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2016年12月11日 (日)

台湾・結婚報告ツアー?3日目
台湾人日本兵の慰霊、高雄市旗津

 現地時間1時(日本2時、時差-1時間)、就寝。

 現地時間6時に起床し、バスタブにお湯をためて、ゆっくりと本を読みながらの半身浴をする。

Cdsc_000101 現地時間7時40分、ホテル地下の朝食エリアにてビュッフェ形式の朝食。魯肉をかけたご飯2杯、目玉焼き2枚、豆苗サラダ、青梗菜の炒め物、ポテトフライ、ソーセージ、牛乳と今日の台南グルメのために軽めの内容である。

 現地時間8時過ぎ、ホテルからタクシーで高雄駅に移動。昨年、高雄駅に来た際に沈先生と偶然お会いしたことを思い出す。
 現在、高雄駅周辺は工事の真っ最中であり、日本統治時代最後の駅で1941年(昭和16年)に建設された旧高雄駅舎に入れなかった。再度、この駅舎が活用される予定であり、その際にまた来たい。

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Cdsc_000505 現地時間9時、高雄駅から台南駅に自強号(特急電車)で移動。車両はE1000型電車で、電気機関車は南アフリカのUCW社、客車は韓国の現代ロテム社のもの。編成の両端に電気機関車、中間に客車を連結するプッシュプル方式を採用している。
 ちなみにUCW社、現代ロテム社ともメンテナンスの対応の悪さから、以後の台湾鉄路管理局への入札を禁止されている。2000年代になってからは、日本製。
 台湾の電車、いや外国の電車に初めて乗る姪っ子は大はしゃぎであった。

Cdsc_000808 現地時間9時34分、台南駅に到着。台南駅の駅舎は日本統治時代の1936(昭和11)年に建てられた2階建てで、かつて2階部分は国賓や皇室関係者などが宿泊する高級ホテル(1965年に営業停止)、レストラン(1986年に休止)であった。
 今後、リノベーションに取り掛かるそうで、高級ホテルとしての復元も計画されているという。台湾の古都である台南だけに、是非、復元してほしい。

 台南駅の公衆トイレに入ったところ、イタズラ書きがあった。

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 その意味は

「中国に反対することはイコール先祖を反対することです。
 中国を知らないと、親孝行しないと同じです。
 民進党は不義です」

といったもの。中国大陸、祖先というキーワードに台湾の複雑な歴史背景を感じる。

Img_3335 タクシーで移動し、台南に始めて来た母、叔父、姪っ子を妻とともに案内する。
 まずはオランダを台湾から追い出した鄭成功を祀った延平郡王祠(日本統治時代にできた鳥居はそのまま活用)。鄭成功の母は日本人であり、長崎県の平戸の生まれなので、お神輿や絵馬など日本にゆかりのあるものが展示されている。

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*日本人の名前が書いてある絵馬も多くあった。

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*日本統治時代は開山神社であったため、神輿がある。

 近くの廟でやっていたお祭りも見学。

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 お祭りを間近で見て、気分も高揚したところで、「第三代虱目魚丸」(電話:06-220-9539)で軽食をとる。
 虱目魚(サバヒー)の魚肚、魚皮に粉蒸、燕餃、三色魚丸が入った「招牌綜合湯 100元」と「肉燥飯 20元」。

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*若干、さっぱり目?の肉燥飯

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*胡椒がよく合う招牌綜合湯

 その後は、今年2月にも柏崎市議会議員仲間を案内したときと同じコースをまわる。

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*台南武徳殿:大正時代に建設、昭和11年(1936年)に大幅改築、2012年に復元。

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*武徳殿横の公園にいる人懐こいリス

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*台南山林事務所:大正14年(1925年)に建築。

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*昭和7年(1932年)建設の林百貨店。2年前にリノベーションをし、復活。
→ 詳細

Img_3369 現地時間11時50分、地元の人気店「阿霞飯店」に予約なしで飛び込み、1時間という約束で昼食をとる。
 日本のみならず、各国の台湾ガイドブックのなかに必ずでる老舗店でもあり、私自身も今回で3回目

