「老台北」蔡焜燦先生を偲ぶ会
1時、就寝。
6時に起床し、熱めのシャワーを浴びたのち、大粒納豆、生卵、イカ塩辛でご飯2杯の朝食をとる。
食後、近所での配り物をしたのち、戻ってきた愛車で東京に向かう。
愛車を駐車場に入れたのち、12時、「ねぎし エルタワー店」(電話:03-3348-2255)にて、うす切り白たんと牛カルビ(タレ)が入った「ハーフミックスセット 1380円」、赤たんうす切り4枚のお得フェア品「39がんこちゃん 390円」で昼食をとる。麦飯がお替り自由なので、大盛り2杯。
13時過ぎ、時間調整のため、新宿周辺のショップ巡りをしていたところ、昨年の台湾政府招聘事業「2016年日本青年台湾研修」に参加した、某党の県議会議員とバッタリ出合った。面白いタイミングである。
14時30分、京王プラザホテルに移動し、15時からの「蔡焜燦先生を偲ぶ会」(主催:蔡焜燦先生を偲ぶ会実行委員会 後援:産経新聞社、NPO法人修学院、全日本台湾連合会、台湾歌壇、東京台湾の会、日本会議、日本政策研究センター、日本文化チャンネル桜、不二歌道会、高座日台交流の会、蔡焜燦先生を慕ふ和歌の会、台湾独立建国聯盟日本本部、日本李登輝友の会)に出席する。
まずは会場に入ったところで献花。
第一部「偲ぶ会」は、日本李登輝友の会・渡辺利夫会長の開会挨拶からはじまり、日本に初めて蔡焜燦先生を紹介した元産経新聞台北支局長の吉田信行氏、台湾独立の同志である金美齢氏、月刊『Hanada』の花田紀凱編集長、台湾関係の著作も多いノンフィクション作家の門田隆将氏、産経新聞社代表取締役会長・熊坂隆光氏、不二歌道会・三宅章文、元週刊朝日編集長の永山義高氏、元週刊朝日副編集長の池辺史生氏、そして作家の阿川佐和子氏からそれぞれに蔡焜燦先生との思い出を、涙あり、笑いありでお話しになった。
名著『街道をゆく(40)台湾紀行』をきっかけに蔡焜燦先生が日本と台湾の民間外交に尽力された偉業を改めて感じることができた。
続いて、李登輝・元台湾総統からの弔辞を台湾独立建国聯盟主席であった故・黄昭堂氏のご令息・黄正澄氏が代読。
内容は以下の通り。
追悼の辞
本日、東京で蔡焜燦先生を慕う皆さんが集まり、偲ぶ会が行われるにあたり、追悼の言葉を述べたいと思います。
昭和2年生まれの蔡焜燦先生は、大正12年生まれの私とは4つ違い。同じく日本時代に生まれ、日本の教育を受けて育ったいわゆる「日本語族」です。
戦後、台湾と日本は別個の国となり、その関係も大きく変わりました。日本の皆さんを前にしてこうしたことを言うのは憚られますが、台湾が日本のことを想い続けているのに対し、日本はあたかも台湾の存在を忘れ去ってしまったかのような時代が長く続いたのです。
こうした台湾の「片思い」ばかりが続く日台関係に風穴を開ける、大きな功績を残された方のひとりが蔡焜燦先生でした。
特に、国民作家でもあった司馬遼太郎先生が台湾を訪れ『街道をゆく 台湾紀行』の取材をされるにあたり、蔡先生は「老台北」として水先案内人としてだけではなく、台湾の文化から風土、宗教、台湾人の気質にいたるまで、台湾に関するありとあらゆる知識を司馬先生に授けました。
一冊の本を書くにあたって万巻の書を読むと言われた司馬先生さえも舌を巻くほどの博覧強記ぶりを見せたと聞いております。
蔡焜燦先生がお膳立てをしたといっても過言ではない『台湾紀行』は歴史的、文明史的視点で台湾をくまなく巡り、場所や人々の行いを綴ったものでした。
そしてこの本は、台湾が日本の統治から離れて半世紀以来、台湾のことを知らない日本人、最良の隣人である台湾に関心を持たないたくさんの日本人に、直接大きな啓蒙作用をもたらしたのです。
さらに、半世紀前に台湾より引き揚げ、台湾を自分のふるさとと想い、台湾を愛している日本の人々に絶大な感動を与えました。そして、40数年来、強権政府のもとで育てられた台湾の子供たちに、自分の国台湾とは何か、ということを教えてくれたのです。
1990年代前半という、台湾の民主化が胎動を終え、まさに一歩ずつ歩み始めたこの時期に著された『台湾紀行』は歴史的文書に位置づけられるべきものだと評価しており、それに大きな貢献をされたのが蔡焜燦先生だと私は信じています。
