インパール作戦:インド青年から友好願う油絵寄贈
3時、就寝。
8時に起床し、大粒納豆、目玉焼き、酢だこ、きんぴら牛蒡、えのきと里芋の味噌汁でご飯2杯の朝食をとる。
9時過ぎから家長としての親戚まわり。
13時20分、自宅に戻り、ニンニクのみじん切り、唐辛子の輪切りをオリーブオイルで炒めて香りを出し、さらに玉葱、ピーマン、輪切りにした粗挽きソーセージ、ホールトマト缶、乾燥バジル、隠し味に魚醤を入れたソースに、少し長めに茹でた1.7ミリのスパゲティを入れたトマトスパゲティで昼食をとる。
食後、一休みしたのち、買い出しなどで市内をまわる。
16時、自宅に戻ったところで来客があり、懇談。
18時、鶏胸肉、ジャガイモ、人参、豆苗を色付けにのせたホワイトシチュー、鰊と筍の煮物、数の子の醤油漬け、小粒納豆と大根おろしの和え物、ビール500ml3本で夕食をとる。
今年の数の子は頂きものの塩漬けを塩出しした後、出汁醤油に漬け込んだもの。
食後から事務所で事務仕事。
23時、本を持って、今年初の長風呂に入る。
郷土部隊であり、いまだ遺骨が帰って来ていないインパール作戦に参加した帝國陸軍高田歩兵五十八聯隊。これまで慰霊のため、実際のインドの現地ナガランド州に行ったり、指揮官であった佐藤幸徳中将の関係で山形県庄内町を訪れ「インパール70周年追悼供養」に出席したりしていた。
昨年、その山形県庄内町にインドのナガランド州の青年たちが友好を願って油絵を寄贈したとのニュースがあった。素晴らしいことであり、日本人が近現代史を見つめ直す良い機会にもなる。
我が柏崎市にも、ナガランド州コヒマからコヒマ三人娘が柏崎を訪れたことを記念する日印友好の碑があり、現在は移設されているが、本来であればこういった歴史資産は活かすべきである。
機会を見つけて、市に提案していきたいと思う。
平成29年12月19日『河北新報』
<インパール作戦>
佐藤中将の菩提寺にインドの青年から鎮魂と友好願う油絵
「今も現地住民に慕われていることに感銘」
第2次世界大戦後期に現在のインド北東部で旧日本軍が展開したインパール作戦の指揮官の一人で、兵の命を救うため軍の命令に背いて撤退を決めた佐藤幸徳中将(1893~1959年)の墓がある山形県庄内町の乗慶寺に、日印友好を願うインドの青年たちから油絵1枚が贈られた。
絵を贈呈したのは、インパールを州都とするマニプール州と佐藤中将が撤退を決めたコヒマを州都とするナガランド州の青年たち。英国の団体の仲介で絵の寄贈を発案し、インパールの著名な画家が戦時中に現地住民が良好な関係を保っていた日本兵に食糧を提供する様子を縦60センチ、横1メートル20センチのキャンバスに描いた。
青年たちは11月上旬に訪日した際、インパール作戦で大勢の犠牲を出した日英の和解・交流を進める庄内町の「英国と日本の国際理解と交流を促進する会」の代表者と面会。佐藤中将が現地で今も尊敬されていることなどを伝え、絵画を寄贈した。「促進する会」は、佐藤中将の菩提(ぼだい)寺で3年前に日英両国の犠牲者の追悼法要を行った乗慶寺に絵画を引き渡した。
乗慶寺で8日に奉納セレモニーが行われ、保科一彦会長(78)が「インドの青年たちは、絵画の寄贈を契機に庄内町や英国との友好を発展させたいとも話していた」などと報告。阿部伸世住職(71)は「70年余りたった今も、現地住民に佐藤中将が慕われていることに驚きと感銘を受けた。堂内で参拝者に見える形で展示したい」と話した。
佐藤中将は1944年3月に始まったインパール作戦で、英領インドへの侵攻を進めた際、飢餓や感染症のまん延を受け前線からの撤退を決めた。日本軍で極めて珍しい「抗命事件」として師団長を解任されるなど、不遇のまま没したが、1万人超の命を救ったとして再評価されている。
佐藤中将の兄の孫で、現在も庄内町に住む佐藤成彦さん(70)は「インドの若い方々と庄内町が交流を持てたことに、幸徳さんも喜んでいると思う」と話した。
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