 お約束の「からすみ 小 600元」、名物の「紅蟳米糕(蟹おこわ) 中 900元」(特別に中を設定してもらった)、「煙燻鴨(スモークダック) 250元」、「干貝豬肚湯(貝柱と豚ガツのスープ) 600元」と台湾ビールを注文し、すっかり台南の味を堪能した。

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*軽く炙ってあるため香ばしい、からすみ。

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*強く燻してあるので、鴨の野生臭さが気にならない。

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*内子がたっぷりの蟹おこわ

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*貝柱の優しい旨味によく合う下処理がきちんとされたガツ

 台南駅まで戻り、現地時間13時18分の自強号(特急電車)で移動。来たときと同じ車両である。

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 現地時間13時50分、高雄駅に到着し、タクシーでフェリーターミナル「鼓山輪渡站」に向かう。

 現地時間14時30分、ちょっと年季を感じるフェリーに乗り込み(大人20元)、高雄市の観光名所と言われる旗津半島(長さ11.3km、平均幅約200m程度)に移動。

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*台湾海軍の戦車揚陸艦・中和級1番艦「中和」(元は米海軍ニューポート級「マニトワック (LST-1180 Manitowoc)」)なども見えた。

 約15分で対岸の旗津半島のフェリーターミナル「旗津輪渡站」に到着し、タクシーに乗り込む。

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 現地時間14時50分、今回の台湾・結婚報告ツアーで、結婚報告の次に目的にしていた「戦争與和平紀念公園」に到着。
 ここは元帝國海軍特別志願兵であった許昭栄さんが私財を投げうち、人生をかけて取り組んだ慰霊の地である。

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*昭和19年のポスター「祝徴兵制度施行 征け本島同胞よ 誓へこの栄誉に」

 戦時においては日本人の徴兵と朝鮮人、台湾人は別であった。台湾人は、1944年(昭和19年)4月から志願兵の募集が始まり、同年9月には台湾人にも兵役義務が課せられた。軍人、軍属として徴用された者を含むと合計約21万人の台湾人が日本兵として戦った。日本の敗戦により、日本人では無くなったことにより、恩給などは受けていない。ここは日本人として反省すべきところであろう。

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 台湾人のなかには大日本帝國軍の軍族・軍人として戦い、中国大陸で敗戦を迎え中国共産党軍に編入されたもの、国民党軍の軍人になった者などがいた。さらには、中国共産軍の捕虜となり、国際法を無視した中国共産党により、朝鮮戦争時にアメリカ軍と戦う羽目になった台湾人もいた。
 そのため、この公園の主題館の壁面には大日本帝國軍、国民党軍、人民解放軍それぞれの軍服を身に着けた1人の若者がモザイクで表現されている。

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 許昭栄さんは、帝國軍人として大東亜戦争を戦い抜き、終戦後は日本に協力した者として国民党政府から睨まれて国民党軍人として、国共戦の最前線に投入された。
 戦後、生還しても恩給などは無く、かつ国民党独裁時代に独立運動に関わったことから、3度も獄中生活をしている。その後、亡命するかのようにカナダに移住した。

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 李登輝総統の時代になり、やっとブラックリストが解除されたことで帰国。自らと同じ境遇の台湾人日本兵の補償問題に取組み、戦地に散った英霊の慰霊碑の建立、いわば台湾版の靖國神社を作ることに尽力した。
 それが、ここ「戦争與和平紀念公園」である。

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*解説文
「トロン・アミ族の伝説によると、族人が異郷で戦死すると、祖先の霊は戦死者に翼を授け、故郷へ飛んで帰らせるという。
 第二次世界大戦中 東南アジア、オセアニア、沖縄、朝鮮半島、中国で戦死した台湾人日本兵
 国共内戦と朝鮮戦争で戦死した、台湾人国府兵と中共兵を記念し、
謹んで英魂の安息と平和の永続を祈願します。」

