4時に起床し、ホテルのロビーでブログやメールなどを一気に処理する。
8時30分、柏崎から一緒に来た有志2名とロビーで待ち合わせ。
9時、鹿児島県への「零戦の飛翔見学ツアー」参加者の皆さんと合流。『週刊新潮』の人気コラム「変見自在」をお書きになっている高山正之氏も参加されており、総勢16名でのツアーである。
鹿児島への飛行機は飛んでいるが、熊本は全便欠航のまま。改めて、熊本地震の被害の大きさを実感する。
セキュリティ・チェックを通り、「羽田ブルースカイ9番ゲートスナック」(電話:03-5757-9490)にて、「かき揚げそば 620円」、通称:羽田イエローサイダー?「生ビール大 570円」の朝食をとる。
空きっ腹の飲む朝のイエローサイダーは、かなり効く。
10時20分、鹿児島空港行きのJL645便に乗り込む。機体はボーイング737-300、いわゆる「737クラシック」である。
機内サービスのコンソメスープを飲んだのち、仮眠。
12時10分、鹿児島空港に到着し、早速、鹿児島中央観光バスで昼食会場に移動する。
12時40分、「バレル・バレープラハ&GEN」(電話:0995-58-2535)に到着。現代焼酎の父「河内源一郎」の種麹菌「河内菌」(黒、白、黄)を製造、販売する株式会社河内源一郎商店(創業昭和6年)による麹とチェコと焼酎のテーマパークとなっている。
麹リキッド養豚(麹発酵飼料TOMOKO)を使った豚しゃぶしゃぶの定食、チェコのビール職人が指導した炭酸ガスが自然に溶け込む「ナチュラルカーボネーション製法」の「霧島高原ビール 500円」で昼食をとる。原料もドイツ、チェコから仕入れるという1994年創業の霧島高原ビールは、かなりスルスルと喉を通る滑らかさ、あえていえば艶めかしい味わいである。
食後、敷地内を散策。
かつてこの地が帝國海軍十三塚原特別攻撃隊が飛び立った地であり、いまでも地下壕などがあることから、敷地内に「十三塚原特別攻撃隊慰霊感謝の碑」が建立されている。
碑文は以下の通り。
「ありがとうの 花びらを 朝な夕なに」
その建立の趣旨には、地元を愛する企業、そして日本人としての思いが綴られてあり、素晴らしい。
「建立趣旨
空港の町溝辺町は第二次大戦中海軍航空隊第二国分基地として純粋な祖国愛と使命感に燃えた英霊達が飛び立っていった魂の故郷です。今でもその滑走路跡が空港の片隅にひっそりと残されています。この空港から二百十七余の若人が日本国を守るために自らの命を犠牲にされたのであります。この鎮魂の碑は当地を見下ろす上床公園に建立されその慰霊祭は毎年四月に盛大に開催されております。
さて、当バレルバレープラハの地下にはこの特攻基地の地下壕が今も現存しております。これまで毎年八月十五日の終戦記念日には弊社内にてしめやかに慰霊祭を執り行って参りました。この度ご縁をいただきまして弊社内に英霊の方々への感謝の碑を建立することに致しました。日本国の繁栄、鹿児島空港の繁栄、そして当社の繁栄もこの基地と英霊を抜きにしては考えられません。更には第二の国難といわれる現在の日本経済の危機的状況、道徳の乱れを考え、日本国を守るために華と散った英霊の方々への感謝の気持を明らかにして原点に立ち返り、誰が作った平和か、誰が礎となった繁栄かを再度検証するために、この碑を建立致します。
平成十四年八月十五日
霧島高原ビール 代表取締役 山元正博」
また、地元にある陸上自衛隊国分駐屯地(第12普通科連隊)の各種行事にも積極的に協力しているそうで、感謝状が贈られていた。
さらに敷地内をまわり、木工製品が有名なチェコということで、木工製品くじ1回1000円で見事?5等を引き当て、木製のネズミをゲット。生まれ年がネズミなので丁度良い。
この施設自体が、チェコスロバキア時代(1918年から1992年、民族が一つになるチェコスロヴァキア主義によるもの)からの関係で、スロバキア共和国の名誉領事館にもなっていた。
*スロバキア共和国自体は、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立した。
13時40分、再度、バスに乗り込んで移動。
14時50分、知覧特攻平和会館に到着し、早速、展示資料を見てまわる。写真撮影禁止となっているのが残念であるが、帝國陸軍が誇った名機である一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」(昭和20年1月、フィリピンで米軍に捕獲された機体)に心奪われ、そして若くして散華された特攻隊員の遺書や手紙を読み、感動とともに、今の平和の礎となった英霊への感謝の気持ちをさらに強くした。
*甑島の手打港沖から引き揚げられた零戦五二丙型
帝國陸軍の沖縄戦における特攻隊の戦死者のなか、知覧からは402名が飛び立ち、うち新潟県出身者は17名(蛍になった少年兵の宮川三郎氏は小千谷出身)である。