実際、蔡焜燦先生の記憶力は常人離れしており、ある宴会の席で、昭和20年に私が基隆から日本内地へ船で向かった話をしていたら、突然蔡先生から「総統閣下!その船はもしかして『吉備津丸』ではありませんか。私もその船に乗船して内地へ行ったのです」と話され、大変驚いていたことを覚えております。
これほどまでに共通点の多い蔡焜燦先生と私ですが、その底流にあるのは、純粋な日本教育を20歳前後まで受けて育った元日本人ともいうべき精神世界を有していること、そして日本の精神や文化を評価するとともに、日本のことがどうしようもなく気懸かりで、どうか日本人にもっと自信を持ってほしいと心から願っていることに他なりません。
蔡焜燦先生が日本の皆さんへ必ずといっていいほど呼びかけたのが「日本人よ、胸をはりなさい」でした。日本が自信を持ち、台湾とともにアジアを引っ張っていくことを強く望まれた蔡焜燦先生の心の叫びともいえるでしょう。
幸いにして、日本人の皆さんはここへ来て少しずつ自信を取り戻して来ているかのように見えます。これはまさに日本人に自信を取り戻させることに晩年を捧げた、民間外交官ともいえる蔡焜燦先生の功績でしょう。
どうか日本の皆さんにはぜひとも蔡焜燦先生の思いを継いで、日本と台湾のために心を寄せ続けてくださることを願っております。
最後になりますが、蔡焜燦先生の数々のご功績に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
2017年10月8日
台湾元総統 李登輝
不二歌道会代表・福永武氏が蔡先生の和歌
「この道は
日本台湾つなぐ道
共に歩まう敷島の道」
を朗詠。
その後、ご遺族を代表して帰化された蔡焜燦先生の三男・清水旭氏が挨拶された。
お父様の口癖である
「スピーチとスカートは短い方が良い」
を引用され、笑いを誘った。
最後に、ソプラノ歌手・森敬恵氏の指揮により、参加者全員で「仰げば尊し」を全員で斉唱。
日本李登輝友の会・田久保忠衛副会長の閉会の辞で、第一部が閉会となった。
17時からの第二部「清宴」、全日本台湾連合会・趙中正会長の開会挨拶から始まり、明石元二郎台湾総督のご令孫である明石元紹氏による献杯。
ジャーナリスト・高山正之氏、福島香織氏、南京戦研究で有名な阿羅健一氏と同じテーブルであったため、色々なお話を聞くことができた。
18時過ぎ、途中であったが、打ち合わせのため、お土産としての『蔡焜燦先生追悼集』を頂戴し、会場をあとにした。
蔡焜燦先生から日本人なら知っておくべき知識を鋭く指摘され、自分の無知を反省したり、また軍歌や戦時歌謡を一緒に歌わせてもらったのが昨日のようである。
きっと空の上でも楽しく過ごされているかと思う。合掌。
19時、新宿の某社にて、打ち合わせ。ブラック企業ではないが、ほとんど休みがないほど忙しい某氏なので、この時間しか空いておらず、要点を絞って話し合う。
20時過ぎ、愛車に乗り込み、帰路につく。
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コメント
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蔡焜燦先生とは2,3度お目にかかったことがあります。
ある宴会では運良く先生と同じテーブルに
つかせていただきました。
教科書「綜合教育読本」を私に渡して、
「どこでもいいからパッと開いてごらん。
どこでも暗唱できるよ。」とおっしゃいました。
一番最近では、総統選挙で蔡英文氏の当選が決まった後のこと。
「私が生きているうちにこの日がやってくるとは……」と
あのようにお話し好きでいらっしゃる蔡先生が
言葉を詰まらせておられました。
投稿: アビゲイル | 2017年10月14日 (土) 02時01分
アビゲイルさん、コメントありがとうございます。
蔡先生の記憶力には、ただただ舌を巻くのみでした。
ユーモアあふれる会話のなかに、無知を指摘する鋭さがあり、多くの事を学びました。
ご恩返しができなかったのが残念です。
投稿: 三井田孝欧 | 2017年10月20日 (金) 15時40分