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映画・テレビ

2006年2月20日 (月)

尾道「戦艦 大和」ロケセット

 7時起床。シャワーを浴びたり、メールの返信をして、9時過ぎにホテルをでる。

DSC00899 JR呉駅から快速で広駅、三原駅と乗り継ぐ。途中、車窓から見えるのは、島が多い景色で日本海側とはまったく違った感じである。11時、JR尾道駅に到着。駅からの風景もよく、「駅を中心にしたまちづくり」を実感する。我が柏崎駅ではこうはいかないだろう。せっかく美しい米山が見える位置にあるのに活用していないとつくづく思う。

DSC00885 朝食をとらなかったので、ブランチとして名物の尾道ラーメンを食べようと、製麺所経営母体とし、直営店である「尾道ラーメン いのうえ」(電話:0848-37-3646)に入る。
 その町の美味しいラーメン屋というと、駅から遠い場合が多いと思うが、このお店は徒歩1分程度のところにある。
 尾道を訪れた知人からは、是非、一度は食しておくべきと聞いていたので、どんなラーメンなのか楽しみである。

DSC00891 早速、「チャーシューメン 650円」、「餃子 5ヶ 200円」を注文。餃子が先に到着。片面がカリカリになっており、肉汁が広がる正当派の焼餃子。一気に食べてしまい、メニューの下にあった違うタイプの餃子「一口ピリ辛餃子10ヶ 300円」を追加注文。

DSC00892 チャーシューメン到着。醤油ベースながら、透き通るような色合いに細かい背脂が浮いている。早速、スープをすすってみると、骨でダシをとったような獣系の味わいのなかに魚介類の香り。唇を背脂が通過するときのヌルヌル感も心地良い。しかしさっぱりとしている。
DSC00893 麺は細いストレート麺。さすが製麺所直営店、チュルンと入っていく麺はスープともよく絡み、たまに青ネギもアクセントとして参加してくる。ただ唯一、チャーシューの臭みが若干気になった。

DSC00894 一口ピリ辛餃子到着。ぴりぴりと一枚ずつはがして、食べてみる。辛味と肉の量もちょうどよく、これはビールにぴったりの一品。ビールを飲もうかと思ったが、歩いて尾道を楽しもうと思っていたので、我慢、我慢。
 最初に美味しいラーメンを食べ、幸先の良いスタートである。

 歩き回るため、宿泊先の尾道第一ホテルに行き、荷物を置く。

DSC00895 大和ロケセットのある向島までの船の往復チケットと入場券がセットになったものをJR尾道駅にて500円で購入。船の発着所に向かう。駅や船の発着所近くの自動販売機は、「男たちの大和/YAMATO」仕様になっていた。ここまで徹底されると観光客としても気持ちが良い。

DSC00903 「男たちの大和/YAMATO」ロケセットがある日立造船所に到着。ここで、無料のシャトルバスに乗り換える。シャトルバスと同じくらい、観光バスがひっきりなしに入ってきており、大和ブームであることを再認識する。

DSC00905 まずは直径1.5メートルの菊花紋章がある船首からセットに上る。

 「と、とにかくデカイ」

DSC00907の一言に尽きる。観光客用のカメラマンがおり、

 「はい、チーズ」

ではなく、DSC00912

「はい、ヤマト!」

と言って撮影していた。こういう場合は笑っていいものかどうか分からない。
DSC00913 ロケセットを見る前からパラパラと雨が降っていたが、甲板を歩きまわることになると雨脚が強くなってきた

 運命の昭和20年4月7日の戦闘前の天候は、高度1000メートル以下、灰黒色の積雲層。12メートルの南の風、波のうねり高し、11時35分、日本艦隊から70キロメートル付近に2群以上の敵機接近を探知。雨脚が次第に激しさを増して、雨の中の戦闘となっている。
DSC00926 12時32分、戦闘開始。敵機386機と交戦。14時05分、「軽巡洋艦 矢矧」が沈没。駆逐艦が必死に「戦艦 大和」を護るも、14時23分、世界最強最大の不沈艦「戦艦 大和」は爆沈した。

 実は、せっかくと思い、運命のこの戦闘時間に合わせてロケセットを訪れたのである。傘なしではいられない雨脚となり、なにやら運命めいたものを感じる。(考え過ぎ?)

DSC00927 セットを見たあとはロケに使った品などが飾ってある部屋を見学。見学していると初老の男性が、「大和は左側を集中して狙われたんだ!」と説明してまわっていた。つい「米軍もシブヤン海での『戦艦 武蔵』で学んだんでしょうね」と返答してしまった。
 次いで、お土産を売っている「ええもんや売店」、ロケのときの賄い場をそのまま食堂にしている「圭ちゃん食堂」に行く。

DSC00930 「圭ちゃん食堂」では、「大和カレー 500円」や「尾道ラーメン 500円」があったが、ラムネ工場を艦内にもっていた「戦艦 大和」にちなんだ「大和ラムネソフトクリーム 300円」(合成保存料、酸化防止剤なし)を購入。
 「戦艦 大和」では、消火装置の炭酸ガスを利用したラムネ製造機や羊羹の工場があった。
 ちなみに引退したが、米海軍の「空母 ミッドウエイ」にはコーラの工場があった。
DSC00931 「大和ラムネソフトクリーム」は、ソフトクリームとしては優秀で、乳脂肪分たっぷりの美味しいクリームであるが、ラムネの清涼感が乳脂肪分と相殺された感じになっており、残念に思う。

 「圭ちゃん食堂」をでると、すっかり天気は晴れていた。再度、シャトルバスに乗り、ロケセットを後にする。

DSC00941 尾道の街並みを楽しみながら、徒歩で尾道御袖神社に行く。
 「学問の神様」となった菅原道真公が祭られているから来たのではなく、この神社に登る階段を見たかったからである。
 大林宣彦監督の映画『転校生』で、尾美としのり氏演ずる「一夫」と小林聡美氏演ずる「一美」が、この階段を抱き合いながら転がり落ち、性が入れ替わっているシーンに使われた場所だ。
 階段を見て、映画と同じことを確認し、もちろんのことながら参拝した。

DSC00949 続いて千光寺山ロープウェイで街並みを見ようと、ロープウェイの駅まで徒歩で移動。駅までくると甘ーい香りが漂っていた。ワッフル専門店「コモン」であった。覗くと女性客しかいないようなオシャレなお店である。普段であればこの系統のお店には入らないが、いずれ自分のお嫁さんになってくれるような女性を連れてくるかも知れない(永遠に無いとの噂も)ので、工学のため入って、バターワッフルを注文。
 甘い物が苦手なので、メープルシロップをつけずに食べたが、軽い味わいでサクサクッと食べてしまった。

DSC00951 往復のロープウェイチケットを購入し、早速乗車。しかし、修学旅行生なのか、集団とぶつかってしまい、ロープウェイからの景色は楽しめず。
 だが、頂上では素晴らしい景色を楽しめた。ロケセットを見てみると、その大きさが改めてよく分かった。
DSC00952 また、坂や山など有機的な曲線で構成された、尾道のまちの美しさも分かった。
 頂上で、独りでバシバシとデジカメで写真を撮っていたら、20代のカップルにシャッターを頼まれた。

 「じゃあ、いきますよぉー、
       はい、ヤマトぉー!