朝鮮出身者は11名、樺太出身者は2名。
また資料コーナーには、超空の要塞と言われた米軍B29を撃墜記録も展示。
昭和19年8月20日、現在の福岡県北九州市八幡地区に米軍のB29の編隊が次々と爆弾を投下していた。民間人にも被害がでているなか、このB29に帝國陸軍二式複座戦闘機「屠龍」で体当たりを敢行、2機を撃墜した野辺重夫陸軍准尉、高木傳蔵陸軍軍曹に関する模型があり、その両勇士の戦記を書いたのは、我が柏崎市が誇る帝國陸軍のエース・パイロット、故・樫出勇氏であった。
両名の慰霊碑は、福岡県北九州市八幡西区にある。
「野辺、高木両勇士の戦記
昭和十九年八月二十日午後五時、真夏の太陽が西に傾きかけた頃であった、突如空襲警報が発令。我が飛行第四戦隊は小月飛行場発進、北九州上空に迎撃態勢を完了した間もなく西の彼方に米空軍空の要塞といわれたB29大型爆撃機80余機が地平線上に現われ数個梯団となって北九州を目標に来襲してきた。いよいよ我が戦隊も迎撃隊形に移行し戦闘の火蓋をきった。操縦は少年飛行兵第六期野辺重夫軍曹、戦技第十三期高木傳蔵兵長の野辺機は敵の第二梯団長機に対し第一撃を指向、三十七粍砲の第一弾を発射したが撃墜には至らず。このままならば敵機は北九州に爆弾投下は必至と察知し、これまでと決意軍人精神を胸に秘め「野辺、今から体当り」の一語を残し、敵機のやや斜め前方より第二梯団長機を目がけまっしぐらに突進壮烈果敢な体当りを敢行。一瞬彼我両機は一塊となって空中に浮かび、更にその爆破片また第二番機に激突これまた瞬時にして空中分解し、一機を以って敵超爆撃機二機を葬り、日本戦史を飾る。身機一体壮烈なる戦死を遂げた両名は、身をもって皇土を防衛すべく烈々たる責任観念に透徹し、崇高なる精神と壮烈なる行動をもって皇国軍人の真面目を遺憾なく発揮し国軍の亀鑑となった。このことは早速上聞に達し野辺高木両友は二階級特進の栄誉に輝き、悠久の大義に殉じこの地に永眠されることとなった。
昭和五十三年八月吉日
元飛行第四戦隊飛行隊長(少飛第一期)元陸軍大尉 樫出 勇」
まだまだ見足りないものの、バスの時間となったので売店で『新編 知覧特別攻撃隊』、台湾人の鄭春河氏が「元日本人の遺書」として日本の若い人達に向けて書かれた『嗚呼大東亜戦争』、そして多くのご指導を頂いた帝國陸軍のエースパイロットであった田形竹尾先生の愛機であった帝國陸軍三一式戦闘機「飛燕」のキーホルダーを購入。
知覧特攻平和会館の周辺には、復元された三角兵舎や多くの慰霊碑がある。
*三角兵舎の内部
*「至純」「平成16年5月3日 内閣総理大臣 小泉純一郎書」
*遺書の碑
「帰るなき 機をあやつりて 征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと 鶴田正義」
*神坂次郎「今日われ生きてあり」文学碑
碑文:
「知覧・・。薩南の涯の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。そんな隊員や、それを取りまいた人々の、さまざまな暗い思いが篭められている町。知覧。」
*2001年公開の映画『ホタル』の碑
降旗康男監督の碑文:
「燃えつきず立ち寄る家の 今ありやなしや
ホタルよ ここで休んで下さい」
*「特攻の母」鳥濱トメさんと特攻隊員の碑
碑文:
「短い青春を 懸命に生き抜き 散っていった
特攻隊の若者たちが 「お母さん」と呼んで慕った
富屋食堂の女主人 鳥濱トメさんは、
折節にこの世に現れ 人々を救う菩薩でした
石原慎太郎」
*特攻像「とこしえに」
<由来>
特攻機は、遂に帰って来ませんでした。
国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。
特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました。
み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつゝ
りりしい姿を永遠に伝えたい心をこめて
あゝ
開聞の南に消えた勇士よ
製作 日展審査員 伊藤五百亀先生
除幕 昭和49年5月3日
建設 知覧特攻慰霊顕彰会
*母の像「やすらかに」
特攻隊の若い命は再び帰らず。
出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。
この晴姿をせめて母上に一目
最後の別れと、お礼を一言。
胸を張り裂けそうな、その心情は、
母もまた同じであったろう
今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の温かいみ胸で、
御霊の安らかならんことと
世界・平和を祈念して。
昭和六十一年三月三十日
熊本県芦北町 前田将
*航空自衛隊初等練習機(Tー3)