 2004年に無名戦士の碑を建立し、「戦争與和平紀念公園」計画が進むも、2008年、高雄市議会において公園の名称を1958年8月23日に中華人民共和国が金門島へ攻撃したことに始まる八二三戦役に関係する「八二三戦役記念公園」に改称するとの決議が通る。この名称では大東亜戦争をはじめ、台湾人英霊の慰霊にならないと、許昭栄さんが猛抗議。公園名称を「和平紀念公園」にし、「八二三戦役戦没者記念碑」を建立するという折衷案で、一応は決着したかに見えた。

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 しかし、許昭栄さんは「戦争」の文字が入らなければ意義がないとし、この年の3月に総統選で勝利した国民党・馬英九の総統就任式が行われた2008年5月20日、この公園内に建立した「台湾無名戦士慰霊碑」の前で、愛車のなかでガソリンをかぶり、抗議の焼身自決された・・・。

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 「台湾無名戦士慰霊碑」は現在、移設され、

台灣聖山生態教育園區
南投縣草屯鎮坪頂里股坑巷30-57號

にある。

 主題館で頂いた資料の内容(原文ママ)は以下の通り。


戦争と平和記念公園について

 この「戦争と平和記念公園」が設立されたのは2009年(平成21年)5月20日でした。その丁度一年前、この公園の創設者である許昭栄さんが未完成のこの地で壮絶な焼身自殺をされたのです。

 許昭栄吉んは1928年屏東県の枋寮で生まれ、日本帝国と中華民国の二つの統治時代に生きた台湾人退役軍人でした。日本統治時代の1943年、許さんは日本帝国海軍特別志願兵として入營、整備兵科の訓練を受けましたが、終戦後中華民国海軍に強制徴用されて、中国共産党軍との戦闘にも参加しました。其の後、アメリカ海軍より贈与された軍艦を接収する技術科の訓練を受け、二度アメリカへ派遣され、駆逐艦を台湾へ回航する任務につきました。

 1958年、許さんは登乗した駆逐艦が日本に寄航したおりに、日本で活動をしていた台湾独立運動の組織が発行したビラを一枚台湾へ持ち帰り、限られた台湾人水兵に回覧をしたことが発覚され、軍事法廷で重罪として徒刑10年の判決を受け、政治思想犯の監獄のある火焼島へ島送りになりました。

 刑を終えて娑婆に戻った許さんは高雄の輸出特別区で日本人の経営する工場で就職し、多忙な日々を送っていた1972年のある日、彼が故意に輸出商品にMade in Republic of Taiwan(台湾共和国製)と印刷したラベルを貼ったと同僚に誣告されて警備総司令部の牢獄で4ヶ月間にわたり厳しい調査を受けましたが、幸い無罪放免となりました。その後、許さんは自営の貿易商として生計を立てていました。

 1986年7月、許さんはアメリカのロスアンゼルスヘ出張中、台湾で絶食を続けていた或る政治犯の釈放を政府に要求する会合に出席したことを中華民国政府の情報員に検挙されてパスポートが無効となり、台湾への帰国ができなくなりました。困り果てた許さんはロスアンゼルス在住の日本人坂井さんの世話になりましたが、その後当時アメリカに亡命中の彭明敏台湾大学教授の建策に従い、カナダへ渡りカナダ政府の手厚い政治庇護を受けることができました。

 1991年に国民党政府が政治犯のブラックリストを解除して、政治思想犯の帰国が可能になった後、許さんは久方ぶりに帰国し、間もなく「全国元国軍(註:中華民国軍)台湾籍老兵遺族協会」と「台湾退役軍人及び遺族協会」を創立しました。

 何故許さんがその二つの協会を創設したのでしょうか? それは彼自身が退役軍人であったことと、第二次世界大戦終戦後中国国民党軍に強制連行または騙されて兵士となり、中国大陸で酣であった国内戦争へ狩り出された台湾兵は一万五千人にも登っていたことを調べ上げていたからです。台湾兵は中国共産党軍と戦い、共産党軍の捕虜になると国民党軍と戦い、中国共産党が中国大陸を制覇した後は朝鮮戦争に狩り出されて米軍と戦いました。多くの哀れな台湾兵は何の為に戦い、誰の為に戦い、誰の為に死んだかも分からずまま幾多の戦場で散って行ったのです。中国大陸で生き残った台湾人兵士は故郷へ帰れないまま大陸に留まり、台湾人であるがゆえに中国の文化大革命でも厳しい迫害を受けました。