 (カップル)「・・・・・・・」

ドン引きである。

DSC00954 修学旅行生でいっぱいにならないうちに帰りのロープウェイに乗車。
 同乗する案内のお姉さんと二人っきりという危険な状況?になったが、お姉さんは淡々と半音高い観光ガイド口調で説明を開始する。

DSC00956 途中で、お姉さんに近寄り

 「『男たちの大和』で
  お客さんは増えました?」

と聞いてみたところ、

 「えっえっ、すっ、凄いですよ。」

とあわてふためいた返事ののち、またも半音高い観光ガイド口調に戻り、説明をはじめた。すっかり、怪しまれたようである。

DSC00958 ロープウェイを降りてから、徒歩で曹洞宗天寧寺に移動。五百羅漢像をしばし凝視。亡くなったお釈迦様の教えを世に広める、悟りをひらいた五百人の弟子である。しばらく見つめていると、なんだか言葉には表せない気持ちになった。

DSC00959 天寧寺のあとは、ひたすら町歩き。商店街とチェーン系の企業の共存、路地裏のちょっと変わったお店の存在など、とにかく楽しく、そして参考になる仕掛けが多くあった。
 閉店時間となってしまい、立ち寄ることはできなかったが、銭湯を喫茶店に改装したお店は非常に興味深かった。

DSC00962 せっかく広島県に来たのに、牡蠣を食べていない事に気づき、地元のスーパーで半額になっていた広島産の生牡蠣や好物のじゃこ天を購入。
 これにエイショクの「広島納豆」で食事にしようと思ったが、もう一品ほしくなり、別のスーパーに行く。

DSC00963

 「きざみはもの皮」が売っていたので、ポン酢醤油とともに購入。
 ホテルにいそいそと戻り、ポン酢醤油で生牡蠣、鱧の皮を。ポットのお湯の湯気でじゃこ天を熱々にしてビールのつまみにし、夕食。
 つい納豆を食べるタイミングを逃してしまったので、明日の朝食べることに変更する。

 『ビートたけしのTVタックル』を見終わったところで小腹が空いたので、昼に食べたラーメンとは違うタイプのラーメンを食べることにした。
DSC00965 尾道にはキャバレー街があり、その近くに創業42年の老舗ラーメン屋があるということで、ホテルをでて、繁華街に向かう。
 スナックなどが立ち並ぶなか、ガラスショーケースのタバコ屋があり、本当に懐かしい感じがする。自分の家で煙草屋をやっていたときに使っていたガラスショーケースがまだ現役であった。

DSC00972 目的の老舗ラーメン屋「中華そば 一楽」に到着。まず、瓶ビールと餃子を注文。餃子は韮が思いっきりたっぷりと入っており、臭いなどを気にせず、ひたすらアチラ方面の効果も求める人間にはもってこいの餃子であった。ビールが終わったところで、紹興加飯酒「会稽山(カイケイザン) 600円」に切り替え。
DSC00973 「中華そば 450円」を注文。1957年に1杯45円でスタートしたラーメンだそうである。
 ダシは鶏で、あっさりと透明なスープ。尾道ラーメンの特徴と言われる背脂はまったくなく、昭和の正統派ラーメンといった佇まいである。スープをすすってみると、素直なクセのない、飽きのこない感じであった。
DSC00974 麺は、細いストレート麺。あっさりとしたスープにこれまた個性が強すぎない麺で、毎日でも食べられるラーメンである。
 また、お店を切り盛りしているお母さんと娘さんの会話も味わい深い。
 このお店の名物として、中華ちまきも有名なようであるが、すっかり満腹になっていたので、次の楽しみとして、お店をでた。

 ホテルまで歩いて戻り、23時過ぎに就寝。

2006年2月14日 (火)

軽巡洋艦 矢矧(やはぎ)

F1000002

 1時過ぎ、酔っぱらいのお約束でラーメンでシメることに。某ラーメン店に入り、生搾りグレープフルーツサワーとつけ麺。またも太るモトである。2時に自宅に戻り、風呂に入って3時過ぎに就寝。

 寝坊し、9時起床。朝食とる間もなく、そのまま電話での小売業開業についての相談業務。

DSC00677 14時、妹が買ってきた鶏の竜田揚げパン、チーズフランスパンをもらってブランチ。
 2月議会での一般質問のため、地域の防犯活動をされている方やボランティア活動をされている方に電話でお話を聞く。こういうときに限って、複数の携帯電話や会社の電話が鳴ってしまう。日頃の行いが悪いのであろうか。
 「日本で一番安全な街」となるためには、海上自衛隊の誘致はもとより、子供も安全も重要である。子供を持つ親だけではなく、お年寄りから中学生、高校生、大学生にも小さな子供を見守るという意識をもつ施策もしくは事業が必要であろう。

 夕方から夜にかけて来客が多々あり、バレンタインの日ということで、ありがたくもチョコを頂戴した。
 本来であれば、今日は柏崎準倫理法人会の役員研修会であったが、資料を作らなければならないので欠席させてもらう。

DSC00678 21時、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、チキンシチュー(ブロッコリー多め)、キムチ納豆、なめ茸、かつおの塩辛、甥っ子が残したウインナーでの冷蔵庫内の余り物で夕食。
 食後もひたすら調査と資料作り。
 そういえば、16日に上越市倫理法人会で行う予定の講演の資料作成をすっかり忘れていた・・・・・。

 映画『男たちの大和/YAMATO』の勢いが未だ衰えず、ロングランも決まり、観客動員数340万人、興業収入も42億円を突破したそうだ。世界40カ国計100社からオファーや、ベルリン国際映画祭のフィルムマーケットへの出品もあるとのこと。さらに、角川春樹氏のインタビュー記事によれば、こんな現象もあるという。

『知人から、こんな話も聞いた。
 京都の映画館でのこと。上映前、茶髪、ピアスの十代の少年たちがポップコーンをほおばりながら大声でしゃべっていた。「困ったなあ」と思っていたが、映画が始まるとシーンとなり、中盤あたりから嗚咽(おえつ)が漏れてきた。終わった後、少年たちは座席の下に落ちていたポップコーンのかすとゴミを拾って帰っていった。
(中略)
 この映画には二つのメッセージを込めた。ひとつは『生きている勇気と意味』。それに『日本人としての誇りと自覚』。それが日本の若い人たちの魂のスイッチを押した。きちんと受け止めてもらえたことに感謝し、感動しているんです』