平成17年、航空自衛隊防府北基地(山口県)から知覧町が借り受け展示。
*帝國陸軍一式戦闘機「隼」レプリカ
2007年の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』のため、帝國陸軍一式戦闘機「隼」三型甲を基本に、当時の資料や少年飛行兵会の意見を取り入れて復元製作されたもの。
知覧特攻基地からは九七式戦闘機に次ぎ、「隼」は120機が飛び立っている。
*朝鮮出身特攻隊員の碑
碑文:
「アリランの歌聲とほく
母の国に念い残して散りし花々」
*忠魂蛍之碑
碑文:
「ほたる火と なりてきませう
つはものを なこしまつらむ
けふの祭りに」
返歌:
「わたつみの宮のうたげは楽しくあれど
やまとしおもはば うれつなげかゆ」
解説:
「かつて日本が、世界の列強と戦火を交えた時、皇国の必勝と民族の不滅を信じ、爆弾を抱え敵艦に突入した幾多の若者がある。
しかし一人の勇士が出撃の前夜の誓いのごとく蛍となり知覧に帰った逸話は、全特攻隊員の悲愴な真情ではなかったか。
今ここに彼等の武勲を称え、次の世に語り継ぐべき、祭りの歌を捧げる。
また志を同じうし、殉国の途にあった、我等若き日の生き御霊を記念し、大ロマンの忠魂碑とする。」
16時、知覧特攻平和会館の中の展示品はもとより、周辺の慰霊碑などもじっくりと見たかったが集合時間となった。また来なければならない。
歩き回った体をクールダウンさせるために、「抹茶 Mサイズ ソフトクリーム 300円」を購入。知覧はお茶でも有名なのでチョイスしてみたが、聞けば知覧茶は入っておらず、市販品という・・・。
特攻隊の基地ということで、観光にも寄与しているからか、
「英霊に乗っかり過ぎでは?」
といったお店もあったので、次回に入ってみたいと思う。
*帝國陸軍一式戦闘機「隼」のっかり?
*特攻物産って・・・・何?
16時10分、貸切バスに乗り込み、車中から知覧飛行場跡、現在でも残っている給水タンク塔などを見学。
16時25分、国の重要伝統的建造物群保存地区となっており、「薩摩の小京都」と呼ばれる知覧武家屋敷群を散策する。
時間的、経済的理由から、名勝となっている庭園には入らず、あくまでも道路側からであるが、母岳の優雅な姿を取り入れた美しい町並みを楽しむことができた。
*母岳を借景にするため、異様な形状の生垣。
*石垣の自然石と石切したものの差は経済力。
*石敢当(せっかんとう):中国から琉球を経由した伝わったもので、道路の三叉路の突き当たりや門・橋などに立てられた石柱。石で邪気を食い止めこれを追い払う威力を持つという、一種の悪魔よけ。
*知覧型茅葺二ツ家民家:南国風景と茅葺が新潟県人にとっては新鮮な感じ。
16時35分、貸切バスを待たせてあった場所でお土産を売っていたので、ここでしか買えない「屋久島産たんかん 1袋 200円」を購入。
他にも、この地らしいお土産があったが、単独旅行ではなく、ツアーへの参加のため、時間の関係上、あきらめるしかなかった。
16時40分、車中より、特攻の母として慕われた鳥浜トメさんの「富屋食堂」を見学。ここにも次の機会には、ゆっくりと訪れてみたい。
18時、宿泊先であるホテル京セラに到着し、チェックイン。結婚式場もある高級ホテルで、貧乏人としては、少し落ち着かない感じである。
18時30分からホテル本館3階「日本料理 京はるか」 にて、明日からこのツアーに合流するメンバーも加え、総勢22名での懇親会。
色々な職業やバックグランドをお持ちの方がいるので、非常に刺激になる時間となった。
料理は、鹿児島らしいキビナゴの刺身をはじめ、桜島を模った鍋ぶたが印象的な黒豚の鍋、甘さが特徴的な薩摩揚げ、シメは桜海老と筍の炊き込みご飯。生ビールを飲みつつ、楽しませてもらった。
20時30分にお開きとなったので、有志で地元らしいお土産や食材、焼酎を買おうとホテルをでる。
21時、地元のスーパーに入り、焼酎のミニボトルとともに、鹿児島県内メーカー全種類、そして被災地である熊本県の二大納豆メーカー、マルキン食品と「お城納豆」丸美屋の納豆を一気に購入。
レジに行ったところ、何故か次に並んでいたチューハイ500ml缶2本を手にしたおじさんから、
「こん地震わっぜか***、熊本は・・・」
(詳細聞き取れず)
と何故か熊本大地震の被災者と間違われてしまったようであった。
タレントの高田純次氏よろしく、テキトーに話を合わせたが、被災者と間違われたのは初めてである。
かつて和歌山県のスーパーで全種類の納豆を購入していた際、不審人物と思われ、店長を呼ばれたことに次ぐ、不思議体験。
ホテルに戻り、21時40分から某氏の部屋で、地元の焼酎を飲みながらの二次会となった。
24時、自分の部屋に戻り、熱めのシャワーを浴びたのち、就寝。
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