 許昭栄さんは台湾政府に中国大陸に残留している老いさらばえた台湾人元兵士に帰国を許可すべきであると陳情を続ける一方、全ての台湾元兵士とその遺族の尊厳と権益は中華民国退役将兵とその遺族と一視同仁すべきであると強く主張し続けました。許さんはまた高雄市の旗後半島に高雄市役所より下付された約三千八百坪の土地に「戦争と平和公園」を創設して全ての亡き台湾兵の鎮魂をする事業に精力を傾けたのです。

 2008年4月、高雄市市会議員数人が公園の移設と名称を「平和公園」に変更すべきだと市議会で提議しました。許さんは平和公園なら台湾の至る処にある、自分が造りたい公園に「戦争」と言う文字が入らねば無意味だと激しく抗議しましたが、同年国民党政権が選挙で復帰し、与党が優勢の市議会相手では力及ばすと考え極度に失望されたのでしょうか、国民党の馬英九氏が高雄市で総統着任祝賀宴会を始める時刻に合わせて、許さんは満腔の鬱憤を死で以って示さんと自家用車の中で従容と自分の体と車内にガソリンを撒き、火を放ったのです。数奇な一生を経た許さんの自尽は台湾の社会に大きな衝撃を与えました。

 2008年5月27日、許昭栄さんの告別式は高雄市鳳山区の長老教会で日本と台湾各地から集まった多数の出席者が参加して盛大に行われました。その場で陳菊高雄市長は許さんの死を深く悼み、万難を排してでも「戦争と平和公園」は許昭栄さんの命名どうり旗津の現地に留めることを約束しました。陳市長の約束は実現し、皆様をこの「戦争と平和公園」にお迎えしました。

                        何聡明


 許昭栄さんのレリーフ、そして「臺灣歴代戦歿将士英霊紀念碑」に手を合わせてから、タクシーでフェリーターミナル周辺まで戻った。

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 現地時間15時40分、フェリーターミナル近くの市に立ち寄ったところ、柴犬(赤、白、黒など多数、胡麻は無し)を連れた人が多くおり、台湾の柴犬愛好会の会合が開催されたようであった。やはり柴犬は可愛い。

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 ついでに「古早味沾醤 蕃茄切盤」と書かれた屋台に入り、看板メニューである「沾醤蕃茄切盤 50元」をつまんで小休止。
 甘い醤油にさらに砂糖とおろしショウガを入れた台湾人的に懐かしいソース?をつけて、青いトマトを食べる。デザートでもなく、サラダでもなく、不思議な感じである。

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 フェリーターミナル「旗津輪渡站」で行列に並び、現地時間16時30分、やっとフェリーに乗り込む。

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 約15分で「鼓山輪渡站」に到着。タクシーに乗り込み、一旦、宿泊先の「ホテル 漢華」に戻る。

Img_3453 現地時間18時30分、台湾側の親族と「大八飯店」にて合流。1階のビュッフェ形式のレストラン「大八自助餐」で会食。
 新鮮な魚介類を使った台湾式、中国風料理から寿司や刺身などの日本料理、窯から直接出してくれるピザ、多種多様なチーズ、テキサススタイルのステーキやリブロースに加え、生ビールやワイン、日本酒も飲み放題である。
 談笑しつつも、3種類あった蒸し蟹、生の赤身牛肉に熱い牛骨スープをかける牛肉湯やステーキなどを生ビールで楽しむ。

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 数ある料理のなかで一番印象に残ったのが、蟹とアワビのお粥。蟹味噌も溶かし込んであり、アワビの旨味も十分引き出しており、結局2杯食べてしまった。

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 現地時間20時40分、台湾側の親族にお礼の挨拶をしたのち、軽くショッピング。

 現地時間21時30分、タクシーでホテルに戻り、持参してきたノートパソコン(ThinkPad X61,SSD,SXGA+化,LEDバックライト化)で急ぎのメールなどを処理する。

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