかった。そのため、避難所で個別の名簿を作成した。議員に対しては、先に逃げたという噂やバッシングもあった。仮設住宅のなかに、職員1名、議員1名が住んでいた方が本当は良いと思う。郵便ポストを作ってもらい、自動販売機などかなり大変になるので、議員が大きな仮設住宅、コミュニティにいた方が良い。
Q.行政区の組織について、防災組織をもっているようなところはあったか。
A.(住民代表)49行政区のうち、いくつかは防災組織をもっていた。逃げるのが一所懸命であった。しかし、一気に逃げるのではなく、放射線量が低いうちにうまく逃げることもできたように思う。そういった知識の習得ができなかったのは、防災組織がなかったためだと思う。
Q.災害時は個人情報の共有が大きなハードルだと思うが、どういった取り組みをしていたか。
A.(帰町準備室)個人情報に関することについて、平時から要援護者については「同意書」をとっている。しかし回答率が悪い。災害弱者と言われている方への対応はできるが、いわゆる一般の人に対しては、同意が必要なので、難しい。
A.(住民代表)町から一応の情報が来るが、部屋数を確保したいために、町に虚偽の申請をする事例もあって、そういった混乱もあった。そういった把握も難しい。また逆に新築で家を建てた場合、仮設住宅をでていったものの、それを知らせていないという事例もでてきた。
Q.同じ集落、同じ集落で仮設住宅を作るべきだったと思うが、地域バラバラの方で仮設住宅を形成したことの経緯や反省は。
A.(住民代表)本当にどこの仮設住宅にどこの集落に人がいるのか分からなかった。学校が始まることもあり、結局は子供がいることで学校に近い仮設住宅に色々な集落の人が集まった。仮設住宅はひどく寒波があり、水道管が凍結し、しかも1日2、3軒しか処理できなかったので、順番を決める仮設住宅の自治会長は大変であったと思う。また防犯も大変であった。
Q.あとで避難していた津島地区が汚染されていたことが分かったときの役場の対応はどうであったか。
A.(帰町準備室)津島地区に災害対策本部が移ったのは、3月12日。その段階で町民も津島地区に避難した。3月15日に二本松市に移動することが決まり、広域避難することになった。その段階で、津島地区の高濃度汚染は分かっていなかった。3月14日に3号機の水素爆発があり、屋内退避指示があった。ここにいて大丈夫か、という意味で広域避難を決めた。
Q.津島地区が高濃度汚染されたということが分からない段階で広域避難したということなのか。
A.(住民代表)3月12日午後の対策本部で10km圏外の津島地区の支所に移動することが決まった。そのとき高濃度汚染は知らなかった。支援物資が入らない、情報もガソリンも入らない状態であった。その後、二本松市に移動したが、それはテレビで3号機の水素爆発があったことから、高濃度汚染は分かっていなかったが判断をした。8000人が避難していたが、給食センターで作れるおにぎりが1日で5000個しかなく、そういった背景があった。
A.(議長)避難する足がない人は役場にバスが来たが、そういった交通手段がない人への配慮は重要だと実感した。
Q.帰還困難区域は除染されておらず、居住制限区域にも住民が戻る可能性は不明であると思う。農地も含めて、復興の目処はどうなのか。
A.(帰町準備室)復興組合を作り、草刈りや畑、田んぼの整備を行っている。
Q.49行政区の再編などは考えているのか。学校単位などが現実的と思うが。
A.(帰町準備室)住民がどのように帰町するのかどうかが不明なため、確実な計画はない。6つの小学校区はあるが、1つは津波で流され、1つは帰還困難区域となっており、今後考えていきたい。災害公営住宅を建設するので、そのなかで取り組んでいきたい。
A.(帰町準備室)人口分布がはっきりしていないが、分かった段階で自主防災会も含めて、地域の方と相談して再編に取り組みたい。地区の防災計画を作ったうえで、町の地域防災計画に反映したいと思っている。
Q.実効性のある避難計画は可能かどうか、感じていることを聞きたい。
A.(帰町準備室)できるかどうかはこれからだと思う。原子力災害の際に押さえるポイントは段々と分かってきている。国とはお互い補えるような姿でやっていきたいと思う。魂をこめる作業は、地元住民と一緒にやっていくしかない。
A.(住民代表)地元住民が多く経験をしたので、それを行政に反映するのも難しい。
予定されていた12時となったので、御礼を述べ、浪江町役場を後にした。
浪江町、そして住民の皆さんのため、復興計画がいち早く進むこと願っている。
広野町の「ホテル双葉邸」に移動し、12時40分、ホテル内の「お食事処 ひまわり」で昼食をとる。
3種類のメニューから選べたので、今回は「ロースカツ定食」を選択。お櫃が運ばれて、ご飯食べ放題だったため、思わずおかわり。最後にコーヒーが付いて1000円であった。
13時40分、大型バスに乗り込み、帰路につく。
16時40分、休憩のため、磐越自動車道の阿賀野川サービスエリアに立ち寄ったところ、ガチャガチャのなかに「1/12 シャベルフィギュア」1回200円があった。
誰が喜ぶのか分からないと思っていたが、萌えキャラがゾンビを倒すアニメ『がっこうぐらし』で武器として使われ人気という。ジェネレーションギャップを感じる年齢になったことを実感。
18時過ぎ、柏崎市役所に到着し、ここで3日間に渡った柏崎市議会の柏崎刈羽原子力発電所にかかわる調査特別委員会(原発調査特別委員会)の行政視察が終了となった。
得るものが多い3日間であり、あとはいかに我が柏崎市政で生かすのか、が問題である。
18時30分、自宅に戻り、不在だった間の郵便物やFAXなどを処理。
19時30分、熱めの風呂に入る。
20時、サーモンの塩麹漬け、小粒納豆とめかぶの和え物、もやしとほうれん草のナムル、かき揚げの浸し煮、ビール500ml3本で夕食をとる。
サーモンの塩麹漬けは、脂が多いサーモンに塩気がちょうど良い。もっと塩辛い荒巻鮭で。熱いご飯をグイグイと頬張るような事も、たまにはやりたい。
食後、資料などの整理を行う。
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