平成18年1月29日『中日新聞』「人語り」 記者・鈴木裕一氏

DSC00596 以前にも書いたが、「戦艦 大和」だけではなく、一緒に運命を共にした艦もこの映画で描いてほしかったところだ。台詞の上では、「7000名の命を預かっている。無駄死にさせるわけにはいかない」があるので、「戦艦 大和」の3000余名だけでは映像的に不足してしまう。
 「戦艦 大和」の最後となった菊水一号作戦は、沖縄までたどり着き、生き残った艦は陸岸に乗り上げ(座礁状態)砲台となり、全弾を射ち尽くすまで陸上戦闘、さらに生き残った将兵は上陸して敵陣に斬りこむという、まさに特攻作戦であった。_1そのため、46センチ主砲をもつ「戦艦 大和」を護り抜き、必ず沖縄まで連れて行こうと、「阿賀野」型の新鋭艦であった「軽巡洋艦 矢矧(やはぎ)」が旗艦として同行している。
*写真は同じスケールのプラモデルで、奥から「戦艦 大和」「軽巡洋艦 矢矧」「駆逐艦 雪風」

yahagi 左の写真は、昭和20年4月7日 14時05分、爆弾56発、魚雷17本、機銃弾9970発以上を浴びた「軽巡洋艦 矢矧」が沈没するところである。
 この写真を見ていると将兵、そして「軽巡洋艦 矢矧」の断末魔の叫びが聞こえるような感じがし、胸に迫り来るものがある。この18分後の14時23分、北緯30度43分、東経128度04分に「戦艦 大和」が沈没した。
 「矢矧」の名は、その後、海上保安庁にて「やはぎ級 巡視船」として引き継がれた。

2006年1月29日 (日)

『こどもの時間』上映会、東山県議総会

 1時過ぎに帰宅。風呂に入ったり、雑誌を読み、3時就寝。

DSC00548 8時起床、昨日、熱く【愛国心】を語ったからか、二日酔いである。牛乳、イカの塩辛、大粒納豆の納豆ご飯、蛤の味噌汁たっぷりの朝食。味噌汁が胃にしみるので、だいぶ胃が疲れているのだろう。

_1 10時から産業文化会館にて、『こどもの時間』上映会に参加。のびのびと活動する子供が映し出され、未認可ながらもこの自由奔放な保育園に興味をもつとともに、それを支える保護者の皆さんの協力体制に驚いた。映画終了後には、いなほ保育園・北原和子園長さんの講演もあり、

 「教育の理論家ではないので、一つ一つを理論で説明することはできないが、実践者として、それなりの経験をもって、保育園の運営をしている。」
 「これだけ長い時間やって確実に言えることは、双子であれ、三つ子であれ、これまで同じ性格、行動をした子供は一人もいない」

という言葉が印象的だった。

1 13時30分から、柏崎市民プラザにて、自民党の東山英機県議の後援会新年総会。会場は、550名で満杯。泉田知事も来賓としていらっしゃり、

「新潟県は毎年約1万人減ってきている。しかもそのうち8000人が3月に集中している。つまり就職や進学の魅力がないのが現状。」
「ある旅行会社が行った『住んでみたい県ランキング』で新潟県はなんと42位。日本で一番綺麗な川は四国の四万十川と言われているが、実はわが県の
荒川。新潟県はアピールがうまくない」

など、知事選挙の前に2時間ほど話し込んだときよりも、さすが説得力ある話っぷりであった。
2 自民党・近藤基彦衆議院議員もいらっしゃっり農業政策をはじめ、新潟県の現状と中央のみが恩恵を受けている景気回復というお話をされていた。

3 東山英機県議からは、フリーターや離職の話があった。新潟県内でフリーターは約4万人。また就職しても3年以内に離職する若者は、平成16年、新潟県内で高卒48.8%、大卒32.1%の時代である。まさに人材と職場のミスマッチが早急な課題といえる。
 また、東山県議からは正式に、次回の統一地方選挙における7期目挑戦の発表があった。柏崎選挙区は定員2名で、現在は自民党の東山英機県議(60)と西川勉県議(78)が現職。社民党も次回は独自候補を立てるとしている。
 次回の統一地方選挙で決まる市議、県議は、プルサーマルもさることながら、原子力発電所立地自治体としての意見をキッチリ県や国に伝える人を選ぶ必要がある。原子力反対を叫ぶ人を市民の皆さんが選択するなら仕方がないが、原子力発電所との共生を選択した以上は、互いに緊張感をもちつつ、どう共存していくのかが重要であろう。
 今後の候補者の動きに注目したい。

DSC00559 後援会総会のあとは、懇親会。お約束の飲み飲みである。町内会、各団体の方と意見交換であったが、亡父や母をよく知る人からは、

「アンタ、はや結婚しなせーて。
お母さんの気ぃ楽にさせてやんなせーて。」

と耳に痛いお話を頂き、酔いが覚める。

 17時過ぎ、自宅に戻り、頭を使わない、文書のファイリングや整理を行う。

2006年1月26日 (木)

大和を護れ!「冬月」「雪風」

 3時就寝。8時起床、だいぶ体が楽になってきた。しばらく、ここまでひどい風邪を引いていなかったので、風邪のひきかた、治り方?を忘れていたようだ。

 9時過ぎ、来客。11時過ぎ、来られた方と打ち合わせがてら、某店に移動し、一緒にブランチ。お刺身定食(1100円)を食べる・・・携帯もデジカメも忘れ、写真撮れず。

DSC00520 18時30分から、柏崎商工会議所にて、倫理法人会の普及拡大委員会。神奈川県倫理法人会事務長で、株式会社タスク・フォース社長の岩谷武博氏を講師にお迎えして、2月7日に行うイブニング・セミナーなどについて、打ち合わせる。会食しながらの打ち合わせなので、全員でほっかほっか亭の「和風みぞれ鍋仕立て まぐろかつ弁当 490円」と「ハムポテトサラダ 140円」。

【2月7日セミナーのご案内】はこちら

 21時過ぎ、帰宅。ここ数日、寝込んでいた間に溜まってしまった郵便物やメールの処理。

 1月23日、第48回ブルーリボン賞が発表され、興収30億円を超える大ヒット中の映画『男たちの大和/YAMATO』の佐藤純弥監督(73)が監督賞を初受賞したという。
 ますます多くの人が『男たちの大和/YAMATO』を見るであろう。映画版にもなく、『月刊シナリオ』に掲載された元の脚本にも無かったが、「戦艦 大和」とともに出撃した艦も忘れることはできない。
DSC00516 映画にもなった、奇跡の艦「駆逐艦 雪風」もその一隻である。既に手元に1/700スケールの「戦艦 大和」があるので、「是非、比較してみたい」と思い、同じ1/700スケールの「駆逐艦 雪風」を作ってみた。
 並べてみるとその大きさの違いがよく分かる。まさに「戦艦 大和」の大きさは超弩級であり、美しい。
_1 そして、その「戦艦 大和」を懸命に護ろうとした「駆逐艦 雪風」も愛おしく感じてきた。ま、まずい、メカフェチであろうか。

