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2018年1月10日 (水)

2018年台湾正月帰省3日目
後藤新平の心を取り戻せ・李登輝

 現地時間1時(日本時間2時、時差-1時間)、起床。

 現地時間8時に起床し、熱めのシャワーを浴びる。

Cdsc_00021 現地時間8時30分、まだ痛い足(右足の甲)を引きずりつつ、ホテル地下1階のレストランに行き、ビュッフェ形式で朝食。ニンニクの油漬けと葱をたっぷりのせた特製?魯肉飯(滷肉飯、ルーローファン)、アルファルファを多めに入れたサラダ、コーンが入ったオムレツ、ハム、もやしの炒めもの、レモネードで、ほぼ昨日と同じ内容である。

 現地時間10時過ぎ、ホテルをでて、妻の親族の家への挨拶まわり。
 我が地元である柏崎の1月では考えられない気温20度で、強い日差しである。

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Cdsc_00043 現地時間13時40分、「鄭家虎咬豬」(電話:07-323-0997)に入り、お店の名物というニンニクがたっぷり効いた「蒜頭拉麺 45元」(ニンニクラーメン)、豚足の煮込みが酸菜の炒めものと包んである「猪脚刈包 50元」で昼食。台湾式ハンバーガーとも言われる「割包」(グァアーパォ)は、「刈包」と両方の文字がある。

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 蒜頭拉麺は、ラーメンというよりはうどんに近いが、ガツンと聞いたニンニクが素晴らしく、『孤独のグルメSeason3』の第2話「神奈川県横浜市 日ノ出町のチートのしょうが炒めとパタン」(台湾版:孤独的美食家第三季第2集)にもでてくるパタンのようである。

「おぉぉおーニンニクって、
 ここまで入れると、辛い!」

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「これはくるなぁ~
 何か熱くなってきた・・・。」

と主人公・井之頭五郎ばりの感想を言いながらの、ガーリック的に充実した?昼食。 すっかり気に入ったので、また明日食べたい。

 現地時間15時過ぎ、宿泊先の家和商旅に戻り、持参してきたノートパソコン(ThinkPad X61,SSD,SXGA+化,LEDバックライト化)で事務仕事を行う。

Ddsc_00061 現地時間19時40分、羊肉の専門店である「老牌羊肉專賣店」(電話:07-3122869)に行き、羊肉のしゃぶしゃぶ「羊肉涮涮鍋 350元」、多めの葱と羊肉の炒めもの「葱爆羊肉 110元」などで夕食をとる。
 自家製らしい豆板醤をたっぷりつけて激辛で楽しませてもらった。

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 ホテルに戻り、シャワーを浴びたのち、電子書籍で日本の本を読む。

 今月発売の小学館の雑誌『SAPIO』に台湾の李登輝元総統の寄稿が掲載されていた。非常に重要な内容であり、以下に一部を引用し、紹介したい。

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 どこかの市議会でも、とにかく役職につきたい、何かの長になりたいという方もいるが、私の目的はあくまで柏崎市を良くすることであり、仕事のために努力したいと思う。

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*写真は、一昨年、沖縄県石垣市で直接、ご講演頂いた際のもの。


2018年2月号『SAPIO』

志高き精神 日本人よ
後藤新平の心を取り戻せ
李 登輝(台湾元総統)

------【略】------

 とはいえ、第4代・児玉源太郎総督のもとで民政長官として後藤が辣腕をふるっていた時期に、私はまだ生まれていない。後藤は1857年生まれ。1923年生まれの私が生きてきた時代とは大きな開きがあるのだ。
 そのため後藤と私との間に空間的なつながりはあるものの、お互いを結びつける交差点は見当たらない。しかしながら、後藤の生い立ちや、その後の台湾における輝かしい業績を辿ることにより、私は計り知れない人間的な偉大さを感じ、自分自身に深く滲みこんでいるものを感じるのである。

<9年で「一世紀にも等しい」発展を果たした台湾>
 1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりであった。
 1898年、第4代台湾総督として児玉が発令を受けると、児玉は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)に起用する。後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉の目に留まったのである。
 その後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げることになる。
 当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。
 
そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや高等官以下1080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。
 続けて台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善、台湾経営の財源確保のための
事業公債発行、台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港を進めた。そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳などに代表される具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。
 私が幼いころ、家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお茶を作りながら、同時に自治会長にあたる「保正」でもあった。清朝時代から続いてきた集落の自治制度である保甲制度
(*)は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土となっても、台湾の人々に無理のない「生物学的見地」からの統治を考えた人でもあったともいえるだろう。

*10戸で1甲、10甲で1保とした自治組織。役員として甲には「甲長」、保には「保正」が置かれた。

<天皇・国家のために尽くす>
 今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に新しい台湾を築き、民主化を促進した私は、後藤とも無縁ではないと思っている。つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。
 
政治家には二種類の人間がいると言われる。まずは権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、「いつでも権力を放棄すべし」を自らに課し自制していた。
 普通の人が権力を持った時、非常に幸福であり、快楽であると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでもできるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人であった。私と後藤に共通するのは「信念」であったといえる。私はクリスチャンで、信仰を通じて最終的に見出した私自身のあり方が「我是不是我的我」、つまり「私は私でない私」であった。

------【略】------

 一方で、後藤の信仰は何だったかというと私は寡聞にして知らない。しかし、おそらく「天皇」もしくは「国家」という公のために尽くすという「信念」があったのだろうと推察する。だからこそ、第4代台湾総督の児玉源太郎から片腕として信頼され、台湾の近代化をやってのけたのである。そうした意味で、私はクリスチャンではあるものの、強い信仰心、信念を持って事に当たっていくという意味では、後藤は私の先生であると言えるのである。
 
国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている。社会や個人の成功が経済や富であると考える風潮が蔓延している今こそ、指導者は「公」に尽くすことに一生を捧げた後藤の精神を学ぶべきであろう。

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