 実際の沖縄特攻、菊水一号作戦ではどうであったか。
 この写真は、被弾し速力が落ちた「戦艦 大和」を前部高角砲を発射して護ろうとする「駆逐艦 冬月」<手前>である。

Fuyu

 「戦艦 大和」は、船体が20度以上傾斜すると、撃った後の反動を吸収できないこともあり、副砲、主砲ともに撃てない。この戦闘では、最終手段とも言える機械室への注水も行い、船体の傾斜復元を試みたが、被弾状況が激しく、傾斜は復元できなかった。*米軍機が撮影したもの。

2006年1月25日 (水)

シドニー海軍葬と日本の母

 メールや頼まれていた原稿を書き、3時就寝。6時から経営者モーニングセミナーであったが、体調不良のため、今回は欠席させてもらう。

DSC00509DSC00508 8時、起床。いまだ風邪は良くならず、今日の打ち合わせもキャンセル。ご飯。卵を落とした白菜の味噌汁、納豆で朝食。今日は、いつもの再仕込み醤油ではなく、「伊勢うどん」のつゆで味付けてみたが、悪くない。

DSC00511 午前中は『Will』などの月刊各誌を読みながらベットでおとなしく寝る。元日本共産党の兵本達吉氏の共産党内部事情の記事が面白い。12時過ぎ、母が祖母や妹、甥っ子の昼食として、卵とハムのサンドイッチを作っていたので、残った食パンの耳をもらう。DSC00515普通なら、油で揚げて砂糖をかけて一品にすると思うが、今回は違う。オリーブオイルに浸してから、オーブントースターでカリカリに焼き、塩をかけてスティックパンにして食べる。これで、半熟の卵の黄身をすくって食べると、パンの耳の再利用とは思えない美味さになる。

 昨日のライフセービング選手の壮行会では、選手に話掛けて、風邪をうつしてはいけないので、他の人と話していたが、メルボルンやオーストラリアに行った事がないことから、シドニーやキャンベラの話になった。幼稚園のときの担任で、国際感覚鋭いS先生からキャンベラの戦争博物館のお話を聞いた。戦争博物館がメインストリートにあるという。
 なぜ、私がシドニーに行ってみたいかというと、「シドニー海軍葬と日本の母」の話や映画化されたビデオを購入したいからである。

 大東亜戦争の緒戦。昭和17年5月31日夜、日本軍は真珠湾に続いて、オーストラリアのシドニー湾に停泊中のアメリカ海軍「重巡洋艦 シカゴ」を攻撃すべく、松尾敬宇大尉、都竹正雄二等兵曹他、4名にて特殊潜航艇三隻で潜入。魚雷で攻撃しようとしたが、砲撃を浴びるなどして二隻が沈没、一隻が不明となった。

*特殊潜航艇:
 軍港攻撃のため開発した小型潜水艦。搭乗員は2人。魚雷は2発搭載。母艦から出撃し、停泊中の敵艦を魚雷攻撃した後、外洋で待つ母艦に戻る。

 二隻のうちの一隻は、砲撃を受けたことにより、魚雷が発射不能となり、「重巡洋艦 シカゴ」に体当たりを試みたが失敗。万策尽きた松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は、責任を感じ特殊潜航艇のなかで短銃にて自決したのである。
 松尾敬宇大尉と都竹二等兵曹は出陣にあたって、次の歌を詠んでいる。

松尾大尉:
散りぎはの心安さよ山桜 水漬く屍と捧げ来し身は

都竹兵曹:(母にむけて)
一億の人に一億の母あれど 我が母に優る母あらめやも

 不明となった一隻は魚雷を発射したものの「重巡洋艦 シカゴ」に命中せず、オーストラリア海軍基地があるガーデンアイランドの岸壁を直撃。爆発により係留中の兵員保養船「クッタバル」が沈没し、オーストラリア海軍の兵士が21名死亡した。
 この攻撃終了後、オーストラリア海軍は、湾内で沈没した二隻を引き揚げ、日本海軍軍人の遺体を収容。そして、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は

「オーストラリアとして日本の政策に反対するが、祖国のために勇敢に戦い、死んだ人間は別である。世界の人々によって誉め讃えられなければならない。」

と海軍軍人が戦死したときの最高栄誉礼を行うことを発表したのである。
_3  昭和17年6月9日、グルード少将のほか海軍士官、スイス総領事が参列するなか、4人の日本海軍軍人(松尾敬宇大尉、他)のため、日章旗に覆われた4つの棺に、二列に整列したオーストラリア海軍の儀杖隊が「敬礼」、弔砲、そして葬送ラッパ(ザ・ラストポスト)を行うという、最高の海軍葬が執り行われた。
 オーストラリア海軍の軍人も21名亡くなっているなか、敵国となった日本の軍人の葬儀を何故行うのか!との批判もでたが、グールド少尉はこう言ったという。

 「これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このように鉄の棺桶に乗って、死地に赴くには、最高度の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか」

 火葬されたのち、遺骨は引き揚げ船「鎌倉丸」で日本の遺族の元に送り届けられた。遺骨を受け取った、松尾敬宇大尉のご両親は涙をこらえ、気丈にこう詠んだ。

 父:
 
菊地なる神の訓をひたぶるに よくぞ果せし益良雄の道
 *菊池>郷里・肥後の菊池神社の意

 母:
 君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ

 海軍葬の模様は、ラジオを通じてオーストラリア全土に放送され、感動をよんだという。放送内容に日本語直訳を付け足されたものが、靖國神社の遊就館に保管されている。

 しかし、話はこれで終わらない。
 昭和43年、松尾敬宇大尉のご母堂・まつ枝さん、当時なんと御年83歳がオーストラリアを訪問したのである。
 まつ枝さんは訪問の理由をこう語った。

 「戦時中にもかかわらず、
 
海軍葬の礼をもって弔ってくれたオーストラリアの人に、
 お礼が言いたい

_3  83歳、長時間のフライトで体の節々も痛かったであろう。まつ枝さんはオーストラリアに着き、丁寧な言葉でオーストラリアの人々に経緯と謝意を伝え、戦死した6人の名を叫びながら、シドニー湾内に郷里・熊本から持参した押し花をまいた。

 そして、次のような歌を詠んだ。

 みんなみ(南)の海の勇士に捧げやばと
        はるばる持ちこしふるさとの花

 花を追う色紙波間にみえかくれ いつか6つの霊に届かむ

 荒波の底をくぐりし勇士らを今ぞたたえめ心ゆくまで

_4  オーストラリアの現地新聞は、一面に
「勇者の母来る!」
と掲載し、歌を英訳。オーストラリア全土を感動させた。
 
この感動の物語は、昭和61年にオーストラリア国内でトニー・ウィラー氏の監督によって、映画が作られた。私はこの映画のビデオを入手したいのである

 現在、シドニー湾攻撃に使われた特殊潜航艇は、乗組員の遺品とともにオーストラリアの首都キャンベラの戦争記念館に展示されている。
 また、熊本県菊池市の菊池神社には、松尾敬宇中佐の像がある。

*写真類は名越先生の資料より転載

2006年1月23日 (月)

元脚本版『男たちの大和/YAMATO』、ホリエモン逮捕

DSC00485 7時起床。いまだ熱下がらず、喉も痛いままである。本来であれば、今日は「日本再生の会」(西村議員の真意を聞くこともしたかったが・・)やチャンネル桜での打ち合わせがあったのだが、DSC00484キャンセル。外も大雪なので、良かったと言えば、良かったとも言える。
 昨夜、妹が飲み会でお土産にもらってきた地の鯛の塩焼きがあったので、鯛飯にする。11時、鯛飯、イカと大根の煮物、かき混ぜた挽き割り納豆を豆腐の味噌汁に入れて、ブランチ。さすが荒波にもまれた鯛で、ご飯もほんのりピンク色になり、身は引き締まって味わい深い。

 またも大雪は凄く、上田尻では線路で立ち往生した車に快速電車が突っ込んだという。死傷者がでなかっただけでも幸いである。

F1000003 20時過ぎ、さすがに食事を作る体力がないので、母から鶏のササミのカツ、サラダを作ってもらい、納豆ご飯で夕食。食べてながら『世界まる見え特捜部』を見ているとニュース速報。_5 「ライブドア 堀江氏逮捕」であった。企業倫理の無い企業の行き詰まりをみるようである。粉飾もさることながら、時価総額を基準にして、本当の意味での企業価値を高める努力がなかったという一言に尽きると思う。通知票の点数を高くすることはするが、本当にその点数をとるだけの実力(儲けのシステム)が追いついてこなかったとも言える。

 今日は、先日買った『月刊シナリオ』2006年1月号に掲載された、野上達雄氏による本当の『男たちの大和/YAMATO』の脚本を読んでみた。野上氏が脚本から降りた理由についての詳細は省くが、思想的な立場は別として、当時のことを当時のままに描きたい、という思いからすれば野上氏の方が正論のように思う。野上氏はこう書いている。

 「60年たった今、なすべき鎮魂は『大和』に憧れ、その乗組員であることに誇りを持ち、『出て来い、ニミッツ、マッカーサー!』と無意味に、『大和』ともども海底に沈んでいった若者(子供)たちをそのまま描くことだ。それが人間のみならず、『戦艦大和』そのものの鎮魂にもなるのだ」

 その死が無意味かどうか、また戦争がどうであるのかの思想的なものは別として、当時のことを描くのであれば、『出て来い、ニミッツ、マッカーサー!』の方が自然であろう。先日、チャンネル桜に出演された元「戦艦 大和」乗組員で艦橋にいた方も、

 「『自分たちが死んで、負けて日本が目覚める』
  なんて思うはずもない。
  ほとんどの兵は一人でも多くアメ公を倒し、
  本土に来ないよう、死を恐れずに戦ったんだ」

とおっしゃっていた。
 野上版の脚本では、他の艦では当たり前だった釣り床ではなくベット、そして冷房やエレベータが配備という、「戦艦 大和」が日本の工業技術の集大成であることも描かれている。もちろん、世界最大の46センチ主砲にしても、アッパーブリッジの防空指揮所からの指示からカットが入り、46センチ主砲、一番、二番、三番、それぞれを一斉に発射。その轟音に若い兵が驚き、不沈艦「戦艦 大和」の表現もしている。
 また、出撃前に『君が代』を全員で歌うシーンは、是非、映画に入れてほしかったところである。

 野上版脚本でも映画でも、「戦艦 大和」最後の出撃に際して、一緒に行動した艦に触れていないのが残念に感じる。当時、「戦艦 大和」以外に日本帝国海軍に残っている艦は、「軽巡洋艦 矢矧」他、駆逐艦8隻(「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」)だけ。その最後の戦力を使っての海上特攻作戦への想いは、伊藤整一中将の訓示に表れている。

聯合艦隊指令長官訓示
_3「帝國海軍部隊は、
 陸軍と協力、
 空・海・陸の全力を挙げて、
 沖縄島周辺の敵艦隊に対する
 総攻撃を決行せんとす。
 皇国の興廃は、まさに此の一挙にあり。
 ここに海上特攻隊を編成し、
 壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
 帝國海軍力をこの一戦に結集し、
 光輝ある帝國海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、
 その栄光を後世に伝へんとするに外ならず。
 各隊はその特攻隊たると否とを問はず、
 いよいよ殊死奮戦、敵艦隊を殲滅し、
 もって皇国無窮の礎を確立すべし。」

yamato 人命尊重の立場からアメリカの強大な武力に屈するか、それとも祖国の命運の前に身を鴻毛の軽きに比して殊死奮戦し、後世に伝えんとするか、の選択であった。
 本当に平和を願うのであれば、現在の「歴史を知った」視点からではなく、できる限りその当時の視点で描く方が良いのではないか、と思うのは私だけであろうか。

 伊藤整一中将は、「戦艦 大和」と運命を共にした。
 そして一人息子、伊藤叡中尉は、父の戦死の報を聞いた後、4月28日特攻機に搭乗し、沖縄に出撃し未帰還となった。

2006年1月21日 (土)

号砲!「戦艦 大和」46センチ主砲

 7時起床。朝食もとらず、ブログやメールを書く。9時から打ち合わせ2件。

DSC00445 12時過ぎ、祖母も分も含めて、食パンに挽き割り納豆とトマトケチャップを混ぜたものを塗り、とろけるチーズをのっけてオーブントースターで4分。「挽き割り納豆トースト」を2枚、牛乳のブランチ。祖母は、「南京豆が入ってるんだねぇ~・・・・」のという、意味不明な感想であった。

 13時過ぎに来客。アイスなどを食べるが体が熱っぽく、風邪の初期症状のような感じである。市内で行われる講演会もいく予定ではあったが、不調のため見合わせる。

DSC00448_t 18時30分より、「割烹おくい」(電話:0257-24-6486)にて、自分の町内である東学校町の新年会に出席する。
 色々な料理がでたが、なかでも一昨日あがったという鮟鱇をつかったあん肝は舌にねっとりと絡みつくような味わいで、酒がすすむ。

DSC00452_t いつもは同世代、もしくは10歳違いぐらいの範囲の青年会メンバーとの飲み会なので、自分より30歳、40歳上の世代の町内の方の話を聞くのは貴重な時間である。
 色々と面白い話を聞けたが、今年5月には旧・満州柏崎村に行くこともあり、旧・満州・奉天で生まれた御年92歳のUさんのお話は非常に興味深かった。
DSC00455_t 世間一般では満州国は、支那人や朝鮮人を日本人がこき使い、差別し、ただの日本の傀儡国家であったと、扶桑社以外の教科書では教えられている。実際に、庶民の生活はどうであったかと言えば、民族別の差別も特段なく、食事も一緒に饅頭(マントウ)や日本式のご飯を食べたり、遊んだりしていたという。関東軍の一部兵士の横暴な振る舞いなどはあったものの、それよりは匪賊からの防衛の方が大変だったという。詳細は今後、本ブログに書いていきたい。

 2次会として、「大哲寿司」(電話:0257-23-9696)で刺身や握りをつまみ、23時過ぎに自宅に戻る。
 あまりの喉の痛さ、熱っぽさにそのままベットに入る。

 映画「男たちの大和/YAMATO」の観客動員が、1月8日で興収25億円、動員数200万人を突破したそうだ。この映画のなかでも、「戦艦 大和」が沈没するシーンは描かれているが、艦長である有賀幸作大佐が責任をとるかたちで「戦艦 大和」と一緒に海に沈むところも、是非描いてほしかったところである。

_2  敵空母6、戦艦6、その他約30隻、更に航空機延べ約400機の集中波状攻撃を受けながら、激闘2時間半。満身創痍となった「戦艦 大和」は、三千余名とともに、昭和20年4月7日14時23分、沈没した。
*写真は米軍機が撮影した爆発前最後の写真。左側に船体が傾き、普段は海面から8m以上はある舷側が、海面スレスレになっている。

 海軍兵学校76期の半本茂氏が持っていたという「戦艦 大和」が主砲9門を撃つテープを名越二荒之助先生より頂戴した。テープの収録者を含め、すべて不明とされている。(半本氏はご存じでも、神秘性をもたせるためにも、あえて不明とのこと)
 名越二荒之助先生が鳥取のある講演会でこのテープを流したとき、70歳くらいの老婆が泣き崩れ、

 「私の兄は『戦艦 大和』で戦死しました。
 今、兄の本当の叫びを
      聞くことができました・・・・・・。」

と洩らしたそうである。
 また、福井県で先生が行った講演では、前列に座っていた老齢の男性がテープを聴きながら、顔を泣きはらしており、先生がどうされたのか問うたところ、

 「私は『戦艦 大和』で出撃する直前、
 『お前は未熟だ。
 大きくなって國のために尽くせ!』
 と言われて降ろされました。
 その後、何らなすことなく、
 歳をとってしまって、
 申し訳なさで一杯です」

とお答えになったとのこと。
 実際に、まだ若かった海軍兵学校74期卒業生67名、各艦での重病患者、呉での補充した要員のうち若い者計30名余を、「生き残って、お國のために尽くせ」と伊藤中将以下の独自の判断で、出撃前に退艦させている。
 感動の「戦艦 大和」主砲発射!!」を以下に掲載する。

「戦艦大和主砲・国の鎮め」(mp3形式)

2006年1月20日 (金)

原子力発電所建設と「戦艦 大和」建造

DSC00431_t 6時起床。先週自宅にいなかった分の郵便物やFAXの処理。10時過ぎ、蜆の味噌汁を中心にブランチ。味噌汁2杯目には、小粒納豆をそのまま投入して、納豆汁にする。

 13時から打ち合わせ。電話とインターネットを使っての会議である。話し合いながらテキスト文書を打つので、議事録を改めて書く必要がなく、仕事が楽。キーボードを速く打てて当たり前の世代が、そろそろ社会にでてくる。今後、一般の会社でも、パソコンでテキストを打ちながらの会議は増えるであろう。

DSC00433_t 18時過ぎから、柏崎ベルナールで諏訪町2丁目の新年会。東部体育協会としての運動会や成年会の対抗ボウリング大会など付き合いの多い町内である。この町内は商店街として色々なイベントを仕掛けたり、知恵者の多い町内でもある。DSC00436_t亡父の友人だった方もおり、柏崎でのオーケストラ創設に関わった方や、石油産業の発祥に関係した方もいらっしゃり、まだ文章として残されていない戦後の柏崎の様子を聞くこともできた。
 また、現在の柏崎市政に対するご意見も多く、特に次の世代はどうするのか、ということが多かった。
DSC00432_tDSC00434_t 自分の息子や孫は、ドンドン旅にでている(柏崎以外に定住するの意)し、安定的に生活するためにはそれが普通だと思ってきた。DSC00441_tDSC00443_tしかし、自分がこのまま年をとり、若手が帰ってこなかったら、自分の老後はもとより、家はどうなるのか、墓は誰が守ってくれるのか、という意見が大半であった。特に中央地区は高齢化が進んでいる。
DSC00435_tDSC00442_t 3年前、選挙出馬の際にも、小学校、中学校の同級生に声をかけようと電話をしたものの、 「はぁ~、うちのは旅にでましたてぇ~」とのお返事も多く、実際に柏崎に定住している同級生は少なかった。
DSC00438_tDSC00437_t 首都圏や政令指定都市などを除き、どこの自治体でも共通の問題であろうと思うが、対策としてはとにかく「働く場」を用意するところから始まるであろう。
 福祉政策ももちろん重要だが、その原資となる収入を増やすためにも、柏崎市の営業マンたる市長にはドンドン市外にでてもらって、企業誘致のために動いて頂きたい。暴論と言われるかも知れないが、市役所内部のことは、業務の代替となる助役、収入役がいる。外部に対しての柏崎市の顔は市長のみであり、変えがきかない。十分な戦略、戦術をもって、営業活動をお願いしたいところである。

 21時過ぎ、TSUTATAで『真夜中の弥次さん、喜多さん』などをのDVDを借りて、自宅に戻る。
 早速、見始めたところ、いつの間にか眠ってしまった・・・。

 一昨日の原子力サミットでは、原子力に対して慎重派であり、日本原子力研究所にも勤務されていた中央大学教授の舘野淳氏から

 「そもそもそんなに原子力発電所はいらないのに、作ってきたという経緯があり、メーカーを食べさせるための発注と思う。」

という発言があった。しかし、原子力発電の技術、安全性をより高めるためには、発電所を継続して作るべき、というのが技術者の見解である。
 いま世界では原子力発電に再び、追い風が吹いている。
 ヨーロッパでは、昨年の2月EPR(European Pressurized Reactor:フランスが中心になって開発した新型のPWR)がフィンランドに建設が決定。アメリカも14年ぶりに、新規の原子力発電所の建設をしている。
 しかし、アメリカでは30年ほど原子力発電が停滞気味であったため、人材不足や建設のノウハウや技術が残っていないことが問題視されている。
 では、日本の場合はどうか。
 少子化や人口の減少、産業構造の変化でエネルギーの需要はあまり伸びないので、ここ数年は新規の原子力発電所を建設する必要がない。しかし、2020年から2030年にかけては、1970年代くらいから建設した原子力発電所が寿命を迎えるのである。しかも、新しい原子炉は高出力であるため、代わりとなる原子力発電所の台数も必然的に少なくなる。
 そうなると、ここまで過去30年で50基を建設したが、今後の30年は作っても数10基。建設のための技術やノウハウをもった人が定年などを迎えることもさることながら、建設の経験数が極端に少なくなるのである。
 中国をはじめとする海外での日本メーカーによる原子力発電所建設が話題になるのは、こういった意味を含んでいる。
 技術やノウハウを「盗まれないための技術」もこの機会に学ぶべきであろう。

 ちなみに、15年間、現場技術が途絶えていたはずなのに、日本はもの凄いものを造ったことがある。
_1 尾道市向島町の日立造船向島西工場に造られた、映画「男たちの大和/YAMATO」のロケセット入場者が1月15日で50万人を突破したというが、その凄いものとは「戦艦 大和」のことである。
 最後の戦艦建造から15年、戦艦建造の未経験者を主体とする技術者が「戦艦 大和」を造ったのである。15年間その仕事がなかったとすれば、主力たる経験者は定年もしくは転職などをしており、現場は代替わりをしている。そんななか、世界最大の戦艦をたった5年で造ったのである。しかも、建造自体も国家の秘匿事項。
 詳細については、今後、本ブログにちょこちょこ書いていこうと思うが、工程管理の手法、トヨタ自動車の「カイゼン」で一躍有名になった「カンバン方式」、「ブロック工法」、部品の共通化、15メートル測距儀のノウハウを引き継いでの「ニコンカメラ」など、戦後の「ものづくり大国・日本」にも繋がったのである。

 しかし、15年間というブランクは、新しい設計思想の艦に古い装備を載せることにもなり、「戦艦 大和」は構造的な欠陥を抱えることになる。
 原子力発電所の建設に、それは許されない。次世代エネルギーの登場まで、現実的なエネルギーの選択(原子力の利用)をする以上、建設は定期的に必要なのである。

2005年12月28日 (水)

今更ながらの『亡国のイージス』鑑賞

 2時就寝するも、事務所の片付けが年内に終わらないのではないかとの不安感から5時に起きて、事務所の整理。2001年からの名刺を整理しはじめたが、名刺にメモを書き込むととに、色々と思い出し、懐かしがりながらの仕事で効率が悪い。

F1000014_2  11時、大粒納豆に刻んだ高菜を入れ、黒酢を少々。小松菜の味噌汁、昨晩の「肉じゃが」の残り、目玉焼き、牛乳でブランチ。高菜の香り、歯ごたえが大粒納豆の力強さにも負けず、酢の引き締めもあって、ご飯が進む。

 午後から事務所に来客。柏崎に帰省されてきた方からの相談であり、柏崎にもっと働く場が必要であると再び実感する。

_2  市役所も仕事納めなので、顔を出したかったが、結局、18時を過ぎてしまったので行けず。
 自分自身も仕事納めをしてみようと、レンタルビデオ店に行き、まだ見ていなかった『亡国のイージス』を借りる。
*写真はオフィシャルサイトより

DSC00009 冷凍庫からラム肉をだし、クレイジーソルト、オリーブオイルで焼き、隠し味に醤油、最後にバジルをふる。肉厚なラム肉を口いっぱいに頬張り、ハーブの香り、荒々しい塩が喉の渇きを誘い、ビールをウグッではなく、ゴキュである。さらにビールを飲みつつ、早速、『亡国のイージス』を鑑賞。

 全体を見て、まずは上映時間である2時間少々にまとめるため、かなり話を圧縮したのではないか、という感覚が先にきた。感情移入するまでの「伸ばし」がないうえ、「某国」という言葉ではリアル感に欠ける。
 また、主役である仙石・先任伍長が、艦内爆発があって穴のあいた部分から艦に外から潜入するとき、水圧のかかったハッチを簡単に開けるシーンが気になった。本来であれば水圧もさることながら、その先の浸水区画の残留空気も開けた瞬間にでてくるので、容易には開けられないであろう。根本的には、浸水時、各所においてある木材で浸水を止める(海上自衛隊、旧帝国海軍でも木材などで「防水訓練」を行う)はずなので、潜入する穴を残して、他の区画へ逃げる自衛官の描き方がおかしいのであろう。
 とは言うものの、わずか1リットルで東京を壊滅させるという架空の化学兵器「GUSOH(グソー)」の設定や、乗っ取られたイージス艦「いそかぜ」が、海上自衛隊のイージス艦に対してハープーンを打ち、それを海上自衛隊のイージス艦が速射砲などで迎撃するシーンなどイージス艦の戦い方や日本の専守防衛の在り方についての問題提起もあり、楽しめた映画だった。

DSC00011DSC00010 『亡国のイージス』を見終えたところで、「さんまアイス」(製造者 (有)風月堂 宮城県桃生郡河南町鹿又字新田町役場前50 電話:0225-75-3023)を食べる。白ワインとブランディーが効いているようであるが、秋刀魚はバッチリ秋刀魚であった・・・・。

2005年12月25日 (日)

再び『男たちの大和/YAMATO』、特攻隊遺書

 6時起床。長風呂に入ったのち、持参 した愛用のノートPC「ThinkPad X31」で仕事。トラックポイントのついたノートPCしか馴染まないので、ずっとこのシリーズを使うことになると思う。IBMのPC部門売却にはガックリだ。

 9時、上野駅近くの喫茶店で、打ち合わせ。事業計画の変更や広告戦略についてである。先方の社長が納得のいく提案になったようで安心した。お喜びなのは分かるものの、「若いから大丈夫だよね」「食べて食べて」と分厚いピザトースト3枚を注文され、食べないわけにもいかず詰め込む。まさか、計画と資料を作ってきた報酬がこのピザトースト代では・・・・・。

 朝からコッテリしたものを食べたので、運動がてら上野から秋葉原まで歩く。途中にあるスーパーや百貨店に寄り、新作やパッケージがリニューアルした納豆を購入。秋葉原では、FOMA用の充電機能つき通信ケーブルやシリコングリス、メモリ用ヒートシンクを購入。メインに使っている自作パソコンのメモリが2GBあるものの、コンパクト筐体であり、夏は熱暴走することしばしばなので、メモリ用ヒートシンクが役立てばと思う。

 13時近く、秋葉原から池袋に移動し、池袋シネマサンシャインで、16時からの『男たちの大和』の座席指定券を購入。戦争を扱った映画を見たことがないというO嬢のためにも、早めに来て良い席を確保した。良い席を確保できたとほくそ笑みつつ、インターネットが使える漫画喫茶に移動して、先ほど購入した納豆を1パック、コーンスープを飲みつつ、ブログを書き込み。

F1000017 15時過ぎ、池袋駅構内、お約束のフクロウの前でO嬢と待ち合わせ。適当に時間つぶしをしながら、映画館に到着。これまたお約束のポップコーン塩味とソフトドリンクを購入。ダイエット・ペプシがなかったので、いっそのことと思い、メロンソーダをチョイスした。16時からの上映、先週に続き2回目の『男たちの大和』を見る。場内は満席。場面によってはすすり泣きも聞こえてくる。
 2回目にもかかわらず、不覚にも、涙ぐんでしまったシーンがあった。それは「戦艦 大和」の出港シーンである。

 「靖國神社で会おう」 

と散華された方はもとより、幼い我が子に、

「素子
 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。
 
私の腕の中で眠りもしたし、
 またお風呂に入ったこともありました。
 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、
 お前のお母さん、佳代叔母様に私のことをよくお聞きなさい。
 私の写真帳もお前のために家に残してあります。
 素子という名前は私がつけたのです。
 
素直な、心の優しい、
 思いやりの深い人になるようにと思って、
 お父様が考えたのです。
 私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、
 幸せになったのを見届けたいのですが、
 若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、
 決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなって、
     父に会いたいときは九段にいらっしゃい。

注)「九段」、靖國神社のある九段下
 
そして心に深く念ずれば、
 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
 父はお前が幸福者と思います。
 生まれながらにして父に生き写しだし、
 他の人々も素子ちゃんをみると
 真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。
 またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にして
 お前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、
 御自分の全生涯をかけて
 只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
 必ず私に万一のことがあっても
    親無し児などと思ってはなりません。
 父は常に素子の身辺を護っております。
 優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
 
 
お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、
 この便りを読んで貰いなさい。
 

昭和十九年〇月某日                  父

isho植村素子へ
追伸
 素子が生まれた時
  おもちゃにしていた人形は、
 お父さんが頂いて
 自分の飛行機に
   お守りにして居ります。
 だから素子は
 お父さんと一緒にいたわけです。
素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。 」

海軍大尉 植村眞久 享年25歳

*植村大尉は幼子ありながら、特攻を志願。 神風特別攻撃隊大和隊、第一隊々長の任務となる。出撃の前夜、戦友達の配慮で、長崎県大村基地から東京の自宅まで軍用の電話がつながれた。そして受話器を通じ、幼い我が子の泣き声を一声だけ聞いて、出発。昭和19年10月26日、愛娘が大切にしていたおもちゃの人形とともに、レイテ島東方スリガオ海峡付近の米機動部隊に特攻。
参考:「神風遺書」

と遺書を残した方々の事がふと頭のなかで連想、クロスしてしまったからである。田形先生から生の経験を聞いているだけに、つい涙ぐんでしまった。O嬢も映画終了後は、アイメイクのやり直しであった。

 映画の後、余韻の残しつつ、ナンジャタウンへ移動。入場料300円を払い、餃子スタジアムへ。昭和レトロ風になっている内装に安心感を感じつつ、餃子激戦区の蒲田に本店をもつ「元祖羽根つき餃子 ニイハオ」へ。F1000020生ビール大、「エビ茹で餃子、羽根つき焼き餃子セット 850円」である。「エビ茹で餃子」は口中にまるまる放り込み、グッとかむと中から汁が溢れ、とにかく熱い。羽根つきの餃子もパリパリ感を楽しんだあとにくる熱い肉汁。上あごが熱さベロベロになりそうなところにビールを流し込む。意外に満腹になってしまい、餃子スタジアムは一店舗で終了。_1その後、アイスクリームを集めた「アイスクリームシティ」にいき、「ソフトクリームBAR」へ。全国各地のソフトクリームが集めてあり、納豆ソフトはないものの、岐阜県養老サービスエリア名物という「カレーソフト 350円」を発見。奇を衒った系の食べ物にも興味がわいてしまうが、正統派のジャージー乳牛ソフトやあずきソフトも捨てがたい。F1000023ということで、4種類のソフトクリームを選べる「ちょこっともり 580円」で、あずき、ジャージー乳牛、バナナチョコ、カレーをチョイス。O嬢と分けて食べることに。濃厚なジャージー乳業、小豆の清涼感、思ったより普通の味であったチョコバナナ・・・・困ったのはカレーである。カレーパンも揚げた油が指につくわ、息はカレー臭くなるわで、「美味しいけどやっかい者」の称号が与えられているが、カレーソフトクリームはまったくのやっかい者の感がある。本来であれば、その他のアイスクリームやシュークリーム各店の味見もしようとO嬢と話していたものの、すっかりやる気を失ったので、ナンジャタウンをでる。
 ナンジャタウン内にあった昭和レトロ張り紙で、これは!と思ったのは

 「非行に走るな、リレーで走れ!」

である。

F1000024 池袋駅に向かっていきながら、豚骨系のラーメンを食べようということになり、「ばんから 池袋東口店」(03-3983-4044)へ。活気ある店内に入って、券売機にて「つけ麺 680円」を購入。O嬢は「ばんかららーめん 580円」である。F1000025席につくと、生大蒜と着色が少ない紅しょうが、ごまが置いてあり、早くも好感触。豚骨ラーメンには欠かせないものである。まずは「ばんかららーめん」到着。O嬢とお互い半分ずつ食べることにしたので、先にO嬢に食べてもらう。麺は豚骨系にしては珍しくツルツル食感の多加水の細目のちぢれ麺。F1000028豚臭さがあるものの、背脂が酸化していないためか、爽やかに感じる脂である。F1000027「つけ麺」は、ラー油の他、香味野菜で作ったような香油、魚介系のタレを使ったと思われるつけ汁に、加水率の高い、やや太めのツルツル麺。適度な辛みとごまの芳醇な香りが良い。つけ汁のしたに沈んだ刻みチャーシューの効果も大きい。ズボボーと一気に食べてしまった。つけ麺のバリエーションを多く出す店があるが、その多くは麺の上になにかのトッピングをのせた場合が多い。しかし、つけ麺は麺自体の美味しさとつけ汁の絡み具合でほぼ決まると思うので、麺は一種類でも、もちろん何かを練り込んだり、粉を変えた麺を複数でもいいが、できればつけ汁が複数ついてくるようなお店が近所にほしいと思う。

 池袋駅でO嬢と別れ、東京駅へ。新幹線の最終便に乗車。自宅についたのは24時を過ぎていた。

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